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女奉行捕物帖  作者: 浅井
土霾ひと吹き
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土霾ひと吹き


 大手門前での変事の後、幕閣人事の大幅な異動があった。

 水野忠邦の罷免。老中首座の席を降ろされ、一月の蟄居及び雁間詰行きが命じられ、土井利位が老中首座に付いた。

 利位が初めに行ったのは上知令の即時停止。水野忠邦の否定である。

 とはいえ幕府の疲労が回復した訳ではない。ここのところの豊作続きで多少はマシになったものの、まだまだ先行きは見えないことは間違いないだろう。

 そして、北町奉行・遠山景元らの献策によって株仲間の復活がなされた。これにより戻りつつあった物価は安定。ひとまずの危機は去った。経済も活性化が見込まれているという。





 大岡桐は久方ぶりに牛込御門の母・忠春の屋敷に戻った。

 一週ほど前に一度は登城したものの、大した要件では無かったらしい。忠春はなおも屋敷に軟禁されているような引きこもり生活を続けていた。

 だが、決定的に違う点がある。

 母に笑顔が増えたことだ。

 稽古ぐらいしか来訪者がいなかった屋敷に、旧友の屋山文が週に何度か訪れていることもあるのかもしれない。退屈な軟禁生活にも彩りが出始めたのだろう。

 そんな母と顔を突き合わせながら、他愛も無い世間話をしていた時だ。


「どうしたのよ。やけに元気が無いじゃない。水野忠邦が罷免されてそんなに悲しいの?」


 何気なさそうに、ふと、忠春はそうこぼすと、桐は慌てた。その指摘は当たらずとも遠からずだった。


「その、なんて言いますか……」

「誰が聞いてる訳でも無いんだからはっきりいいなさいよ」


 桐はしどろもどろになりながらも、ゆっくりと言った。


「……果たして水野様はああならなければならなかったのでしょうか」

「そりゃそうでしょうよ。城下、っていうかほぼ城中のあそこであんな大立ち回りをしちゃったら誰かしら責任を取らなきゃいけないしね。ざまあないわ。ほんとに」


 忠春は高笑いした。多分、本当に嬉しいんだろう。ひとしきり笑い終えると茶を啜っている。なぜだか、桐は無性に腹が立った。


「本当に酷いことを言うのですね母上。父上もそのような方だったんですか」

「いやいや、私の傅役よ? そんな口聞いたら切腹させてるっての」


 再度、忠春は笑って茶を啜った。桐の視線はみるみる冷えていった。

 上機嫌に笑う忠春だったが、娘からの視線に耐えかねたのか深くため息をついて桐に尋ねた。


「……それでどうしたのよ。何かあったの?」

「水野忠邦はそれほどの悪人なのでしょうか。幕府を守ろうと張り切って、ここぞ、というところで鳥居らに邪魔立てされた。私にはそうとしか思えませぬ」


 桐にはそれが疑問でならなかった。忠春に向かいあっている時も、握り拳は自然と振り上がり、畳の縁へ強く叩きつけた。

 感情を発露する娘に「まぁ、そうなんだけどね」と苦笑しながらため息をついた。


「それだけ敵が多かったのよ。上様が現実を見れていたんだったらそういった処分をしたのかもしれない。でも、そこらへんの根回しは土井様がお上手だったんでしょうよ」

「なぜそのようなことになるのですか。自身の所領が幾ばくか減ろうが、幕府の危機なんですよ。そうだったら利害を捨てて協力すべきではないのでしょうか」


 いくら幕府の要職に就こうが、とどのつまり武士であるということは幕府が保証している以上、それぞれが心の中心に置くべきは幕府だろう。だからこそ様々な職に付けている。桐自身もそうだし、目の前に居る母・忠春や火盗改長官の長谷川宣冬、北町奉行の遠山景元に年番方与力の根岸衛栄だって同じだ。

