揺れる思い
「どうしたどうした。今日は桐さん一人かい」
「表で忠景殿が見張っています。ですので問題ございません」
今度の隠れ家は地下ではなく、火盗改の役宅の程近くの本所深川にある安宿の一室である。
深川の辺りは木場や大名家の下屋敷が多くある江戸の中でも比較的新しく出来た街であり、市中を司る奉行所といえども爆発的に膨張し続ける江戸を完全に掌握するのは不可能と言ってよく、この辺りは特に目に付きづらい陽の当たらない街である。隠れるにはこれ以上無い土地と言えた。
そんな入り組んだ路地を更に奥へ奥へと進んだ所に国芳の寝所はある。応対にやってきたのは歌川広重だった。
その広重も、忠景の話ではかなりの大物であるとの話だったが、変に仰々しく威張ることもない。かといって堅苦しいことは無いし、へんに難物であるということも無い。気のいい隣近所の親方といった風情であり、かなり親しみやすい人柄であった。
「その、国芳殿はどちらに」
「あっちで下書きをやってるよ。草紙会までひと月切った。上手い具合にまとまらないんだとさ」
広重は桐を通すと御禁制品の煙管に火を付けた。それから、鈍く光る火皿を隣室へ向けた。
その先では確かに、国芳が渋面のまま机と向かいあい、それを数名の男たちが不安げに額に汗をかきながら見守っている。
「周りにいんのは弟子の連中さ。ヤツがさっさと下書きを仕上げなきゃ先の工程に進めねえから困り顔さ。ま、一番焦ってんのは本人だろうけどよ」
広重はケラケラと笑いながら国芳の筆致の先を眺めた。
桐からすれば息を呑むほどに細かな線が走って行く。その一本一本が繋ぎ合わさった瞬間、一つの絵が誕生する。
だが、書けども書けども、出来あがったであろう作品をすぐにくしゃくしゃに丸めて放り投げるの繰り返しである。
足元に落ちている丸められた紙を桐は広げてみた。書きかけの下書きでですら、床の間にでも飾ればそれなりに恰好が付くほどの達者な物であり、作品であることは素人目に見ても分かる。というより、素人はこの程度でも間違いなく満足する。
しかしこれでは満足はしないのだろう。国芳は無言のまま天井に視線を送り、それからすぐに筆の軸先をこめかみに数度当てると紙へと向き合って何度も何度も筆を走らせた。
「時間はかかるだろうな。それが命取りにならなければいいんだけどねぇ」
「……確かにそうですよね。ここに長居すればするほど場所を悟られる可能性が高くなりますし」
「ちなみにだが、お前さんたちはつけられちゃいねえよな。江戸一番の汚れ役の火盗改には余計なお節介かもしれないが」
「だ、大丈夫ですよ。そりゃぁ、もう……ね」
広重の言葉に桐は急に不安になって来た。
水野派に属する大版元の屋山文はこちらの動きを悟っていた。つい先日の出来ごとだ。そこから鳥居らへと漏れ伝わっているかもしれないし、はたまた鳥居らはこちらの動きを既に掴んでいるのかもしれない。
ひょいと目を逸らして冷や汗を一筋流した桐を見て、広重も苦笑せざるを得なかった。
「おいおい、勘弁してくれよ。俺のは冗談だっての。なんたって凄腕なのがここを見張ってるんだろ? だったらそりゃもう、アレだろ。大丈夫だろ」
「え、なんですか。屋山様がいらっしゃるんですか。よくもまぁ、こんな所を見つけ出しますね。まぁ閉じこもってるよりかはマシかもしれませんけど」
「冗談じゃねえ。一応秘密の隠れ家だぞ。来るはずねえ……」
黙々と筆を走らせていた国芳だが、屋山文という単語に気が付いたらしい。筆の動きは止めないまま、軽く笑いながら答えた。
国芳の話し振りから察するに隠れ家の位置に関しては多少の自信があるらしい。もっとも、市中で人気があり、かなりの知名度を誇る彼を守ろうとする町人はごまんといるだろうし、そこはそうなのかもしれない。少なくとも桐はそう感じていた。
