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女奉行捕物帖  作者: 浅井
土霾ひと吹き
146/158

2分の1

 徳丸ヶ原の砲術演習の折に起きた暴発の主は町人であったため、町奉行所の管轄となったという。

 しかし、取り調べより数日後、容疑不十分とのことで釈放の命が下った。


「このたびは災難だったな長谷川殿。暴発した銃弾が耳元を掠めたというのに、なんとまぁ悪運のお強いお方だ」

「抜かせ。今日は何の用だ左衛門尉殿。来るとは聞いていないぞ」


 町の子どもが路地裏の霜柱を潰して遊ぶ睦月の暮れ。本所の火盗改役宅には北町奉行遠山左衛門尉景元の姿があった。

 綿入りの半纏を着て応対する宣冬の機嫌は明らかに悪い。突然の来訪者を訝しそうに睨みつけるが、当の景元は冗談の一つでも言い返すことも無く、神妙な面持ちで言葉を続けた。


「ここにきて俺にも予想外の話が起きた。入って来てくれ」

「お久しぶりです長谷川様。先の演習ではご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません。お元気そうでなによりです」

「……下曽根殿か。おい町奉行、どういうことだ」


 景元の声に導かれて出て来たのは、西洋砲術家の下曽根信敦であった。

 幕府高官への対応でやつれたのかもしれない。信敦には前に見たときのようなすかしたようにも見える悠然とした雰囲気は無く、どこか細く疲れきっている。


「アレですね。あの時の演習なんですけど、ちょっとした趣向を凝らしていましてね」

「それなら江川殿からいくつか聞きました。大筒の弾ですとか、銃とか……」


 桐は即座に答えた。平蔵も脇息に肘を立てて頬杖をつきながら仄かに頷いている。

 マッチロック式の銃に、大筒に用いられた葡萄弾。その話は既に知っている。信敦も桐の言葉を聞いて出来のいい弟子を見る教師のように満足そうに首を縦に振った。


「ああ、それもそうなんですけど、もうちょっとあるんですよ。本当は我々のみが知りえる話だったんですけどね」

「まだ何かあったとでも言うのか」

「……銃弾を変えてみたんですよ。西洋の最新のものが手に入りまして、それを江川殿が実験用に必要数分だけ作ってみたんですよ」


 そのような話は初耳だった。桐は当然の事、平蔵もそうである。


「我々も銃を使える機会は少ないんですよ。普段は同じぐらいの大きさの木の棒で訓練しているぐらいですからね。ですので、まぁアレです。これぐらいは許してもらえるかな、とね」


 慎重な男だと思っていたが、呆れた男だと桐らは思っていた。とはいえ、ああいったしたたかさを持っているのは、あの父にしてこの子あり、といったところかもしれない。

 そのようにじとっと信敦の事を見つめている桐と宣冬だが、信敦はさらに言葉を続けた。


「ちなみに、何が違うかといいますと、椎の実型、とでもいうんですかね。通常の弾は球形なんですが、これは円筒に近い形なんですよ。だからこそ、この暴発はおかしいんですね」

「ちなみついでに私からも聞かせてもらうが、そうすることによって何が変わるというんだ。弾丸の形状が違うとはいえ、口径は同じなのだから殺傷能力も変わるということは無かろう」

「弾道が安定するんです。詳しいことは私もそこまで知らないので端折りますが、弾丸が真っ直ぐ飛びやすくなるようになるんですね。実験は上々でしたよ」

「俺も江川殿から仔細を聞いたがよく分からない。まぁ、そんなことはどうでもいいんだが、大事なのはこっからだ」


 信敦は少々ムッとしたように景元を見ていたが、気に止むことは無かった。


「現場から出て来たのは球形の弾丸だった。普通の銃弾だよ。さっきの椎の実型の弾丸じゃない」

「衝撃で押し潰された、とも考えたんですが、明らかに形状が違いました。ですので、暴発はしましたが我々の手の者が観覧席に弾丸を撃ちこむだなんて有り得ないんですよ。そもそも筒は天を向いていた。証言はありますし、それはお二人もそれをご覧になったことでしょう。あの角度であの場所を狙うなんてどう足掻いても不可能」

