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女奉行捕物帖  作者: 浅井
土霾ひと吹き
142/158

繋がり

 天保14(1843)年。年を跨ぎ、師走から弥生まで移ろいだ江戸だが、その不景気振りは変わることが無かった。

 春を迎えようとしているのに、うららかな日差しだけがどこか浮ついていて市中に慌ただしさは無い。

 株仲間が解散されたことにより、物価は落ち着きはしたものの、由来の知れぬものを買おうとする者はいなかった。

 そのため物価は年を明けてから急反発。株仲間解散前と変わらないような高値が続いている。

 それどこか、名の知れた商家はなんとか食いつないで行けるものの、その他中小の小売店は立ちゆかなくなって軒並み廃業。職にあぶれた者達が溢れかえっている。結局、景元の見込み通りの結果となってしまった。

 そうして、火盗改方の役宅である。

 冷ややかな風が吹く春の明朝。出仕した桐はいの一番に火盗改長官・長谷川平蔵宣冬の一室へと駆け寄った。


「長谷川様、質問がございます」

「……どうした。言ってみろ」

「その、水野様が押し出そうとしている上知令でございますが、それほどまでの悪法なのでごいざいましょうか」


 ここのところ市中を見廻っていた桐だったが、とにかく上知令の話が尽きなかった。

 関係のある武家は当然のこと、町人らまで自らの事のように思いもいに語り合っていた。すぐそばで誰か耳を立てているのかも知らずに、である。 

 人の口に戸は立てられないと言われたものだが、これほどまでにお上の政治について町人らが語り合う様は、はっきり言って異様としか言いようが無かった。

 「この令は水野による幕府の専横である」や「株仲間解散は地元浜松商人に対する手引きである」だと囃したてている。そして、だ。

 最後の言葉は総じて「水野が悪い」で締めくくられ、それぞれの溜飲が下げられて次の話題へと移っている。

 そんなような状況下にあることは、当然のことながら長官である宣冬も知っていた。その宣冬はうっすらと微笑みながら「なるほどねぇ」と呟いて祖父譲りの煙管に火を付けた。


「はっきり言って我々には関係の無い話だ。お前も私も所詮は蔵米貰いの小役人に過ぎない」

「どういうことなのでしょうか」

「桐よ、お前の実家、西大平の石高は幾つだ」

「実際いくつなのかはよく分かりませんが、確か表高は1万5000石ほどだったはずです」

「このご時世だ。領地の運営に困っていることだろうな。よく知らんが、旗本寄合も同様だ。お前の母親もそうではないのか」

「私はこれまで感じたことはございませんが、仰る通り母やきっと伯父上は困っているでしょう。任せきりとはいえ、それなりに仕事は多いようですし」


 これまで母・大岡忠春は将軍家慶の知遇を得て暮らしているものの、使役はそれなりに課せられているのだろう。実際に桐にそういった負担が圧し掛かったことは無かったが、きっと、知らない所で苦労をしているのかもしれない。

 少なくとも、江戸には知行米取りの旗本を始めとして、扶持米を貰う御家人らが掃いて捨てるほどいる。そんな彼らを見ていれば、おのずと結論は出た。

 彼らは間違いなく困っている。それだけは桐にでも簡単に理解できた。


「……世間知らずというのは恐ろしい。いずれ貴様も家を継ぐのだろう? だったらそこらへんも学ばなければなるまい」


 いつの間にか、真横に同僚・佐嶋忠介が居た。

 佐嶋は馬鹿にするようなキツイ眼差しを桐に送っている。その視線の奥にいた伊藤忠景は苦笑していた。桐もムッとしたように睨み返したが、佐嶋は気に止めることなく言葉を続けた。


「どこの藩も少なからず借銭や藩札を発行しているはずだ。であれば、領地を変える前にそれらを払わねばなるまい、それぐらいは姫御でも分かるだろう」

「当然です。金を貸している商人や農民らが、上知令によってそれらが踏み倒されたら困ります。そもそも、それらの金を踏み倒せるはずもない」


 知行取りの旗本であれば、江戸の暮らしに加えて領土経営も強いられる。大半は適当な手代を雇ってやらせてはいるが、それを雇うのにも金がかかる。

 また、家禄に応じてそれなりの軍役が科せられるため、常に数名の小間使いを雇わなければならない。そのためにも金がかかる。そのほかにも家族・親族・武器など、それなりに金がかかる。