それでも、万が一ということもある。隠れきることができる反面、あの水野や鳥居といった人間が見つけ出すのかもしれない、という可能性が無いとも言い切れないのが、彼女らの発する不気味な雰囲気のなせる技なのかもしれない。
「いや、ほんとに来ませんよね。ほんとに」
「なんたって江戸の奥の奥だぜ。辺り近所はこっちの味方だ。余所物がここいらを歩けば情報がこっちに届く手筈になってる。それにあの、凄腕がいるんだ。見つかるはずねえ」
「そりゃぁ、そうでしょうね。忠景君の警固やらを振り切って隠れ家に入れやしないでしょ」
引き戸ががらがらと開くと共に桐らの耳に入ったのは、聞き覚えのある甘ったるい声色。
息を呑み、ゆっくりと振り向けば、そこには見知った顔がいた。
「……うわ、出たっ!」
扉の音とともにやってきたのは屋山文だった。
柱にもたれ掛かり、右手をヒラヒラと振りながら柔和な笑みで桐らの事を見ている。桐らの背筋は凍っただろう。
「人をお化け扱いにしちゃって失礼だなぁ。ねえ、桐ちゃんもそう思うでしょ?」
「……何をなさりにきたんですか。母の友人とはいえども場合によっては……私だって容赦はしません」
どこから文がやって来たのかは分からないが、とにかく桐はすぐさま半歩引き、腰を落として刀の柄に手をやった。
殺気立った桐に丸腰の文もたじろいだのだろう。桐と同じように後ろへ半歩引き、警戒心を解こうと身振り手振りを交えながら言った。
「だから何もしないってさ。この二人は大事な絵師さんなんだよ。いくら私が火盗改の役宅で憎まれ役を演じたからって、わざわざ桐ちゃん達を奉行所に売り渡そうだなんてするわけないでしょう」
「……本当にですか?」
「……いやぁ、そんな綺麗な目で見つめられたら嘘はつけないけど、まぁ、そうだね、うん。やらないよ」
相も変わらずに緊張感の無いもの言いを続ける文などはまったくもって話にならない。それは桐だけではなく横にいる広重や、奥の部屋で集中していた国芳も同様に思っていたはずだ。桐が刀の柄を握る手は自然と強くなった。
広重すらも視線を文にぶつけたまま息を殺して後ずさりしようとしている。ついさっきまで砕けていた空気も徐々に張り詰めていた。
それでも、文は変わらない調子で続けた。
「でもぉ、私がつけられてたら話しは違うかなぁ。ほら、みんなが知ってる通りこう可憐な文ちゃんだって幕府の重要人物な訳だから、南町の監視下には置かれてる訳だしね」
「おい、国芳、筆置いてさっさとズらかるぞ! いや貴重品だけでも持って……」
「私は人を斬るのは初めてですが鍛錬は積みました。苦しまないように一瞬で……」
「いやいやほんとにほんとに嘘だって。尾けられちゃいないしほら、国芳さんは集中して絵を書いて広重さんは適当にそれを見ていなよ。そもそも私だって二人の草紙会に出す作品は楽しみなんだからさっ!」
へらへらと笑いながら語る文の言葉など、桐は信じられなかった。
煮え切らぬ態度というか、どっちに彼女の本心があるのかが全く分からない上、こうやって相手の反応を見て楽しんでいるであろう振舞いである。
桐はそんな人間への対処方法を知りえない。ただただ警戒しながら、目を細めて彼女の様子をうかがうことしか出来なかった。
「……本当につけれていないんですか」
「そんなゴミを見るような目でこっちを見ないでよ桐ちゃん。……まぁ、長谷川様の所じゃ嫌味な所を見せたけど、このご時世だからね。株仲間の解散なんてのはもってのほかだし、そもそも一人の出版人としては、厳しい検閲とか今の取締はどうなのかとやっぱり思う訳だよ。そこいくと国芳さんや広重さんが活き活きと絵を描いてくれなきゃ面白くないしね、分かるかな?」
