見つめる猫の目
“昨宵も再び参上。義賊猫目一家が華麗に盗みとった”
寒風吹きすさぶ10月頭のこと。日本橋室町では瓦版売りの威勢の良い売り声が響き渡っていた。
時は明け四つになろうとする明朝にもかかわらず、冬籠りの支度が忙しい江戸の町は人々の商いや市中の動きには全くと言っていいほど関係が無い。
「盗賊だなんて物騒な話ねぇ」
「何を言ってんだ。猫目の親分っちゅうたら義賊中の義賊。あくどい商売しとる連中からしか狙わん」
「それにしても、華麗に持っていくもんだな。駿河町なんて奉行所の目の前だというのに」
「まったく、奉行所の連中もしょうもないもんだな。今は真っ当な商売をやってるが、これからウチもあくどい商売をするからよ、うちの不細工なカカアを盗んでくれないかね」
「馬鹿言え。あんなの盗んだ所で何にも使えんわ。そういや、昔もそんなような一件があったような……」
商いの傍ら、瓦版売りの良い掛け声に誘われたのか、道行く人々は瓦版を手にして思い思いに語り、一部は懐に入れて懐紙代わりに残しておき、また一部は道端の屑籠に放り投げた。
そんな中を、南町奉行所同心・伊藤忠景は肩身が狭そうにしながら小銭入れのジャラ銭を売り子に渡した。
「……月番は北町だが、どうしたものか」
「私らの月番になったところで連中の悪行は変わらないでしょう。話だととっくの昔に解散したときいてはおりましたが」
彼の横に居るのは同じく奉行所同心の小田国定だった。刺さるような木枯らしが吹く荒む中、彼は手拭いを首にかけて額の汗を常にぬぐっていた。パンパンに張り裂けそうな黒羽織りの背中は汗でにじんでいる。
「……まったく、不思議な話よ」
「そうですなぁ。我々の月番で案件を抱えることになれば南北での連携が必定。さらに火盗改とも協力しなければいけないなど、何とも言えませぬな」
日本橋界隈が荒らされだしたのはちょうど9月の暮れからだった。
“猫目一家”と名乗る義賊の事件が多発しており、被害者宅には町奉行所と火付盗賊改方の両者が立ち会って事件を捜査しているという。
そして、これまでの事件の通り南北問わず町奉行所と火盗改は仲が悪い。
手柄を競い合う好敵手と言えば聞こえはいいかもしれないが、その実態は全く違う。
互いが抱えている目明しから同心・与力に至るまでの間で、証拠品の取り合いや下手人の扱いでの喧嘩沙汰は日常茶飯事であった。
「……北町も難儀だろうな」
「まっこと、面白く無い。あのような荒っぽい連中と組むなど手が汚れるわ」
瓦版に顔を近づけ合って読む二人に、通りすがりの根岸衛栄がやってきた。
それに気が付くと、二人はすぐさま衛栄に向かって一礼する。
「ようお二人さん。相変わらず仲いいじゃねえか」
「……根岸様、どうなさりましたか」
「別になんでもねえよ。ただの見廻りだ。どうせ話しのネタはアレだろ、猫目の……」
衛栄は国定の手にあった瓦版を手に取ると、ざっと流し読みしなが捨てるように言った。
「そういや、またあったんだってな。ま、北町からこっちに報告もなんも話は来てないけどよ。無論、火盗改の連中もだが」
吐き捨てる衛栄の物言いに、忠景は苦笑して国定は大きくうなずいた。
「ええ。しかし、火盗改のような連中、組むに値する人間ではござりませんなぁ。根岸様もそうお思いでは?」
「そういいたいところだが、俺はそこまで思っちゃいねえけどな。奴さんも奴さんで大変なんだろうよ。まぁ、現場で鉢合わせると色々と起きちまうから会いたくはねえけどよ」
衛栄自身、火盗改との揉め事は何度も経験している。
先の秋口にあった浮世絵の一件でも揉めたし、それ以前についても、大きなことも小さなことも数えれば両手では足りないぐらいまで挙げられるだろう。
「根岸様もご存知かと思いますが、何せ連中のやり方はあくどくて荒っぽい。言うなれば黄表紙に出てくる子悪党の類ですな。われらが誇り高き南町奉行・大岡越前守が成敗してくれるわ」
