紫色雁高
明暦三年(1657年)江戸で大火事が起きた。市中の大半に江戸城の天守閣も焼け落ち、死者は三万人から十万人と言われる大災害である。その後幕府は、市中の延焼を防ぐ為に「火除け地」と呼ばれる広大な空き地を江戸の数か所に設けた。昌平橋から両国橋にかけての広い街道もそうである。
「凄い人の波ね。これほどまでに人が集まった光景なんて見たことが無いわ……」
この草紙会の会場は火除け地を利用された。普段から商店やちょっとした屋台があるので人通りの多い場所ではあるが、これほどまでに人でぎっしり詰まった火除け地は見たことは無い。忠春も少々驚き気味に言う。
「確かにそうですね。戦国時代の合戦場はこんな感じだったんですかね」
「ハハハ、”合戦場”か。面白い例えをするね義親は」
忠愛は笑う。義親は少し不安げな顔になる。
「何か変な事でも言いましたか?」
「いやいや、素晴らしい例えだよ。ここにいる人の大半はこの草紙会の為に日々を過ごして来たからな。まさしく江戸のど真ん中で起きている合戦だよ」
忠愛が言う。忠春は周りの人だかりを見る。意気揚々とする冴えない男連中の中に、何人か女性の姿も見えた。
「意外と女のひともいるのね。それに来てる人の年齢もまばらだし」
「ああ、老若男女問わずに来るからな。まあ、俺より少し年上の男が多いようだけどな」
忠愛の言うとおり周りを歩くのは20代後半から30代くらいの男が多い。
「やはり間近で見ると熱気は凄いですね。私も話には聞いていましたが、これほどとは思いもしませんでしたよ」
「年に1回しかありませんからね、そりゃ気合も入るものですよ」
忠愛は腕を組んで頷きながら話す。政憲は話を続けた。
「確かに、あの人だかりの中心では何があるんですか?」
政憲が人だかりを指差す。一軒の小さな櫓台の周りに数軒の簡素な屋台がある。その周りには数百人以上が集まっている。
「あそこは先程話した歌川派の会場ですね。というよりか、川の南側は全部歌川派関連で埋め尽くされてますよ」
「やはり歌川派って人気があるんですか」
「そうですね。歌麿の流れを汲んだ菊川派や葛飾派もありますけど、やはりこの時代は歌川派の時代ですよ」
すると、中央に置かれた櫓台に一人の初老の男が昇りはじめた。それと同時に周りの人たちも一斉に沸き上がる。それを見た忠愛は軽く笑いながら言った。
「それに豊国がいるようですからね」
「歌川派の総本山ですか」
「ええそうです。豊国が来るんじゃそりゃ人も集まりますよ。それに滅多に顔を見ることは出来ませんからね」
豊国が櫓に登りきると会場は静まり返る。
六尺ほどの長身に鋭い目に鋭い鼻。髪は白髪が線を描くように生えている。かなり端正な顔立ちをしている。知らない人が見たら幕府のお偉方と見間違える風格もあり、こんな男が美人画を描いているとは到底思えない。その落差が人気の一部なのかもしれないが。
「この場によく来て下さいました。今年も歌川派を愛する皆様に会えて大変光栄です。心行くまで我々の絵を楽しんで行って下さい」
両手を広げて豊国は話す。声も低く会場全体に響き渡る。そりゃ人気も出る訳だ。忠春はそんな風に感じた。
豊国が話し終えると櫓台の周りはひっくり返らんばかりの大声が響き渡る。横にいる忠愛も大声で叫んでいる。何を言っているかはよく分からなかったが、気持ちはひしひしと伝わって来た。
「絵の才能もあり、容姿も優れています。それに物腰も優雅そのもの。時代の寵児になるべくしてなった、という雰囲気ですね」
「まったくそのとおりね。兄上があそこまで興奮するんだしね」
政憲は腕を組みしみじみと話した。忠春も同様に納得する。豊国はとんだ大物だと感じられた。忠愛は櫓台のそばまで行き、豊国の浮世絵を一枚購入する。
忠愛が屋台から戻り、忠春が極彩色の紙を手に取る。紙には腕を組み睨み付けるような顔をした松本幸四郎の勇壮な姿が描かれている。
「やっぱり間近で見ると凄いわね。ただの線なのに生きているように見えるわ」
「本当に芸術ですよね。やっぱり本物を見ると人気の訳がわかりますね」
義親も納得する。忠春も義親も絵の評論とは全く縁は無いのだが、一目見ただけですごみは感じられた。
一行は昌平橋のちょうど真ん中に差し掛かった。橋の欄干に寄りかかった老人が話しかけてきた。
「その絵を見た所じゃ、あんた達も歌川派の人間かね」
○
老人の言葉に忠春らは足を止めて老人の方を向いた。
顔はしわくちゃで、鼻は低くギョロ目。ぼさぼさの白髪頭は禿げている。身なりは汚く、裾や袖がほつれたボロボロの茶色の着流しを着ている。身長は五尺四寸程で忠春よりも低い。腰には水筒が下げられていた。目力のあるみすぼらしい老人であった。
