本所血闘
天保14年3月15日の明け六つ。市ヶ谷・牛込御門前から寄合旗本・大岡越前守忠春一行が江戸城内へと向かたという報が、本所の長谷川宣冬の元に届けられた。
牛込御門を通り、曲がりくねった武家地を御城へ向けて一直線に進む。それからは堀沿いを北に回り込み、田安御門の先にある雉子橋御門をくぐる。そのまま内堀沿いを南に進めば大手門へと至る。ゆっくり進んでもおよそ半刻弱。それが最短かつ最も安全な御城へ至る経路だろう。
「危険があるとすれば、半蔵門経由で向かわせる時だろう。代官町辺りは特に何も無い。狙うならうってつけだ。もっとも、それはないだろうがな」
代官町はその名の通り江戸城の代官らが住んでいる場所だったが、たび重なる火災により、吹上御殿として火除け地を兼ねた豪奢な庭園が整備されている。そのため、現在の代官町と呼ばれる場所は千鳥ヶ淵と御城の城壁に挟まれた狭隘な道が続いているだけの通路であった。
しかし、である。江戸城近辺の地図を頭に思い描く桐だったが、呟くように言った。
「母上らは分かっていながらも、そのような遠回りをするでしょうか。大手門へ向かうのであればそのようなことをせずとも……」
「最初から南の内桜田門を通らせようとすればいい。その道中、急使でも寄こさせて適当な理由をつけて大手門に向かわせれば、必然的に一行は半蔵門の方面へと行かざるをえなくなる」
忠春らが牛込御門を通ってから大手門へ向かう時、南にある半蔵門を使うことはまずない。北へ回った方が遥かに早く着くし、わざわざそうさせる理由が無かった。
「どうなったって準備に抜かりは無い。側に付いている千葉先生も佐々木先生も江戸随一の遣い手だ。忠景もいるのだからなんてことは無いだろう」
忠春一行の側に付いているのは千葉周作と佐々木秋といった道場主とその弟子らである。
いずれも名の知れた武芸者達であり、かつ忠春の古馴染みが大半であろう。駕籠に乗る母・忠春も短い道中思い出話に花でも咲かせているのかもしれない。
「確かに秋先生や千葉先生は凄腕です。そこは安心しておりますが、その母はどうなのでしょう」
「貴様の母もそれなりにやる。旗本奴という浪人らと丁々発止真剣で遣り合ったと聞いているしな。そんなに恐れることは無かろうよ」
そのことは桐にも初耳だった。江戸南町奉行と大坂西町奉行をやっていたことは知っていた。しかし、そのような荒事をしていたなど想像もつかない。今の母・忠春はただの四十年増である。桐の口からは思った事全てが出てしまった。
「しかし四十路を超えております。そのような派手な行動を……」
「おいおい、貴様の目の前にはヤツと同年の私が居るというのになかなか言ってくれるじゃないか。御庭番どうこうよりも先に、その無邪気な口をどうにかせねばなるまい」
宣冬は鼻で笑った。しかし目は笑っていない。桐の背筋は凍った。
「いや、その、これは……」
「まぁいいさ。貴様の口の通り昔に比べれば体の自由は利かなくなる。そう言う意味じゃ私もヤツも一緒だな」
「そのようなことを仰らないで下さい。長谷川様は要職に就かれている御身です。本心ではございませんが、母と長谷川様なら長谷川様の方が大事なお方です。そう簡単に死なれては困ります」
口では本心では無いと言ったが、言うまでも無く言の葉の内容はほぼ本心だった。
世間のことは正直分からない。水野や鳥居のような色んな人間がいるのだろうし、見知っている人間など江戸に住まう人間の中でですらごくごく一握りの存在だ。それは違いようの無い事実だ。
でも、一生を賭けて付いて行くなら長谷川宣冬のような人物であり、彼女のために死んでもいいかもしれない。自身で決断をし、自身でケリを付ける。佐嶋が心酔するのも無理は無い、そう桐にも思えていた。
慌てふためきながら口走ってしまった言葉だが、宣冬もまんざらではなかったのかもしれない。クスりと鼻を鳴らした。
「なかなか嬉しいことを言ってくれるじゃないか。ま、どちらに来ようが、その時はその時さ。ヤツの所に来た時は貴様が家を継げばいいし、こっち来るようなら継ぐ必要は無い。それだけの話よ」
「私が言いだしたこととはいえ、そのようなことは……」
「ともあれ体の調子はいいからな。一人や二人、あの世に手向けてやるのは造作は無いさ。こっちには手勢もいる。それに、ヤツほど私の体は鈍っていない。だろ?」