 大半の旗本は、知行額だけでは生活が成り立たない。そのために借銭をし、自領内での通貨である藩札を発行していた。

 しかし、当然のことながらそれらを踏み倒せば家の信用にかかわるし、見知った土地から何所とも知れない場所に強制移封だなんてことはなるべく避けたいところだろう。

 そうなると、上知令は到底容認できるような話では無かった。


「上知令を徹底すれば、収穫が増えて幕府の収益は確かに上がるだろう。しかし、その先はどうか。代替の土地を与えると言うが、それらを耕すのに一体いくらの金と人を使わねばなるまい」

「なるほど。確かにそれは困ります。何もかもが無くなりますし」

「……まったく、そこまで考えるのだから忠邦は本気で幕府を盛り返そうと取り組もうとしている証左でもあるがな。まぁ、人は付いて来ないだろうが」


 そうこうしていると北町奉行・遠山左衛門尉景元も火盗改の役宅へとやって来た。

 ただ、景元にはいつもの飄々とした笑顔は無い。

 眉間にしわがよりどこか重苦しく、さきほどの話し口調もどこか釈然としないような言葉振りであった。


「そういうことだ。だからこそ悩ましい」

「頭を使うなど貴様らしくも無い。今日はどういった風の吹き回しだ」

「頼みがある。聞いてくれ」


 ため息交じりに景元は言った。


「鳥居が我々に忠邦からの仕事を譲って来た。品川沖に台場を作るらしい」

「……つまりは江戸湾岸の測量を手伝えってことか。これはまた急な話だな」

「急なのはいつもの事だろう。しかし、これがまた難しい」


 宣冬は小馬鹿にしたように腕を組んだが、景元は肩をすくめて頭を抱えた。


「蘭学者を伴っての仕事だ。正直なところ、俺は蘭学のことはよくわからん。どういう連中がいるとか、そもそも何をするのかもよく分からない」

「また面白いことをなさるということか。忠邦の令を耀蔵がお前に回した理由は理解できるが、込み入った事情の中、貴様が測量の手伝いを安穏とこなせるとは到底思えない」

「だからお前さんに頼んでいるんだ。はっきりって今の町奉行所は株仲間関係で問題が続発している。そんなところに、あの上知令関係で事務方は連日徹夜だ。そっちにまで手が回らないから完全に一任したい」

「ふん、町奉行所というのは軟弱な連中だな。こっちは私が『やれ』と言えば死んでも働き続けるぞ。忠景よ、そうだろう?」


 宣冬が浮かべた珍しい笑みに忠景は苦笑せざるを得なかった。

 それからも、景元と宣冬は熱のこもったやり取りを続けていた。桐と佐嶋、両名ともに話の筋は正直なところよく分かっていなかったが、とにかく二人は困っているのだろうというのはよく分かった。

 そうしてどちらかが言葉を発すたび、無言のまま首を横に向け続けていた桐のぽかんとした表情が目に入ったのか、二人は言葉を止めて事情を伝えた。


「そもそもヤツの出自は昌平坂学問所の林家。それに、十年ほど前にヤツが主導して蘭学者らを投獄した。林家と西洋の学問とは相性が悪いのだろう」

「俺もそう思うんだが、洋書を取り扱っている天文方の渋川と昵懇だからそうではないのかもしれない。だからこそ、よくわからないんだがね」


 鳥居耀蔵こと、鳥居甲斐守忠耀は昌平坂学問所の大学頭をも勤める儒者の大家・林家の出自であり、幕府の学問である朱子学の薫陶を誰よりも強く受けた。

 さらに、四年前の天保10年(1839年)。

 当時目付であった耀蔵は、渡辺崋山や高野長英といった蘭学者らを処分。いわゆる蛮社の獄を引き起こした。蘭学の大家であった渡辺崋山はなぜか幕成否批判を問われて蟄居。高野長英は永牢。学者の中には拷問の最中に獄死した者もいた。