「威勢のいいことを言う割にはお前さんがやるんじゃないのかい……しかしまぁ、悪く言われたもんだな。火盗改もよ」
瓦版をくしゃくしゃに丸め、秋空に向かって放り投げると屑籠屋の背負う籠の中へすっぽりとおさまった。
○
結局、北町が月番を継続していた10月の間も猫目一家の犯罪は続き、襲われた商家はひと月で6軒にまでのぼったという。蔵暴きにしては異様ともいえる件数である。被害に遭ったのは大店から小店、業種も卸から小売までに至り何の相関性もないといのも、なんとも不思議な話だったため、関係各所から市中に至るまで様々な噂話が飛び交った。
そして来る11月。南町奉行所が月番を迎ると、事件がパタリと止んだ。
それから一週が経った日のことだ。南町奉行・大岡越前守忠春は当然のことながら殺気立っている。
「日本橋での事件が続いているけど、どうなってるの?」
「と、申されますと」
「んなもの決まってるでしょ、例の盗賊よ。猫目一家とかいう」
「まぁ、いずれも北町の案件ですので。少なくとも、我々の月番では時間が起きていませんから……」
このような調子で常に苛立っている忠春に、奉行所内は張りつめている。
そこで、たまたま居合わせた南町奉行所内与力・小峰義親の何気ないひと言が忠春の火に油を注いだ。
「そんなことは関係無いの! 私の江戸で犯罪が起きるってのが許せないっていう話なの!」
義親は諦めたように首をすくめるしかない。隣に居並ぶ同心らも同じように肩をすくめた。
「とにかく北町に協力を申し出るのよ。向こうがなんて言おうが知ったこっちゃないわ。あんな義賊気どり、私たち南町奉行所の手で捕まえてやるのよ! 見回りなさい。市中をくまなく見回るの!」
そのまま忠春は身近に居た与力に申しつけて書状を作成させ、障子を勢いよく開けると、廊下を踏み抜くかのように自室へと戻って行った。
残された義親以下、与力らは困ったように頷き、すぐさま筆机を準備している。
「まぁ、これだけ続けば忠春様がああなるのは仕方ないでしょう。私としても、我々幕府がコケにされ、やられっぱなしは癪ですので」
いきり立つ忠春と入れ違うように、南町奉行所年番方与力・筒井政慶がそろりとやってきて言った。
先の秋葉原での一件では忠春ら主導で解決したものの、大部分で火盗改に助けられて解決へと相成っている。最終的な心情的には精神的に優位な立場で火盗改・長谷川宣冬と別れたものの、忠春にとってのことが非常に悔しかったのは本人が口に出さずとも明白だろう。
そして珍しく、政慶の顔に血潮がほとばしっている。言葉通り、彼個人としても一連の悪行は頭に来ているのだろう。
何気ない一言だったが、政慶の口から発せられるだけで多少どころかいつになく頼もしく思えた。だが、政慶は薄い笑みを浮かべながら続けて言った。
「もっとも、解決の糸口も何もない以上、また起きてしまう可能性は十二分にありますけどね。くわばらくわばら」
義親も政慶のこういった嫌味っぽさは嫌というほど知っていた。いや、忠春が着任して以来数か月が経ち、一緒に仕事をしたこのある人間なら全員知っている話なのかもしれない。
それでも、嫌味っぽく笑う冗談なのか本気なのかもよくわからない政慶の言葉が、癇に障らなかった者はいなかっただろう。
〇
そんな折の話だった。とある同心の目明し伝いに届いた一報により、南町奉行所に戦慄が走った。
ついに、南町奉行所が月番の最中、猫目一家による事件が起きてしまった。それも、被害に遭ったのが御城から見て裏手にある麹町山元町と、南町奉行所からもそれほど遠くは無い距離にある。
一報を聞いた南町奉行所のある同心は、上司・大岡忠春がぶちぎれる様を思い浮かべたのか半刻ほど固まり、そののちに菓子折りを買いに日本橋へと走った……といったような噂話を聞きながら、義親は頭を抱えながら忠春へと報告をした。