何が「だろ?」なのだろう。しかし、これほどまでに晴れやかな宣冬の顔を見たのは久しぶりだった。
触れてはいけない所に触れてしまった手前、固い笑みを浮かべる桐だったが、宣冬が見せる笑みにはどことなく早咲きの桜のような所があった。咲いてくれたのは確かに嬉しい。しかし、その後はどうなのだろう。回りの蕾が咲く前に、一人だけ早く生まれてしまった。そのような哀愁があった。
○
佐嶋らが忠春の元に向かってか一刻ほどが経った。
複数経路に目明かしを配置し、適宜連絡を取らせていたが、これまで報告に上がる事は特に何も無い。万事、抜かりが無いとの事だった。
と、いうことはだ。
最後に言葉を交わしてからは共にずっと黙りこくっているが、桐も宣冬もなんとなくではあるが、察した。道中何も問題が無いということはだ。鳥居がどちらを狙っているかは明白だった。
陽が宙天に昇りかけた明け四つ過ぎ。襖の奥からドタドタという走る音が向かってきた。
「敵は3名っ! もうすぐ……」
駆けこんできた同心の話によれば、門番二人は一合たりとも打ち合うことなく斬られたという。宣冬の目の色が即座に変わった。
「御苦労だ。動ける人間で役宅を囲め。ここに踏み込んだ以上、誰一人として生きては返さん」
覚悟はしていた。それでも桐の心臓はうねった。脈拍は早く刻まれ、細かく息を吸って吐き続けている。全身が打ち震えるのが分かる。あの時の、あの相手がやってくる。それだけで闘志に火がつくのと同時に、心臓が破裂するんじゃないかというぐらいに動悸が激しくなる。
「桐も準備しろ。連中はすぐだぞ」
宣冬は既に鞘に手を当てて刀を引きぬている。
慌てて桐も刀に手をやったのとほぼ同時だった。二人の射殺すような冷めた視線の先には3名。いずれもいつか見た時と同じ黒装束であり、血糊の付いた刀を手にしている。襲撃犯で間違い。
宣冬は無言のまま向き合うと桐もそれに倣った。2人対3人。
人数は誤差のようなものであり、勝機は十二分にある。相手の男はそれぞれ大中小と背丈が違っている。大が中央に居り、小が右で中が左。桐の真正面には中が向かいあっている。
襲撃者らの放つ殺気も常人ではない。こっちには横目で宣冬の表情を見るゆとりすら与えられない。
ふと横を向いた瞬間に、こちらの首と胴が離れるような感覚に陥る。それだけ相手の発する気が桐の身に染みた。
決して怯んでいる訳ではない。そう自分自身に言い聞かせるが、体は正直だった。振るおうとする腕は明らかに重たく、一歩を踏み出そうとする足は鈍い。
「左の男を狙え。後の二人は私が引き受けた」
耳元で宣冬の声がそう聞こえたと同時である。
先に相手の小が宣冬へと飛び掛かって来た。
「宣冬さっ!」
桐の体はとっさに宣冬の方へと向きかかった。そして言葉が口に出た瞬間、やってしまったと桐は思い直さざるを得なかった。
当然である。上体が横に向きかかったほんの一瞬。時間にしては茶を人漱ぎするぐらいの大した時間ではないが、桐にはっきりとした隙が出来た。
それを相手が見逃すはずも無かった。真ん中にいた男はさっと桐の元へ飛び込んできたのである。
「……っ!」
ハッとしながらもすぐさま剣戟を受けたが、桐の体勢はおおよそ悪い。
一撃の重みで体の重心はやや後ろに掛かり、相手の刀を真正面に受けてしまっている。
ふと、相手の袖から覗いた腕は割と細身だったが、引き締められた綱のように強い。一寸、また一寸と時が経つにつれて引き絞られ行くのを感じた。
もう横を振り向く余裕などはない。
こっちでは力比べをしている最中、すぐ隣では数合は打ち合っていただろう。金属同士のぶつかり合う激しい音のみが耳に入った。
その時、宣冬がどんな表情をしているのかは分からない。一刀ごとに鋭く吐かれる息の根から察するに、この状況を楽しんでいるのかもしれない。見てはいないが、きっと死地にありながらも宣冬は緩やかに微笑んでいるはずだ。
だとすれば、だ。
こちらの事など眼中にないのだろう。無論、こっちだってそのようなことを深く考える余裕は無い。
今は鍔迫り合いをどうやって往なして、最少の動作で一突きを相手に見舞わせることのみに集中しなければならなかったし、実際にどうやるかを頭の中で常に見切ろうとしていた。
