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女奉行捕物帖  作者: 浅井
土霾ひと吹き
144/158

品川沖・午後

 浜風を心地よく受けていた街道沿いの家々がざわめき立ち、その中で大きな怒声が聞こえた。

 火盗改の同心や中間は蹴散らされてはいないものの、なんとか押し留めようと必死になっていた。


「こっちは幕臣だ。貴様らとは違う身分の者だぞ。さっさと消えろ」

「北町奉行所の令でここいら一帯は何者も入れませぬ。お引き取りを」

「うるせえっ! 下賤の貴様らが私に指示するな! こっちだって南町奉行の令で来ている。引き取るのはお前だぞ」

「なんだなんだ、天文方の渋川様でございませぬか。お久しゅうございますねえ!」


 しかし、彼の者はそれを強行突破した。

 二人の間には、そうとうに距離があっただろうが、英龍の視線の先にいた男は気だるそうに耳をふさいでいた。


「江川殿は大きい声はなんとかならないのか。ひと言交わすだけでこっちの耳が遠くなる」

「こればかりは性分ゆえお諦めになって下され。それで、本日はどのような風の吹き回しで?」


 男の名は渋川敬直。幕府天文方の長官を務めているらしい。ツンとつり上がった目尻が特徴的な男だった。


「測量は我々の仕事。なぜ貴様らが仕切っている。明日、執り行うとの話だったが」

「いやぁ、日にちは間違ってませんよ。遠山様からの委任状やら指示書もありますし」


 信敦は敬直に文書を見せた。桐も覗いてみたが、確かにそういったことが書かれている。

 文面の終わりには景元の花押もあるし、その脇には評定所の朱印も捺印されてあった。これは間違いなく本物であろう。


「ふん、こっちにだってあるぞ。これを見てみろ」


 競うように敬直も懐から文書を取り出して叩きつけるように見せつけた。

 南町奉行・鳥居耀蔵の花押に、老中・土井利位の連名で書かれている。自信満々の英龍の眼力に、信敦の浮かべる笑みにも影が差した。


「……なるほど。我々には隠しておいででしたが、水野様の心中は天文方で競って、より正確な地図を作れとのことなんですか」

「馬鹿言え。あの鳥居様と土井様の花押があるんだからこっちが正式な物だろう。それに測量は天文方の領域。そう考えれば言わずとも分かるだろう」

「まぁ、本来であればそうでしょうなあ。つい先年、下総の伊能先生は地図を作り上げた。正確無比かつ丁寧。大したものだった」

「ほんとに、アレすごいですよね。年だって60近いのに日本中を歩き回って作るんだから本当に大したものですよ」

「地図の出来は毛唐らも絶賛していたと聞く。とにかくそういうことだ。分かったのだったらさっさと荷物をまとめて消えてくれ」


 桐には敬直らが話している内容はさっぱり分からなかった。

 しかし、英龍と信敦が交わしていた雑談のような会話の中に余裕さは無い。明らかに呆れているし、言葉に熱がこもっている。

 それらが噴き出すのに、時間はそうかからなかった。


「……冗談はこれぐらいにしようか。渋川様の後ろのお前さんはアレだ。鳥居ん所の手下だろ。城中で何度か見かけたぞ」

「鳥居様もお戯れが過ぎますよね。我々が上訴すればすぐにカタが付くことなのに、なぜこのような諍い事をわざわざ起こそうとするんですかね」


 英龍の眼力が凄みを増した。眼球が飛び出すんじゃないかというぐらいに見開き、敬直へと突き刺さっている。信敦も同様だった。柔和な笑みはそのままに、チクリチクリと言い放った。

 面倒事を起こそうとやってきたことは誰にだって分かることだった。本件から外されたはずの南町奉行所の指示でやって来た、天文方の長官・渋川に、荒事に自信がありそうな背後の男たち十名ほど。

 なんかしらの妨害を起こすとは予想が付いてはいたが、まさかここまで正々堂々とするとは、と桐は当然のことながら思った。


「そうですよ。この期に及んでこのような妨害が許されるはずありません。お引き取り下さい」

「うるせえ、小娘は黙ってろっ! 第一、火盗改らがなぜここにいる。全く関係の無い部外者は即刻立ち去れ」

「桐殿に失礼でいあろう。これも遠山様の指示で、近寄ってくる部外者は摘み出せとのことだ。それに、蘭学含めて隠し立てするような物ではあるまい」


 桐はぐむむと睨み付けるが、敬直の怒りは収まることは無い。矛先はその横で同じように睨み付ける忠景へと移った。


「ふんっ、父上も言っていたが、火盗改は押し入り強盗のようなマネばかりする連中だと聞いた。その無精髭も汚らしいな。さっさと剃れ、近寄るでない。貴様らなんぞ無学の輩が知った所で何の役には立たん。とっとと消えてしまえ」

