国芳
派手な着物を泥で汚した彼の男はいい笑顔をしていた。
縄に繋がれ、白州場に引き立てられているというのにいい笑顔である。
「井草孫三郎。幾度に亘る不埒三昧。貴様の吟味は終わった」
「へいへい。それでなにをすればいいんですかい?」
強面の吟味方与力の強い口調にも折れようとはしない。
それどころか、小馬鹿にしたようなもの言いである。上座に座り脇息に肘を付く景元もこれには苦笑した。
桐らは奉行所につくとその裁きを眺めていた。何より業務の円滑さに目を丸くさせられたが、それと同じぐらい遠山景元のきちんとした姿に驚かされた。
威風は堂々。誰がどう見ても北町奉行遠山左衛門尉景元である。火盗改にやって来た時の砕け具合は何なのかと思わざるを得なかった。
「なぁ国芳さんよ、本気でいい加減にしてくれねえかな。頭のいいアンタならよく分かるだろ。こんなことして何になるんだってさ」
「いいや知らんね。遠山様にも同じ事言い返してやる。頭のいいアンタならわかるだろよ。こんなことして何になるんだってよ」
これには景元は黙るしか手が無かった。
国芳という中年は景元とは対照的に上機嫌である。景元は国芳を露骨に睨みつけると、人目をはばからず舌打ちして差配を決めた。
「……過料1両。裁きは以上。次、さっさと来い!」
押し出されるように去って行く国芳という男は、散々に言われた割には悪びれることもなく、肩をすくめながら飄々と出ていった。
景元はすぐに桐へと視線を送った。これですぐに分かった。
頼みごとというのはきっと、彼なのだろう、と。
○
それから奉行所内に通されると、根岸衛栄が応対にやって来た。
主人の景元は白州で裁きの真っ最中である。廊下では急かされる訳でもないのに与力達は奉行所内を駆けまわっている。察するに年番方である衛栄もかなり忙しいのだろう。
火盗改の退屈振りとは対照的であり、その中でやっていた伊藤忠景や根岸衛栄、当然ながら遠山景元の凄みというものを改めて知った。
「『突然呼び出して申し訳ない』と左衛門尉様も言っていました。さて桐様、どうしようもない男というのはですね……」
「さっきの男のことでしょう。何も言っていませんでしたが、遠山様の目はそう語っていました」
「察していただけているのなら話は早い。彼は井草孫三郎こと歌川国芳。浮世絵師をやっております」
衛栄の言葉に桐と佐嶋はピンとこなさそうに空返事をしただけだったが、横にいた伊藤忠景が反応した。
「……国芳と聞いてまさかとは思いましたが、彼ほどの大物ですらもひっ捕らえられるのですか」
「むしろ絶好の餌だな。まぁ、向こうもそれを分かってやってる節があるので何とも言えないがね」
「……とはいえ、歌川派の重鎮を捕まえればそれなりの効果があるでしょう」
「いいや、それがまぁ……落ちるどころか当の本人が燃え上がっちゃってああまでなっちまっている訳なんだけどな」
忠景と衛栄は話しこんでいるが、桐は佐嶋共々話の筋がさっぱりだった。
「歌川国芳というのは人気の浮世絵師です。武者絵が特に上手でした」
「そうか、私らと桐様らでは世代が違うのかもしれないな。二十年ほど昔ですかね、まだ浮世絵・錦絵の類が公然と売られていた時なんかは国芳と聞いただけで飛ぶように売れた。そんな人気絵師です」
「そうなんですよ桐様。特に水滸伝の揃物なんかは、今までの浮世絵とは次元が違った。あの構図に迫力。それまでの美麗な浮世絵とは違う。なんたって私のような不調法者がのめり込んだんだ。御二方なら分かるとは思うんですが、何よりも力強さが違う。筆致に色遣い。古兵らの命を削る勢いが全て刻まれています」
すぐに気が付いた忠景と衛栄は咳払いをすると、簡単な説明を付け加えた。
忠景は不器用な説明だったが、いつになく饒舌だった。剣一筋のような寡黙な彼を語らせるまでに凄いのだろうし、当の忠景はそれだけ国芳の作品が好きなのだろう。
とかく、桐は佐嶋ともどもそんな忠景を呆れにも似た驚きとともに見つめていた。剣術以外のことでこれだけ喋った忠景の姿を見たことが無い。
そこで襖が開き、先ほど白州で見た国芳なる男がやって来た。
手鎖や腰紐は外されている。両手で手首をまさぐりながら恥ずかしそうに言った。
「いやいや、根岸様に火盗の与力様にそれほどまでに褒められるだなんて、滅相もございません。私なんぞはしがない絵描きですよ」
国芳の言う通り、見てくれは大したことは無い。中肉中背のしがない普通の中年男にしか見えない。しかし、ごくごく普通の手先は違う。
