品川沖・午前
春先の品川沖には無数の白い帆がはためいていた。
水平線からは威勢の良い掛け声があがり、青空を覆い隠すように黒い網が飛んだ。きっと投網であろう。
腕の太さが吉原太夫の胴ぐらいはありそうな大男は、揺れる船上でさきほど放り投げた網くるくると手繰り寄せると、水面から銀色の腹が続々と揚がり太陽に反射した。きっと大漁であろう。
蘭学者らによる江戸湾測量を守る桐ら火盗改の面々は、砂浜に腰掛けると水平線の先をぼうっと眺めていた。
「あ、あの船なんか獲れましたよ」
「……きっとスズキだろう。捌いて洗いにして食うのが美味い」
「そういえば、牛込の屋敷に銚子から生醤油が届いたと聞きました。今の季節なら梅醤油でしょう。一匹分けてもらいしょうか」
「……スズキは武家の魚だ。長谷川様もお喜びになるかもしれん」
「……いや、あんたら仕事しろよ」
毒づきながら腕を組む佐嶋は桐と忠景を見下すように睨みつけている。
とは言っても、視線の矛先は海上にある。これだけ見晴らしが良ければ、警護らしい警護などする必要が無いと言っても良かった。
既に海岸近辺は火盗改の面々で固めているし、狙撃を行えるであろう場所も既に潰してある。文字通り、蟻一匹はいいる隙間は無い。
それに、測量を担当する江川英龍・下曽根信敦ら蘭学者の一派は海上にいる。
「いや、まったくもって素晴らしい。ちょうど御城を目の前に控え、更にこの遠浅では船の射程は市中には届いても城にはまず届かない。ここいらに台場でも築けばまず安泰でしょうなぁ!」
「……そう……いいんじゃ……ですか?」
二人の乗る船は遠浅の干潟を駆けずり回っている。
聞こえるとすれば波の音と、さきほどの漁民らの唄い声。英龍らは陸地からおおよそ10町(1km)弱の場所にいる。それなのに英龍の大音量は陸地までしっかりと届いていた。魚が逃げてしまいいい迷惑だろうし、地元出身であろう水先案内の船頭は不快そうに眉をひそめている。佐嶋も船頭のようにため息交じりにひと言漏らした。
「とは言っても、これなら遠山様らが手伝ってもよかったのでは? 忠景様の横で言うのは憚られますが、暇で暇で仕方ない」
「……相模や上総の内海も見るらしい。当面の間はこのような感じかと」
江川英龍らが命じられたのは江戸湾岸の測量。簡潔に言えば相模の三浦から上総内房の富津まである。
品川沖高輪は、あくまでその中の、ほんのひと地域に過ぎない。
それですら一日で回り切れそうにはない。全てを終えるには数週、いや数月は掛かるだろうかといったところだろう。
「そりゃそうですよ。まさか、佐嶋殿は今日一日で終わると思いで?」
「生意気言うな姫子め。ついさきほどまで測量のその字も知らなかった癖に」
「それなら佐嶋殿は今でも測量のその字も御存じありませんね。本物の世間を知らぬ姫子はどちらにおいでですかねえ?」
当然のことながら、佐嶋は桐の胸ぐらを掴みあい、とまではいかないが互いに視線を逸らすことなく睨み合いつつ一歩ずつ歩み寄っている。
そんな時だった。見計らったように沖合から英龍ら船上の蘭学者らが戻ってきた。
きっと会話が聞こえていたのだろう。彼らは揃って桐らをみつめながら、くすくすと笑いながら頬を緩ませていた。もっとも、英龍の方は大音声で笑い声を上げた。
「ハッハッハ! 火盗改のお二人はなかなか仲がよろしいのですなぁ! まったくもって羨ましいし、若さが眩しい。つい笑ってしまいましたよ!」
「お二人は確かに親父の言う通りですよ。アレですね。喧嘩するほど仲がいいというか……」
「いや、そんなことございません!」
間近で聞いた英龍の声は時の鐘よりも凄まじい。それでも、桐と佐嶋は声を揃えてそれに対抗した。そして、信敦らの生温かいにたり顔を見てすぐにそっぽを向き合った。
江川英龍は韮山代官地と呼ばれる幕府直轄地の代官である。差配の範囲は甲斐・相模・武蔵・伊豆までおよぶ。
大きな眼と高い鼻。見たことは無いが、赤毛の西洋人はこのような顔つきをしているのかもしれない。もしくは、蘭学を学ぶものはこう言った表情になるものなのだろうか。初めて見た時は奇人変人の類いだと思ったが、実際に船上でてきぱきと動く様はそれなりに出来そうな男の風格であった。というか、かなりの鬼才であろう。桐も佐嶋もそう思わざるを得なかった。
