はつ、立つ。
「私が元服をですか?」
「そうだ。元服してくれないか」
文政四年の春。外桜田にある西大平藩上屋敷の桜が満開を迎えた日の朝のことだった。
広間に呼び出された大岡家の息女『大岡はつ』は、父の大岡越前守忠移からそう告げられた。
「わ、わが家には兄上がいるじゃないですか」
「忠愛には藩政に専念してもらう。それに、忠愛には江戸屋敷と西大平の両方を治める度量は無いだろう」
忠移は静かな口調で返す。言葉の最後には少し悲しさも感じられた。
はつの兄の名は忠愛と言う。彼は大岡家の代名詞とも言える「生真面目さ」を持ちあわせていなかった。
その大岡忠愛だが、頭の方は悪くない。しかし、性格の方に難があった。
六年前に元服したものの、城中へろくに出仕をせず、屋敷で日夜遊興にふけって気ままに暮らしていた。つまるところは引きこもりと遊び人を足したような男だ。
そんな忠愛の放蕩ぶりには忠移も愛想を尽かした。現在は忠愛を自領の西大平藩の藩政に専念させることにしていて江戸からは遠ざけていた。
「……兄上がアレなのは知っております。しかし、何故今なのですか! あの時、私が懇願してもさせてもらえなかったのに!」
「むむむ……」
はつの熱のこもった言葉に、忠移は何も言い返せない。
話は三年前にさかのぼる。
――
大岡はつは、幼少から眉目秀麗で物覚えも良く、武芸も同年代の男子にも勝っている溌剌とした子であった。
屋敷に訪ねてくる旗本達も、はつに会う度に「女子にしておくのは勿体ない」「是非とも我が子の嫁に」等と言われ、将軍家斉にも謁見をし、「この子の将来が楽しみである」と言わしめた俊英な子だ。
はつは、幼いころより先祖である大岡越前守忠相の話を両親から毎日のように聞いて育った。暇さえあれば徒士を連れて、地本問屋に寄っては忠相の浮世絵を買う生活を送っていた。忠相のことを尊敬し、敬愛していた。はつの理想の武士の姿は、間違いなく大岡忠相であった。
そして、齢一五になったある日、はつは拳をぐっと握り締めて父にいった。
「私を武士にさせてもらえませぬかっ!」
しかし、父は無情にもこう返す。
「忠愛がいるから、お前は武士にはせぬ」
――
父の申し出は、はつも正直嬉しかった。内心では「やっと話が来た」と欣喜雀躍していた。本来なら二つ返事で了承したはずである。
だが、ああいったやり取りが過去にあった以上、はつは「はい、わかりました」と、やすやすと言えなかった。
「い、今さら、そのようなことを言われても困ります。私にだって今の暮らしが……」
「はつが怒るのは分かる。だけど、そこをだ。そこをなんとかならないか」
忠移も引かない。年は五十を手前にしているので、世継ぎを考えなければならない。家の存亡がかかっているのだ。ここで断られては家の危機を迎えてしまう。
「ならば、なぜあの時はああ申されたのですか」
「そ、それは、忠愛だってマトモだっただろ。それが、あのように……」
「兄上兄上と、こうるさい! もう父上の事など知らぬぞっ!」
はつは顔を真っ赤にしてその場で立ちあがる。忠移も立ちあがって追おうとするがはつは屋敷を飛び出して行った。
「……はぁ、まぁはつの言う事も解らぬでもないがなぁ」
「忠移様、拙者が探し、説得をしてきます」
忠移が頭を抱えると、脇に控えていた一人の若者が手を上げた。大岡家譜代の家臣『小瀬義親』だ。
「おお義親か。そちははつと同い年ゆえ、色々と安心やもしれんな。よし、そなたに一任する」
「ははっ。必ずや説得をしてみせまする」
義親は一礼をすると、屋敷を出てはつを追いかけて行った。
○
屋敷から飛び出したはつは、赤坂見附を抜けた所を肩を落としとぼとぼと歩いていた。
