大手門・後
江戸城・大手門前は、普段であれば登城から戻ってくる主人を待つ家臣らが溜まっており、それらを商売相手にする商人らでにぎわっているのが常である。
しかし、この日の大手門前には誰一人としておらず、唯一大岡家の家臣団が控えているのみで、門前は静寂が支配していた。
そんな所に水野忠邦らの登城行列がやって来た。
先のような状況を見て、忠邦の家臣団はこの状況を当然のことながら不審がった。
まず、通常であればどこかしらの大名家や幕府重役が登城しているはずであり、これが宵の口であれば話は別だが、時刻は陽が宙天に昇るの午の刻。有り得ない話である。
かつ、そもそも大岡家の家臣団が登城しているのもおかしな話であった。他の老中らの家臣団がおらず、場に居るのが大岡家のみ。小姓の一人が駕籠に乗る忠邦に尋ねた。
「……殿、どうなさいますか」
「……なるほどな。構わん。進め」
その小姓は忠邦にニベも無く返されて困惑している。
かと言っても、これ以上の問答は不要だと思ったのだろう。忠邦に非礼を詫びた後、駕籠持ちの人足に指示を出してそのまま大手門前で駕籠を下ろした。
それからすぐだった。
大手門上の櫓より、乾いた爆音が一斉に鳴った。銃声である。
相手はどうも忠邦が載る駕籠周辺をつけ狙っているらしい。駕籠持ちの人足と側に従っていた槍持ち若干名に命中、駕籠持ちの男は即死であった。
「くっ、曲者ぞっ! 出会え! 出会え!」
登城行列の徒士数名が大音声で叫ぶも、城内の番所の同心や、門兵らの中に動こうとする者はいなかった。それどころか、持ち場を捨てて何処へと駆けていく者もいる。
槍持ちは槍を携え、小姓らが刀を引きぬきそれぞれ櫓を目指そうとするが、襲撃者の得物は鉄砲のみでは無かった。四方からクナイが飛び、一刀を浴びせることも出来ずに死んでいった。
残った家臣団はすぐさま戦法を変更する。忠邦の身を守るべく守りを固めようとし始めた。
「そ、各々方は水野様の家来衆であろう、事情はよく分からぬが助勢するっ」
そこに、側で主の戻りを待っていた大岡家主従十数名が加わった。
彼らは共同して襲撃者の再銃撃を防ぐべく、すぐさま持ってきた書箱・鎧櫃や薬箱、さらには斃れた者の遺体などを使って忠邦が載る駕籠の周囲を固め始めた。
そうなると襲撃者が取るべき手段は一つであった。
固く閉じられた大手門が開き、そこには二十名ほどの覆面姿の男たちが控えている。そして、彼らは黙ったまま行列へと突っ込んで行った。
○
時刻は午の刻を半刻程過ぎた。桐らが大手門前に辿りついた時には、水野・大岡家中を合わせた総勢40名弱の家臣団のうち、3分の1ほどがやられていた。
二十数名の襲撃者は被害がほんの1・2名ほど。この調子で行けば全滅はやむなしであった。桐らの到着はギリギリの時分であった。
「火付盗賊改および、北町奉行所であるぞっ! 神妙にお縄につけい!」
真昼。大手門前。
桐の叫びを聞くと、襲撃者達の目線は一斉にこちらに向いた。
「貴様らの目論見は崩れた。雇い主は忠義を尽くすべき相手でもなかろう。直ちに投降せよ!」
続いて衛栄が大きく叫んだが、襲撃者らの闘志は死んでいない。それどころか得物を携えて一斉に襲いかかって来た。
すぐさま刀にてをやる千葉周作や佐々木秋の目が光った。特に周作は獰猛に微笑むと、敵集団の中に一直線に駆けて行った。
それに続いて道場の門下生らが突撃していった。
「桐様、ここは私たちにお任せを」
「我らには果たさなければならぬ仇があるのです。私たちも出ます」
刀に手をやり、凛と佇む秋の言葉に、桐は毅然と向かいあった。
横には佐嶋もいる。同様に秋に向けてしっかりとした視線を注いでいた。