だが、じりじりと力を増してくる相手の刃は重たく、鈍では無い。向こうもそれ一辺倒で倒せると思ったのだろう。時が経つごとに、その重みがどんどんと増していく。
だが、刀を交じ合わせて分かった。この男は前に遣り合った男では無いと。そして、往なせないほどの力の差は感じないとも。
真正面からの力勝負を受けても体勢を保つことは一応は出来た。桐は気どられぬ程度に一歩づつ後退し、柱にもたれ掛かった。これで不安定な体勢になることはまずない。
そして、相手が一歩引き、そして一歩前に出て一撃を打ち下ろそうとした時だ。
相手の一撃を刃の峰で右に往なし、動作を崩すことなく小手ごと払った。畳の上には男の両腕と刀がぼとりと落ちた。
桐は初めて人を斬った。えにも言えぬ気持ち悪さと、なんだ、こんなものなのか、という不愉快さが残り行き場の無い感情が渦巻いていたが、両目はしっかりと倒れ行く男に向けている。そうしなければならないような気がした。
無言を貫き通していた襲撃犯だったが、ここで声を上げた。断末魔である。
この声に大と小が動揺したのかもしれない。そのまま宣冬に加勢しようと桐が視線を向けた時には、小の体は臍のあたりで真っ二つに離れ離れになっていた。
「……よくやったな桐。そいつを縛り上げろ。聞きたいことはいくらでもある」
刀を振るって血糊を落とす宣冬の目が光ったような気がした。こういった荒事は慣れているのだろう。まんざらでもなさそうに微笑んで見せるその視線に、桐は身震いを覚えた。
襲撃犯も平静を装ってはいるが、やはり自分では相手にならない、敵わないと思っているのかもしれない。宣冬がそのまま無防備に一歩踏み出せば、腰を落として一歩下がる。二人の間には人数差以上の壁がある。形勢は逆転した。
刀を正眼に構え直し、宣冬と同じように一歩づつ相手へ間合いを詰めようとした時だった。
宣冬は瞬きするほどの短時間で襲撃犯の懐に潜り込み下段から上段へと逆袈裟に刀を振るった。
横に居た桐ですら宣冬の最初の一歩を見逃した。当然、襲撃犯に宣冬の刃を防ぐ余裕は無かっただろう。まさしく一瞬で片が付いた。菖蒲の葉を裂くように傷口が広がって行く。出遅れた桐はその様をただただ見つめるしか無かった。
そのまま刃を振り切ると、襲撃犯は地面にもたれ込んだ。小さく息を吐いた宣冬はそう言い切ると、ピュッと音を立てて刀を振るった。
「他愛も無い。これも陽動だろうな。襲うには余りにお粗末だ。周りを固めていた連中を呼んで来い。ヤツには色々と聞かなければならないことがある」
血飛沫が畳に舞い、鞘に収めようとした時だ。最後に斬られた襲撃者の腕がピクリと動いた。
「長谷川様っ、伏せ……」
虫の息だが、襲撃者の大はまだ生きていたらしい。
桐が叫んだのとほぼ同時だったろうか。襲撃者の大は懐からクナイを取り出して、宣冬の顔面に放り投げた。
耳元で肉を絶つ音がはっきりと聞こえる。
「……っ」
宣冬が再度抜刀し、襲撃者大の首をはねたが、状況は変わらない。
左目にクナイが突き立っている。黒鉄の袂から血が滴った。
「だっ、大丈夫でございますかっ!」
「……傷は浅い。お前こそ大丈夫か」
桐の問いかけに対して、浮かべた笑みはあまりにも無理がある。
傷口を押さえる手からは血が滴り落ちている。宣冬はそのまますとんと腰を落とした。
「……誰か呼べ。私の傷は本当に大したことないのだが、いささか頭がくらくらとする。医者を呼べ。奴の止血もしろ。聞きたいことは山ほどある」
口角だけがだらりと上がっている。笑みは引き攣っていた。桐の視界も涙で滲んだ。
「おいおいどうした。大丈夫かっ!」
ドタドタと廊下から音が鳴り、血みどろの現場に飛び込んできたのは北町奉行所年番方・根岸衛栄だった。
忠春らの登城を見届ける最中、安全と分かってこっちへやって来たらしい。桐の瞳からは涙が溢れた。
「もう、その、私は、私は再びっ!」
「……泣くな、それに自分を無駄に蔑むな。私は怪我こそ負ったがこうやってしっかりと生きている。それでいて貴様は一人倒した。大した成長じゃないか」
「そうだぞ桐様。忠春様もご無事だ。門前で倒れていたモンも医者が見てる。傷は深いが死ぬわけじゃねえって話です。誰一人として死んでいない。よくやりましたよ」
衛栄は桐を宥めながら、すぐさま共に連れて来た同心らに指示を出している。
宣冬はなおも笑っていた。声は出ない。左目を押さえながら、ゆったりと笑っていた。