「いやいや、そうは言っても文さん。私も桐さんと同じ気持ちですって。ずっと気になってたんですけど、本当にそう思ってんですか?」
「そりゃぁもう、ね。じゃなきゃ今頃みんなそうだなぁ、『これやこの行くも帰るも別れては~』ってヤツだよ」
冷や汗を一筋垂らしながら語る文の言葉が全く伝わらない。しかし、敵愾心が無いのはなんとなくわかった。
桐はいまいちピンとこないまま刀にやった手を戻すと、黙ったまま文の両目を見据えていた。
「あれ、さすがに小倉山は有名だと思ったんだけどなぁ。桐ちゃん逢坂の関って知らない? みんな離れ離れ的なアレよ」
「んな風流に斬首を表現しないで下さいよ。笑えますけど、笑えませんって」
国芳と広重は苦笑するが、桐には意味が分からない。
屋山文はあくまでも水野や鳥居らの手先であったはずだ。少なくとも役宅や瓦版を見る限り、そうとしか思えなかった。
しかし、今は違う。
保護している国芳と笑えない冗談を飛ばしながらにこやかに談笑し、その輪に広重までもが加わっている。
彼らは仕事で付き合いがあるとはいえ、自身らの表現の自由を脅かすであろう相手に対してなぜこうしてにこやかにしていられるのかが分からない。
「二人を守ってるのが意外かな? さっきも言ったけど、私だって人なんだからさ、ああやって喧嘩腰に来られたらこっちだって腹が立つってもんよ。訳も分からずに喧嘩売られたら広重さんだって怒るでしょ?」
「まぁ、そりゃぁそうでしょうけどね」
「国芳さんも広重さんも後世に残る絵師に間違いなくなる。そんなの書くものを見たら一発で分かるしね。でも、今はそんな世じゃない。考えが違うからって、ただただ敵に真っ向から対峙したって勝ち目が無い時はこっちだけあの世行きでしょ? ちょっと前に死んじゃった町奉行と同じでさ、そんなのって何の意味ないじゃん。文字通り無駄死にだね」
長々と語る文の目はやはり澄んでいる。いかに相手が文の事を信じておらずとも、当の本人は決して目を逸らすことは無いし、自身の思いを伝えようとしている。
とは言っても、それが本心なのかどうかは、まず分からない。桐も短時間ではあるが精一杯その言葉を咀嚼し、糧にしようと努力はした。
……やはり読めない。目の前で多くの言葉を放つ女性の真意は全く見えなかった。
そんな中で、やっと言えた言葉は一つだけだった。
「……それなら文さんはどうなさるおつもりですか」
桐の言葉を聞いた文は笑っていた。声は出していない。現在の将軍の名や、簡単な算数の答えを導き出すかのように、堂々と、当然のように答えた。
「どうやって生き残るかを考える。それが色んなものを背負ってる人のすべきことでしょ。まぁ、色んな考えがあるんだろうけど、私はそう思うし、そうやって行動してきたの。いまいち理解されないんだけどね。それにほら、長谷川様には火盗改の長官っていう立場もあるしね、あそこでは大きく突っ張らなきゃいけない。それは私だって、ね」
「それって、つまりは……」
文は気ままに言葉を発し、桐の言葉に何かを残す訳でもなくそれからすぐに背中を向けた。とたとたと鴨居をくぐり隠れ家を後にした。
「二人は頑張って書いてよ。じゃなきゃウチとの契約は打ち切るからね」
確かに、前と違って彼女の側に寄り添う屈強な男たちはいない。背伸びして体を何度か傾けながら歩いて行く。早朝に、そこいらまで散歩をしているかのようだった。
「……ほんとに疲れるな。ほんのちょっとの時間ですらもああやって上下左右に揺さぶられるわ」
「んなこと言われたらネタは浮かびませんよ。まぁ、多少気は晴れましたけど」
「なんというか、国芳さんに広重さん。あの方はいつもああなのですか」
「……いつもの事なのでまぁ、気疲れはしますけど、だいたい適当に生きてますからね、あの人。大岡様もお思いかと思いますけど、あの人の言葉は文字通り半分に思ってた方が良いですよ」
