荒南風のゆくえは
草紙会は大盛況のまま幕を閉じた。
ここいらが御禁制下にあったことも、逆に奏したのかもしれない。「過去にない盛り上がりだった」と忠景が語った通り、昌平橋近辺は人で溢れ、事実無根ではあるが人の重みで橋が落ちたと噂が立ったほどに大入りだった。
下絵を書きあげた国芳の作品は飛ぶように売れた。来場者の全員が買ったかもしれない。
その題は『源頼光公館土蜘作妖怪図』。
単に技法や作風が江戸っ子にウケただけではなく、四天王の家紋がたまたま現老中の者と一致していたり、隈取りをした目鼻立ちのくっきりしたものや、提灯に富と書かれた墨で描かれた妖怪たちがそれぞれ幕府が禁止したモノを連想させていた。
また、最近憤死した矢部定謙の官位が「駿河守」であるということから、富士山の天辺に位置する土蜘蛛の正体は矢部なのではないか、などの噂が噂を呼び、一部の間では「本作品は幕府を痛烈に皮肉った作品である」などと持て囃された。
「……やってくれたな国芳。まったく、ほんとにとんでもねえ物を書いてくれたよなぁ」
と、国芳は奉行所に呼び出されて町奉行遠山景元から直々の詰問を受けた。
国芳はもちろん否定し続けた。「あくまでこれはただの土蜘蛛の話を書いた絵である」という主張は崩さなかった。
実際にこれを証言を崩す証拠はなに一つなく、景元らが打つ術は持ち合わせていなかった。国芳は数日交勾留された後に釈放された。
後に桐が広重から聞いた話だと、ここでも彼は「いいネタを掴んだ」というような、暗黒微笑をしていたという。それと同時に「何事も経験しなければ真意は掴めない。生涯勉強だ」と漏らしていたらしい。
さらに、文が主宰する版元『屋山家』では、この絵を店頭で大々的に売り出した。
これにも当然、奉行所から指導がなされ作品が店頭から消え去った日もあったが、いつの間にか再び店頭に並び、評判が評判を呼んだ影響からか即完売したという。
○
草紙会から一月が経ち、江戸に本格的な夏が訪れた。空は青く日差しは厳しい。付け加えれば江戸湾からやってくる塩っぽい熱風が、蒸し暑さを加速させている。
例年よりも厳しい夏なのかもしれない。ギラギラと照りつける日射に、打ち水などは効果が無い。鄙の方に行けば遠くに蜃気楼が見えるほどだった。
さらに、とうとう株仲間の解散が公表され、大半の大店の売上高が落ち、中小の商店の大部分は店を畳むか畳まないかの瀬戸際に立たされている。
「江戸に新しい血を」という老中・水野忠邦の目論見通り、新規参入を狙った事業主は続々と現れて物価は下がったが、そもそも市中に金が回らないこの状況下ではそれらの商いが長く続けられるとは到底思えない。
何より株仲間からの冥加金も無くなったことで、幕閣らの懐具合も寂しくなった。
それに付け加え、財政改革として『上知令』をぶちあげた。
平たく言えば、江戸近郊の土地を幕府の直轄地とすることで、中央の権力基盤強化を図ろうとするもので、これにより本来救うべきはずであった旗本・御家人からも批判を浴びることになる。
元より好かれていない水野忠邦への反発は日に日に大きくなるばかりであった。
「いやぁ、簡単に潰されちゃうもんなんだね。びっくりだよ」
「そりゃそうでしょう。国芳殿の土蜘蛛の絵を判付きで売りだしたなんて狂気の沙汰ですよ。まぁ、文殿らしいと言えばそうですが」
「それでもさ、私って水野様の肝煎りなんだよ、腹心なんだよ? まぁ、鳥居にも結構なこと言っちゃったし、当然っちゃぁ当然なんだけどさ」
桐が額に汗かきながら火盗改の役宅に出仕すると、そこには屋山文の姿があった。
縁側に腰かけて、忠景と談笑している。もっとも、忠景の方は苦笑まじりではあったが。
「あ、桐ちゃん久しぶりだね。元気してる?」
「話は聞きました。店が取り潰されたそうですね。暮らし向きとか、なかなか大変でしょう」
飛び跳ねるように桐の元にもたれ掛かったが、桐はそれを適当にあしらうと、文はつまらなさそうに元の縁側へと戻って行く。
屋山家は御禁制品を取り扱ったこと、さらに奉行所からのたびたびの指導無視したことにより、株仲間解散にかこつけて取り潰しが決定された。ちょうど半月ほど前のことである。
それからはぱったりと彼女の話は聞くことが無かった。そのまま文は飄々と語った。
「ま、あの絵で大分儲かったからお金には困ってないんだけどね。こういうこともあるってことよ!」
それからはひとしきり大笑いである。彼女の脳内には後悔や悔恨は無いのかと思うほどに前を向いている。桐も正直なところ、そこだけは羨ましいとも思えた。
「……いつの間に忍び込んでいる。天下の大罪人め」
「長谷川様じゃないですか。お久しぶりです。草紙会の警護は御苦労さまでした」
「ずいぶんと上から目線のもの言いだな。ま、礼だけは受け取ってやる」
