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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春風吹く
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春風吹く

「水野家家老が旅籠で立て籠もり事件。南町奉行所が人質全員解放…… 政憲、これが目的だったのね」


 二本松の一件から数日後、忠春は街中で配られている瓦版を手にする。どうやら出版元は文の属する業者のようだ。中身を読むだけで文の誇らしげな顔が浮かんでくる。


「ははは、そうですよ。本当はもっと穏便に済むはずだったんですけどね」


 政憲は苦笑いをしながら話す。


「文ちゃんを事件に介入させて、私達に優位な記事を書かせる。それで、私達の名を上げるのね。確かに悪い手段ではないけどさ……」


 忠春は眉をひそめて釈然としない表情を見せる。忠春はもっと正攻法のやり方で名を上げたかったらしい。


「手段云々ではなく、まずは忠春様の手腕を江戸中に知らしめるのが重要です。それから忠邦を追いやる。それこそが死んだ二本松殿への手向けでしょう」


 そう言う風に言われると忠春は口ごもってしまう。しかし、それ以上に忠春が気になったのは内容の方だったようだ。


「それに、『南町奉行大岡越前守、単身で十条屋に駆け入り罪人を斬る』ってさ、丸々ウソじゃないの。これもあんたの差し金?」


 忠春は瓦版の中身を指差す。忠春は少し怒っているようだ。


「内容に関しては特に文殿には言って無いです。なので、文章は彼女のご好意じゃないんですかね」

「『ご好意』といってもね、これだけ嘘八百を書かれても困るのよね」


 方法論としては納得できてもこう言ったやり方はやはり気に食わない、そんな表情をしている。


「それと、前に話した話の続きをしましょう。松平定信公の失脚の話です」

「そう言えばそんな話をしてたわね。城中じゃ話せないなんて言ってたっけ?」


 忠春が町奉行に任命されてからの帰り道、そんな話をしていたのだが、本丸御殿内ということもあっ話は途切れていた。


「その話です。“事の真相”とまではいきませんが、あの騒動について、私が見知った顛末をお話ししようと思っております」

「どうせ嫌って言っても喋るんだろうから、もったいぶってないで早く言いなさいよ」


 政憲は頬の皮一枚くらい口角を上げる。


「事の張本人、定信様ですが、あの方は回りに蹴落とされたんですよ」

「……詳しく聞かせてちょうだい」


 忠春は腕を組んで政憲を見つめた。


「私が十代だったころでしょうか。あの時代は間違いなく定信様の時代でした。老中・町奉行には清廉潔白な人たちが付いていて、上様もその才覚を存分に発揮していました」

「あの上様がねぇ。分かるようでわからないような……」


 政憲は身振り手振りを交えて雄弁に語るも、忠春の脳裏にはふざけたような家斉の姿が目に浮かんだ。とはいえ、最終的にはあの姿は演技だったのだが、今思えばあれが素の姿のようにも見えた。


「しかし、ある男の出現によって一変してしまいました」

「それが水野忠成って訳ね」


 忠春が答えると、政憲は満足そうに微笑んだ。


「御名答です。上様と仲違いされて定信公は老中首座から降りられました。引き継いだ老中たちはほとんどが老齢でした。数年で亡くなったり、体調を崩される方がたくさんおりました」


 定信が老中首座を止めたのが三十代半ば。引き継いだ他の老中たちにいたっては一回りも二回りも上の年齢だ。質素倹約を是とした定信の改革があり、定信の意思を継いだ寛政の遺老たちはそれを踏襲する。


「不思議なもので、歴史を紐解くと極端な方向に舵を切ると、その次の代には正反対の方向に戻ってしまうんですよ。吉宗公からの田沼様しかり、そのあとの定信公しかりね」


 八代将軍徳川吉宗の指針は質素倹約。この一言に尽きた。忠春の先祖、大岡忠相もそれに従って善政を敷いていた。吉宗以後、田沼意次の登場によって重商主義が取られる。そして、田沼の失脚後には定信が老中首座となって幕府の舵取りを始めた。

 次の代の水野忠成は言うまでもない。そこで忠春も察する。


「つまり、アンタがいうところの“揺り戻し”ってのが起きて、金を持っていた忠成が大活躍したってことね。でも、だからといって忠成に権力が集まるなんてことは無いでしょ。旗本の数はごまんといるのよ?」

「その通りです。幕府の閣僚たちは有能な人材を探そうと血眼になっています。しかし、この答えは忠春様ご自身の眼でしっかりと見られじゃないですか」


 政憲は笑いながら言う。忠春は天を仰いでひとしきり考えている。


「善き人間が要職に就ける時代ではありません。全ては金です。才覚が無かろうと金さえ積めば要職に就けるのです。そうなると、忠成に反抗するものは当然のですがロクな仕事にはつけません。ですから、必然的に権力は金のある所、つまりは忠成の元に集まって行くんですよ。ですので、市中では今の治世に不満を持つ分子が多数居ると聞いています」


 忠春は納得する。水野一派と関わりの無い父忠移はずっと閑職にいるし、目の前にいる胡散臭い男も要職に就いていない。


「……考えてみればそうよね。父上だって真面目に勤めているはずなのに出世とは程遠いし。アンタだって年番方だもんね。ってことは、諸悪の根源は老中首座の水野忠成ってわけで、その手先になって動いているのが忠邦ってことね」


