表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女奉行捕物帖  作者: 浅井
土霾ひと吹き
145/158

徳丸ヶ原

「大丈夫なのか和泉守。大炊からそなたの仕事振りは、なんというか、その……」


 江戸城本丸御殿。御座ノ間に控えている将軍・徳川家慶の声はどことなく曇っていた。もともと明朗な人柄ではないが、曇り具合はどこか、後ろめたさのような物が強かった。

 側に控える小姓らもどことなく平伏している忠邦の事を睨みつけるような、敵愾心をむき出しにしている。それから表を上げた忠邦が、それを感じないはずも無い。

 同じように小姓らをひと睨みすると、言葉を発した。


「よろしくない、とのことなのでしょう。しかし、上様の御心配には及びません。昨今の海外事情も含めますと、準備しております上知令は必ず行わなければならない仕事でございます。成就の暁には、上様の御威光はさらに強まるものと存じ上げます。小者の話は聞くに及びません」


 朗々と語る忠邦の語気に、一点の陰りも無かった。小姓らもその迫力に冷や汗を一筋流したことだろう。

 家慶はゆっくりと脇息にもたれ掛かると、すぐそばにあった小皿から菓子を細い指先で掴むと口へと運んだ。


「言いづらいことだが、そなたは多くの者から恨まれていると聞くし、余の目から見てもそういう風に見える。あまり無理はするものではないぞ」

「小者らの恨み辛みは些細なことでございます。それよりも、まずは御父上らによってぶち壊された幕府を立て直すことこそが本道でございましょう」


 気に止めることなく言葉を発した忠邦に、家慶は困ったように唸った。周りの小姓らはひそひそと言葉を囁き合っている。


「そなたはそう言うが、正直なところ、父上の考えはよく分からなかったし今でもよく分からない。それに、昨今の町を見ていても、あの頃のように市井が栄えていることが真の政なのではないか、とも思う。忠邦、そなたはどう思う」


 将軍・徳川家慶が先代の徳川家斉から将軍職を継いで丸6年が経とうとしていた。

 将軍就任当初は父・家斉は大御所となり幕政を取り仕切っていたため、先頭に立って幕政を取り仕切ることも無く、そもそも将軍擁立に際しても家中でかなり揉めた。反対派らが毒殺を企てたという噂が立っていたほど、将軍の座を争う競争は激化していた。

 常に家斉の側近が幕政を取り仕切り、側近らが幕府を意のままに操っていた。そして2年前の天保12年、大御所家斉が逝去すると、抜擢された忠邦らが中心となってそれら側近を排除した。

 政権内のゴタゴタもやっと収まろうとしていたが、ここに来て再び揺らぎ始めている。


「余は、正直なところ分からない。何が正しくて、何が正しくないのか。父のように能天気には過ごせぬのだ。忠邦よ、私はどうすればいい」


 家慶が目の前にいる忠邦の話を聞くが、それらは総じていい話では無かった。常に彼に対しての不満をやんわりと直接伝えてくる。家慶も流石に困った。

 ほんの十数年前までは市井は栄え、町人文化が華やいでいた。家慶自身もそれらを楽しんでいたし、お忍びで町に出た時は直接触れていた。そうした治世を作り出したのは紛れもなく父・家斉であった。

 当然のことながら、それについて誰かが直接言ってくることは無い。明朗ではないとはいえ、それについて何も感じないほど愚鈍でもなかった。そうなると悩みの種は尽きない。将軍職についても、その不安が消え去ることなど無い。


「御安心ください。私も先代の上様のお考えは私にもよく分かりませぬ。しかし、その周りに蔓延っている連中の考えは分かります。まず、幕府の事など何も考えておりません。理由をかこつけて懐を温めるのみ。その結果、市井が栄えたと言うだけの話でございましょう」


