矜持
梅雨の切れ間の今日、江戸の人々は久方ぶりの日の光を目にした。
水たまりやぬかるみを避けながら国芳が寝所にしているという小石川にある安宿へと足を運んだ桐らだったが、そこは既にもぬけの殻であった。
「……守るも何も、こう、これではどうすればよいのですか」
「絵師風情が調子に乗るか。どうなっても知らんぞ」
布団や寝具が散乱した一室の前で桐が毒づき、佐嶋が舌打ち交じりに踵を返して帰ろうとした時である。
「地下ですよ地下。友人がいますので来て下さい」
やはり歌川国芳の腰は低かった。衣服は前のような派手さは無く、それなりにまとまっており、顔料なのか良く分からないものと墨汁の苦さが混じったような、鼻を差す不可思議な香りを感じた。
ちょこんと穴から頭を出す国芳が手招きする先へと進むにつれ、その匂いは強まっている。それが不快かどうかと聞かれれば返答に困っただろうが、特段嫌な匂いでは無い。もっとも、桐にはいいとも思えなかったが。
一行が階段を下りて、蝋燭で足元を照しながら土剥き出しの地下道を進んでいく最中、行く先に一人の男が居た。
「国芳、それが例のお客さんかい。こっちだ。案内してやる」
心許ない明かりのため、はっきりとは見えないが、目の前の男は多分、国芳とほぼ同年代だろうと桐らは直感した。
背丈は国芳より顔半分ほど高い。きっと、国芳の仲間の一人なのだろうが、肩幅も広いため繊細な仕事よりも土仕事や力仕事を生業としているようにしか見えない。
「彼の名は安藤重右衛門。歌川広重という名で絵師をやっております」
「広重でいい。よろしく頼む」
短い言葉だったが、広重の口調は荒っぽかった。丁寧な国芳と比べて、どこか町子風の気風が見え隠れしている。
「まさか、広重というと、あの広重ですか」
桐の背後にいた忠景はわなわなと震えていた。
両手で口をふさぎ三日月ほどの細い目を、十五夜の満月のように丸くさせている。そう言ったものに疎いであろう横に付き添う佐嶋は当然、それを目を細めて眺めていた。
「……全くピンときません。彼はそれほどまでに有名なのですか」
「本当にご存知ないんですか。あの、あの、広重ですよ。『東海道五十三次』とか御存じないんですか」
桐は黙って頷いた。佐嶋も同じように頷いた。
「私は仕事柄、こうやって江戸に張り付くしかありませんが、あの五十三次を揃えて見た日にはもう飛脚気分ですよ。始まりの日本橋や、刀のような峻嶮な箱根の山々。桑名の湊と白い帆の先の庄野や関の山岳。そうした苦難を超えて京都の五条大橋に辿りついた日にはもう、きっと泣き崩れてしまうことでしょう」
忠景は雄弁に語った。身振り手振りも交えている。それでいても全くもって知らない。
外の世界を知る佐嶋ですらも知らないのだから、やはり歳の差は埋めようのないものなのかもしれないと思わざるを得なかった。
「そこまで言ってもらえたら絵師冥利に尽きるってもんだな。この御時世、なかなか肩身が狭くってね。若い頃は色々旅に出て大っぴらに出来たが、今じゃモグラと一緒に絵を描くしかないのさ」
それを聞いた広重は笑いながら語ったが、仲には怒りと疲れが孕んでいた。
すたすたと進んでいた国芳も、苦笑交じりに言った。
「版元も大方潰されて今じゃ潜りの絵師ばかり。ま、私らは本当に潜っていますが、ほとんどの連中は潜ることもできずに筆を折ってますよ」
「なまじ人気があった俺らも、屋山家に当たり障りのない絵を描いて食いつないでるが、ま、明日も知れねえわが身って所だな。世知辛いねえ、ほんとに」
「そのようなことはありませんよ。苦しかろうが、私らの心と箪笥の奥底で中でしっかりと輝いております」
「伊藤様には何度も褒めて頂いてありがたいんですが、今の絵師なんてものは華やかに見えても案外そんなもなんですよ。ほら、着きましたよ」
梯子を伝ってからは四半刻も歩かなかっただろう。
少し開けた空間で、蝋燭の明かりを頼りに絵師であろう数名が紙と向き合っていた。
彼らは我々の来訪に気が付いていないのかもしれない。黙々と筆を走らせ、墨を擦る。荒い息遣いとそれらの音しか聞こえない。
横を見れば、暗がりでも分かるほどに国芳は自慢げであった。この圧政の中、俺たちはこうやって志を貫いているんだ。日の光を浴びずとも、こうやって絵師としての本懐を貫いているんだ、と。
「どれも潜りの絵師です。草子会の季節も近いですからね。役者絵に春画、美人絵とかの何でもアリの作品をしたためている所ですよ」