桐が文の横に腰掛けてからすぐのこと。やってきたのは長谷川平蔵宣冬だった。
堪えるぐらいに暑い江戸にいながら、彼女は周りに冷気を纏い、表情一つ変えない。その横には佐嶋が控えてた。文を見つけると、すぐさま睨みを利かした。
「まったく素直じゃないですよね。ちなみにね、長谷川様が南町奉行所の草紙会への介入を防いだんだよ。ほんとに口は悪いけど見てる世界は広いよね。そこに痺れるし憧れちゃうよ」
「……何とでも言えばいい。それより桐、珍しい客人だ。相手をしろ」
文の言葉に興味なさそうにする宣冬が振り返ると、そこには見知った顔があった。
「ほんとコイツって年取っても愛想が悪いよね。桐、宣冬の下でちゃんと仕事できてるの?」
「母上! どうなさったんですか。それに屋敷から出て大丈夫なんですか、それにどうやって……」
「政憲とかに呼び出されちゃったから仕方なくね。手段は、まぁ、聞かない方が良いと思うけど」
くだけていた文だったが、その聞き慣れた声に背筋が伸びる。
それからすぐさま足を組み直して忠春に向かいあうと、三つ指を立てて頭を床面につけた。
「……忠春様ですか。お久しぶりです」
「大阪以来だからほんとに久しぶりね。やけに畏まっちゃってらしくないけど」
元上司と部下。そして、親友でもあった。忠春との対面で、文の気分は急降下である。
母・忠春と文の話については忠景や、文と同様に元部下であった北町奉行所の根岸衛栄それなりに聞いていたから、二人の関係性は分からないでもなかった。
それでいても、あの文が人に対してここまで畏まって応対するのは初めて見た。聞いていた以上に、刻まれた溝というか、抱えている過去は深いのかもしれない。
「後から北町の連中も来るそうだ。ま、今後の話もあるからな。しっかりと相手しててくれ」
上機嫌な宣冬はそう言い残して颯爽と去って行った。
残されたのは三つ指を立てる文に、物珍しそうに文を見つめる母・忠春。そして、バツが悪そうに座る忠景のみ。とりあえず、日差しを避けるためにも4人はすぐ脇にあった部屋へと入って行った。
○
はっきりって居た堪れなかった。
それはきっと、対面に座る忠景はその十倍はそう思っていたのかもしれない。
桐らは手近な部屋に入ると、桐と文、忠景と忠春が横になるように向かって坐った。
時間にして半刻程。話を振らずとも壊れたカラクリのように良く動く文の口は全く弾まない。それどころか、俯いたまま常に両手をもじもじと動かすのみだった。
蝉の鳴き声と与力・同心らの歩きまわる音が耳に入る。夏の盛りである。
「そのさ、忠春様……」
そんな中、文はちいさく呟いた。
やっと山が動いた、そう思ったが、文のに事情は明らかにおかしい。
これから紡がれる言葉は間違いなく悪い方向だ。対面にいる忠景は肩をすくめた。
「……わたしさ、全部知ってたんだ。平八郎が乱を起こそうとしてる事とか、奉行所内で誰が相手に与してるかとかさ」
「……でしょうね。アンタのそういう所は忍なんかよりもよっぽど役に立ってたんだろうし」
「確かに全部知ってた。でも、私はそれを伝えられなかった。いや、伝えなかったんだよ」
「それ知って衛栄は凄い怒ってたよ。『アイツに甘い俺が悪かった。一生縁を切ります』とか書状がきたしね」
多分、前に衛栄が言っていたことはこのことなんだろう。
妨害をするようなことはしなくとも、自分から何かを発せずに与えられた仕事を粛々とこなしていただけで、決定的な証拠を抱えてもそれを伝えようとはしなかった。
誰に与しているのかと聞かれれば間違いなく、忠邦や平八郎の側にいたと思われるに違いし、事実彼女はそう思われた。
「……飽きちゃったんだと思う。泰平とかさ、安穏みたいな? そんな生活が嫌で嫌で仕方が無かったのかもしれない」
「何それ。意味分かんないんだけど」
忠春の言葉には気持ちが籠もっていない。心底馬鹿にしたような、呆れたような物言いだった。
対する文は黙り込んでている。忠春の感情をしっかりと受取り、俯き加減になって言葉を待っている。
「……どうせ『忠邦ら家が質に取られたから』とかそんな理由なんでしょ? 仕方が無かったでしょ。いずれは家業を継がなきゃいけないんだろうしさ。アンタのことは桐からも色々と聞いたし、ここに来る途中に平蔵から色々と聞いた。お父さん、色々と大変だったんでしょ」
文の顔色が曇った。常に飄々と表情を隠していただけに、この反応からしてこれが事実なのだろう。
滅ぶのは愚だ、と強く言っていたのもそこにあるのかもしれない。だとすれば全てが辻褄が合う。
「でもさ、こんな結末を迎えるんじゃダメだね。やっぱりダメだな、桐ちゃんの前であんなにカッコつけたのにさ、結局こうなっちゃホントに意味無いよ。全部自分に返って来たね。参ったよ、ほんと」