「……ご覚悟の程は先の道中に佐嶋殿や伊藤殿から聞きましたのでお留めはしません。されど、あまりに危険であれば我々も加勢に出ます。あなた方には死なれてはお母上に顔向け出来ませぬゆえ」
秋もやれやれと言いたそうに苦笑した。桐らは一礼し、敵勢へと駆けて行った。
目の前の混戦では、周作は敵勢と数合打ち合っている。既に一人で3名は討ち倒したことだろう。彼が振るう刀は神速と言ってもよく、間合いに潜り込んだ瞬間、気が付けば胴と体が離れているのに気がつくんじゃないかというぐらいに刃の振りが早く鋭く、ブレが無い。うかうかしていると彼の手によってあの時のあの男を取られる可能性も十二分に考えられた。
いっそのこと、それでも良かったのかもしれない。火盗改と北町奉行の捕方三十数名に母・大岡忠春の登城に差し向けた護衛十数名が加わったことで、忠邦・大岡家家中の手勢はおおよそ80名。
対する襲撃者はほんの15名ほど。自らが何もせずとも襲撃者らを押さえつけることは容易いだろう。
だが、それでは意味が無い。いや、意味なども求めていないのかもしれない。
前までの自分を超える。それだけが生きがいである。それを続けた先に、きっと何かがあるのかもしれない。そう考えていた。
「佐嶋殿っ! ヤツがいたぞっ!」
混戦の集団をぐるりと迂回してあの時の男を探している時、桐が叫んだ。大手門のすぐ下で周作の弟子と斬り合う中に、あの時の動きと同様、かなりの手練れが居た。
懐に入ろうと寄って押し切ろうとすれば、鍔迫り合いに持ち込んで簡単に近づけさせようとしない。かといって距離を保とうと一歩引けば、すぐさま一歩出て相手の好きなようにはさせない。
そうして焦らし、イラつくかせた所に隙が生じる。そうしたら相手の罠に嵌まったも同様だ。刀を打ち払い、そのまま切り棄てて次の相手へと飛び掛かって行く。
「喰らえっ! あの時の仇だ!」
弟子の一人と組み合うあの時の襲撃者に先手を取ったのは佐嶋だった。
上体を低くし、唸りを上げるように逆袈裟で斬りかかる。
襲撃者の男は佐嶋の刃に不意を取られたらしい。組みあっていた男を蹴飛ばすと、そのまま刀を受けた。
しかし、佐嶋の刃は彼の大腿部を捉えた。鮮血が辺りに散った。
「桐っ! 掛かれっ!」
襲撃者の視線は佐嶋に向けられている。体を向けようも見動きは取れない。佐嶋らの日ごろの鍛錬の成果だった。
そのまま桐は、横合いから刀を振り上げて、袈裟方に斬り付けた。
「あの時の仇だ、受けろ!」
当然のことながら、横はガラ空きだった。
死角からの突然の攻撃に、男が出来たことは、瞳孔を丸くさせて桐の方へ視線を向けることぐらいだった。しかし、目の前に佐嶋が居て刃をぶつけてくる以上どうすることもできない。桐の刃は男の首筋に入り、血を噴き出しながらそのまま地面へと突っ伏していった。
桐の息が荒くなる。とうとうやった。あの時の借りはしっかりと返し切った。
そうしたら今度は手が震えた。口角は緩くつり上がり、喜びが体を支配しようとしている。
その時だった。
「……狙いは端から貴様だよ。散れ」
「おい、姫御っ!」
佐嶋の叫び声。黒い暗器が再び放たれた。
だが、桐には通用しなかった。
「貴様らの手は二度も通じぬぞ!」
桐はクナイを刃で受け、そのまま弾きとばした。背後の御濠にポチャリと音を立てて沈んでいく。
それから、刀を握り直すと、そのまま振り抜いて襲撃者の首を落とした。
○
大手門外での出来ごとだ。「城中より銃声が聞こえた」事実は、あることないことの噂を呼んだのかもしれない。人だかりがこだまするかのように辺りを埋め尽くしていた。北町奉行所の面々は騒動を鎮静化させるのに苦労していることだろう。
