株仲間
連日の鉛色の空に嫌気が差している桐だったが、牛込御門から本所の火盗改の役宅へは出仕を続けなければならない。
距離にして2町弱。時間にして半刻。足元は濡れるし、袴羽織も泥に塗れる。市中も湿気った火薬のように火が付くことがない。道中をただただ行って帰るだけの作業でしかなかった。
反水野派の頭領という立ち位置であり、火盗改の与力という身分ではあるが、役宅内では見習い同然の扱いなので、明け出仕するとこまごまとした雑務や小間使いを様々な与力らから頼まれる。仕事らしい仕事はそれぐらいしかない。
要するに、派手なことは基本的に何も起きない。
江戸中の店のどこにも金銭は流れておらず、嗜好品の類いも簡単に手に入る世の中では無い。
とはいえ、それらは持つ人は持っているんだろうし、どこかに隠してあるのかもしれないが、人々はそれを探して奪うほどの気力が失われつつある。
水野忠邦らによる圧政は、江戸の治安維持という面においては実に素晴らしい成果を挙げていた。
「……果たしてこのようなことでよいのでしょうか」
反水野派の頭領に祭り上げられてからふた月が過ぎようとしていた。世情は人並みに知ることができた。しかし、件の通り何が起きたということも無い。
桐は事の次第を知っている火盗改与力・伊藤忠景にそう漏らした。
忠景は縁側に座り、塀向こうの運河へ雨音が滴り落ちる音に耳を傾けながら刀に油を付けている。
その横で彼の仕草をじっと見つめていた二代目佐嶋忠介が代わりに口を開き、
「きっとその時は来る。我慢もできないのか姫御は」
佐嶋は一瞥もせずに言い放った。
ほんの先月、泣きじゃくりながら今後を誓ったあの時の姿は無い。相変わらず、桐に対する愛想は悪い。
徹頭徹尾嫌っているという意味で一本筋が通っているので清々しいと思えるが、気分は当然悪くなる。
カチンと来た桐が佐嶋へ一発食らわせてやろうかと一歩、大きく踏み出そうといた時のことである。
「桐、使いだ。北町へ行ってくれ」
火盗改頭領、長谷川平蔵宣冬だった。
冷めた視線はジメジメした空気を切り裂き、桐へと一直線に結ばれている。昨今の蒸し暑さからか、色白い肌は少し紅潮していた。
「どのような要件でしょうか」
「お奉行様からの話だ。こっちじゃ面倒見切れないヤツがいるからそっちでなんとかしてくれだとさ」
ほんの一瞬だけだが、宣冬は笑みを見せた。それは嬉しいとか、面白いとか、そういうものではない。完全に相手を見下したような笑みである。
元より桐には断る理由も無ければ資格も無い。二つ返事で頭を下げると、去り際に「それとだな」と宣冬は言った。
「忠介と喧嘩をしようが構わないが、刀だけは抜くなよ。二人に死なれては困る」
振りかざした拳まで全て見られていたらしい。桐はすぐさま両手を背中に隠し、宣冬の背中を見送った。
忠景と佐嶋の両名も揃って平伏している。それから一息つくと忠景に声を掛けようとした。その時だ。
「……宣冬様のお達しとあらば仕方あるまい。忠景様、行きましょうか」
「え、佐嶋殿も来られるんですか」
「当たり前だろ。お前と組んでいる以上、私は行かなければならない。だろ?」
佐嶋は宣冬と同じように笑みを浮かべた。同様に、相手を見下したような笑みだった。
利き手の拳は自然と固くなり、真正面にいるドヤ顔へと向けられようとしたが、隣の忠景は「お願いだから勘弁してください」と言わんばかりに憐れんだ目で桐のことを見据えている。
口数の少ない彼なりの最大限の誠意を見せられたら仕方が無いのかもしれない。
桐の行き場の無い怒りの矛先は、自身の右太ももへとぶつけるしか無かった。
○
「江戸中の株仲間を解散するのですか」
「……当然だろう。例外は無い」
梅雨時の雨以上にじめっとした江戸城本丸御殿の芙蓉の間。