 同じ言葉を話し、同じ衣服を着て、同じものを食べている人間同士だというのに。外を見ればエゲレスやフランスといった国が清国に手を伸ばしている。幕府に災厄が振りかかるのは時間の問題だろう。

 それなのに、なぜ協力が出来ないのか。疑問というより、鬱屈とした憤慨が残っている。

 忠春は、桐の頭を撫でながら諭すように言った。


「……当然の事だけど、気にしていない奴なんて誰一人としていないでしょ。ただ、今の生活が変わるのがとてつもなく怖いだけ。私は風聞しか聞いてないけど、土井様らの判断も分からなくは無いわ」


 この時、感情の赴くままに突っ走って行った過去の自分を重ねているのかもしれない。開かれた襖の先を眺めながら、ゆったりと遠くを見つめる母を見て、桐はそう思った。


「無名の蘭学者を余所から登用したのだって、既存の御用学者は快く思うはずもないわ。鳥居もそれだけで寝返った訳じゃないんだろうけど、そういう面もあったと思う。生憎だけど、正論だけが罷り通る世の中じゃないのよ」

「確かにそうかもしれませぬ。しかし、だからといって……」

「でも、怖いでしょ。ある日突然、自分の存在価値? みたいなさ、あるべきものが崩れ去るのが怖いだけ。アンタの火盗改に蘭学推進派の訳の分かんないヤツが突然入って来て『上意である』とか言いながら指図し出して来たら鬱陶しいでしょ。それと同じことよ」


 怖い、というのか。

 昔からいる者には、年月を重ねて積み上げてきたものがある。火盗改として過ごしてきたこの1年足らずだってそうだろう。様々な人の協力を得て、努力と汗を重ねながら何か一つのやり方を作り出した。それが組織の、自身の糧になっている。

 それが、過程を知らない第三者によって壊されてしまう。『なぜこうするのか』と反発したくなるのも無理は無いのかもしれない。実際に身に降りかかって来たら他の幕閣のように妨害していたかもしれない。それは確かに怖い。


「多分だけどさ、忠邦のやり方は強引過ぎたのよ。正論なんてものはただ放り投げればいいってものじゃない。時間を掛けて手渡さなきゃいけないのよ。他の幕閣を邪魔をしたのは謂わばアレね。意地とか面子とか沽券みたいな古臭いヤツよ。そんなもので飯が食えるかっての。どいつもこいつも物事の本質をさ……」


 母の言葉は正論なのだろう。きっとそういう論理で幕閣らはそれぞれが判断を下して、今日に至るまで生活を続けているのかもしれない。謂わば、大人の論理だ。

 「だけれども」。そういった感情のしこりが桐にはまだ残っている。

 それ以上に、母のもの言いが気になった。自身との対話を通じて、やはり思う所があるんだろう。時折感情的になって放つ言葉にはどこか重みがある。当たり前の話だが、思う所があるんだろう。

 桐自身、そういうことを思いながら聞いていたら、思わず言葉が漏れてしまった。


「やっぱり、母上は昔の事を……」

「私に似て言い辛いことをポンポン出してくるのね。まぁ、別に気にしちゃいないわよ、って言いたいところなんだけどさ」


 あたふたする桐を見て忠春は苦笑した。


「そう言う訳でも無いんだけど、結局は昔の事だからね。起きてしまったことを引きずってるだけ時間の無駄だっての」


 「やってしまった」と、桐は口を両手でふさいだが、以外にも母の言葉に激しい感情は無い。

 それどころか、遠くを見つめる瞳はどこか優しげだった。


「いずれにせよ、変わろうとしない組織に未来は無いわ。ま、土井様もそれなりに開明的な人のはずだし、やり方は工夫するんじゃない? それにアンタも西洋の事を学べばいいんじゃない? 火盗改だけじゃない、新しい道が開けるでしょ」

「果たしてそういうものなのでしょうか。しかし、蘭学には興味があります」

「……そうやって悩めばいいのよ。生きている以上、生きる意味だとか、そんな難しい答えが簡単に出るはず無いんだからさ。だからこそ、楽しいとも言えるしね。そうでしょ? 政憲」


