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女奉行捕物帖  作者: 浅井
土霾ひと吹き
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大手門・前

「その、申し訳ございませんでした……」


 北町奉行所年番方・根岸衛栄らが火盗改の役宅にやって来てからは事が滞りなく進んだ。

 現場の検証に、襲撃者らの身辺改め。周囲の捜索までをもこなしている。ここらへんは修羅場を潜った数が遥かに違うのだろう。桐も北町奉行所の面々の仕事振りを頼もしげに見つめていた。

 半刻も経たないうちに現場は片付き始めた。手当てを受けて隣の部屋で寝ている宣冬の出血も止まったらしい。脈拍は良好。平静にしていれば傷口も塞がるという。

 桐は涙で腫らした瞼を袖で拭うと、先の斬り合いについてと現在の状況を伝えた。


「……よくぞやってくれました、と言いたいところですが、状況はなかなか妙ですね」


 厳つい顔を強張らせていた衛栄だったが、話が進むにつれて元の通りに戻っていく、と思われた。

 衛栄はその場に座り込むと、彫りの深い顔を凄ませている。


「周りを張っていた火盗改の役人らに聞いても襲撃者の数は3人と言っている。本気で殺しにかかるのであれば、大名小路の時のように仕留めに掛かるはずだ。そう考えると、確かにこちらの方が陽動の可能性は高い」

「確かにそうです。その、悔しい話ではありますが、私ほどの腕でも一人倒すことができました」

「そこは自信を持って下さい。連中に斬られた人間もいる訳だし、相手は腐っても御庭番。並の人間では太刀打ち出来る相手ではありませんよ」


 優しく微笑む衛栄の言葉に桐も少し救われたような気がした。今まで一歩ずつこなして来た鍛錬は無駄ではなかった。そう思うと、少しは胸が空いたように感じた。

 とはいえ、そんな笑みも一瞬で元の険しい顔に戻って行く。衛栄はこめかみを押さえながら、ひと言ずつ抑揚を大きくつけながらゆっくりと言葉を紡いだ。


「と、いうことはだ。こちらが囮だというんだったら狙いは忠春様になる訳だが、つい先ほどの報告では何の障害も無く登城したという話だ。護衛に送った連中もこちらに引き返して来ているとも聞いているしな」

「では、誰を狙っているのですか」


 当然、別の誰かをつけ狙っているということになる。

 だがこればかりは考えても分からない。水野らに内心で反発している幕閣は両手で数えるのは手が数十本は足りないだろうし、表立ってい活動している人間だっていくらでもいる。しかし、それらを殺した所で新たな反発者が出ることは明白だった。

 事実、屋山文の情報によると演習の後から鳥居や水野への反発の声が日増しに高まっており、前に出した土蜘蛛の絵が高値で売れているという。文は満面の笑みでそう語っていた。


「……みなさんご無事のようですね。本当に良かった」


 そんな桐らの思考を遮ったのは西ノ丸留守居・筒井政憲だった。膝に手をつき、ぜえはあと息を切らしている。


「筒井様、どうなさったのですか。今日来られるとは聞いていませんが」

「いや、大事件ですよ。水野の、いいや、鳥居の企てが分かりました。狙いは忠春様でも、長谷川様でもありません」


 常に平静を保っている政憲だが、この時は珍しく焦っていた。

 外も温かな春らしい陽気ではあるが、彼は息を切らしている。額には汗が一筋伝っていた。


「……老中の水野忠邦ですよ。本日の正午過ぎ、登城するとの事です。狙いはこちらでしょう」

「んなはずあるわけないでしょう。……いや、筒井様がそんな冗談を言うとは思いませんけど、あの鳥居と水野ですよ。命を狙うなど有り得ないでしょう」

「私もつい先日までそう思っていました。しかし、諸々を整合すれば辻褄が合うんですよ」


 政憲は冗談を言うだけの機知に富む人間なのは間違いない。しかし、突飛な冗談を空気を読まずに言うようないかれた人間ではない。

 笑顔を硬く浮かべた衛栄は一笑に付して言い返したげに笑いかけたが、当の政憲の面持ちはいつになく神妙だった。

 引き攣らせる笑みを浮かべた衛栄は動かない。同様な疑問を持っている桐が代わりに聞き返した。


「筒井様、仰っているのはどういうことなのでしょうか」

「水野忠邦が計画して実行に移したわざわざ品川沖の測量すらも邪魔しますか? 幕府の行事を使って思想を異なる役人を殺そうとしますか? そんなことをする利点はまずない」


