亀裂
天保13年(1842年)の年の瀬師走。江戸に緊張が走った。
盛夏にぶちあげた上知令を実行に移そうと忠邦が本格的に動きだしたのである。
各代官に事務的な手続きを始めさせ、具体的な人事配置を郡代らに指示を出し始めた。
これには老中も猛反発であった。当然である。自身らの領地に関わってくるからだ。
しかし、それでも水野忠邦は猛烈に突き進んだ。そして翌年の始めである。
上知令の先がけとして、まず人返し令を発布。都市部にあぶれる貧困層を農村へと返し、その強化に当たった。
だが、これも順調にはいかなかった。そもそも食い詰めた人間が江戸に吹きだまっているのでやすやすと動こうとしない。
それどころか、小規模な暴動も起きた。それでも、忠邦の大鉈は振るわれた。
“水野忠邦誅すべし”
声を大にして言う者はいないが、身分を問わず江戸中に忠邦怨嗟の声は広がっている。
それだけは間違いの無い話であった。
○
「水野の野郎もざまあない。やることなすこと全部失敗ときたんだから、これで次の椅子はこちらに回ってくるだろう」
翌14年の年明け。小石川の外れ、老中・土井大炊守利位の下屋敷に威勢のいい声が上がった。
声の主は誰だか分からない。参集した高級幕閣らそれぞれが酔っぱらい、侍らした太夫格と遊んでいる。つられて大笑いが辺りの田畑に広がった。
「そない、水野様はあかんのえ?」
「ヤツには理念しか無い。実際に『動くのは人だ』ということが分かっちゃいない。あんなクソ野郎の自慰に付き合わされたかねえよ」
中にいる幕閣の一人はそう言うと遊女の胸を鷲掴みにした。遊女もまんざらではなさそうに首をしゃくらせている。
御禁制は誰かれ構わず平等に行われている。だが、国の頭を司る幕閣らがこのような豪奢三昧を忠邦が見た日には、その場で全員の首を即刻刎ねたことだろう。
しかし、この席にはそれを咎める者はいない。それぞれがめいめいに騒ぎたてていた。
その末席に座した西ノ丸留守居・筒井伊賀守政憲は、黙ったまま猪口に酒を運んだ。
「これはこれは筒井殿。本日はようこそおいで下さいました。色々と大変な目に遭われていると思いますが、お元気そうです何よりです」
「まあそうですね。ぼちぼちといったところでしょうか」
政憲に声を掛けたのは屋敷の主である利位であった。
にこやかな笑みを浮かべて徳利を右手に持っている。その横にはでっぷりといた青年が付き従っている。
「今日のような宴は先代の上様の頃を思い出しますよ。毎日のように付き合わされました」
利位は柔和な男だった。水野忠邦や遠山景元のような鋭利で尖った部分は無い。洒落た紋様の着物をを着ている古河藩15万石の主だが、お高く留まったような嫌味っぽさは無い。
そして、後からやって来た阿部正弘は中川に落ちている石のように丸っこい。垂れさがった目と餅のような肌の潤いは、端午の節句でよく食べられる柏餅を思い起こさせるだろう。
「筒井様、お久しぶりでございます。学問所ではお世話になりました」
「阿部殿もいらっしゃいましたか。先の感応寺の一件は見事としか言いようがございません」
感応寺の一件とは、先代将軍の家斉の妾が引き起こした一件のことで、日啓という僧侶と家斉の直臣らによって起きた事件である。
日啓は金の匂いに敏感だった。娘を大奥に入れて先代将軍の妾にし、数名の子を産ませた。彼女の娘には金沢前田家に嫁いだ者もおり、男児を産むと家督相続でひと悶着が起きた。
大奥や幕府中枢へのコネを使って日啓は目白の鼠山に寺を建立。それが感応寺である。
大消費社会であった家斉の時代、縁故や寄進で成り上がった日啓を中心とした派閥が幅を利かせていたが、水野忠邦が老中に就任すると家斉に近かった家臣達をすぐに粛清。
その一環で、感応寺も寺社奉行であった阿部正弘に命じて破却させた。
「いやいや、あれは粛清の線で既に固まっていましたし、その段になったら遠山殿や鳥居殿、それに寺社奉行の協力もありました。私はあくまでも実行の令を出しただけですよ」
「若いのだから御謙遜をなさらなくても。最年少の老中なんですから、大きく振舞えばいい。水野様はその点は優れています」
「お褒めにあずかり光栄です。しかし、あのやり方じゃ人は付いてきません。切り口は良いかも知れませんが、やり口は全くよくない」
正弘は歯を見せて笑った。皺ひとつないまるっとした笑みである。
彼のこういった田舎の庄屋の主のような野暮ったさを、忠邦は気に入ったのかもしれない。
「確かにその通りです。江戸にこれ以上人が来られたって困るので人返し令は悪くない。でも、何も持たされずに田舎の土地を耕せだなんて、そりゃぁ、ね」
「水野が落ちるのは時間の問題でしょう。あれでは人が付いてくるはずもない。それに、話によると鳥居とも相当揉めているとか」
「私は西ノ丸勤めなので仔細は存じ上げませんけれども、あの二人の中が冷えるなど考えられませんですね。しかし、お二方がそう仰るのであれば、そうなんでしょうかね」
政憲はゆったりと微笑んだ。笑みに棘は無いが、その奥には研がれた刃が隠されている。
利位・正弘ともに柔和な表情を崩さない。
「当然でしょう。でなければ私もこのような催しを開こうとは思っていない。ましてや筒井様を呼ぶなど、もね」