 嫌味っぽく笑った母の視線の先には筒井政憲の姿があった。

 相変わらずの柔和な笑みと、折り目正しい視線。政憲は一度平伏すると、わざとらしく笑いながら頭を描いて見せた。


「ハハハ、お気づきでしたか。いや、母娘の会話を盗み聞きするつもりなど全く……」

「聞かれて困ることなんか話してないんだから別にかまわないわ。聞いてたと思うけど、この子が蘭学を学びたいそうだからさ、アンタの倅を紹介してね。それで許してあげるから」

「そりゃぁもう。倅にひと言申しつけておけば数月で蘭学に大家にして差し上げますよ」


 政憲は満足そうに微笑んだ。政憲の子・下曽根信敦は蘭学の大家として知られているので、桐にとっても当然のことながらそれは願っても無い話だった。

 娘の笑みを見て同じように忠春も笑っている。しかし、言葉を言い終えた後は厳しく政憲を見据えていた。


「……で、何の用? そんな話をしに来たんじゃないんでしょ」

「その、忠春様に会っていただきたい方がいるんです」


 再度、政憲は笑って見せた。今度のは口元のみが笑っていて目元は笑っていない。得てして、こう言う笑いには暗の部分が隠されている。 

 その笑みを見て忠春も大方察したらしい「……なるほどね。このご時世に私の所に通したい人だなんて、ねえ」と苦笑しながら湯呑みを口に運んだ。


「母娘で仲睦まじいを連れ出すのに恐縮なんですが、時間が無いんですよね。なんたって……」

「蟄居中の元老中を連れ出そうだなんて大したタマね。ほんと、毎度のことながらロクなことを考えないのね」


 忠春は笑った。政憲も優雅に微笑んでいる。側にいる桐にそのような余裕は無かった。凍りついたまま忠春と政憲の顔を交互に見つめていた。


「んで、政憲、アンタも同席する?」

「ありがたい申し出ですが、私が会う理由はございません。水野様は裏に通させています」

「あっそ。人の家で好き勝手やってくれてありがと。それじゃ桐、ちょっと席を外させてもらうから」


 チクリと突き刺す嫌味に政憲は笑みで答えた。多分、二人は昔からこういう関係なのかもしれない。とはいっても、桐はこちらの心臓がチクリと刺されているようで冷や汗が止まらなかった。