筆によるタコが多い。その一つ一つがごつごつとしている。桐は国芳の作品を見たことは無いが、このような手先から華麗な筆致が繰り出されるのかと思えば、非常に興味深かった。
「そんなに手先を見ないで下さいよ。それで、このお嬢様方はどなたでしょうか」
そんな桐の視線に恥ずかしそうに顔を曲げる国芳だが、やはりどこからどう見ても普通の中年男性である。
目を細めてその姿をまじまじと見つめる桐に変わって衛栄が一通りの説明をした。
「……なるほど。大岡様の一度お母上は見たことがございます。実に美しく、聡明な方でしたよ。確かに似ていますね」
「そういうことです。桐様、分からないとは思いますが、あなたの母上は真に凄い方なんですって」
国芳に付け加えて衛栄が言った。そのような話は何度も何度も聞いたことがある。しかし、覚えている母忠春の姿はあくまでも今の姿。何と言われてもピンとこない物は来ない。
「しかし、奉行所前での根岸様と歌川殿のやり取りを見る限り、何というかその……」
「まぁ、毎度のことなので、ね。彼も分かっててやっている節がある。というよりも完全にわざとやっているだろ」
「いやいや、そんなことはありませんって。敲刑にでもなったら流石に心が折れるかもしれませんけど」
「ちょうど私たちが月番のときに限ってやってきやがる。全部計算ずくじゃねえか」
「酷いこと言いますね。ほんとに偶然ですよ。遠山様が世情を憂いでいるからこの手の罪をある程度見逃してくれるってのを分かってるから北町奉行所が月番の時を見計らって何度もやるとか、そんなこと全然考えてませんって」
普通、罪を重ねれば同じような罪であれ罰は厳しくなる。しかし、彼の現状を見る限りそれはない。多分、そのような心遣いをしているのかもしれない。
そうなってしまうと彼にとって奉行所にひっ立てられるのはなんてことは無いに決まっている。ただし、月番が南町奉行所の時を除いては。なのだろう。
「それで根岸様、私らへの依頼というのは、きっと歌川殿の件についてなのでしょうが、何をすればよいのでしょうか」
「ああ。そうでしたね。ここまでのは単なる馬鹿話。当然、他言無用でお願いしたいんですが……」
衛栄の顔からは先ほどまでの諦めにも似た笑みは消えた。
「彼に協力してほしいんですよ。なまじ知名度があってこうして派手な行動をしているので命を狙われている」
江戸で相当な知名度がある人間が、嬉々として反幕府的な行動に出るとなれば、その流れが市中に伝播する可能性が非常に高い。しかも、火種が既にくすぶっているのであれば、火が付いたら一瞬で江戸中に、日の本中に燃え広がるだろう。
当然、それを防ごうとする動きも出てくるに決まっていた。江戸を握っているのが水野忠邦らである以上、その手段は問わないだろう。
「……ま、目立つ行動してる私の自業自得ではあるんですが、ね。ここのところ、脅迫の類いが絶えません。身を案じて今では宿を変えながら暮らしてます。心の休まる時もありませんよ。いや、ほんとに」
「南町奉行所の監視が強い中で彼は何度も罪を重ねている人間に我々の手の者を使う訳にはいきません。なので、火盗改の御二人にお任せしたい」
国芳も衛栄と同様に苦笑している。
ただ、それを防ごうとしたいところだが、北町奉行所が幕府の組織であり、市中の治安維持を司る機関である。
それが過去に何度も罪を起こし過料を支払っている人間を正面切って護れば当然角が立つし、敵対する人間から汚点として指摘される可能性が非常に高い。
「……事情は分かりました。しかし、我々も役人。このご時世に鳥居らに刃向かえば火盗改もただでは済まないでしょうね」
衛栄へと睨みを利かす忠景のひと言は尤もだった。
ただ、火盗改も同様に幕府を構成する一員である。当然のことながら、国芳が行ったような行為を取り締まる側にある。
北町奉行所の置かれている微妙な立ち位置と、北町奉行遠山景元の持っている考えもそれなりに知っているので理解はできた。
しかし、である。
「忠景様の言う通りだ。我々の動きを悟っていたから大名小路で刺客に襲われた。お主らはそうやって我が身可愛さで高みの見物かもしれないが、このような企てに乗っかれば私の宣冬様はどうなるんですか。何かしらの処分があったら責任が取れるのか?」
「根岸殿も我々の目的を御存じのはず。ここで頓挫するようなことがあったら、どうなさるんですか」
それから桐は二言三言文句を言った。佐嶋はその二倍は言っただろう。主に、宣冬関係のことであったが。