「つまり、今回の事件というのは……」


 状況が分かった。桐の顔からは血の気が引いた。まさか、ここまでの事態に陥っているのか、ということだ。もっとも、それは宣冬や喋っている景元だって信敦だって同様だろう。

 桐がこぼすように呟いた後、景元は長いため息の後に言った。


「ああ。俺も有り得ないと思っていたが、幕閣の暗殺を目的としていた可能性がある。相手はお前さんか、上段に居た役人だろうな。一体誰がやったんだ、みたいな台詞は今さら言うことも無いだろうよ」

「つまらない冗談はよせ。忠邦に耀蔵か。まさかそれほどまでにこちらを恨んでいるとはな」


 まさか、忠邦や耀蔵らがこうやって消しにかかってくるとは思いもしなかった。

 これまではあくまでも、反則一歩手前ではあるが、あくまでも合法的な手続きに則って政敵を排除してきた。しかし今回は、である。

 ああいった公衆の面前で暗殺を狙うなど、全くの想定外でありそこまで蘭学を、敵対する幕閣を恨んでいるとは思いもしなかった。


「それにしても、私が何をしたって言う。それほどの人物でもなかろうに」

「品川でひと騒ぎしてくれたしな。面子を潰された上にあれだけの放言だ。襲われてもおかしくねえよな」

「私は長谷川様だと思いますが、仮にそうではなかったとしたら上段に居た役人が狙いでしょうね。彼らは先年の演習に感化されて我々の元に兵学を学びに来ております。それを不満に思っている輩も多いことでしょう」


 上段に居た役人は演習の目付に選ばれるのだから、銃器に関する心得はあるに決まっている。だとすれば、あの演習で行われていることがどれだけ先進的で、有用なのかは簡単に分かったことだろう。

 そういった物を持ち合わせていなかった桐ですら、あの場で見せつけられた圧倒的な迫力で軍備の改良の必要性を感じたのだから、現場に立つ役人らはより強く、より深く心に刻まれたことだろう。

 そうなると、耀蔵の排除すべき人間の一人に付け加えられるのは、当然なのかもしれない。とはいえ、それでもそこまでするのか、と桐は思わざるを得なかったが。


「ちなみに暴発の主は無事に釈放されている。お上からの指示があったからな。そいつを洗えば手掛かりは出てくるかもしれないが、まぁ向こうの息のかかった者なのだから難しいだろう」

「そこらへんは抜かりないだろう」

「内々で暴発の主を探ってはいるからそいつから何か出てきたら逐次報告する。よろしく頼んだぞ」


 景元はそう言い残すと、供の者を連れて本所の役宅から出て行った。

 果たして、何を頼んだというのだろうか。桐に一抹の疑問が残ったが、やれることと言えば江戸湾の測量を警護し続けることと、普段勤めの市中の見廻りである。

 同じように佐嶋も首を傾げていたが、宣冬は寒風が吹きさらす江戸の空をただただ眺めていた。





 時は移ろいで弥生の半ばに入った。

 月を跨いでからは肌寒さは和らぎ、赤い梅の花が町の至る所で見かけられる。

 もう少しで火盗改に入っから1年が経つ。市中を見廻る桐にとって、些細ではあるがこういった町々の四季を眺めるだけのゆとりもできた。今度、佐嶋でも誘って亀戸天神辺りまで梅見にでも出かけようかと思いながら役宅へと戻った時の事である。