道行く人々は、はつの気分とは裏腹に季節の如く陽気であった。これから花見に行くであろう人々は「飛鳥山に行きたいな」「あそこの団子屋はいいよね」「早く酒を買って来なくちゃね」とうきうきとした口ぶりで話している。
はつは周囲のそんな会話を聞いて、より一層暗くなる。
「何が花見よ、バカバカしい」
独り言を呟きながら弁慶掘に向かってしゃがみこみ、小石を堀に投げつけた。しかし、怒った所で何かが変わる訳もなく、堀にポチャンと石が落ちる音が聞こえるばかりである。
そんな大岡はつの姿は、見ようによっては好いた人を花見に誘うも、先約がいたために失恋をしてしまった年頃の女の子とも見受けることが出来る。そう考えればなんとも可愛らしい乙女の取る行動であろう。
実際に、はつの行動そう受け取られたようだ。
「お姉さん、どうしたの? 暇なら一緒に遊ぼうよ」
白い羽織で当世風の髷を結い、山吹色・臙脂色・濃緑色など、色とりどりの着流しを着た若い男たち数名がはつに絡んでくる。
「……」
「どうしたのさぁ、暇なら良いじゃん。そんな一人でいたって面白くないでしょ。一緒に遊ぼうよ」
「……」
はつは着物の尻をはたくと、黙って抜けようとする。だが、男達は酔っていたようでなおも絡んできた。
すると男の一人がはつの腕を掴んで薄ら笑いを浮かべてこう言い放った。
「ねぇ、いいじゃん。遊ぼうぜ?」
普段なら黙ってやり過ごす所だが、さきほど、父と大喧嘩をした後である。鬱憤の溜まっていたはつには我慢がきかなかった。
「ちょっと、その汚い手を離しなさいよ」
そう言って男の腕を振り払った。若い男達はその行動を見ると態度を豹変させる。
「下手に出ればいい気になりやがって。てめぇ、ちょっと来いよ」
そう言い男らは、はつを掴みかかろうとした。
「ちょっと、やめてよ!」
大岡はつは武家の娘だ。人並みの武技は身に付けている。それに、大岡家一の俊英と謳われたはつにとってみれば、半分酔っぱらっている男など赤子の手を捻るようなものだった。
「はあああっ!」
はつは掴みかかろうとした男の腕を掴み、ひじの関節を逆方向にへし折った。
「い、いてぇぇぇぇ!」
掴みかかって来た男はうめき声を上げ、その場で腕を抑えながら倒れこんだ。
「ったく、女だからって甘く見ないでよね。これ以上痛い目を見たくなかったらどっかに消えなさい!」
はつは袖を翻して威勢よく啖呵を切る。しかし、それが相手の闘志に火を付けてしまったらしい。
「もう我慢ならねえ、全員でやってやろうぜ」
集団の頭領格の男の一声を皮切りに、男たちは一斉にはつに掴みかかって来た。
「ちょっと、何するのよ!」
武芸に一日の長があれども、男と女の力の差は歴然である。それも複数人では勝ち目は無に等しかった。
「おらおら! さっきまでの威勢はどこにいったんだ?」
刀を差していれば話は違っただろう。咄嗟に刀を抜いて首筋に刃を突き立てていただろう。だが、はつは武家の娘ででしかない。元服は許されているとはいえ、女には帯刀は許されていない。普段なら護身用の小刀を携帯してはいるが、父親と喧嘩して飛び出して来たばかり。肝心の小刀を持っていない。
はつは小刀を抜こうと必死に懐を探るも、そこには何も無い。青ざめるはつの両脇から男たちの手が伸びて両手を掴まれてしまった。
「はっ、離しなさいよっ!」
「離せと言われて離す馬鹿がどこにいる! おら、さっさとこっちに来い!」
はつはそのまま引きずられて弁慶掘脇の茂みに押し倒された。
気持ち悪さと冷や汗がはつ体中を駆け巡る。助けを求めようと必死に辺りを見回すも、今は花見の時期だ。なんてことのない通りには人が居るはずが無い。それに、はつが居るのは見通しが酷く悪い茂みの中だ。わざわざこんな茂みの中に来るのはよほどの変わり者くらいのものだ。