 常人がひたひたと歩いている中を一人だけ空高く飛んでいるような悠然さを保つ政憲の言葉が、初めて熱を帯びた。

 桐に幕府や水野忠邦と鳥居耀蔵らが積み重ねて来た昔の事情はよく知らない。だが、ここ数年と数カ月で起きた出来事は昨日のことのように覚えている。

 老中首座・水野忠邦が発令した株仲間の解散によって、市中は大混乱に陥った。一昔前の豪奢な生活はどこかに消え失せ、生きる上での潤いはどこかに消えてしまった。町政を取り仕切っているのが南町奉行・鳥居耀蔵だ。


「それに、でなければ水野忠邦と昵懇にしていた屋山文殿を殺しに掛かりますか? 文殿から先の事件について聞きました。あれは鳥居殿が主だって計画し、実弟の跡部良弼に実行を命じたそうです。文書も残ってますよ」


 屋山文の暗殺騒動だってそうだ。元は母の元に付き、水野忠邦を追い落とそうと協力していた屋山文だったが、大阪で袂を分かたさざるを得ない状況を作り出し、自信の懐に入れた。間諜として、市中の撹乱を謀っていた。

 だが、水野忠邦の与り知らぬ所で鳥居は文の暗殺を命じた。それは間違いが無い。実際に襲撃者が文の元へとやって来て桐も刀を交じ合わせた。

 当然のことながら政憲へと返す言葉など無かった。

 現実問題として鳥居の動きを振り返ってみると、反・水野忠邦と受け取らざるを得ない行動を取っている。


「……彼女は既に土井らの側に付いた、と考えるのが自然でしょう。演習の一件もそうです。蘭学の導入は忠邦の肝煎りと聞いている以上、それを阻むような動きがあってはならない。私らのような忠邦の動きに懐疑的な一派なら話は別ですよ? でも、彼女は違う。腹心であり懐刀だったはずだ。それが、表立って動いて邪魔立てするなんてありえません」


 最後は先の品川沖の一件だ。

 政敵・土井利位をも手駒に使って耀蔵は水野忠邦の邪魔をしていた。これまでの両者の関係から察するに異常事態を来たしているとは思っていた。

 それにだ。西洋式の砲術演習では、自らの手の者を使って中止に追い込んだ。あろうことか役人の殺害までをもけしかけている。

 状況は傾いている。突飛な言葉だが、冷静になって事の次第を洗い直すと彼の言葉が正しいとしか思えなかった。

 桐も衛栄も黙りこくった。確かにそうだ。まさか、としか思えないが、ううむと何度も考えを巡らしてみたものの、そういう状況にあることには変わりが無い。


「……まったくもって気に食わんな。走狗なら最期まで走狗を貫き通せというのに」


 襖がぴしゃりと開いた。長谷川宣冬だった。顔の半分を巻く包帯は、傷口付近が血で滲んでいた。彼女は感情を殺しながら政憲の目を見据えている。


「長谷川殿、お怪我は大丈夫なのでしょうか」

「こんなもの唾でも付けておけば治ります。筒井様、さきほど話は真でしょうか。冗談を言うようなお方では無いと思いますが、これほどの話だと場合によってはタダでは済みませんよ」