「……まったくもって話にならんな」

「さすがにアレです。口が過ぎますよ渋川殿。学問は平等に開かれるもの。無学も貴様も関係の無い話ですよ」

「一生かかっても理解しきれないだろうな。価値を知る、持つべき立場の者が持ってこその宝だ。お前もお前も、それに後ろにいる蘭癖の学者共々獄門に入ればよかったのだ。あと貴様は刀でも握って振るっていればいい」


 言い切った敬直は息を切らしはしていたが、緩やかに微笑んでいる。

 信敦は「どうしたものかなぁ」と、どうしようもなさそうに息を吐いた。その時だった。


「……貴様らなんぞだぁ? 舐めた口聞いてんじゃねえぞ根暗め。貴様こそ大好きな父上に愚痴っておればいい。即刻立ち去れ。江川殿の邪魔立てをするな」

「ちょ、佐嶋殿、押さえて」

「我らが火盗改を侮辱するような輩、この佐嶋忠介が黙っていられるか。さっさと抜け。貴様が腰に差しているソレはお飾りか?」


 敬直のもの言いは確かにひどかったが、軽い挑発でしか無いのはすぐに分かることだった。だからこそ、桐は怒りを溜めつつも一応聞き流していたし、忠景と英龍・信敦は敬直を逆にたしなめたのだろう。

 しかし、佐嶋は一瞬で火が付いた。敬直の眼前数寸に躍り出ると、怯むことなくその両目で威嚇している。佐嶋の左手は腰の刀にのところにやった。

 背後に控えている男たちも佐嶋の動きに一瞬色めき立ったが、すぐに元の無表情に戻り、佐嶋と同じように一歩前に躍り出て刀に手をやっている。


「おお! 決闘かね。面白い。私も参加させてくれないかな。昔、斉藤っていうヤツと稽古狂いをしたもんだからね。なんだったらこの櫂でも構わんぞ。蘭学に興味のあるものを私は救いあげなければならない。そうしてこの国を変える。それが私の夢であり、すべきことだ」

「ふん、ただ声のでかいおっさんだと思ったが、なかなか言うじゃないか。面白い。こんな連中二人で十分だ」


 英龍は平底船についていた8尺以上はあろう櫂を片手で軽々と持ち上げると、浅草寺脇にいる曲芸師のようにくるくると回している。

 櫂を振り上げた瞬間、英龍の腕が見えた。

 丸太のように太く、筋肉の筋がはっきりと見えた。それに、生傷が至るとところに刻まれている。

 確かに腕っ節はありそうだった。並の武士であれば簡単にひねられることだろう。敬直の背後に控えている男たちも、そのまま佐嶋らの動きを伺っていた。

 しかし、問題はそこじゃない。


「ちょいちょい、誰か止めてくださいよ。ほら、下曽根様も……」

「いやぁ、アレですよ。私の専門は砲術なんで荒事は管轄外ですから。それに、火盗改なんだから止めるのはむしろ大岡様の方では?」

「武士同士の斬り合いなんて洒落になりませんから。ほら、私より二回りくらい大人の下曽根様が……」


 言葉では立派に戦っていた信敦だったが、今度は本気で嫌がっていた。父親譲りの細い目を更に細くして苦笑しながら首を横に振っている。

 アテにはできない。最悪の場合、私が間に入って…… そうやって桐・信敦の二人で右往左往していると、街道の方からいつの間にかいなくなっていた忠景の声がした。やけに恭しい。


「申し訳ございません。私が側にいながら……」

「こうならないようにお前を付けておいたのに。おいおい、やけに物騒になってるじゃないか」


 品川の浜辺に長谷川平蔵宣冬が現れた。

 敬直の顔を見つけると、彼女は普段通りの無表情に見えたが、よくよく見ると頬の皮一枚分だけ口角を吊り上げて微笑んでいた。


「……忠景から事の次第は大体聞いたが、桐に佐嶋。どうした」

「は、長谷川様!」


 そうして悠然と闊歩し、こちらに近づいている。宣冬なりに微笑んではいるものの、当然のことながら雰囲気は冷たい。そして、こういった顔つきをしている大抵の場合は、酷く不機嫌な時であった。