とはいっても襲撃者は全滅。忠邦が載っていた駕籠の周りは厳重に固められ「誰が何をしてどうなったか」という事実関係は一応だが機密を保てている。とはいっても、いずれ流れるのは時間の問題なのは明白だった。
「ご無事でしょうか」
周囲を固めて、駕籠を開き、水野忠邦を招きだした。
桐は老中首座・水野忠邦を初めて見たが、異様だと直感した。
「……なんてことは無い。御苦労だった。礼を言う」
まず、このような状況下にあって汗一つ流していない。まるで朝起きて、身支度をして当たり前の日常を生きているような自然さがそこにはあった。
足元に転がる血飛沫やズタボロに壊された道具箱に目を止めることも無い。何かしたといっても、長い時間座していたため少々乱れた襟元を正すぐらいで、動きに別段不自然さは無かった。それがかえって異様さを際立たせている。
それに、近くで見て初めて分かったが、駕籠の周囲には鉄板が仕込まれていた。この襲撃も何もかもが織り込み済みだったのかもしれない。
「火盗改……貴様が大岡の娘か。母に似ているな」
呆気にとられる桐らを、忠邦は道端の石を見るように目でなぞった。
「先を急がせてもらう。両家中の手当ては任せる。こちらから指図することは無い」
忠邦は軽く会釈をしたのかもしれない。頭がほんの少しだけだが傾いた。
それだけでも異例中の異例なのかもしれない。襲撃の際に周りを固めていた水野家中の者らは桐と同様に目を丸くして忠邦の姿を眺めていた。
「このような状況にありながら、あなたはそういうことしか仰られないのですか!」
「おい、姫御っ! だま……」
呆気にとられながらも、桐は一歩踏み出そうとする忠邦に言葉を投げた。場が凍る。もちろん悪い意味でだ。
予想外の行動に、狼狽する佐嶋に取り押さえられそうになりながらも、桐は一歩、また一歩と前へと出ようとする。
「私は黙りませぬ。水野様は労いの言葉一つ掛けられぬのか! 命を賭して、実際に命を落とした者もいる、それでもなお……」
言葉は尻すぼみに小さくなってゆき、その口は震えている。なんてことを口走ってしまったのか。そんな後悔が心の堰に亀裂を走らせ、少しずつ水が漏れだしたように奈良だ銃に流れ出ようとしている。
そんな桐を見て忠邦は鼻で笑った。
「その無礼な物言いはやはり母に似ているな。こ奴らの命は賭して当然の命だ。どうせ私を守り切らねば死罪になる運命にあるからな。それでいて私がわざわざ労い言葉を掛ける必要もあるまい」
そして忠邦は歩みを止めることなく、振り返らずに言い残すと、そのまま大手門へと向かって行った。それに、桐は何も言い返すことが出来なかった。
「それに、私の両肩には幕府が圧し掛かっている。これ以上は上様をお待たせする訳にはいかない。失礼する」
これだけの大事件だ。普通であれば何かしらの反応があるものだろう。しかし、忠邦はなんてこともなさ気に平然と御城へ向けて足を進めている。
それに加えて、生き残った家臣の一部も怪我した手足を引き摺りながらも大手門をくぐろうとしていた。
老中首座とは、ここまでしなければならないのか。
自身の感情を押し殺し、黙って幕府のために身を窶さなければならない。そこに一片の私心などなく、自身の全神経を幕府へと捧げ抜く。
過去の老中がどうだったのかは分からない。しかし、水野忠邦という男は実際にそうしようとしているし、そうしている。
口車に乗せられ、反水野派閥の棟梁として祭り上げられた桐も、倒れそうになりながら付き従うだけの忠誠心を持つだけ信頼・信用される男を果たして倒すべきなのだろうか。
手当てを進めていた火盗改・北町奉行・大岡家家中の者と同じように、桐もそれを黙ったまま見つめることしか出来なかった。