意外
「繋ぎの話では相手は6人。見かけたのが山谷堀を渡ったあたりだそうなので、いまごろは今戸町でしょう。どうしますか忠景様」
距離は南へ10町ほど。今戸町からここまでは四半刻も掛からない。
佐嶋は窓辺へ移動してひたすら南を見ている。梅雨明けで大川の水かさが増しているからか、渡しの近くに人通りはほとんどない。
ひとまとまりの集団で来れば、まず簡単に見分けがつくだろう。
「……表に出ましょう。お二人は腕が上がったとはいえ、室内での剣戟は不慣れだ。6人であれば3人でもどうにでもなる」
「なんとまぁ、大した自信ですねえ」
忠景の言葉を聞いて国芳がこぼした。これが素直な感想なのだろう。
国芳に悪意は無いのだろうが、「呑気なものだ」と言いたそうに佐嶋が呆れ顔で視線をやっていた。
「国芳殿。正直、あなたを護り切れるか分かりません。危ないと思ったら裏口から逃げてください。多分、大丈夫でしょう」
「いやいや、御三方が戦ってるんです。私だって私の戦いをいたしますよ」
それでも国芳の言葉は妙に上機嫌だった。やはり、こういう場面を面白がっている。佐嶋は黙って視線を南の方へと向け、桐も迷惑この上ないと思わざるを得ないと思った。
「……でしたらお好きになさってください。あなたの絵は好きですが、今後見られなくなるのは残念です。もっと買っておけばよかったと思います」
「その言葉は絵師冥利に尽きますね。とにかく書きあげれば適当に隠せばいい。私がすればいいのはそれだけですよ」
「多分、あれではないでしょうか。明らかに雰囲気が違う」
そんな中、窓辺で身を屈める佐嶋の指先に、浪人の一団がいた。
腰には大小を差し、髷も立派に結っているがどこかもっさりとしている。身なりもそれなりの物を来ているようだが、どこか着崩して悪ぶったような風であった。
ここいらには大名や商人らの別邸が多数あるとはいえ、まず、この辺りで見かけるような人種では無い。遠くから見ても体つきはがっちりとしている。屈強そうな男の集団だった。
しかし、である。
その一団を眺めた忠景はポツリと呟いた。
「……妙だ。これでは私一人でもなんてことはない」
意外な言葉だった。桐と佐嶋は同時に忠景へと視線を移した。
「どういうことでしょうか。前にやってきたのはかなりの凄腕でしたよ」
「残念ながら姫子と同意見です。冗談を言っている場合ではないのでは」
詰め寄る二人にたじろぐ忠景は、無精髭を数度指先で撫でながら言った。
「……その、多くを語るのは苦手なので、どう言えばいいのか分かりませんが、あの手のモノは大したことが無い。なんて言えばいいんだろうか」
歯切れの悪い忠景に佐嶋と桐は互いに向き合った。傍から見れば、彼女らの頭上には疑問符が浮いていたことだろう。
当の忠景もバツが悪そうに頭をかいていた。それから、ため息交じりに言った。
「……とにかく打ち合えば解ります。私が先んじて出ます。それからお二人は来て下さい。くれぐれも油断なされないよう」
簡単な差配を受け足音を殺しながら階段を降りてゆく。窓から大川を眺めたら先ほどの絵師たちが対岸へと渡っている最中だった。まず、逃げ切れるだろう。
2階に残った国芳は紙を向き合っている。進む筆の音から察するに進みは良い。こっちの方の問題も無いだろう。
心の準備は出来ている。覚悟に鈍りは無い。
刀を握る手は当然固くなる。過去の自分を超えられるのか。これは、自分自身との勝負でもあった。
○
結論から言えば、6人の刺客はなんてことは無かった。
「……表を閉じ、相手の不意を突いて仕留めます。後からついて来て下さい」
まずは忠景の事前の言葉通り、まず表を閉じ切った。
その少し後にやって来た刺客の一団は、どうしようかと扉の前で思案する。それが少し続き、頭領格の男が号令をかけようと各々に指示を出そうとした瞬間。忠景は単騎で扉を蹴破り打って出た。