 政憲は答えを聞くと、笑みを浮かべながら満足そうに頷いた。


「水野一派の中でも忠邦という男はかなりの切れ者と聞いております。なんせ、この私を出し抜くほどですから」


 両手を広げて言う。忠春は眼を細めて政憲を見つめた。


「冗談なのか本気なのか分からないけど、その自信はどっから湧いてくるのよ……」

「ハハハ、軽い冗談ですよ。それに、私自身、水野一派の台頭を危惧しておりました。これ以上政道がずれでもすれば幕府は終わりますからね。そんな折に江戸への出頭命令が下り、こうやって忠春様のような向こう見ずな仲間が増えた。こう見えても喜んでいるのですよ」


 政憲はそう言うと笑って見せた。だが、いつも振りまいているような胡散臭い笑顔にしか見えない。忠春は再び眼を細める。


「……その言葉信じてもいいの?」

「私の言葉に二心はございません。正しい政道を貫き、上様を助ける。そのためには水野一派をどうにかしないことに始まりません。町奉行に忠春様が選ばれたのは、繰り広げられている政争とは無関係の人物だったからかもしれませんね」


 忠春は深く息を吐いて言う。


「過去の歴史を振り返って下さい。重要な局面では常に女性が活躍されてきました。鎌倉幕府の北条政子しかり、足利氏の日野富子しかりね」


 にこやかな表情を見せるが、上がって来た名前がおかしい。


「……アンタの挙げた例ってイワくつきばかりじゃない。日野富子なんて幕府が滅びかけてるし」

「それなら崇源院や春日局ではどうでしょうか。どなたも我ら幕府を支えた女傑ばかりですよ」


 毒づいた忠春だったが、絶え間なく喋りつづける政憲の真意が分からないほど愚かでは無かった。ふうと息を吐いて言った。


「選ばれた理由が“経験が無いから”だとか“女だから”みたいで何か癪ね。でも、いいわ。アンタの言葉を信じましょう。それに、全く期待されてない方がやりがいがありそうじゃない」


 忠春は政憲の眼前に右手のひらを差し出した。


「その意気です。私も出来る限り忠春様をサポート致します」


 政憲も右手を差し出して固い握手をする。だが、話す言葉に見知らぬ単語があった。


「それで、そ、その、さ、“さぽーと”ってのはなんなの?」


 忠春は見知らぬ単語に目を白黒とさせる。


「ハハハ、思わず長崎時代の言葉が出てしまいした。簡潔に言えば“お助けする”ってことですよ。なんせ、ほんの今までは西洋が身近な所に合ったもので、言葉が抜けきらないのですよ……」


 再び笑みを浮かべる。政憲の言葉の端々にある、清々しいまでの嫌味っぽさが忠春を刺激した。


「……ずっと思ってたんだけど、その笑顔と言葉遣いはわざとやってるの? なんか、無性に癪に障るんだけど。さっきの言葉を真に受けた私を叱ってやりたいくらいにさ」


 忠春が差し出した手のひらを引っ込め、政憲に向けて握り拳を固めた時だった。

 御用部屋にとある男女が入って来る。


「まあまあ忠春様、落ち着いてくれって。事件だって過程はどうあれ解決したんだ。気にすることはねえよ。まあいいじゃねえか」

「はつちゃんおっはよう! 私の記事を嘘八百だなんて酷い言い方するんだね」


 文に衛栄がやって来た。どうやら話を聞いていたようである。文は少しばつの悪い顔をしている。


「何よ時の人。話を聞いてたなら入って来なさいよ」

「いやぁ、重要そうな話をしてたじゃないですか。文は入りたがってましたけど、適当にフラフラしてたんで、何にも聞いてませんよ。聞いたとしても政憲様の笑い声くらいのものですから。だからご安心ください」


 衛栄は肩をすくめてみせた。


「……まぁいいわ。それよりも、アンタはこれでいいの?」


 ふくれっ面の忠春は瓦版を衛栄の眼前につきつける。


「時の人は忠春様じゃないですか。それに、俺は構いませんよ。忠春様が立派になられれば俺は満足ですから」


 忠春の言葉を衛栄は気に止めることも無く平然と答えた。いつもの様な軽薄な喋り方だ。


「アンタにそんな風に言われるのも何か癪ね。だけど、嬉しいわ。ありがとう」忠春は悪態をつきながらもこそばゆい。頬を赤らめて少し照れた表情で答える。

「そうですよ、我々の仕事は忠春様を支え、江戸の市中に安寧をもたらすのが仕事です。忠春様はどんと構えておられればいいんですよ」

「いまいち釈然としないけどまあいいわ。また何かあったら私に言ってちょうだい。上とは私がしっかりと話はつけるから」


 衛栄らと同じように御用部屋へやって来た義親の言葉に、忠春も素直になっていつもの調子に戻る。


「そうです忠春様。それでいいんです」


 そんな忠春の姿を見て政憲が呟く。すると、廊下を駆ける音がして、部屋に義親が飛び込んできた。


「忠春様、神田で起きた火消し同士の件の裁判をお願いします」

「御苦労さま義親。今からいくわ」

「ははっ、承知いたしました」


 忠春は長い髪を手でかきあげると襟元をピシッと伸ばす。

 そして揚々と白州へと向かって行った。



春風吹く(完)

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