きっぱりとした水野忠邦の物言いに、特別に通された鳥居耀蔵は戸惑いを隠せなかった。
それを見つめるのは老中ら高級閣僚たち。渋い表情のまま無言を貫いている。
真田信濃守幸貫や土井大炊頭利位といった大物も口を噤んだまま事の成り行きを見続けていた。
「水野越前守様の策は確かに面白いとは思う。しかしその後はどうなるのでしょうなぁ」
その一言を発したのは末席で悠然と腕を組んでいた遠山景元であった。周りに居並ぶ幕閣達は景元の態度にざわつくなか、景元の視線は真っ直ぐに忠邦の両目を貫いている。
株仲間の解散命令を出すのは簡単である。
将軍家慶の一例とすればすぐにでも江戸中どころか大阪、長崎までが忠邦の思想で埋まることとなる。
「遠山左衛門尉。やはりお前は有象無象のボンクラとは違うな。そんなことは思いはすれども口には出せない。まして、私に向かってだからな」
「名乗り口上はどうでもいいんですよ。ほら、どうなるんですか。策は面白くとも、事態が好転するとは到底思えないですけどね」
忠邦は口角を上げ、景元もそれに負けじと目を見開いて睨みつけた。
梅雨の夜には似つかわしく無い冷たく、乾いた空気が場を包みこむ。
「言ってみろ。予想はつくがな」
「江戸の、……いや、日の本中の町でそうでしょう。御存じだとは思いますが人々の暮らしに必要なは商人同士の株仲間という網で繋がれている。その網をわざわざ壊す必要がどこにあるんですか」
「果たして本当にそうなのか。甚だ疑問だ」
「少なくとも、私の知る限りではそのような状態では無い。市場は常にギリギリを保っています。それすらも失えばどうなります」
人々の暮らしに潤いは、まず無い。
ほんの十数年前の事を考えれば天と地ほどの差があると言えた。町人達はその差に苦しんでいる。それに加えて、一旦は収まった物価も再び上昇しつつあった。
そのような情勢下、右に転ぶか左に転ぶかも分からないような訳の分からないものを落とされたら堪ったものではない。
これは町政を担うからこそ分かる専門的な知識、という訳ではない。普通に市中で暮らしていれば簡単に分かる理屈だった。
忠邦は小さく微笑むと懐から扇を取り出し、手の平で何度も叩きながら言った。
「しかしまぁ、飼い犬に手を噛まれるとはこのことだな。まさか、お前を登用した私にここまでお前が食らいついてくるとは思っても見なかったよ」
「今までは確かに同意できるところがあったのでこうして協力を惜しみませんでしたが、これは違う。どう考えてもいい方向に転ぶとは思えません」
「……多分だが、お前らの意見はこれに集約されるんだろう。ならば逆に教えてくれないか」
手にした扇を動かすのを止めると今度は悠然と微笑んだ。忠邦には余裕と貫禄がある。
えてして、こう言う時はロクな事にはならない事を、この場に居る幕閣たちは痛いほど知っている。
彼のにったりとした笑みの裏には怒りしか無い。数年前に大爆発した浅間の山よりも激しく、燃え盛っていることは明白だった。
「お前の言う通り、株仲間の解散をやらなかったことによってどうなる? 昔のような暮らしが戻るとでも言うのか? その方が良い方へと転ぶとは到底思えない。おい大炊、信濃守、余裕ぶってないで何か言えよ。いつもそうやって黙って大物気どりか。バカバカしい。なんか言い返してみろよおい!」
名指しで呼ばれた二人は口を噤んだまま言葉を発しようとはしなかった。
景元の斜め前にいるので、顔を真っ赤にして青筋を立てていたり、怒りに震えていたとしてもその表情は見えることは無い。
だが、実際彼らはそういう訳でもないのかもしれない。ただただ忠邦の激情を受け入れ、その場をやり過ごそうとしているのだろう。
つまりは、何かをしようとすることを拒否している。