 事情をとにかく説明した。そして、現在の緊迫とした状況を伝えると宣冬は小さく息を吐いた。


「そなたは確か天文方の渋川様であろう。私も天文方のご登場など聞いていないのだが、今日はどうなさった」

「くそっ、い、いやっ、別に何でも……」

「この一件に渋川様は関わりが無いことではないのか。江川様や下曽根様の邪魔立てをされることなかろうに」


 宣冬の長い黒髪が浜風に揺られた。口調に抑揚が無く、淡々と述べられる言葉には氷柱のような鋭さがあった。

 機嫌を損ねた宣冬の言葉には、罵倒も何もしていないのに、胸を抉られような痛みがある。役宅で何度も見て来たし、喰らったこともある桐には敬直に道場も芽生えていた。

 しかし、敬直は宣冬になんとかくらいついていた。


「いや、何を申されるか長谷川殿。邪魔立てとは不本意な言を」

「これは北町奉行遠山左衛門尉が水野様直々に仰せつかった令だ。そなたも知らない訳ではないはずだが」

「それならこっちだってそうだ。ほら、見てみろ」


 敬直は懐をまさぐって先の書状を見せつけた。

 時の権力者、南町奉行・鳥居耀蔵の花押と印。それだけで大抵の武士を震えあがらせるだけの力を持っているが、それ以上に老中・土井利位の花押も押してあった。

 宣冬の表情が一瞬だけ動いた。


「そうなんですよ長谷川様。聞いていた話と全く違います。どうすればよろしいのでしょうか」

「ふんっ、惑わされることは無いぞ姫子め。勝った方が測量をすればよかろう。簡単な話ではないか。そうでございましょう長谷川様」


 桐は佐嶋の脳筋振りをまとめて無視し、宣冬にすがった。

 英龍と敬直の背後にいる男たちはなおも向かいあっている。何かの拍子に弾け飛んでしまうのではないか、と一刻の猶予はまずない。


「渋川様、その文書ををお貸し下され。詳しく見問うございます」

「……んあ? ほら、見てみろ。私の言に偽りなど無い」


 宣冬はやれやれと言いたげに肩をすくめた。そして文書を敬直の眼前に突きつける。


「桐に佐嶋に忠景。貴様らは阿呆か。まともに取り合うだけ損だ。忠景は警護が終わり次第部屋に来い。桐に佐嶋、覚えておけよ」

「あっ! ちょ、長谷川様っ!」


 場にいた誰もが声を揃えて言うが、当の宣冬は悠然と敬直の顔を見据えている。そのまま、文書を真っ二つに引き裂いた。

 厚手の紙が破れる音は浜風に乗ってその場を包み込んだ。


「このっ、鳥居様の文書だぞ。今の行為がどのような、真に……」

「……偽書に真もクソもあるか。火盗改と上様直臣にに対しての喧嘩沙汰とは、きっと肝の太い連中が後ろにいるのだろうな」


 狼狽し、それから掴みかかろうとした敬直立ったが、その一言に完全に沈黙した。屹立する宣冬は刀に手をやる男たちに対しても言葉を叩きつけた。


「……後ろのお前、どうせ鳥居の小間使いかなんかだろう。だったら伝えておけ。『火付盗賊改方長官・長谷川平蔵宣冬、貴様らの喧嘩はいつでも買ってやる』とな」


 刀に手をやっていた男たちも、委縮している。宣冬の怜悧な言葉に頷くしかほか無かった。


「これでそなたの首も繋がったな。この偽書を我々が上に持っていけばそなたの天文方の座も危うかろう。それに、敵を作るのはこちらも本意ではない。今日はお取引願おうか」


 宣冬の台詞に、敬直は押し黙るしか無かった。そして「その言葉、忘れませんよ」と眼をさらに釣り上げながら言い残し、男らを引き連れて街道へと消えて行った。

 スッとした。桐は素直にそう思った。横の佐嶋は感動のあまり瞳を濡らしていたし、忠景も腕を組んで熱く宣冬を見つめている。宣冬はバツがわるそうにしながら風に揺れる髪を指でなぞっていた。

 確かに気分は晴れる。しかし、その先はどうなのだろうか。多分、宣冬はそう思っていたのかもしれない。

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