「そういえば最後の草子会から十年近くぶりになるのか。思い切りぶちあげてやりたいもんだがな」
「桐殿、草子会と言えば昔、南町奉行所で会場の警固をやったんですよ。ほんとに、色々とありましたねえ」
中年3人が懐かしそうに、またやってやろうと握り拳を固くし合っている中、若い二人女子は何が何だか分からない。
察した忠景が簡単な説明をしたが、それでもぽかんと首を傾げている。
色々と聞いてやっと考えがまとまったのだろう。佐嶋が言った。
「懐かしいとはいえ、この御時世、命までも狙われている国芳殿が表立って行動するというのは、やはり危険でしょう」
その一言にそれぞれの郷愁は彼方へと吹きとんだだろう。
ならず者に片足一本突っ込んだ人間が、大手を振って非合法なものに手を染めるとなればただの過料では済まないだろう。
ましてや、そのような動きが中央に伝われば未然にそれを防ごうと動いてくるに決まっている。
それが鳥居耀蔵であれば、もはや言葉はいらないはずだ。
ただ、国芳らの覚悟は固かった。その言葉を聞くと、鼻で小さく笑い、腕を組んではっきりといった。
「私たちも必死なんですよ。周りじゃ役者絵や艶絵が禁止されて食い扶持が無いもんばかりです。私のような人間は器用に生きていけるかもしれませんが、世間の流れに乗れない奴の面倒を見なければなりません。師匠の豊国様そうだったように、私もそう思います」
「正直言うと、仕事のある俺は困っちゃいない。だが、絵師だからなんだという理由で捕まるのはまっぴら御免だね。それに筆一本で生きようとしてる連中が捕まって行くのを指くわえても見てらんねえ」
「だからこそああやって、絵師の心意気というか、つまらない気風をどうにかしようと派手なことをしてきたんです。こんな半端な所で折れてたまるかってんですよ」
少々恥ずかしそうにはしていたが、元人気絵師二人の言葉は強かった。
直接聞いた訳ではないが、北町奉行の遠山景元もそこまで見透かしているからこそ、国芳の罪状に対して過料1両で済ましており、心の底から『お前らなりの行動を存分にやってくれ』と、思っているのかもしれない。
間違いなく、何を言っても彼らは梃子でも動かないし聞かないだろう。それに、桐が成すべき行動は既に決まっている。
「当たり障りのない古典だなんだっていうのも、そりゃ面白いが黴臭い。町人らが求めてるのは生の人間の生き死にを描いた作品なんですよ。それと、笑いですかね」
「ここのところ、黄表紙作家の弾圧がひでえ。お前さんたちにこういうのもなんだけれど、しょうもない話を書いて何で捕まる? 面白れえ話を書いてなんで過料を払わなきゃいけねえ? 格好のいいものを格好良く描いて何が悪いんだ。お上も寺も仏も関係ねえ。笑ったり喜んだりすることになんの罪があるってんだよ」
「最近店で取り扱ってもらえるのは古典物に名所絵ぐらい。まぁ、書いてて面白いですが、こんなんばっかしか扱わないとなったら、話は別ですね。八百屋に行っても大根しか売ってなかったら何になる。何にも面白くない」
「皮肉の類いが気に入らねえとかケツの穴の小せえ連中だよ。甘いも苦いも全部吸いこんでの為政者だろうが。浮世を描かねえ錦絵なんざ、ただの便所紙だな。いや、それにも足らねえ屑籠行きよ」
国芳と広重の両名は語り合った。
当代を代表する人気絵師の二人の意見は合致しており、簡潔な意見にまとめられていた。
「……幕府は狂ってますよ、ほんとにね」
「……つい前までいた甲州の方が賑わってるての。こんな事をして何になる。文字通り何の意味も無い」
口を揃えて言う二人に、桐が返す言葉は、当然、無かった。
国芳らの独白を聞いても絵師たちは筆を止めることなく、ただただひたすらに筆を走らせている。一種の執念であり情念だろう。想像力に身を任せて筆で走らせれば、それを求めて色んな人たちが集まってくる。その魅力というのは変え難いものなのだろう。
絵を見た人々が想像力を膨らませ、夢見心地な気分にさせる。また、古物語の勇者たちに自分を重ねて明日への活力にし、それを目指して生きてゆく。それが人々の生きる糧になる。少なくとも桐自身ら武士には出来るはずもない仕事であった。
そう言ったことを、こうした弾圧に屈せず描いている姿を見れば、やはり娯楽の類いは生きる上で必要なのかもしれないと思わざるを得ない。
「御政道を批判されることを許さないだなんて、大御所様も北の方で泣いてるよ。まったくもってけしからん、ってね」