「いやぁ、街道筋から浜辺まで、これほどまでにお守りいただいて申し訳ございませんな。このご時世、御老中の命といえど、このようなことになってしまうとは、まったく危なっかしい世の中ですなぁ!」
「いやいや江川殿、そんなことを大声で言わんでもいいでしょう。アレです。誰もが思ってる事ですが、わざわざ口に出すことはございませんって」
横にいる下曽根信敦も笑っていた。父親は筒井伊賀守政憲。下曽根家に養子に出ていた。詳しくは桐も知らなかったが、聞いたところによると高島秋帆という西洋砲術家の弟子で、英龍の兄弟子にあたるらしい。
「ああ、これは失敬! つい前日まで韮山に戻っていたのでつい大声が抜けませんので。これぐらいの話声でないと熊に襲われますからな」
「……ふん、今すぐに襲われてしまえ」
機嫌の悪い佐嶋は舌打ち交じりに呟いた。英龍はが「これは痛いな」と大声で笑うと、信敦が代わりに言葉を続けた。
「しかしまぁ、皆さま方のお陰でここいらの地勢はなんとなく、分かりました。とにかく知っての通り、アレ、遠浅なので埋め立ては容易でしょうね。あと10町ほどはこのような感じだろうし、土もまぁ、どうにでもなるでしょ」
「おいおいおい、そのように軽いのは困るんだよ信敦君。台場建設は江戸防衛のためにも、我々砲術家にとっても乾坤一擲の策なんだ。そんな軽い気持ちで掛かられても困るんだがねえ」
「いやぁ、だって、アレじゃないですか。江戸開府の時みたいに山削ればいいんでしょ。ほら、あっちにあるじゃないですか」
信敦が指差したのは八ツ山。江戸湾が見渡せる風光明美な場所で知られ、墨田堤や深川埋め立ての際にはここから土砂を持っていった。
彼の父・筒井政憲の姿は当然のことながら桐もよく知っている。信敦も政憲と同じように洒脱な所はあるが、彼はまた違う。完全に軽かった。
政憲とが浮かべている柔和な笑みよりも、信敦のは軽薄に近いのかもしれない。抽象的な物言いの彼を怪訝そうに睨み付ける佐嶋の視線は、更に冷たくなっていた。
「しかしまぁ、江川様をはじめとして下曽根殿も蘭学者で、砲術の大家なんだから恐ろしいですよ。やはり、頭脳や先見の明は父親譲りなんですかね」
「そんなに褒めても何にも出ませんよ。それに親父なんかは水野様と真っ向対峙したら、南町奉行をクビになって、なんだかんだで西ノ丸留守居ですからね。小普請組にでも飛ばせばいいのに、向こうの懐が広いのか、親父が凄いのかはまぁ、よくわかりませんけど」
信敦はフフッと笑い飛ばしていたが、多分、それなりに尊敬はしているのだろう。言葉の節々では間違いなくそう言っていた。
確かに、何度か会って話した筒井政憲は魅力的な人物だった。彼の奥底の見えないが、とにかく落ち着き、頭も冴えて、気品のある人物であることは間違いは無い。小普請組であり、もの言いもいい加減なところがあるが、英龍と組んで仕事をしている様は、やはり出来そうな男の雰囲気があった。
「その、なんといいますか、幕府の兵はそれほどにまで遅れているのでしょうか」
「これこそ大声では言えませんが、それもう、酷いもんですよ。高島先生とともに長崎に出向いたことがございますが、船の大きさだって比べ物にならない」
「ほんとすごいですよね。人の手であんなもん作れるんかい、みたいな。大砲だって口径は桁違い。アレですよ。いかに我々の方が武芸に優れていたって、向こうの兵士も国内外で何十年も戦争を経験してきた精鋭ですからね。聞けば聞くほど我々には勝ち目など無い」
それから信敦はざっと毛唐らの歴史を諳んじて見せた。
まず、「おらんだ」という国は、神君家康公以前に交易をしていた相手であった「えすぱにあ」という国から独立をした新しい国だという。国土は小さいが、頭がよく、交易によって財をなした国らしい。それを聞いて桐は大坂を思い出した。
また、清国を破った「えげれす」という国は「おらんだ」という国に似ていると言った。本国は日本とさして変わらないか、幾分か小さいぐらいの島国だが、海外に持つ国土を含めれば比べ物にならないぐらい大きく、銚子から遥か東にある「あめりか」という場所に広大な土地を持っているらしい。それどころか、西洋東洋問わず、世界各地に領地があってあの天竺すらも領地の一つなのだという。また、それらの経営で国を富ませたといった。