「にゃ、やろ……!」
「くそっ、バレて……」
その飛び出し際に忠景は相手の一人を斬り、それから振り返りざま。返す刀でもう一人を打ち棄てた。相手に言葉を言わせる隙も与えない。一瞬の出来事だった。
二人を斬ったというのに忠景の刀身には血飛沫一つついていない。手際は見事としか言いようがなかった。
それからは事前の指示通り、桐と佐嶋がほんの数秒遅れて打って出た。既に相手の頭領格は真っ青である。
桐は一瞬、忠景は人違いで彼らを斬ってしまったのではないかと不安になった。それほどに彼と彼らの間には実力に開きがある。
しかしその杞憂はすぐに吹き飛んだ。相手方の一人が、刀を抜いて桐に向かってきた。
「こっちだって仕事だから恨むんじゃねえぞ。喰らいやがれえ!」
確かに相手の方が背丈が7寸ほど高いかも知れない。間近で見た時の迫力は窓から見た時とは大違いで、見上げる形になっていた。
それでも、である。
まず、相手の大振りには隙が多すぎた。大振りを見た瞬間、忠景であれば、相手の男は大きく口を開けたまま簡単に熨せられているだろう。
桐ですら、それら全ての所作を見てからでも刀を抜いて、相手のしぐさを全部見たうえでも防げる。牛込御門の屋敷で教わっていた道場剣術の師範の方がよっぽど強かったかもしれない。それほどまでに未熟な相手だった。
相手に合わせて桐は刀を向け直し、峰に右手を添えながら膝を曲げて手本通りにその一撃を受けた。
一撃は確かに重い。膝のバネが軋み、痛みを少し覚えるほどに圧力はあった。
それでも、真正面からしっかりと受け止められてしまっている。相手もまさか、良く分からない娘御に俺の一撃が受け切れるはずも無かろう、とタカを括っていたのかもしれない。冷や汗一つ流さない桐の姿に大男も驚いていた。
しかし、桐の驚きは間違いなく相手以上だっただろう。まさか、こんな簡単に受けられてしまうのか、と。桐の驚く大きな眼は更に丸みを増した。
大男は唇を噛みながら、負けじと力を込めながら体重をかけて来た。こうなってしまうと確かに辛い。体格差はどうしようもないし、これを跳ね返す力は持ち合わせていない。桐の首筋に汗が一筋伝った。
とはいえ、こうなってしまえばなんてことは無かった。
相手の力を徐々に右方へと受け流して半身になって刀を弾くと、動作はそのままに相手を横薙ぎに斬りつけた。負った傷はごくごく浅かっただろう。人を斬ったのは初めてだったが、それほどの手応えは無かった。それでも、大男は大きく地面へ突っ伏している。なんとまぁ、あっけない。それが桐の感想だった。
怪訝そうに突っ伏す男の背中を見つめながら、残るは3人か、と、桐がふと右を見たら、佐嶋は向かいあっていた2人を既に片づけていた。
彼女は桐と同じように表情一つ変えていない。いつものような鉄面皮である。ただ、相手が2人だったため肩で少々息をしこそすれ、汗一つ垂らしていない。もっとも、刀身は鮮血に塗れていたが。
「なるほど、言いいたかったのはこういうことですか」
佐嶋がつまらなさそうにそうこぼしたと同時だろうか。忠景と向かいあっていた頭領格の男は膝から崩れ落ちた。1分も経っていないのかもしれない。勝負は簡単にカタが付いた。
「……とにかく御無事でよかった。縛りあげますので、国芳殿も手伝ってください。いずれも傷は浅くしていますが、血が出過ぎれば死にますので町医者をお願いします」
佐嶋は街中へ足を運び、適当に引き連れて来た町医者に素浪人らを手当てさせた。
そのうち、繋ぎに引き連れられた火盗改の保護を受けて、国芳も去って行く。その際、やはり、あの時見せたような満足感がほとばしっている。素直にいい迷惑であると思えた。