 宣冬の投げかけた率直で鋭い言葉に、政憲はにたりと笑った。


「ええ。どう考えてもそうとしか考えられません。今日のように長谷川殿を襲えば火盗改や北町奉行所の動きはここに釘付けになるでしょう。襲うのであれば今日しか無い」


 政憲の言葉は理に適っていた。長官の宣冬が負傷しており、主だった面々が大手門から帰還中の火盗改や北町奉行所はこの襲撃に対して動きようが無い。

 仮にすぐに戻って来たとしても、大手門前での老中襲撃を知ってから現場に向かったとしても手遅れになるだろう。そうなれば奉行所の名が廃る。


「なるほどな。分かった。その言葉を信じましょう……ふん、まさか、このような日が来るとはな」


 宣冬は小さく息を吐くと、桐と向かいあった。


「老中水野の身を守れ。殺すんじゃないぞ」


 身震いした。寒い訳でも怖い訳でも無い。不思議と体が震えた。

 はっきりと言い終えた後、宣冬は小さく笑っていた。桐にもその笑み移ったらしい。二人は視線を合わせたまま口元を押さえて微笑みあっている。

 それがちょっとの間だけ続いた。開かれた障子の隙間から伝わる、春を告げるような温かな風が心地いい。だが、そんな時は一瞬で終わる。


「……桐、お前が指揮を取れ。現場での判断もお前に託す。絶対に死ぬなよ。鳥居にひと泡吹かせてやれ」

「ははっ! 全身全霊で事に当たります」


 ついに来た。いや、考えていた状況とは到底違う。だが、雪辱を果たす時は来た。

 ふたたび桐の体には寒気が走った。武者震いだ。今度こそ、その一念だけが桐の体を包み込んでいた。





「この、鳥居殿っ! なんてことを考えている!」


 本丸御殿の帝鑑の間。真田伊豆守、井上河内守といった老中らが居並び揃って黙り込む中、土井利位が叫ぶように言い放った。

 その語気は荒い。常に感情を表に出さない利位だったが、この時は顔を赤くして耀蔵に詰め寄っている。

 しかし、相対する南町奉行・鳥居耀蔵は嬉々として土井利位に話しかけていた。


「土井様、何を焦られているのですか。柄にも無く熱くなさって」

「馬鹿を言うな。老中首座を殺すだと? まさか、それがそなたが隠していた一手だと」

「ええ。機は熟しました。もはやためらう必要も無いでしょう。どうせ、成功しようが失敗しようがこちらが手を下したという証拠は残らない。土井様が気をわずらわす必要などありませんよ」


 耀蔵の言葉に土井も黙り込んだ。少しの間、考え込むしぐさを取った後、元の平静な土井利位の姿へと戻っていった。


「……もっとも、その一手が成功しようがしまいが上知令や株仲間の解散で巷を混乱させ、上様の御前でひと騒動巻き起こせばヤツの首は飛ぶのは間違いない」


 利位は悠然とした笑みを浮かべた。耀蔵も同様に微笑み返す。

 そして、真田伊豆・井上河内といった老中らも揃って口を開いた。


「好きにすればよろしいかと。いずれにせよ、襲撃するのは鳥居殿の手の者。結果として水野殿が死のうがどうなろうが追い落とすことは可能です」

「そうすれば土井様が老中首座に上がられるでしょう。そしてヤツは責任を取って鄙へと飛ばされる。全ては目論見通りではありませんか」


 両老中は苦しい笑みではあるが共に笑っていた。その背後に並ぶ幕閣らも、成される老中殺害の責任の処遇が分かって同じように安堵したらしい。胸をなでおろすように強張った笑みを浮かべていた。


「……皆様方、今さらあとには引けませんよ。ちょうど今頃、放った刺客が火盗改の役宅を襲っていることでしょう。ふん、長谷川も面倒だな。ついでに死んでもらえればありがたい限りだが」

「事が成った暁には鳥居殿の待遇も考えなければなりませんね。そちらの方も考えておきましょう」


 利位の言葉に耀蔵は恭しく頭を垂れる。交渉、というよりも既成事実は成った。下りてゆく彼女の頭の動きを見るだけでも事の自信が見て取れた。

 それから、一拍置いて、利位がゆっくりと言った。


「……しかし、聞くのが遅れましたが、何が不満なんでしょう。水野殿に寵愛され、かつて競った政敵・大岡殿も追い落とした。誰もが羨む渡世ではありませんか」


 真田伊豆や井上河内といった幕閣らに緊張が走った。若干、緩んでいた一室の雰囲気が再び凍りつつく。

 だが、利位は真剣そのものだった。言葉には冗談の類いは含まれていないのかもしれない。


「簡単な話ですよ。ヤツは私が裏切ったのです。それだけの話です」


 そんな全く関係の無い話を振られた耀蔵だったが、口角を緩く引き攣りあげる不気味な笑みが崩れることは無かった。

 彼女の両目は利位に向いてはいるが、彼の事を見てはいない。また、背後に居並ぶ幕閣達に向いている訳でも無い。

 墨を何倍も濃縮させたどす黒い眼はどこか遠く、遥か遠くの世の中を見続けていた。

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