「歌川派って訳じゃないけど、豊国って人は凄い男だとは思うわよ」
忠春が答える。それが率直な感想であった。
「ほう、なかなか素直な返事だな。そっちの坊主はどう思う」
「私も同じくそう思いますよ」
義親も答える。老人はそれを聞くと大声で笑い始めた。
「あんた達は見る目が無いな。それもこれっぽっちもだ」
「ちょっと、失礼じゃないの。いきなり現れてそれは無いでしょ」
忠春が少し声を荒げる。義親らの表情も変わってくる。
「まあ、落ち着けって。あんたの持っているその豊国の浮世絵は偽物だぞ」
「いや、うそでしょ? あそこの店で直に買ったのよ?」
全員が驚愕とする。これほどの出来の偽物などあるはずはない。誰もがそう感じていた。
そんな姿を見て老人はまた笑う。
「ほんとに見る目がねえんだな、あんた達は。確かに本物に似せてはあるが、豊国の筆はもっと鋭い線を描くんだ。んで、鋭さの中に柔らかさもあんだよ。それはただ鋭いだけの線だ」
忠春らは手にしている浮世絵をじっと見つめる。老人の言っていることがいまいちピンとこない。
そんな姿を見ていた老人はため息をつく。
「ったく、ここまで言っても分かんねえならもう知らねえな。どうせ豊重あたりが作ったんだろうよ、あいつも懲りねえ奴だな。まあ、偽物にしちゃ出来はいいから大事に持ってな。そんで知り合いにでも自慢でもしてろ」
老人はやれやれと言いながら昌平橋を北へと歩いて行った。
「ちょっと、待ちなさいよ」
忠春が呼びとめる。老人は不機嫌そうに言い返す。
「なんだ、まだ何かあんのか」
「あんたの名前は?」
「まあ”紫色雁高”とでも名乗っておこうか。じゃあな見る目の無いお嬢ちゃんたち」
老人はまた汚く笑い、歩いて行った。
歩いて行く老人を見送った忠春は振り返り忠愛に問いかける。
「何よ、”紫色雁高”って」
「いや、あまり深く突っ込まない方がいいぞ」
忠愛は目を伏せて忠春の肩を叩く。
「突っ込むとは、上手い事言いますね忠愛殿」
政憲は微笑む。横で義親は苦笑いする。
「いやいや、そう言う意味で言った訳じゃありませんよ」
忠愛も苦笑いをする。そんなことがあり、一行は昌平橋を渡りきり花房町の方へと足を向ける。
○
「それにしてもあの老人は何者なんですかね」
「やけに浮世絵に詳しかったわね、兄上は知らないの?」
「見たことは無いな。しかし、それが偽物とはな……」
忠愛らは手にした浮世絵を見つめる。あの老人が言った通りの偽物には到底見えない。素性の知らない老人の話だったが、妙な説得感もあった。
「精巧な贋作ですか。色々と気になりますね」
政憲は空を見上げて考え込む。政憲に一人の男がぶつかる。
「おっと、すみませんね」
「いえいえ、気になさらないで下さい」
ぶつかった男が政憲の顔を見上げた。政憲も男に目線を向ける。
「おや、国定殿ではありませんか」
「う、あ、あ、政憲様っ!」
政憲にぶつかった男は国定であった。
忠春もその声に反応する。
「何よ国定、あんた家で寝込んでんじゃないの?」
「いや、その、違います……」
国定は引け腰になる。国定は病気で来れないはずであった。別に来ようが来まいがどうでもよい忠春ではあったが、嘘をつかれたことに腹を立てた。
「何よ、何が違うのよ。あんた歯を食いしばりなさいっ!」
「いや、ほんっと、すみません…… 悪気は無かったんです!」
忠春は拳を握りしめ、国定へと鬼気迫る表情で迫る。国定は両手で忠春をなだめようとするも、効果は無いようだった。
「聞こえないわよ、何も聞こえないわ!」
そう言うと渾身の右拳が国定へと飛んでゆく。誰もが国定の顔面に拳が入ったと思っていた。しかし、現実は違った。
国定は、たまたま足元にあった小石に足を取られた。国定は背中から地面に落ちる。ズさっと音を立てて転倒する。これが結果的に間一髪の所で拳をかわす事となった。
忠春は呆気に取られた。まさかこんな風にかわされるとは思いもしていない。国定は半笑いのまま佐久間町の方へ向いた。
「ほんとに、悪気は無かったんです! だから今日の所は勘弁して下さい!」
「ちょっと、国定殿!」
横にいた義親が呼びとめようとするも、叫びもむなしく国定は人込みをかき分けて走り出した。人込みをかき分けると言うよりかは、半笑いをしながら走る国定を避けるように動いたようであったが。
順調に逃げきられると思われていたが、半町(50m)ほど走った所でまたしても人にぶつかる。それがまた新たな事件の引き金となった。
『昌平橋』 いまの外神田の南端。この辺から両国橋にかけて火除地になっていた。