「……起きてしまったものはしょうがないでしょ。それで、どんな状況?」
しかし、事件の一報を聞いた忠春は、あれだけ殺気立っていた割には以外にも冷静だった。
むしろ、そうやって無理やりにでも平静を装わなければ身を持たせられなかったのだろう。
一世を風靡する大盗賊に、お膝元というべき将軍の住まう御所から歩いて半刻もかからないような界隈でしてやられた。その事実は一個人の感情などどこか遠くに吹き飛ばしてしまうのかもしれない。
そんなような忠春の内心を奉行所の面々は知る由もないが、とにかく平静でいる忠春の姿に、義親を筆頭に居並ぶ与力らが胸をなでおろしたのは当然の話だった。
「被害に遭った商家は甲州街道から一本入ったところにある中堅所の卸問屋です。蔵の中身が丸ごと暴かれていたとか」
「それで、死人とかは」
「いえ、誰一人として出ていません。それどころか、誰一人として犯行を見た者はいません」
義親のひと言に忠春は眉間にしわを寄せた。
「何それ、どういうことなの」
「朝、見回りに蔵へと入った使用人が初めて気が付いたそうです。一夜の間に蔵の中身がすべて空になっていたと」
「そんな馬鹿な話があるはず無いでしょ。それだったらどうやって蔵を暴いたのよ」
当然、蔵には何重もの鍵が掛けられている。
二重・三重の仕掛けが施された強固な錠前は江戸中に流通しており、特に商家の土蔵を守る錠前は、それらよりもはるかに複雑なものが使われている。
例を挙げれば鍵穴が知恵の輪のような組み絵状になっている物や、複数の扉で仕組まれたものがあり、それぞれに違う鍵を用いてやっと開けられる物など、土蔵を守る鍵ともなれば同じものは二つとないことは間違いない。
とにかく、一晩寝ずに作業しても開けられないのが当たり前の世界である。当然、この商家の錠前もそれに近い形式のものが使われていたという。
「……その店には『繋ぎ』でもいたんじゃないの。それにしても、どれだけ」
「確かに。前々からその店に忍び込んでもしなければ錠前を突破するなど不可能に近いでしょう……」
忠春の言葉にもっともらしく義親もうなずいた。
蔵を暴く江戸の盗賊達がよく使う手口に『繋ぎ』というものがあった。
簡単に言うと内偵であり、忍び込む店に数年前から、長いものでは十数年近く店の人間といて入りこんで店内での地位を確立する。
そして、錠前や金庫の在り処や仕組みを知ると、盗賊達に知らせて仕事が終わるとともに店を去るというものである。
ここまで華麗に盗みだすにはそれしかない、義親もそう思っていたし、忠春もそう思ったいたのだろう。
だが、義親の苦い顔は変わらない。
「……しかし、その形跡が全く無いんですよ。店の者はこの数年変わっておりません。新しく入れたということもないようです」
「ということは、身内の中に下手人がいるの」
「その線が固いと思われます。それか、出入りの錠前師の可能性もあります。いずれにせよ、問題は誰が手引きしたのか、ということになりますが、被害に遭った商家の関係者の身柄は既に確保しています」
「聞き取りが終わらないと当分の間は動きそうにないわね。分かってると思うけど、丁稚から主人の何から何まで片っ端から洗いなさい」
忠春から事件が起きたことへの怒りはとうに失せていた。事の仔細が書かれた書面を政憲と共に熱心に見つめている。
それにホッとする余裕は与力達には無いし、それまでずっと悩みの種であった忠春に対する気苦労すらも忘れていたことだろう。
「どれだけ時間が掛かったっていいわ。とにかく下手人らを白州に引きずり出すのよ!」
忠春の威勢のよい掛け声とともに与力・同心を問わず、一斉に御用部屋から飛び出していった。
とにかく事件を暴くこと。
それ以外の一念は南町奉行所員は持ち合わせていなかった。