 それでも、忠邦の表情はなおも曇らなかった。小さく鼻で笑うと、はっきりとした口調で言葉を続けた。


「ううむ、そういうものなのか」

「少なくとも、私の芽が黒いうちはそのような佞臣を近づけさせることはいたしませぬ。この身に誓って、それだけはお約束いたします」


 再度、家慶は唸った。忠邦はなおも家慶を見据え続けている。

 それからちょっとの間が空き、「ううむ……ふぅ。そうか」と息を吐くと、言葉を続けた。


「……そなたの覚悟はよく分かった。それならばそうせい。当座の間は余から言うことは何も無い。励め」

「ははっ、大変ありがたきお言葉でございます」


 忠邦が再び平伏すると、そのまま下がった。

 襖を出て、廊下をひしひしと歩いていると、見知った顔がそこにあった。


「これは出羽守様。御機嫌はいかがでしょうか」

「やけに自信ありげだな大炊。このご時世にそのような小洒落た着物とはよい根性をしている」


 土井大炊頭利位が着ていたのは、淡い浅葱色に白抜きで雪花が散りばめられている涼しげな風合いである。肌寒いここいらの季節と相まってうすら寒さも感じさせる。

 政敵である忠邦を前にしても柔和な笑みが崩れることは無かった。


「お褒めにあずかり光栄です。私の研究は上様にも目を掛けて頂いておりますので、今日はそういったご要望があったのですよ。困ったものですね、ほんとに」

「聞いている。貴様のことは気に食わないが、なかなか面白いとは思う。だからこそ貴様が老中に名を連ねるのを認めた。しかし、先日はよくもやってくれたな。どいつもこいつも実に下らぬ連中だ」

「いや、本当にお褒めにあずかり光栄ですよ。それに、僭越ながら付けくわえさせていただくと、たまたま出羽守様とやろうとしたことが被っただけですよ。他意はございません」


 柔和に微笑む利位に舌打ちすると、忠邦は足を速めた。 


「勝手に抜かしていろ。貴様らの魂胆はよく分かった」

「誤解ですよ。しかし、出羽守様の言葉は実に鋭い。もう少しナマクラであればきっと違う後生を歩めたのでしょうに」


 残る利位はなおも柔和に微笑んでいる。それからすぐ、小姓に通されて将軍家慶へと謁見をした。





 冬の徳丸ヶ原は風が強かった。

 荒川沿いに生い茂ったススキの枯れた茶色がざわざわ音をたてて揺れており、どこか物々しい雰囲気を醸し出している。

 果てまで続くのではないかと思わせるほどだだっ広い平原のど真ん中に、下曾根信敦の姿が遠くからでも見えた。高台から見下ろす観覧の幕臣らは総勢百名弱。どれも千石近い録を食む高官らであった。そんな中に火盗改の頭領である長谷川平蔵宣冬、そして付き添いで大岡桐が混ざっていた。横では江川英龍が目を光らせている。

 さらに、その背後に置かれた柵外にも多数の若者が熱心なまなざしを向けている。


「下曽根君は先日眠れなかったらしい。昨年行った演習が思いのほか好評だったので、今日もまた一段と人が集まっている。まぁ当然でしょうなぁ」

「実際には見ていないが、その時の噂は私も聞いた。まぁ、あのような格好の連中が思いのままに銃を扱うのだからそうだろがな」

「しかし、よろしかったのですか。


 先年行われた演習の評判は本当に良かったのだろう。平蔵も登城の用事を適当な理由を付けて放り出し、こっちに足を運んでいる。この演習に賭ける熱意は本物だろう。


「気にすることは無い。先手組頭も兼帯しているからな。どうせ城の連中もこっちに来ることを分かっているだろう」

「そうでしょうそうでしょう。有事の際は長谷川様が先頭立って軍を率いるのです。本当でしたらこちらから招待せねばならぬ身だというのに、面目ございません」


 柔和な笑みを崩そうとしない信敦だったが、英龍の言葉の通りきっとハッタリなのだろう。その傍らには、変わった装束の銃兵数十名が控えていた。

 頭には円錐形の笠を被り、裾をひざ下までたくし上げた袴を穿いている。背には畚を背負っている。桐の目には大道芸人か何かにしか見えなかった。

 そして何より鎧兜をきていない。そのような装備で大丈夫なのだろうか、と不安にならざるを得なかった。


「……ホールワール、マルス」


 ざわめきが治まらない中、信敦が差配を振るったと同時に放った独特の訛った掛け声は西洋の言葉なのだろう。銃兵らは小太鼓と笛の軽やかな音に合わせて、幕臣らが座する席へと近づいてきた。こうして近くで見るとやはり奇怪である。

 しかし、そんな彼らの二列横隊50名の足並みは一糸乱れることはない。この日に向けてかなり調練を積んできたのが分かったし、彼らの格好だって、興味を引くためのものではないのだろう。


「レキショォン、キリッヒ! ハルト、ハァルジフッ」


 号令で踵を返した銃兵らは包みを八重歯で噛み千切り、火蓋に火薬の一部を注いで残りを銃口に押し込んだ。

 彼らを物珍しさや、奇怪な物を見るように見ていた幕臣らも息を呑んだ。一つ一つの所作はきびきびと無駄が無い。腰に提げた火縄が無い分、従来の火縄銃よりも動作は簡単かもしれない。


「セットオフ、アン、ヒュウルッ」


 信敦の号令が小気味よく終わると、一斉に引き金が引かれた。

 辺りには鼻をつく硫黄と硝煙の匂いが充満し、耳をつんざく轟音が広がった。標的である的の板のおおよそはしっかりと撃ち抜かれている。距離は2町ほど。命中率はまずまずであった。