「ま、ほとんど思いつきの適当なんだろうから、俺は話し十分の一程度にしか思っちゃいないけどな」
「残念だけど全部聞こえてるよー。ロクな作品作れなかったら、ホントに契約打ち切っちゃうし、今後の配分金は半額にするからねー」
「あっ、ちょ、どこから入って来たんですか。早く帰って……」
思い思いに愚痴る国芳と広重の言葉はしっかりと耳に入っていたらしい。道の先から文の声が聞こえた。そのすぐ後から忠景の戸惑いの声が上がった。姿は見えないが分かる。文は確実に笑っていた。
残された人気絵師二人はドッと疲れただろう。それでも、二人の顔に悲壮感は無い。どちからというと、近所の悪ガキにでも庭を荒らされた家主というか、どこか「まぁ、仕方無いよな」といったような、悪ほうではない諦めの感が強かった。
「……俺は作品が上がってるけど、お前さんは頑張るしかないな」
「言葉半分とはいっても、文さんにあそこまで言わせたんならやるしかないな。色々と考えるからネタをくれや」
つい先ほど見せた、反体制側としての屋山文。
苦笑をする国芳や広重にとっては貴重な支援者であり、自身らが作り上げた作品を世に出すためには彼女の力を使わなければならない。
そして火盗改の役宅で見せた体制側としての屋山文。
当の文は様々な統制をおこなう南町奉行所の走狗として市中の情報を伝え、現体制の反対派にとって不利となる情報を常に市中へ広め続けている。
何度会っても、屋山文という人間の本質とは何なのかが全く分からない。
国芳の筆が一向に進まないように、桐の考えは纏まらない。それからは畳に腰掛けて薄い茶を啜りながら国芳の筆致を眺めていたが、頭の中は、常に屋山文は何者なのかという思いが渦巻いていた。
○
桐が火盗改の役宅に戻ると、すぐさま頭領である長谷川宣冬に呼び出された。
忠景に通されると、そこには遠山景元、そして筒井政憲の姿もあった。
とにかく桐は隠れ家での話を事細かに宣冬らに伝えた。
政憲は何度か頷きながら面白そうに話を聞いていたが、着流し姿の遠山景元は、苦笑しながら舌打ちした。
「また来やがったのか。ほんとにアイツはよく分からんな。衛栄が聞いたら薄い頭も一瞬で禿げ上がるだろうな」
「文殿はなかなか精力的に活動されているんですねえ。昔の馴染みが元気にしているのは、まぁ、悪く無い気分ですが」
「筒井様、呑気なことを言っている場合ではありません。事の次第を隠すと言っているとはいえ、動きが連中に筒抜けということであれば我々かなりの窮地に立たされているといっていい。特に火盗改はかなり危ない」
宣冬の季節に似合わない冷えた言葉に、政憲は肩をすくめた。
あの場ではなんとなく屋山文の言葉の通りに隠し通すんだろう、と桐も思っていたが、確かに冷静になって考えてみれば宣冬の言葉の通りで、事態がどう転ぶか分からない。
とは言うものの、屋山文は本当にそういう手合いなのか、桐にはにわかには信じられなかった。
「あの、宣冬様や遠山様はそう仰りますが、文さんは今の世をかなり愚痴っぽく話していましたが」
「桐、アイツの話なんてのは聞き流す程度でちょうどいい。昔からアイツの言葉は薄っぺらい。真に受けたらそこで終わりだ」
「その場その場で調子のいいことを言って桐様の関心を引いてるだけだ。国芳や広重に見限られたら屋山家の作品なんざ誰も買わないだろうしな」
景元も宣冬も、屋山文へは手厳しい評価を下しているのだろう。言葉の節々には棘を感じた。
桐は釈然としない。そうは言っても、やはり思う所はあった。そんな桐の思いを汲んだのかもしれない。政憲は顎髭を触りながら言った。
「まぁ、彼女も微妙な立ち位置なのでしょう。とはいえ、私たちに変な肩入れをしなければ、後腐れなくてお互いの関係はいいのかもしれません。桐様はそこが引っかかるんじゃないんですか」