それら西洋の国々は土地を経営するのに兵士を送り込み、現地部族との戦争に勝って奪い取った。あの清国だって、あくまでその一つに過ぎない。更に、それら土地獲得の戦争に加えて「おらんだ」や「えげれす」「えすぱにあ」といった国々は何十年にも及ぶ戦争をしていたらしい。
それは村の水争いのような小さなものではない。国力を総動員して兵器を開発・生産し、それらをすべてぶつけ合うような、殺すか殺されるかの本当の潰し合いである。
「世界各地を領土とする戦いはあくまでも片手間でしかない。その傍らで本国を守るために十万・百万という兵士が死んだと言うのだから、アレですね。ほんとに化け物みたいな話ですよ。ま、見た目もかなり奇怪ですけどね」
「そのなんというか、世界というのはよほど広いのですか。実際の所、我々は勝てないのでしょうか」
「まぁ、今の軍制・装備・軍法のままじゃ西洋には勝てませんよ。それだけは間違いないっていうか、どう足掻いても越えられない壁はありますよね」
「だからこそ水野様は我々の意見を受け入れられた。きっとそういうことなのでしょうな」
英龍の眼力は凄みを増し、信敦は声を押さえてゆるやかに微笑んでいた。
彼らの言葉に嫌味や現政権への皮肉は無い。例えこれが、将軍家慶の御前でも、水野忠邦の前でも、鳥居耀蔵の前でも、言葉は繕って言うだろうが、全く同じことを話してのけるだろう。
とは言っても、彼らに西洋事情を懇切丁寧に何を聞いたところで、そこに実感など何も沸かない。遥か遠くからこんなところまで来るとは思えないし、その話だって真の事なのかどうかも疑問に思うことだろう。それは江戸、大阪、京、博多だって仙台だって金沢でもいい。日本という国に住まう者が抱く、身分の差を超えた平等な感想であるはずだ。
英龍や信敦を少しでも見知った桐が聞いて始めて「そうなのかな」と思う程度の事柄だった。それに、彼らが展開する結論もどうなるのか分からない。彼らが正しいのかもしれないし、根本的に間違っているのかもしれない。その判別もまともにできないのでは、きっと論拠としては乏しいものになってしまうだろう。
「ま、諸藩の合意を取り付けるのにも、西洋兵器を買い揃えるのも時間はかかる。だからこそ、そうそう死ねんなぁ下曽根君」
「ほんとそうですよね。それにアレですよ。江川殿の言葉は私だって声を大にして言いたい。時流に抗わないで変わらなければ、このご時世、清国のように死ぬ行くのみですよ。滅びゆくのみなんですよ。誰だって、どこだってね」
「目指すべきは遥か遠く。大岡殿もよろしければ砲術でも身に来て下され。なかなか刺激に溢れていますよ」
二人は軽やかに笑いあうが、間違いなく苦労するのは間違いないと思えた。
武器に関しては並いる閣僚を説き伏せればどうとでもなるのかもしれない。しかし、それ以外はどうなのだろうか。鎧兜を身に付けて馬に乗り、腰には刀を差して差配を振るって号令を掛ける。そうしたら従者らとともに突撃する。
桐ら旗本にとって、それ以外の戦う術など知らないし、そもそも江戸に住んで馬に乗るなどというそう言った状況下に陥ったことも無い。何週かに一度乗る程度で実戦でまともに動けるかどうかは定かではない。
そう思うと、今の旗本というのは、基本となる軍制もままなっていないのかもしれない。彼らの改革はそこから始まるのである。例え幕閣らが了承しても、実際に推し進めていく上で問題が起きないはずが無い。
彼らがやろうとしているのは、江戸近辺の測量のようなチンケな話ではない。国家を動かすほどの、もはや出来るかすらも分からないような、気の遠くなるような話だ。でも、きっとやらなければいけない日が来るのかもしれない。なぜか、本能的に桐にはそうとも思えた。
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それから英龍らは船に戻って測量を再開した。桐達は二度をれらを眺める時間が来た。彼らの働き振りは、幾分か活き活きと仕事をしているようにも桐には見えた。
そうして、おおよそ二刻ほど経って彼らが戻ってきた時。とうとう問題が起きた。