 忠春はゆっくりと立ち上がると、桐の頭をひと撫でした。そして、襟元を締め直し、裏庭へと足を進めた。





 忠春の屋敷の中庭に、見慣れない駕籠があった。人足はいない。すぐにどこか脇へと控えさせたのだろう。

 駕籠の脇にしゃがみ込み、戸を開くと、懐かしい顔がそこにあった。


「久しぶりね水野様。お元気でしょうか」

「嫌味ったらしい物言いだな。はっきり言うが、この面会は私が望んだ訳ではない。あの男が仕組んだ話だ」

「ま、折角の機会なのだからそこにでも腰掛けてのんびりしなさいよ。しかしまぁ、こんな日がやってくるなんてね」


 白髪混じりの顔は少々やつれていた。ただ、整った能面顔を不満そうに苦くした表情は昔と変わらない。

 毒づく忠邦に対し、忠春が庭先の縁側を指差すと黙って従った。忠春自身、この面会がどんどんと面白くなってきた。奥に戻って茶を用意すると忠邦に手渡した。


「私はアンタを別に恨んじゃいないわ。むしろありがたい限りよ。大坂では見逃してくれたしね」

「どうということはないだろう。貴様を処分した所で何が変わるという訳でも無い」

「ま、そう言うでしょうね。それじゃさっきのお礼は帳消しってことで」


 忠春は茶を一飲みすると、目の前で睨みつける忠邦に対して笑って見せた。


「それで耀蔵はどうしたのよ」

「貴様、分かってて言ってるだろう」

「当たり前でしょ。嫌味の一つでも言ってやんないと面白くないでしょ」


 微笑む忠春に、忠邦は舌打ちした。


「抜かせ。開明的と謳われた連中を登用したが、結局は自分等の利権にしがみ付く俗物だった。私がどれだけ理想を語っても分からない奴は分からない。それだけが収穫だよ」

「……なるほどね。まあさ、アンタほどに嫌がる仕事を進んで行うような減私奉公出来る人間なんてそうそういないっての」


 忠邦がこぼした愚痴もそうだし、彼自身が幕府に尽くそうとする姿は対岸から見ていても良く分かった。

 使ったやり口は今でも気にいらなかった。でも、わざわざ唐津という西国の富が集まる場所を捨ててまで、幕府内での立身出世・その先を目指すために移封するのは異例だ。

 その後もそうだ。前将軍・家斉時代の奸臣らを排除し、町役人や商人らとの馴れ合いを避け、株仲間の解散を強行。上知令も幕府の財政基盤を確固たるものにするために行おうと企図されたものであって、忠邦の私心とはまた別の所にある話であったろう。


「特別私がという訳ではない。『幕府を建て直すという使命と信念を持っているかいないか』という一点に尽きる。他の連中が下らないだけの話だ」

「随分な言いようね。でも、今の調子だったらアンタにまた声が掛かりそうだと思うけど」

「……それを決めるのは上様だ。私では無い」


 忠邦は手にした茶を啜った。それから忠春に視線をぶつけることなく、淡々と語った。


「それにだ……このままでは幕府は滅ぶ。今を逃せば建て直すことはあたわないだろうよ」

「『幕府は滅ぶ』だなんて思っても無い事言っちゃってらしくないわね。椅子から蹴り出されたら全部終わりって訳? ほんと嫌な奴ね。私の直感は正しかったみたい」


 わざわざ声色を真似て見せた。忠邦は鼻で笑った。

 その時だった。

 ふと、忠春は過去の話を思い出した。


「……昔さ、アンタの所の家老が言ってたんだけど、ほんとに不器用なのね。だからこうなったんだろうけど」

「アイツか。今際の際に余計なことを」


 自分を曲げる事をせず去る者は追わず。そして、今でもこうやって強情を貫いているように見える。きっと、あの時そういうことを彼は言いたかったのかもしれない。

 水野忠邦という人物が、あの時そうして器用に立ち回って危機を回避出来れば、とも思ってしまうぐらいに魅力を持つ人間なのは間違いは無い。

 しかし、だ。


「……いいや、無理ね。何回顔を突き合わせたってアンタとは仲良く出来なさそう」


 それもこれも過去の話で、どうやったって代わり用の無い事実だ。結局のところ、忠邦とどう付き合って行こうが彼に対する結論は一つしか出ない。

 無理、倒すしかない、こうなってくれてざまあ、と。

 ただ、こういう結果に陥ったとて、その状況に対してはそれほど悪い気はしていないのかもしれない。忠邦は再度、小さく息を吐くと、つらつらと言った。


「同感だな。貴様らは温い。心から反発するなら対案の一つでも持ってこい。話しはそれからだ」

「ま、元気でやりなさいよ。高慢な物言いが無いアンタは面白くとも何とも無いし。ちょっとは改心したら協力してやらないでもないからさ」

「そんなことは言われるまでも無い。その機会はまずないだろうが、どこに飛ばされようが私自身が死ぬことは無い。この国の行く末を見させてもらうよ。粗末だが馳走になった。いずれ借りは返す」


 湯呑みを縁側に置くと、再度籠の中に入って行く。それから、すぐさま駕籠持ちの人足が集まると裏門から出て行った。

 天保14年3月25日、乾燥した道端を春風が捲りあげ、江戸の空を黄砂が舞った明朝の出来事だった。



土霾ひと吹き(完)

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