はつの腕を掴んでいる男の一人がこう言った。
「この女、着物に大岡家の家紋なんか付けてるぜ。あんな落ち目の家の娘だったら何をしても構わないよなぁ」
「なっ、何を言う! 我が家を馬鹿にするなっ!」
「大岡と言えばもう終わった家だしな! 誰も相手にゃしねえよ」
「恨むんだったら、あんたの間抜けな親父と、もっと間抜けな兄貴を恨むんだな」
男たちは「間違ねぇな」どっと笑いながらはつの衣服を剥ぎ取ろうとする。
「っく、無礼者がっ!」
睨みつけながら言い返し、体を激しく動かして男の腕を振りほどこうと抵抗する。だが、男数人で体を押さえつけられているのだ。はつ一人にはどうすることも出来ない。
圧倒的な力の差を感じた男たちは余裕からかこんなことを口走った。
「そもそも先祖の大岡越前なんてロクな奴じゃねえ。俺の爺さんから聞いた話だと、大岡越前って野郎は吉宗に尻尾振って領地貰ったって話だ。よほど越前の野郎のケツの穴の具合が良かったんじゃねえのかぁ?」
はつは激怒する。家を侮辱されただけではなく、敬愛する先祖をコケにされた。
「貴様ら、忠相様までをも愚弄するか! 決して、決して許さぬぞ!」
はつの眼は涙があふれ、乗りかかる男の眼を見据えて大声で言い放つ。平時であればあんな風に凄まれたら怖じ気付くかもしれない。
しかし、涙目になりながら複数人に囲まれた上に馬乗りにされてしまった状況では全くの逆効果だった。その言葉が男たちを余計に興奮させる。
「おいおい、そんな姿で言われちゃったら興奮しちゃうよ。岡場所でもそんな風にはやってくれないからなぁ。まぁ、声が聞けないのは残念だけど、俺達もバレたかねえからな。可愛いお口には閉まっていて貰おうか」
男らははつの無地の小袖の裾を引きちぎると、くしゃくしゃに丸めて無理やり口元に噛ませた。猿轡をさせた男たちの鼻息はどんどん荒くなってゆく。
「う、うぐぐううっ!」
涙目になったはつも覚悟を決めかけたときであった。
青々とした草木が潰れる音がして、黒い影がこちらに近づいてくる。
「お、おめえは何者……」
馬乗りになった男が振り向いて怒鳴りかけた。だが、黒い影は何も言わずに抜刀して、斬りかかる。
「う、うぐあぁぁぁぁっ」
馬乗りになった男の背後に銀の閃光が走った。
肉の裂ける鋭い音と共に、男は何やら訳も解らない言葉を叫びながら倒れこんだ。押し倒された忠春が横目で見ると口から泡を吹いている。
黒い影の手際は鮮やかだった。男たちははつを囲んでいたのだが、素早い動きに着いていけず、仲間の一人が斬られるのをボケっとみていることしか出来なかった。
そして「人殺しぃ!」「なんなんだよ!」と叫びながら我先にと散って行った。
「……そんな大げさに倒れ込まなくてもいいじゃないですか。浅い傷ですから、多分死にはしませんよ」
馬乗りになった男を斬った武士は、薄く微笑みながら刀を懐紙で拭う。そして、はつの面前へとやって来た。
○
薄く微笑んだ男はまじまじとはつの顔を覗く。
「おやおや、誰かと思ったら大岡家のはつ殿ではありませぬか。お久しぶりですね。覚えておりませんか?」
男はわざとらしく驚いてみせ、顔に薄く皺の浮かべながらはつの猿轡を外した。
はつは息を切らして言う。
「っはあ、はあ、あ、ありがとう」
「……その恰好から察するに色々と大変だったようですね。まぁ、詳しくは聞きませんが。とりあえず、息を整えるように水を持って来ますよ」
男はそう言って刀をしまい、水を汲みに近くの井戸へと移動した。すると、茂みの中に義親がやって来た。
「はつ様、探しましたよ! 忠移様も心配されております」