「鳥居耀蔵の厚化粧を見て馬鹿にすることも許されない。いや、ほんと、いかれた街だよな」
「……いや、それは本当に許されないと思うだけど」
それからも続いた広重や国芳の愚痴に小さく数名が噴き出した。初めて筆の動きが止まった。
国芳は咳払いをすると、腕を組み直して再度言った。
「とにかくだ。現実はこんなもんだよ。絵師や作家の数なんか、この渡世じゃ数百人足らずかもしれないけれども、こうやって苦しんでんだよ。でもよ、その数百人を苦しめれば、描いたものを数万十数万が苦しむんだぜ。それだけは分かってくれよ」
桐らは地下室を出た。顔料や墨汁の無い新鮮な空気を大きく吸った。どこか懐かしくも思えた。
半刻ほど明かりの届かない所から地上に出たからか、日差しがいつも以上に眩しく見えた。
まだまだ日は出ていそうである。早足で火盗改の役宅へと戻って行った。
○
江戸湾に沈みゆく夕陽を浴びながら、暮れ六つの初めに本所深川の役宅へと帰って来た。
「お、やっときたね大岡忠慶こと、大岡桐ちゃん。どもども」
役宅の門前をくぐると、見知らぬ小柄な女性がいた。
門を守る同心らと楽しげに話すその声色は軽く、彼女の声が耳に入るだけで、少しだけでも余計なことを口走ってしまいそうな余裕を見せてしまいそうになるほどに魅力に溢れていた。
実際、同心たちは仕事を忘れて彼女と似たような声色で話をしている。
そんな当番の同心らは、佐嶋の刺すような視線を浴びると、奉行所に戻ってきた桐らの姿を見てぎょっとし目を伏せ、すぐさま持ち場へと戻って行った。
背後にいた忠景は刀のハバキを鳴らすと、静かに言った。
「……桐様、下がって」
「忠景君も久しぶりだねえ。火盗改に入ったって聞いたけど、こうやって会うのは久しぶりかな。ほらそんな物騒な物から手を離してよ。昔の馴染みでしょうよ」
「お久しぶりです。それでもお帰り下さい文殿。あなたの居場所はここには無い。これ以上ここに居られると面倒事になります」
殺気だった忠景が刀に手をやったが、当の文の興味は別の所に注がれていた。
「いやさ、実の娘なんだから当たり前だけど本当にそっくりだよね。それに目元は義親君似かな?」
忠景を無視し、桐の上背に合うように背伸びをすると、その顔ををまじまじと見つめていた。
しかし、そこに関心や驚きといったものは無い。自分自身の丸い目を近づかせ、ただただ桐の表情をつぶさに読み取ろうとひたすらに見ているだけであった。
「何者ですかこの者は。さっさと摘み出しましょう」
佐嶋は呆れながら文の着物の緩い首元を掴んで門外へと引きずり出そうとした。
「あ! ちょっとちょっと、ひどいんじゃないんですかぁ? 私これでも町奉行所の関係者ですよぉ?」
「な、なんだと」
文の媚びたような声は良く響いた。
妙に甲高い女性の悲鳴である。武家地だろうが町人地だろうが関係ない。すぐさま、役宅の門前は野次馬でいっぱいになった。
「皆さん見ましたかぁ? 北町奉行所からの使いに手を出すなんて、かなりの不届き者ですよぉ。ほら、こうやって書状を持ってるのに」
「そんな、私はただ……」
「ひどいんですよぉ。町奉行所から使いに来たら、訳の分からない因縁つけられてぇ、この有様ですよぉ。火盗改って、そんなことするんですかぁ?」
佐嶋には言い訳が思いつかなかったのだろうし、してやられたと唇を噛んだ。
確かに、傍から見れば書状を手にした奉行所の関係者に手を下す火盗改の図であり、きっと何を言っても武士・町人らのどよめきは止めることは出来ない。
「あなた佐嶋忠介さんでしょ。江戸の女武士はそんなに数居ないしすぐに分かったよ。勝ち気な所は母親似かな? こんな所で出世の道が絶たれたら、お母さん悲しんじゃうよねえ。大好きな長谷川様とも一緒に居られないんじゃないかなぁ」
首根っこを掴まれながらも含み笑いをしながら上目遣いに送られる文の視線は、奥底が知れなかった。遠くで見ていた桐ですらも身震いしたし、当の佐嶋も掴んだ右手を離して一歩たじろいだ。
忠景やその他の与力・同心たちが必死に野次馬らを整理し、門を閉めたことでなんとか場は収まりはしたが、これで文の行動が治まることは無い。
すぐさま表情を元の柔和な物に戻した文は、着物を簡単に手で叩くと、とたとたと桐の元へと駆け寄って行った。
「そんなことはどうでもいいの。桐ちゃん、ほら、これ見てよ」
「……なんなんですかこれは」