「忠春様の一件だって、もう誰も恨んじゃいない。ちょっと前の矢部様の件だってそうだ」
ここに来て知らない言葉が出て来た。
ほんの少し首を傾げた桐に景元らは気が付いたらしい。先に言った。
「そうか、桐様はご存知ないのか。無理もないが」
「矢部駿河守定謙。鳥居の前任の南町奉行だ。つい先年、鳥居らに嵌められて首にされたがな」
「彼は忠春様の後任として大阪町奉行となり、その功で江戸の南町奉行となりました。優れた男でしたが、そこで私のように臨機応変に色々とやってしまったんでしょうね」
「鳥居は些事に塵芥を付けて大きな罪にしやがった。そんで矢部はクビで蟄居の身。謹慎中に絶食して餓死したそうだから、本当に身の覚えは無かったんだろうよ」
鳥居に矢部、お互いにそこまでするのか、というのが桐の率直な感想だった。
また、文が言っていた『無駄死に』、というのは彼の事なのだろう。
罷免されても、復職の機会がその後に無い訳ではない。汚名を雪ぐこともできず、市中へ不安を残してだけ死んでゆくのは、彼女に言わせれば無駄ということなのかもしれない。
「病気やらならともかく、現職の町奉行の罷免なんてのは大事件だし、その数月後に死んだんだから多くの噂が立った。それに、その後任が耀蔵なんだから直の事始末が悪い」
「そもそもとして矢部殿は水野忠邦に推挙されて町奉行の役に付きましたが、その後は距離を取ってました。水野にとっては消すべき人間であったには違いありませんけど」
「いくら幕府に忠義を尽くそうが、ヤツの気に食わなきゃあの世行きさ。世知辛いね浮世だね。ほんと」
景元は笑った。当然、楽しげなものではない。自身の境遇と照らし合わせたかのような嘲る笑いだった。
「なんだなんだ、今のひと言はやけに実感がこもってるじゃないか。これにて下町の悪童・遠山金四郎もこれでお役御免か?」
「景晋様と不仲だったあの頃が懐かしいですねえ。何もかもを捨てて昔に戻るのも悪く無いかも知れませんよ」
宣冬と政憲は茶化すように言い合っている。景元はそれらを鼻で笑い飛ばすと、大きく息を吐いた。
「馬鹿言え。こんな所で終わってたまるか。それに鳥居も株仲間解散に本格的に動き出している。近々御触れが出るそうだ。梅雨明けという風に聞いているが」
桐も当然の事、笑っていた宣冬・政憲も凍った。しかし、正気は失われていない。目はしっかりと先を見据えているし、表情も強張ってなどはいない。
「市中じゃ商業はぶっ壊れて失業者や無宿人が溢れ出るだろうな。こっちの方も、なかなか骨が折れそうだ」
「……長梅雨だっていつかは明ける。こうなってしまったからには如何にして、被害を抑えるかを考えるしか無いさ」
株仲間の解散が、江戸にいかほどの長梅雨をもたらすのかは全く分からない。
もしかしたら何もかもが上手くゆき、すぐに乾いた日差しと共に夏が来るのかもしれない。
だが、庭に咲く薄紫のアジサイを濡らす滴は絶えずに降り続いている。しかし、景元の言う通り止まない雨などは無い。いつかは止むことだろう。
ただ、それを止める事が出来るのは景元や宣冬・政憲、そして大岡桐しかいないと言っていい。国芳の保護もそうだが、市中の治世を糺すのも重大な使命である。
屋山文は何がしたいのか、はたまた株仲間の解散によって水野忠邦は何を求めているのか。
反水野派の頭目にされながらも、まだまだ何もかもが分からない。そんな中で知りえた知識も、景元や宣冬などから漏れ伝わって聞こえる物と、自らで動き回って見知ったぐらいのことしかない。
とにかく自らを信じて突き進むしかない。桐の決意は、日の本中の足元が雨でぬかるんでいようが、心の中でしっかりと固まっていた。