「我々も動くべき所で動いております。ぜひとも土井様のご協力を」
「そりゃあもう。あの筒井殿に加わっていただければ千人力だ。秘蔵の娘御の成長も楽しみですしね」
「いやいや、そっちのほうは何の話かさっぱりですよ。それに、この年なので酔いも回ってきました。長居したいところですが先に失礼いたします」
利位から注いでもらった猪口をくいっと一飲みすると、政憲はふらふらと部屋を出て行った。
とたとたと小間使いの者が政憲の背中を追っている。残された利位と正弘は深く息を吐いた。
「まったく、頭のキレる爺さまだ。あの柔和な笑みを真似てはみたものの、やはり難しいな。阿部殿もそうでしょう」
「同意見です。あのようなお方が舵取りをすればいいのに」
よろけながら廊下を往く政憲の後ろ姿を見ながら正弘はこぼした。
そんな正弘を見た鼻で笑うと利位は吐き捨てるように言った。
「……あの方はあの方で表には立ちたくない様子だからそれは無理だろう。ま、ああいう裏で動き回る類いが最もタチが悪いんだが」
「表に立たないのは単に年だからなのでは? 現に町奉行を10年以上も勤めあげてますし」
「まだまだ青いな。ほら、これを見てみろ」
「どういうことでしょうか」
政憲が居た席に残されていた猪口を手渡した。
怪訝そうに受け取った正弘だったが、よく見ようと猪口を顔に近付けた瞬間に分かったことだろう。
「呑んでたのは井戸水だ。酔いが回るはずもない。廊下のふらつきも演技だろう。まったく食えぬ爺さまだ」
「腹の底を見せることも無く言質だけはしっかり取って帰って行った。学問所でもそうでしたが、何を考えているのか全く分からない」
「わざわざこっちから泥沼に入る必要も無いし、これはこれでいい。ヤツには老骨に鞭打って働いてもらうさ」
見下すように笑った利位だったが、寸も経たないうちに元の柔和な笑みに戻して来客者の応対に当たっていた。
一人残された正弘は襖を小さく空けて廊下を再度覗き見た。
視線の先には、さっきまで杖をついてよろめいていた政憲はどこにもいない。
それどころか、すぐさま小者を呼んで彼の者の話をしたところ、既に家臣らを連れて屋敷を後にしていたという。
○
本丸廓にある老中水野忠邦の屋敷に、鳥居耀蔵が訪れていた。
時刻は昼の中ほど。乾いた冷気に包まれた江戸の空は、薄曇りであった。
「耀蔵、昨年末に清が毛唐にやられたのは知ってるだろう」
「当然です。市中・国内外の事は私の耳に入っておりますので」
ちょうど先年のこと。清国と欧州の英国が戦闘となった。
いわゆるアヘン戦争である。
英国海軍は強力な火力で清国軍を粉砕し港湾都市と制圧。圧倒的に英国有利の条件で講和が結ばれた。そのことは出島経由で幕府にも伝わっていた。
それも含めて当然のように耀蔵は答えた。
「それなら話は早い。砲術師範の高島やその弟子の江川・下曽根らが江戸の海防策を出して来た。どうせ知ってるのだろう」
「ええ。存じております」
「砲術演習にも反対したお前に、本来なら話すことでも無いのだが、一応聞いておく。この具申書を読んでみてどう思う」
忠邦は耀蔵に書物を差しだした。頁にすれば1000はあるだろうか。まともに読めば一週はかかるかもしれない。
しかし、それも手に取ることも無く、そのまま答えた。
「江戸湾岸に砲台を設置。また軍装を西洋式に調えて、昌平坂の学問に蘭学を加えて講師を呼び寄せるといった話でしょう。そのようなものを二度も読むまでもございませんし、私は協力も何もする気はございません」
「……海防で江川や高島と共同して案を練ろ。二度は言わんぞ」
「私も二度は言いませぬ。お断り申し上げます」
忠邦・耀蔵ともに互いに目が据わっている。
それから数分ほど睨み合う時間が続いたが、先に折れたのは忠邦で懐から煙管を取り出して火をつけると、一息吹いた。
「蘭学連中とは一度揉めていたな。まさか、そんなつまらんことをまだ根に持っているのか」
「そうではございません。技術として見れば蘭学は実用的ではあります。だからこそあのような演習場造営も取り仕切りました。しかし、これは違う」
「そこまで言うのにどういうことだ。理解に苦しむ」
「あくまで幕府の国是は朱子学。昌平坂に蘭学者を入れるなど言語道断。ましてや神君の定めた甲州式の軍装すらも否定するとは、水野様はどういうご了見で?」
耀蔵の口調は激しさを増して来たが、忠邦はあくまで押し黙っていた。腕を組む指先がいらいらと動いているが、それでも黙っていた。
「学問所を蘭学なんぞで穢すということは、代々大学頭を務めて来た林家を穢すこと。違いますか?」
「……まるで話にならない。心底見損なったぞ。下がれ。それから阿部を呼べ」
「失礼いたします。御用がございますればお呼び下さい」
「その、申し訳ございませぬが、本日は体調を崩したとのことで、城中にも出仕してございません」
さっと一礼して部屋を去る耀蔵と、ちょうど入れ違う形で入って来た小姓が目を伏せながら恐る恐る答えたが、忠邦は目を瞑り黙っていた。
「……もういい。貴様も下がっていい。用があれば呼ぶ」
小姓も同じように走りながら部屋を後にした。
しかし襖が閉じられてから、書机の上の物がぶちまけられるまでは、そう時がかからなかった。