「ほら見てよ。これを渡しに来たんだから」
文が取りだした一枚の文書。軽く目を通しただけで分かった。これは酷いと。
内容は株仲間の解散。江戸の商業が事実上、崩壊することを意味していた。長い事世間と遠ざかっていた桐だったが、出仕してからは市井の事に付いても色々と学んだ。
かなり浅い知識ではあるが、株仲間の解散がどれだけ危険を孕んだ行為であるかは簡単に理解できた。手にしていた紙ははらりと泥濘へと落ちて行った。
「“株仲間の解散”だなんて、いや、なんなんですかこれは。株仲間の解散だなんて、ありえるはずがない」
「ね。すごいよね。まぁ、毒なのか薬なのかは分からないんだけど、まぁ、これは毒だよね。でもさ、それだけじゃないよね。桐ちゃん、驚いた理由はそれだけじゃないでしょ? この事、知らなかったもんね」
「……私、遠山様からも何も聞いてませんよ」
「そうでしょ。そりゃそうでしょう。この手の仕事は町奉行所とかが取り仕切るワケだしさ。桐ちゃんの所に行くはず無いでしょ。あれあれ、もしかして桐ちゃん、遠山様のことを……」
桐は即座に答えた。文の語る通り管轄が違う訳だから話しが来るはずが無いのは分かっていた。
しかし、飾りなのかもしれないが、あくまでも反水野派の棟梁は大岡桐である。だとすれば話の一つでもあって良かったのではないか、とも桐には思えた。
桐自身は気が付かないほどに一瞬だが、文の話を聞いた時に眉を顰め、どこか心の奥底で遠山景元の事を疑っていた。
それをつぶさに汲みとった文の表情は、これから迎えるであろう真夏の青空のように晴れ晴れとした。
「……どの面下げて来た屋山家の主。お前たち、コイツをさっさと摘み出せ」
「御大層なご挨拶ですね長谷川様。お久しぶりでございます。城中でも何度か居合わせましたよね」
「さっさと消えろ。お前になんぞ誰も呼んじゃいない」
「そんな口利いていいんですか? 風の噂で聞いたんですが、長谷川様は絵師の歌川国芳を匿おうとしてるんですよね。多分、鳥居様らは気がついてはいないかもしれませんけど、広めることは簡単にできちゃいますよ」
そう言いきった文の顔は更に晴れた。背丈こそ低いが、見せる表情・仕草の一つ一つをとっても桐なんぞには到底かなわないと思わされるほどに嫌らしい立ち周りである。
立ち場で言えば武士であり、四方を取り締まることが可能な火盗改が優位である。何か言われれば適当な因縁をつけてしょっ引けばいい。火盗改にはそれが許されていた。
しかし、絶対的な切り札は文は持っている。
こうやって鳥居の名を出されれば、いくら家禄が高かろうが平身低頭文の言うことを聞くしかない。
ましてや、“罪人・歌川国芳の保護”という痛い所をつかれてしまえば尚更そうである。
「……他の有象無象ならともかく、私にハッタリは通用しないぞ。ここで町人らの間で人気の絵師を消したとなれば、本当に蜂起するぞ。広めた所で困るのはお前らだ」
「ま、そういうことならいいんだけどさ。長谷川様なんかどうでもいいし」
宣冬に妥協という言葉は無い。横見ている桐らが思わず身震いしてしまうほどに、今の彼女には迫力があった。
整った顔立ちから放たれる、雅さと鋭さを併せ持つ視線は眼前の文へと一心に注がれている。
当の文は柔和な笑みを浮かべ、媚びるような指先で宣冬に脅しをかけていた。この緊迫した状況に似つかわしく無さ過ぎるその余裕さは、宣冬とは違った意味で迫力がある。
しかし、それは当の宣冬には一切効いておらず、鼻で軽く笑い飛ばした。
「要らぬ気苦労をどうもありがとう。 ……二度は言わんぞ。さっさと消えろ」
「いいよーだ、今日は桐ちゃんの顔をちゃんと見に来ただけなんだからさ。それじゃ、また来ますんで、よろしくねー」
文が片手を挙げると、誰も居なかった門前に、いつの間にか護衛の者らが集まっていた。
去り際には桐に向けて視線を飛ばすと、輪の中から何度か手を振って帰って行った。
「……なんなんですか、あの人は」
「ああやって人の心を揺り動かして楽しむヤツだ。気にすることはない」
「しかし、私は何も……」
「株仲間の解散など私だって初耳だ。ほんとに、性根の腐ったヤツだよ。昔はアレほどではなかったはずなんだけどな」
役宅から文の姿が消えて初めて気が付いたが、背中にはじっとりと嫌な汗をかいている。原因は梅雨の湿っぽさや蒸し暑さなどでは無い。
間違いなく、文の奇妙な魅力であり、威圧感がそうさせていた。