義親は額に汗を浮かべて息を切らしながら言う。そして、肩がはだけて胸元があらわとなっているはつの服装を見るなり驚きの声を上げた。
「って、どうしたんですかその恰好は! それに横に男がうずくまっているし…… どうなされたんですか!」
何も知らない義親が驚くのも無理はない。はつの横には背中から血を流して泡を吹いて倒れている男が横たわっている。何の情報も無くここへやってきた人は大抵の場合こういった反応をするだろう。
「ハァ、よし、ハァ、ちか、ちょっとこっちへ、ハァ、来て」
「はぁ、なんでしょうか」
だが、義親の反応はまずかった。はつは息を切らしながら涙目のはつは義親を呼び寄せる。
義親が歩み寄って顔を近づけると、
「ボゴゥッ」
義親の頬にはつの拳が飛んだ。その直後に涙を流しながら言う。
「あんたはほんとに探しに来るのが遅いのよっ! ……このバカっ」
そう言ってはつは声を上げて泣き出した。義親はその勢いに押されて痛む頬を抑えたままま、ただ呆気に取られる。
そんな中、水を汲みに行った男が戻ってきた。
「はつ殿、水を持ってきましたよ。 ……おや、大岡家の方もいらっしゃったのですか」
男はそう言うと義親に会釈をした。はつは男から水筒を受け取ると後ろを向いて黙々と飲んでいる。
頬を押さえたまま呆気に取られていた義親だったが、男の顔を見て正気に戻った。すぐさま男に向かって三つ指を立てて深々と礼をする。
「あなたは、長崎奉行の筒井様ではありませんか。気が付かずに申し訳ありませんでした」
「いやいや、いいですよ。それに家格はまだまだ大岡様の方が上ですから」
嫌味っぽくそう言った男の名は『筒井政憲』と言う。一旗本の家から戦国以来の血筋である筒井家を継ぐ程の大出世を遂げた人物だ。
「当家のはつ様がお世話になったようで、誠にありがとう御座いました」
すると政憲は微笑みながら言った。
「なぁに、困った時はお互い様ですよ。それと、家中の者ならば姫様の事をしっかりと目配りしないと駄目ですよ」
薄く微笑みながら政憲は言う。
はつも、もらった水筒を飲み干して息を整えた。
「……ふぅ。筒井殿ですか。今回はありがとう御座いました。このご恩はいつか果たしたいと思います」
はつもまた深々とお辞儀をした。
「いやいや、当世一の美姫であられるはつ殿にまで言われると誠に嬉しく思いますよ」
政憲はわざとらしく微笑みながらそう答えた。政憲の背後から数名の男が駆け寄ってくる。
「政憲様! ここにいらっしゃったのですか! 厠に行って来ると抜け出して、何をやっていたのですか。せっかく用意された馳走が台無しになるじゃないですか!」
「おやおや、見つかってしまいましたか」
政憲が肩をすくめてはつらに微笑みかけた。
「見つかってしまったではありません! いい年をして……」
どうやらこの男は宴会か何かから抜け出して来たようだ。落ち着いて政憲を見ると、肩衣は着けていないものの、紋付袴羽織で、小千谷縮の小袖と綺麗に藍で染められた袴を穿いている。よっぽど重要な宴会から抜けだして来たのだろう。
政憲は家老と思わしき男から何やら言われているのだが、聞き流してはつの方を向いた。
「風の噂では大岡家の美姫が元服をなさるとのお話を聞きました。元服なさるのははつ様でございますか?」
はつは不意に聞かれて眉をひそめた。
男たちに絡まれて忘れかけていたが、つい半刻前には父親と大喧嘩していた。
父親に対しては「決して元服などせぬぞ」と啖呵を切ったのだが、大岡家が置かれている現状、江戸の状況を実感した。
「私は……」
家を馬鹿にされてあんな屈辱まで受けた。それならば私が家を盛り立てるしかないだろうと思い立ったのだ。
深く深呼吸をして、政憲の目をじっと見つめ微笑みながら答えた。