 とはいってもそう言う訳でも無いのかもしれないのだから、確かに対応に困る。乗り気でない事案を押し付けられた上、そのような裏話があれば、名奉行と名高い景元であっても対応に困るだろう。


「……その、この一件について筒井様は何と言っているのでしょうか」

「あのジジイ、いや、筒井様は面白がって笑ってたよ。それに、この仕事には筒井様の倅が関わっているらしい」

「確か、砲術方の高島様に師事していたとか言ってたな。養子に出されたとかで名前は忘れたが」

「それらを韮山代官の江川殿がまとめているらしい。なんていうか、『らしい』ばっかり言っているが、本当にこの一件はどうなるのかよく分からない。とにかく頼んだぞ」


 蛮社の獄で蘭学派閥は減りはしたものの、まだまだいるらしい。それに、あの筒井政憲の倅というのも興味があった。

 そういった多くの要素が絡み合い、なお且つこう言った類の話に臨席しているということは、きっとそういうことなのだろう。桐に不安がよぎった。


「警備でもなんでもすればいいのだろう。分かった。桐に佐嶋、お前たちがやれ。忠景、二人を支えろ」


 果たして、面倒事の対応を願われる反水野忠邦の首領とはなんなのだろうか。

 宣冬の言葉にすぐさま返事をし、すぐさま平伏したものの、そういった一抹の疑問を持たざるを得なかった。





「……よくぞお越しくださいました。鳥居甲斐守様」

「土井様のほうが家格も家禄も役職もはるかに上。そういったお気遣いは無用でしょう。お会いできて光栄でございます」


 弥生の中ごろ。駒込の土井家下屋敷の奥書院。

 十五夜の淡い光がが江戸を照らす中、南町奉行・鳥居耀蔵は老中・土井利位に向かって恭しく頭を下げた。


「いえいえ、鳥居様は水野様の懐刀。瑣末になど扱えませぬ」

「嫌味ったらしい男だ。まあいい。簡潔に話させていただきます」


 出された茶を丁寧にひと啜りすると、真っ赤な紅が茶碗に残った。


「忠邦を殺りましょう。あの男は終わった」

「……その、まずは人払いを」


 挨拶をするような、なんてことのない物言いに利位は冷や汗を一筋流した。

 それからすぐさま立ち上がって辺りを確認した。まず、誰もいない。控えていたはずの小姓らの姿もどこにもない。


「既に済ましておりますのでご安心ください。襖周りに控えていた小姓らは別室に押し込めておきました。それに、この話は土井様以外にしておりませんので」


 目の前で頬を緩ませる耀蔵の段取りの良さに、利位は再度閉口せざるを得なかった。

 そもそも小姓らは土井家の者である。それでいて鳥居の言葉に従い、持ち場を離れるというのも非常に考えものである。

 そして、それは目の前に控える四十そこいらの女性一人に、そこまでの力があることを示しており、それについても利位は肝を冷やしていた。


「……しかし、そのような話を私にしてもよろしいのですか。ご存知の通り老中主座とは折り合いが悪いとはいえ、あくまでも同僚。気を利かして水野様にひと言添えることも……」

「私を推し量っておいでですか? 切れ者の土井様にしては御冗談が過ぎますね」


 柔和に人を刺そうとする利位の言葉だったが、再度、耀蔵は頬を緩ませた。


「もしそうなったら、明日にでも土井様は布団を赤く濡らして首と胴が離れ離れですよ。それに、土井様が密告したところで、その行為に利がない」

「流石は鳥居様だ。体こそ小さいけれど、大きな口をお叩きになる。 ……続けてください」

「確かに忠邦は優れた男ですが、アレは完全に血迷っている。口では幕府の平穏などと言っていますが、実態はどうでしょうか。巷では不平不満が蔓延り、町人らが幕政の批判を堂々としている。はっきり言ってよろしくない」


 水野忠邦の不評は利位にまで伝わっていた。

 というよりも、利位が回りを焚きつけてそう言う風にしている節もあった。もっとも、そのようなことをしなくとも、忠邦に対する不平不満は夕餉の炊煙のように日の本中に昇っている。