「大阪や江戸、京の町を見て来たが、やはり誰も何もしなかった。それによって幾人の人が死んだ? 商人らと馴れ合いを続けたところで何も生まれることは無い。互いに権益を離すことなどはあり得ないからな」
「越前守様の献策はそれすらも壊しかねないんですよ。危険すぎる。やるのであれば少しずつ始めて見るのはどうか」
少なくとも、忠邦よりかは市中に足を運んで直で見て来たから分かる。
ただでさえ豪奢禁止によって金銭の流れが滞りつつある中、これ以上の混乱をもたらせば商人達は食って行くことは出来なくなる。
ましてや、株仲間の解散である。新たな金銭の流れは出てくるかもしれないが、それ以上に死んでゆく者の方が遥かに大きい。町人が死ねば農村が死ぬ。そうすれば武士が死ぬ。成功すれば確かに大きいかも知れないが、それ以上に日の本全体が沈む可能性のほうが遥かに高い。
「確かに商人らの動きは凝り固まっています。飢饉でも無いのに穀物の価格は上がってきている。一部の商人が富の確保に走っている節があります。とはいってもですね……」
「……話にならないな。お前たちは何のために日々を生きている。己の懐のためか? 薄っぺらい一族の絆や血縁のためか?」
突然の言葉に景元は黙らされた。それから忠邦の言葉は続いた。
「私は本気で幕府に忠義を尽くす所存。今、この国に必要なのは絶対的な権威だ。失われつつある幕府の、上様の権威を取り戻す。そのために行う。それの何に異論があると言うんだ?」
自身の献策について関心無さ気な忠邦の言い方に、二の句の接げない景元は黙らざるを得なかった。
何を言っても聞く気は無いのだろう。よくよく考えれば今までもそうだったが、それでもここまで意固地になられてしまったらぶつける言葉も無い。
それに、共感が出来ない訳でも無い。
幕府の政治一切を取り仕切る水野忠邦の懐に入ろうと何人もの大商人らがすり寄って来た。
しかし、忠邦はそれらを全て寄せ付けなかった。
昔はどうなのかは分からない。とにかく、今は清濁併せ持つことの無い清廉の士である。悪しきものには罰を、良きものには賞を。それだけは間違いが無い。だからこそここまで彼に付いてきた。
勘定奉行勤めの景元が北町奉行となったのは間違いなく忠邦によるもので、そのことへの恩はある。
「……異論はございません。いや、あるはずもない」
景元はそう言ってから押し黙ると、そのまま一歩下がって三つ指を立てて平伏した。
だからこそ、潰さねばならない不倶戴天の敵である。
居並ぶお歴々の考えは分からない。
少なくとも景元の心には、そう深く刻まれていた。
○
蛇の目傘を差して歩くこと四半刻強。数寄屋橋御門を抜けた所、北町奉行所の門前では悶着が起きていた。
片方は黒縮緬の強面の男。根岸衛栄である。大きく後退した額を雨水で濡らしてはいるがこれは見慣れていた顔だった。
もう一人はこの御禁制下にはあるまじき格好である。白絹地の着流しは雲水の模様。雲は銀糸で、流れる川は金糸で刺繍されている。「どうぞ、私を番所へと連れて行って下さい」と言っているようなものである。
「なにが悪いんですかねえ。私はあくまでも世話になった刺繍屋が潰れそうだから買って着ているだけだというのに」
「何度も何度も言わせんじゃねえ。だったら家の中で着てろ。少なくとも派手な行動をするんじゃねえって言ってんのに」
「ん、んなもんあれだ、服は着て楽しむもんだろ。別にいいじゃないですか、いいじゃ……」
「ったくよ、毎度毎度同じような事で厄介になりやがって、しょっ引く側の身にもなってくれねえかなぁ。こっちだってこんなつまんねえことで時間潰したかねえのに……」
桐らは衛栄に髻を掴まれて北町奉行所内へと連れられて行く一部始終を無表情のまま見送った後、ふと派手な格好の男の顔がふと見えた。
男の方は笑顔である。悔しがるどころか、顔を綻ばせて喜んでいる。
いいネタを掴んだ。そんなような表情であった。