「はい、私が元服をし、武士となります」
はつの返事を聞いて政憲は目を線にして微笑んだ。
「ほう、そうでございましたか。色々と大変な事もあるかもしれませんが、その時は幕府の為に共に闘いましょう」
政憲は笑顔を見せる。はつも微笑み返して気になっていたことを聞いた。
「失礼を御覚悟の上で聞きますが、長崎奉行の筒井様が何故江戸へ参られたのでしょうか」
「上様から書状が来ましてね。早く顔を見せろと仰っているんですよ。まったく、何の用なんですかね」
政憲はわかり易く首をかしげそう答えた。
「政憲様、早く屋敷に戻りましょう。宴席はまだ終わっていません」
筒井家の家臣がそう言う。
「分かりましたから、そうせっつかないで下さいよ」
ため息を吐きながら、嫌そうに政憲が答えた。
「まぁ、はつ殿とは近いうちに会うと思いますが、その時はよろしくお願いしますよ」
「ちょ、それはどういう意味なの……」
そう言いながら政憲は家臣に連れられて去って行った。
○
はつが外桜田の屋敷戻るころには日が少し傾いていた。
帰り道で歩いた弁慶掘や溜池付近の道端では、花見で日中から酒を飲んでいたからなのか、大股開きでいびきをかいてグアグアと寝ている町人がいる。なんとも呑気なものだ。
はつらが屋敷に入ると、開口一番に忠移がやって来た。
「おお、はつ帰ってきたか。先程はすまなかったな。あれから色々と考えてみたのだが、確かにはつが怒る理由もわかる。しかし、そこをだな……」
なだめる父の言葉を遮り、はつは一呼吸置いた後に話した。
「ご安心ください。父上の言うとおり、私は武士となります」
「お、おう、そうかそうか、それはよかったぞ。それでは翌日に元服の儀を行う故、よろしく頼むぞ」
不安げな忠移の顔は晴れ上機嫌になり、今にでも小躍りをしそうな雰囲気となった。となりに控えている義親に向かって「よくやったぞ」と言いそうな目線を送り書斎へ戻って行った。
「……よくもまぁ、ああカッコよく言えますね。あんな風にズタボロにされかけたのに」
「別にいいでしょ。私だって実感したのよ。今の江戸はおかしいって。それに、今は私だって武士になれる。だったら私の手で江戸を変えてやるのよ。武家の娘で終わるなんてまっぴらゴメンよ」
はつは言い切る。義親は肩をすくめてため息をつく。
「ほんとに、よくもまぁカッコのいいことをスラスラと言えますよね。ちょっとだけ感動しちゃったじゃないですか」
そう言いながら部屋へと戻るはつの姿を見送った。
○
はつは部屋へ着くと書机についた。この日は色々な事があり過ぎた。父と喧嘩をして家を飛び出したら、酒に酔った武士に絡まれて手篭めにされそうになり、 突然現れた筒井政憲という旗本に助けられ、先程武士になると宣言をした。それまでの疲れがどっと出たのであろうか、書机に突っ伏したっまま眠ってしまった。
○
翌日、屋敷で元服式が取り行われた。
これにより、大岡はつ改め、『大岡忠春』と名乗ることとなった。名実共に武士と成ったはつだが、胸が空く思いにはならなかった。
元服式も厳かに進んだその夜、はつは縁側に座り、屋敷の桜を見つめながら「ふぅ」とため息をついた。
「宿願叶って武士になった気分はどうだ」
ただずむ忠春の元に、父・忠移がやって来た。
「父上、未だに実感がわきませぬ」
はつは不安げに答える。その姿を見た忠移は笑いながら話す。
「それでは困るなぁ、明日には登城してもらう手筈になっておるのに」
「あ、明日ですかっ!」
「ああ、明日だ。上様に参賀してもらわなければならないことになっておる」
「う、上様に……」
登城したこともあるし、将軍に謁見したこともある。しかし、何もかもが急だった。はつは完全に委縮してしまった。下を向いて小さく震えている。