 裏門には駕籠と数名の人足が待機しており、桐の姿を見かけたひょろっとした同心が手招きしている。どうやら景元らが参上しているらしい。

 足早に宣冬の私室へと足を運ぶと、宣冬を筆頭に景元・筒井政憲・北町奉行所年番方の根岸衛栄、それに屋山文の姿もあった。

 それぞれが腕を組み、神妙な面持ちで構えている。桐の姿を見ると、宣冬と佐嶋以外は平伏した。


「桐、御苦労。ちょうどいい時に戻って来たな」

「これなんだけどさ、鳥居の屋敷で色々と探らせてもらったんだけど、どうやら御庭番を動かしてるみたいだね」


 屋山文は部屋の中央に置かれた書机から数枚の書状を手繰り寄せて見せてきた。

 桐以外の面々は書状の中身を既に見ているらしい。書状に向けられた視線は少し前の風のように冷たく厳しい。


「……あの連中は御庭番だったのですか。通りで手強い訳です」


 衛栄は後退しつつある髪の生え際を面倒くさそうにかいている。つい先ほどまで持っていた梅見の気分などどこかに吹き飛んだ。


「それにだ。つい先刻耳にしたんだが……忠春様が明後日に登城されるらしい」

「……まったく、難儀な話ですよね。ですのでこうして皆で集まっているのですよ」


 潰れるような衛栄の声に、政憲も自嘲気味に笑った。


「母上が明日登城ですか。本当にこれは、またなんとも……」

「牛込御門前の屋敷から城中までは目と鼻の距離だが、油断は出来ないぞ。なんたって、大名小路でも荒事を起こすような連中だ」


 半年ほど経とうとしていたが、忘れられるはずも無かった。

 あの日、あの時の屈辱。横でチラッと見えた佐嶋も、握り拳を膝の上で硬くしめている。


「つい先日、鳥居らは長谷川様らを殺しそこなった訳だから、どちらも狙う可能性が高いよね」

「中々に厄介だぞ。こちらも荒事慣れしているとはいえ、向こうは最精鋭だ。アレほどの連中とやり合うには少々分が悪い。どちらも守ろうとすればどちらも守れない可能性もある。生憎だがそれが現実だろう」

「そのようなことはございませぬ。この日のために我々は鍛錬を積んできました。そうだろう姫御」

「私たちだって戦えます。いや、身を呈してでも長谷川様を……」


 衛栄の言葉に、文と佐嶋は即座に反応した。しかし、衛栄を筆頭に顔色は芳しくない。

 しんと静まり返る中、宣冬は浅く息を吐くとこぼすように言った。


「気持ちはありがたい。しかし、それだけでは戦えぬ。分かってるだろう」


 確かにそうだろう、桐にもそう思えた。

 だがしかし、である。

 これ以上何もせずに見ているのも嫌だった。

 頭領と担がれながら、政憲や景元、宣冬が表立って動き、その幾ばくかの仕事をこなすだけ、ということも嫌だった。

 そして何よりも、このような借りを返すための絶好の機会をみすみす逃せば、そのことが一生ものの傷となって自身らを蝕み続けることになるのは分かり切った話である。

 例え敵わない相手であろうと、連中の蛮行を見過ごすことなどは出来ない。きっと窮地に立つ母も同じことを同じことを思っただろうし、仮に何が起きても許してくれる。桐にはその確信があった。