「別に責めたりしないから。平八郎らのことをつぶさに報告してくれたって、ああいう結末は迎えたと思う。私だって『回避できたんじゃないか』って何回も何回も遡って考えたんだけど、やっぱり無理だった。あの時の私には何も出来ないの。結局そうなる運命だったんだって」
屋敷の庭先でつまらなさそうにどこか遠くを見ていたのは、それをずっと思い続けていたからなのかもしれない。
分かるはずもない回答を必死探し続け、やっとたどり着いた答えがこれだったのだろうか。だとすれば、それは酷くさびしいし、それを「腑抜けた」「死んだ」と思っていたい自分自身が酷くつまらなく、小さな人間だ、そう桐は思った。
それに、母忠春の言葉は重たかった。背中を押してくれた時もそうだったけど、やっぱり、重ね続けた人生の重みが違う。
「そんなことないよ。私が悪いの。全部私が平穏とか平和みたいなのを嫌ったから。はつちゃんは悪く無いんだよ。悪いのは私なの。それでいいでしょっ?」
文は身を乗り出して言った。つねにふざけたように軽い調子の文とは思えないほどに、熱かった。
過去にどういう経緯で、どういう出来事があってこうなってしまったのか、また今はどういう風になっているか桐は詳しく知らない。
しかし、昔のできごとが尾を引いてこうなっているのは間違いない。そして、彼女は彼女なりにそれを思いつめていたということも間違いない。それだけは桐にも理解できた。
「……好き勝手言ってくれちゃって。あのさ、馬鹿にしないでくれる?」
忠春の平手が文の右頬を捉えた。乾いた音がする。
部屋中の視線が忠春に集中した。
「悪者ぶってアンタ一人に責任を負わせないから。あの一件は別に誰のせいでも無いから。強いて言うならアンタ達を止められなかった私のせいかな。それに、あれだけの被害で死人が一人で済んだんだから、アイツだって墓の下で喜んでるでしょ。絶対にそうなの。私が大好きだった人だもん。私には分かるの!」
忠春の声は悲鳴にも近い怒声だった。
傍から見ていても分かる。これは文に対して言っているんじゃない。自分自身に言い聞かせているのだと。
「その、好きだった人っていうのは当然……」
「小峰義親殿。あなたの御父君ですよ」
予想はついていたが、一応、忠景に耳打ちで聞くと同じように耳打ちで戻ってきた。
桐には父の記憶は当然ながら何も無い。
それについて母から聞いたことも無いし、見知ってる人間は桐の周りにはいなかった。いたところで、結局は気を使って話そうとはしなかったのかもしれないが。
そんな父だが、母はここまで愛していたのか。そう思うと、なぜだか桐自身の心も熱くなった。
とっくの昔に死んでしまった以上、母の言う通りその心を知る術は無い。だが、常に付き従い、側で心を通わせていた母なら本当に分かるのかもしれない。いや、分かっているんじゃないか。母忠春は当然の事、桐だって何よりそう思っていたかった。
忠春は乱れた前髪を指先で整え直すと、小さく息を吐いた。
「……ほんとにしょうもないのね。頭の回転は速いくせに鈍くて腹立つわ、ほんとにさ。私の問題は私の問題なの。それに変な偏見を加えないでくれる? どう思って立って知ったことじゃない。私は何とも思ってないんだから何とも思わないで。それとさ……」
きっと、屋山文も同様に思ってるのかもしれない。数年だけど、彼女は母の横に常につき従って色々なことに付き合っていた。
それだけで分かることがあるのかもしれない。
だとすれば、数十年後には佐嶋のことも……と考えた所で桐は自分を嗤った。まず、それはないだろうな、と思い直した。
「少しでも申し訳ないって思うんだったら屋敷に遊びに来なさい。私は死ぬほど暇で困ってるの。これは命令なんだから。屋敷にだって忍び込めるんでしょ?」
「そりゃそうだよ。私の事を舐めないでよね」
そういうと忠春は文の頭に手をやった。
文の目からは涙が溢れているのかもしれない。少なくとも、開かれた襖から伝わる夏の日差しに照らされた彼女の目元は潤んでいた。
それと同じくして宣冬の姿があった。忠春と文の姿を見ると鼻で笑った。
「楽しそうにしている所悪いが、北町から町奉行と根岸殿が来た。早くこい」
文が牛込の屋敷に忍び込み、母と世間話をすれば、きっと、昔のような仲に戻るのかもしれない。桐にはそう思えた。『やっと心臓に悪い間が終わった』と忠景は対面で胸をなでおろしていたが。
しかし、文にはまだ根岸衛栄とのわだかまりが残っている。これも多分だが、こっちの方がきっと根深いものなのだろう。そう考えると、この後控えている対面は非常に心苦しいものになのは請けあいだった。
わざわざこのクソ暑い中に荒南風を浴びなければならないと思うと、廊下を進む桐の足取りは重くなった。
それでも、廊下にいるうちは、浮かんでいる笑みが崩れることはまあないだろう、そう桐は思った。
荒南風のゆくえは(完)