そんな姿を見かねた忠移はこう話した。
「……武士になるという事は、これまでの様なきままな生活では無く、お家の為、幕府の為に働くと言う事になる。それはわかっているか?」
「はい、わかっております」
はつは返事をする。一個人の感情で動いて何かしでかせば、自分の地位は当然のこと、肉親・兄弟といった家族にまで被害が及ぶ。さらに、大きな所領をもつような大名ならば、家族以上に親戚にまで処罰が及ぶこともある。
武士になるというのはそれだけ大きなことなのだ。
「かつて、私も同じ経験をした。これからどうなるのだろうと不安でいっぱいだったし、家を守ることが出来るのだろうかって心配もあった。たまたま生まれた家が大岡の家だった為にこうやって暮らしているのだが、他の家ではどうなっていたかわからない」
忠移は乾いた笑いを浮かべる。
そんな忠移は日光祭礼奉行という閑職についている。年に二回ある初代将軍家康を始めとした逝去した将軍家を祭るための準備を取り仕切る職なのだが、たいして忙しいことも無ければ、それほど重要な仕事でもない。
「そ、そのようなことは……」
「そんなことはありません。父上は立派です」と忠春は言い返したかった。だが、言うべき言葉が見つからずに口ごもってしまう。
「わしは生まれつき平凡で、これといった奉公も出来ずに、御先祖が忠相公だったと言うだけでここまでの厚遇を受けて来た。息子の忠愛も武士として立派に奉公は出来るとは思えん。余所から家柄や地位だけを見たら羨ましい限りなのだろうが、わしはそうは思わん」
「……」
忠移と普段から接してはいるがこういった話を聞く事は無かった。いつもと違う雰囲気の父の話しを黙って聞いている。
「はつよ、お前はわしらと違って俊英な子だ。色眼鏡抜きにして、忠相公の再来ではないのかとも思える。凡愚となった当家を救うべく忠相公があの世から送ったような気がしてならない」
忠春は黙って話を聞いていた。
「はつ、いや忠春よ、幕府の中枢に巨大な風穴を開け、春の風の如く江戸を生きよ!」
「わかりました。父上。不肖、大岡忠春は江戸の町に風を起こして見せます!」
忠春の目には涙が浮かんでいた。この涙は昨日のものとは違う。決意の涙である。
「うむ、わかったようだな。そなたにこの刀を譲ろうと思う。これは、無き御先祖様が代々受け継いだ名業物だ。大事に扱うのだぞ」
忠移も涙目となり、そう言いつつ一振の太刀を渡した。
「ははっ」
忠春の目には大粒の涙が溢れていた。この刀がどのような形状をしているかすら見えてなかったかもしれない。
だが、握った瞬間には全てが分かった気がした。
「うむっ。それでは明日に備えてもう寝なさい」
微笑みながら忠移は書斎へ戻って行った。無言で去ってゆく父の姿は少し小さく見えた。
忠春も涙をぬぐい、部屋へと戻ると床についた。
「御先祖様も見ててくだされ、私は必ずや大岡家の名声を取り戻し、忠相公
をも超える存在になって見せまする」
床の中でそう願うと自然と力が抜け、熟睡をした。
○
元服式の翌日も雲一つない江戸は快晴だった。
春風に吹かれて屋敷の庭の桜も散り始め、澄んだ温かい青空に桜の花弁が舞散っている。
「父上、では行ってまいります」
「うむ、気を付けてな」
忠移は書斎から返事をした。その声はどこかかすれていた。
供の義親も支度が整っており、声をかけた。
「何時でも出立出来ます、忠春様」
「それじゃ行くわよ」
そう言うと大岡忠春らは意気揚々と江戸城へと向かった。
用語解説
『元服式』 本文中では滅茶苦茶省略してますが、烏帽子親(簡単に言えば仲のいい偉いおっちゃん)に烏帽子を乗せてもらって、服装を改める。いまでも一部の地域でやってるらしい。