 当然、観覧している幕臣や雄藩の家老らはざわめき立った。発砲前の見下すようなものではない。あの大道芸人のような、奇怪な格好に魅了されていた。


「……ほう。火縄を使わずに銃を使えるのか。なかなか興味深いな」


 平蔵が頷きながらこぼしたように、火盗改や城中の抱えている火縄銃ではこうはいかない。

 まず、銃を装填する際に火薬が周囲に飛散するため、火縄の扱いを丁重におこわなければ銃は簡単に暴発する。

 しかし、火縄を使わずに銃を打てるとなれば話は変わる。従来よりも密集して撃つこともできるし、雨天時にも銃を安定して撃つことができる。


「ほんの先年に西洋から買ったものですので性能は折り紙つき。ま、今日のはちょっとした工夫があるんですがね。ほら、まだまだ続きますよ」


 自慢げに語る江川のぎょろ目が光った。続いては台車に乗った大筒である。


「アン、ヒュゥルッ!」


 同じような号令の後に放たれた。放物線を描いて飛ぶものかと思っていたが、これも違った。

 土埃とズタズタにされた雑草の匂いが観覧席まで届いた。それらが冬の冷たい風に攫われた後、桐らは目を疑った。広範囲にわたって置かれた的が、跡形も無い。

 的は数十は置いてあったはずだ。しかし、たったの一撃で、それらの九割方は跡形も無い。幕臣や各藩をはじめ、背後で見ていた町人らも声を失った。


「大筒にはあのような使い方もあるのか。しかし、あれでは敵城壁を壊すことは出来まい。漆喰塀すら突き破ることは出来ないだろう」

「殺到する敵集団に撃てば殺すことは出来ずとも、敵の突撃は足止め出来る。それだけでも十分脅威でしょう。それに船上であれば、敵の帆を破ったり船員を潰すことができます。まぁ、使い方次第ですよ」

「確かにそうだな。西洋の連中は様々なことを考えるものだな。これほどまでの物を見せつけられると、刀だ槍だと鍛錬を積むことが馬鹿らしくなってくるな」


 平蔵が毒づいたように、海の向こうでの戦い方は変わっている。

 槍を突き合わせ、刀を交える戦い方は終わったのかもしれない。最後の最後は一対一の刀を突き合わせる戦いにはなろうが、それより前に戦いの大勢は決してしまう。

 決して無駄では無いだろう。しかし、目的は変わる。あくまでもそれらがすべてではない。あくまでも、


「……ホールワール、マルス」


 信敦らはそれらの反応に応えることなく、粛々と演習を務めている。それからは再度、徒歩の銃兵の演習が始められた。明らかに周りで眺めている者らの目の色が変わっていた。

 単なる興味本位や、物珍しさからやってきたものが多かったが、奇矯な銃兵らの動きをつぶさに読み取ろうと熱心に視線を送っている。実際、桐もそう言う目で得意げな信敦らを見つめていた。

 銃を右肩に担ぎ、演習地をぐるりと行進している。桐も銃を眺めようと身を乗り出そうとした時だった。

 信敦の号令がかかる前、弾丸が桐と平蔵の耳元を掠めて行き、すぐ背後に鈍い音を立てて着弾した。

 銃の暴発であろうか。仔細は発砲したであろう当人は、銃口をこちらに向けたまま呆然と立ちすくんでいる。


「やめいっ! 演習やめい!」


 想定外の事態に上段に座っていた鉄砲方の役人も怯んだ。しかし、すぐに慌てふためきながら叫びまわり、その背後で見物していた武士・町人ら身分を問わずに色めき立った。

 同様にちょっとの間は呆然としていた信敦らもようやく事態が呑み込めたらしい。江川は既に演習場内へと飛び出している。


「大丈夫でございますかっ!」

「……ああ。銃弾が耳元を通り過ぎただけだ。なんてことはない」


 桐の声にハッとしたように振り返った平蔵は、平然を装っていたが、顔面のすぐ横を銃弾が不意に通り過ぎて出来る芸当では無かった。

 首筋には冷や汗が流れおち、彼女の息遣いは荒くなっている。辺りには撃ち抜かれた平蔵の黒髪が散らばっていた。

 それからすぐ、暴発の主は銃兵らによって取り押さえられた。一応の事情聴取がなされることだろう。

先手組

早い話が将軍直属の護衛みたいなものです。本文中のとおり、火盗改の長官が兼帯していました。

弓組と鉄砲組(筒組)に分かれているそうです。平蔵は筒組なので、西洋砲術にも興味があります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