桐はひとしきり文句を言っている最中、色々と察した。
きっと、景元は忙しいのもあるが、こうやって私たちが反発すること全て織り込み済みであり、対面する衛栄も覚悟の上で来ているのかもしれない。
もしかすれば、忠景殿も同じように台本通りの台詞を喋っていただけなのかもしれない。
だからこそだろう。
衛栄はそれらを全て受け切った後、ため息交じりにこう言った。
「何もかも仰る通り。御二方の気持ちをお察しします。……しかし、奉行と長谷川様の間で既に決まったことですので私からは何とも言えません。これも御二人の仕事ですので折れてください」
仕事に長谷川様に町奉行。ここまで言われてしまうと何も言い返すこともできない。
唯一、やれたことと言えば、苦笑する忠景の横で、桐と佐嶋の二人が顔を見合わせて肩をすくめたことのみだった。
○
「お呼びでしょうか鳥居様」
ある夜、屋山文は鳥居耀蔵に南町奉行所へ呼び出された。
梅雨の湿っぽい一室に案内され、襖が開かれた先には既に鳥居耀蔵が不機嫌そうに居座っていた。
「仕事だ。これを流せ」
挨拶の類いを一切抜かし、開口一番、耀蔵は封書を文に向けて放り投げた。
横柄とか傲慢とか、そういった怠惰の類いでは無い。この仕事が本当に興味が無く苦痛なのだろうと、誰が見ても分かるような物ぐさ振りであった。
「御老中様の仕置きなのに冷たいものいいですね。ま、やりますけど」
文は豊かな体をゆくりと屈ませながら書状を拾い上げた。文書の中身は大抵、城中の御触れや水野派と敵対する大物大名・旗本の醜聞の類いが書かれている。今回も間違いなくその手の話だろう。
受け取った情報を編集し、老中首座である忠邦らに有利な情報を意図的に市中へと流す。その結果、表立って行われている出版業は文ら、屋山家を除いてはほぼ取り潰された。
その窓口である耀蔵のこの態度は毎度の事なので、文は特に何も感じることなくさっさと拾い上げたが、ふと横からの視線を感じた。
「それで跡部様はどうしてここに?」
「いやぁ、なかなか手厳しい物言いだね。ま、なんでここに居るのか不思議なんだけどさ」
「馬鹿言ってんじゃねえぞ無能。次つまらない冗談を言ったら座敷牢にぶち込んでやる」
勘定奉行、跡部良弼が居た。幕府の財政一切を取り仕切る大身旗本であるが、ここでは置物のように肩身を狭くしている。それだけに文にとっても、本当になぜいるのか不思議でならなかった。
ただ、良弼の困ったような、文が来て助かりました、とでも言いたそうな表情と、彼のその物言いで事態は粗方察せられた。
「……城中で色々とあったようで」
「……まぁ、ちょっと、な。今も御老中様の遣いで、ね」
「消えろ。無駄話してんじゃねえ。要は済んだ。良弼、お前もさっさと消えろ」
小声での二人の会話すらも耀蔵の耳にはしっかりと入っていた。
梅雨時の不快感も合わさってなのか、耀蔵の機嫌は更に損なわれた。
そんな時にである。
「あ、そうそう。ちょうどいいので一つだけ聞きたいんですけど」
文は一歩踏み込んだ。
不機嫌状態の耀蔵には真っ当な人間であれば口すらも聞こうとしないだろうし、身近な与力や同心ですらも近づくのをためらったはずだった。
つまりは相当ピリピリとした緊迫している空気だが、彼女に緊張の類いは無い。普通に普通の事を物聞きとしようとするごくごく自然な態度である。
「ひと月ほど前でしょうか。旗本大岡家の娘が火盗改の与力になったんですよね。聞き知った噂によれば遠山左衛門尉様は、この一案をわざわざ老中経由で通したと聞きましたよ。鳥居様はそれについてはどうお考えで?」
良弼は天を仰いだ。目を瞑り、額に右手のひらをやっている。明らかにいい話題では無い。それどころか、最低の話題だろう。
当の文は微笑んだままだった。彼女の大きな眼の奥底は、不快そうに文自身を睨みつけている相手へとしっかりと注ぎ込まれていた。
「……要は済んだ。飼い主をコロコロと帰る不忠者め。次何か言ったらお前の店は取り潰しだぞ」
耀蔵は舌打ち交じりにそう言い残して一室を去って行った。
「なんだよなんだよ。呼び出したのはアイツじゃんねぇ跡部様。ああいう態度ってあるかなぁ」
「……なんだよコイツ。耀蔵の比じゃねえよ」
文はおどけたように背伸びをして、天を仰いでいる良弼の顔を覗きこんだ。
良弼は文の顔など見られないし、見ようともしなかった。
この状況下でこのようなことを平然としてのける、文の表情など、まともに見られるはずも無かったのかもしれない。