ただ、唯一、考えなければならない問題があるとすれば、文のことである。
一足先に隠れ家を後にした彼女がどこかに連れ去られたり切り捨てられる心配はするまでもない話だろう。裏路地や水道をくぐって江戸中を駆け回っていくはずだ。
だが、彼女が居なくなったと同時に襲撃者の報が入った。あくまでもここが国芳らの隠れ家であるということは身内以外知る由も無い。
だとすれば、誰が彼らを手引きしたのか? それだけが心残りであった。
○
不夜城のふもとにある評定所。明かりは消えることが無く、絶え間なく仕事が続けられている。
その中央に居座っているのが鳥居耀蔵である。
彼女の一室には常に人が行き交い、続々と寄せられる文書の応対をし続けている。その人の波に一人、女性が混じっていた。甘ったるい声を放ちながら、人混みを切り裂いて行った。
「あれあれ、お久しぶりですね鳥居様。お元気ですかぁ?」
声の主は屋山文である。
ひょっこりと現れた彼女の登場に、耀蔵の眉間にしわが寄った。
「……貴様を呼んだ覚えは無いぞ。消えろ」
「いやいやぁ、ちゃんと呼ばれてますって。ほら、御老中様に」
文は胸元から取り出した書状を指先で掴むと、ヒラヒラさせながら耀蔵に見せつけた。
一瞥し、すぐに視線を文書に戻して事務作業にかかろうとしている。だが、その筆先は震えていた。
「なんでも、ここの奥でお話があるそうなので、来たんですよ。今日、私が現れるだなんて意外でしたか?」
文はにやりと笑い、それから横にいた良弼へと視線をやった。耀蔵もそれに合わせるように首を横に振った。
当然彼は無言である。両手を背中にやって口を結び、何も無い壁をひたすら見続けている。
「そうそう。今日、抱えてる絵師が刺客に襲われたそうなんですよ。北町の月番ならともかく、鳥居様の庭先でこんな事が起きるだなんて怖いですよね」
耀蔵は黙ったまま鋭い目尻を更につり上げて文を睨みつけている。
並の与力なら震えあがる所だが、彼女の視線を一点に浴びながらも文の言葉の調子は変わることが無い。
「たまたま居合わせた用心棒が何なく対処したらしいんですが、誰の仕業なんでしょうかね。これじゃあ一人で町も歩けませんよ。ほんとにこわいこわい」
「消えろ。水野様に用があるなら私に構うな」
良弼は無言を決め込み、耀蔵は舌打ちをして人払いしようとしたが、それでもなお文は柔和に微笑んでいる。
狼狽する回りを横目にしながら、とたとたと鳥居の方へと歩み寄ると対面に机越しにしゃがみ込んで言い放った。
「……舐めんじゃねえぞ妖怪。この一件でこっちの考えも変わったからさ覚悟してね。解散にかこつけて私らを潰したければ潰せはいいよ。その代わり……鳥居様もあの世に道連れだからね」
瞬き一つしない文は満面の笑みだった。一瞬たりとも視線を逸らすことなく、耀蔵の両目をしっかりと見据えて言葉を叩きつけた。
耀蔵は何か言いたそうに口の中で言葉を回しているが、考えがまとまらなかったのかもしれない。回り続ける言葉が口外に出ることは無かった。
「それじゃ跡部様も失礼しますねぇ。いやぁ、今日はほんとに災難ですよね。 ……うんにゃ、本当は運が良かったのかな、今私が居るのは跡部様のお陰だもんね。なんつって」
文はそのまま満足気に跳ねながら奥へと進んで行った。当然、振り返ることなんかはしない。自信と威信に溢れた背中を耀蔵と良弼に見せつけながらの退場だった。
彼女の前では全ての目論見は完全に看破されているのかもしれない。そう思ったのだろう。良弼の背中は薄ら寒さが素通りして身震いをし、耀蔵の握っていた筆は音を立てて真っ二つに折れた。
廊下の先から聞こえる足音は依然として軽やかに刻まれている。それから襖が開く音が遠くでし、そのままパシャリと閉じられた。