 利位も耀蔵に視線を向けたまま茶を一飲みすると、耀蔵は言葉を続けた。


「それでいてそれを鎮めようともしない。このまま行けば上知令が布告されますよ。私どもも代官所と共同してそれらの計算や段取りを計画しておりますが、発布されたところで苦労しか残らないことは間違いない。徒労とはまさにこのことです」

「確かに。株仲間の解散といい、今の鳥居様などは苦労ばかりが押し寄せていることでしょう。そこらへんの御苦労は上がってくる文書や風聞でも手に取るように分かります」


 布告された上知令によって、江戸町奉行所と近隣の代官所は年末のような忙しさが続いている。

 耕作地であれば移転の手続きをすればいいだけの話だが、全ての土地がそのような条件下に置かれているはずがないし、実際にそう言う風にはなっていない。天領以外の余っている土地と言えば、荒れた湿地帯や新田開発途中で投げ出されたような所ばかりである。

 奉行所を筆頭に各地の代官所では費用・賦役・各村々の負担分など、もろもろの諸経費を計算して予算組をしなければならないし、それに加えて実際の土地調査、最も重要である代替地の選定などもしなければならない。

 それをたかだが百弱人の役人で賄うには無理がある。当然、臨時の役人を雇ってはいるが、通常業務である訴状その他も株仲間の解散によって増えている。丸の内の両奉行所と評定所は、港町の常夜灯のように夜空に月が輝こうが部屋の明かりは付きっぱなしあった。

 町奉行を管轄している老中らの手元にも、そういった報告書の類いが届くので其々が目を通しているが、はっきりってキリが無い。適当に流し読みをして判を推すのが常套である。


「まぁ、私の気苦労なんてものはどうでもいいんですよ。 ……何より土井様が何よりお困りでしょう。上知令は江戸・大阪・京から10里圏内の土地を直轄地にします。高禄旗本は当然ですけど、特に西国に所領が多い土井様にとってはあり得ない策」

「……そこまでしっかりと見ていますか。実際、水野様についてはいい話は聞きません。かなり不満はあるでしょう」

「このままではそのような無法が通りますよ。それに、アレは別の政策を持っている。土井様らが不利になるような策ですよ」


 所領が小さければまだ被害は少ないが、高禄取りの旗本と、大都市近郊に大領地を持つ諸大名など、嵩む費用が多ければ多いほど上知令によって割を食うことになる。

 被害に遭うのが外様大名であればなんてことの無い話かもしれないが、江戸・大阪・京はそれぞれ幕府の要衝であるので、それらの周りは譜代・親藩大名が配置されている。

 当然、そういった大名家・高禄旗本は幕府の要職についており、発言力もある。土井利位もそういった類の大名であり、強制的な移封には懐疑的であった。

 そこに意外な発言が続いた。利位は身を乗り出した。


「別の策だなんて全く聞いていないぞ。ちなみにどのような……」

「詳しくは追々お話ししますが、私のようなものが見ても分かるぐらいに、忠邦から人心は既に離れております。それに私自身、アレに対してそこまで盲目的では無いし、俗世間の潮流を見逃すほど馬鹿では無い」


 耀蔵は利位の言葉を遮った。腕を組んで、口を結んで唸る利位であったが、そこに不満は無い。


「実際に行動に移すとして、信頼のおける刺客はいくらでもいます。それはご存知でしょう」

「そこに疑いはありませんよ。そういった仕事振りはよく知っていますので」

「私と土井様二人、いいや、私とその他大勢の幕閣の利害は一致していることでしょう。是非とも、私を御仲間に加えて頂きたく存じますが、いかがでしょうか」


 するすると利位の懐に潜り込んで、上目遣いでそう言った。艶っぽい白粉の香りが利位の鼻先を刺激したことだろう。


「……ご覚悟はよく分かりました。それに、仰ることはとにかく尤も。回りの事もございますので、鳥居殿の将来を確約することは出来ませんが、水野様を追い落とすことはご協力いたしましょう」


 利位は小さく息を吐いて口角を上げて耀蔵に微笑みかけると、当の耀蔵は恭しく頭を下げて言葉を続けた。


「なに、私の出世なんぞは大した話ではございません。 ……私を裏切ったあの男がもがき苦しめばそれでいい」


 不敵に笑ってそう言い残すと、耀蔵は供回りを連れて駒込の屋敷を後にした。

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