「それでも、それでも私たちは……」

「もう負けはしません。必ず勝ちます。あの時誓ったのです。この一年ほど常に鍛錬は怠りませんでした。負けませぬ。私たちは負けません!」


 佐嶋が先に言い、桐がそれに続いた。

 最後の方は涙声になっていただろう。桐自身、何を言っているのかもはや分からない、言葉にならないような感情がそのまま噴き出した。

 二人の嗚咽に近い覚悟とともに、再び部屋はしんと静まり返る。外からは春らしい暖かな風と横川の流れが滔々と聞こえて来る。うららかな春の日だ。

 その沈黙を突き破ったのは景元と政憲だった。


「……子弟愛はそれぐらいにしてくれ。そういうのに弱いんだよ俺は」

「奉行所としての面子が問われるかもしれませんが、いっそ町の武芸者を臨時で雇いましょう。千葉殿や佐々木殿に頼めばよろしいかと」

「今さら体面がどうだとか抜かすヤツは要職から外してやる。それがよろしいかと思います」


 千葉周作・佐々木秋共に町奉行所の武芸稽古を付けており、かなり名の知れた剣士であった。

 それに江川英龍に頼めば他にも名の知れた武芸者を用心棒代わりに雇えるかもしれない。政憲の頭はやはり冴えていた。


「それで長谷川殿、どうなさいますか。どちらをお守りに?」

「決まっているでしょう筒井様。大岡を守れ。佐嶋、貴様が指揮を取れ」

「わ、私でございますか」

「負けぬのであろう。だったら守り切れ。貴様はよく知らんかもしれないが……ヤツは昔からの馴染みだ。死なれても後味が悪い」


 驚く佐嶋に畳みかけるように宣冬が言ったが、これも言葉の終わりはごにょごにょと口ごもっていた。

 宣冬は言葉が進むにつれて顔は紅潮していた。桐も胸にこみ上げるものがあった。昔を知る景元や政憲・衛栄などは尚更であろう。さきほどの沈鬱とした雰囲気は無い。


「おうおうおう、今日はやけに饒舌ですなぁ長谷川殿。まさかお前さんからそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかったよ」

「なかなか心温まるお言葉ですね。私も数十歳若ければ素直な長谷川殿を妻に迎えておりましたよ」

「これはスクープだね。鬼平デレる、これはなかなか見られない光景だよ。あ、ちなみにスクープってのは、毛唐の言葉で……」

「……さっきの言葉は忘れろ。とにかく頼んだぞ佐嶋」


 ニヤニヤと見つめてくる中年3人を睨み返すと、宣冬は長い髪をかきあげた。袖の先にあったのは少し恥ずかしそうな笑みだった。佐嶋らが彼女に忠誠を誓うのも無理ない話だった。

 あんな笑顔を時折見せつけられれば命の一つや二つは惜しくないだろう。桐も胸にこみ上げるものがあった。


「まぁ、忠春様の所には忠景を付けておけばなんとでもなるだろうしな。桐様はどうなさるのですか」

「桐、貴様は私の横に居ろ。貴様も私を守り切るのだろ?」


 桐の頬に涙が一筋伝った。すぐさま平伏する。短い言葉だったが、その重みは計り知れない。何かに例えれば陳腐になってしまうかもしれないが、それは富士の高嶺よりも果てしなく思い。

 母の側に寄り添わせるもの一つの愛情かもしれない。しかし、敢えてそれを宣冬は捨てた。そして、私の側に居ろ、といった。これ以上ないぐらいに桐はそれが嬉しかった。


「なっ、それなら私を側に、大岡忠春なんぞは桐に任せれば……」

「……嬢ちゃん、それはあまり笑えん冗談だぞ」

「人員配置は後で知らせる。心しておけ……忠景、出て来い。話がある」


 小さくこぼした佐嶋の言葉にクスりと口角を上げた宣冬だったが、すぐさま部屋を足早に去って行った。

 後に残る中年3人と老人1人はにやにやとその後ろ姿を見ていた。佐嶋は敵愾心を桐に向けて剥き出しにしているが、やはりあのような宣冬の表情は嬉しいのかもしれない。殺すような視線の中に、どこか優しげな安堵感を感じた。

 御庭番がどちらを狙ってくるのかは分からない。それでも、何とかなるのかもしれない。景元や政憲、そして衛栄に文。彼らの顔を見ているとそんなような漠然とした安心感がある。

 根拠の無い自信ではある。ただ、こういう志を共にする仲間の存在が、何よりも人を強くするのかもしれない。そしてきっと、母・忠春は結果としては最悪の方向へ向かっていったが、同じようなことを思っていたのかもしれない。

 そういう思いにいたった瞬間。ついさっき桐の頬を伝った涙は二筋、三筋と留まることを知らない。

 あれだけ嫌い見下していた母だったが常にこういった仲間たちと触れあい成長していた。そんな母に少しだけだが近付けた。それだけで嬉しかった。

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