風再び
大岡桐と二代目佐嶋忠介、二人残された一室は気まずい空気が流れていた。
遠山景元や長谷川宣冬が居なくなると、途端に緊張感が薄れた。引き締まった気持ちが緩んだからか体の節々が痛んだ。まだまだ眠らなければ体の調子は戻らないだろう。
「どうせ見下しているんだろう。北町奉行の遠山様や私らの頭にあれだけ可愛がられているんだ。私なんぞ、箸にも棒にもかからないのだろう」
そんな矢先に佐嶋はそう言った。
布団からやっと出て来たと思えば、口を尖らせて桐のことをジッと睨みつけている。
果たして本当に頼もしいのだろうか。刺客に襲われてもなお、刀を抜いて立ち向かった佐嶋のことをさっきまでは少し心強いと思っていた桐だったが、今となってはただただ面倒くさい。
彼女の目を見る桐の視線は厳冬の蝦夷よりも冷たかったかもしれない。
「……またそれですか」
「なぜお前なんだ。なぜ私では無い。身を粉にして宣冬様に忠義を誓った私ではなく、幕府の飼い猫のような没落旗本の小娘なんだ」
言葉は悪いが、桐自身の立ち位置については当たらずも遠からずなので何も言い返せなかった。
ほんの数日前までは、まさしく飼い猫の乳飲み子である。それが、母の縁によっていつのまにかこうして腰に刀を差して刺客たちと剣を交わすことになった。
自分自身が何かをしてきたということはほとんど無い。こうしているのも、かつて町奉行であり、将軍の眼鏡に適っていた母・忠春の存在が全て。様々な要素から察するに、それが私が選ばれた理由なのだろう。
しかし、目の前で仏頂面の彼女は全く違う。少なくとも一年間は下積みをしているし、圧倒されながらも自分自身で刀を抜いた覚悟は、日ごろの鍛錬や修練によってやっと身につけた、かけがえのない自信である。
だが、それすらも簡単に打ち破られた。
「私は幼い頃より稽古に励んだ。いずれ、母上を超えてやろうと一心に励んだ。それなのに、なぜなんだ」
そういうと佐嶋は桐を睨みつけた。
確かに彼女にとっては他所者なのだろう。そのこと自体は桐自身がひしひしと感じていた。
それでも、家柄だけでなく自分自身が持つ力によって何か一つでも掴みとりたいと、必死になってやっていたからこそ佐嶋が窮地に立った時に刀を抜いた。
そこまで深く考えていなかったが、きっとそうだったんだろうと、その時をふと想った桐は感じていた。
佐嶋は握り拳を布団に押し付けている。
だからこそ、彼女が吐き出した無常さは、桐にとっても分からないものではない。
「なぜお前ばかり宣冬様に愛される。私だって愛してほしいのに!」
ここに来て雲行きが変わった。
「これまで宣冬様にずっと付き従ってきたが、お前が来てからはずっとお前の話ばかりだ。奉行所に入ってからはそうだが、その前からも『桐の様子はどうだ』『桐は私らの仕事に無事に慣れるのだろうか』だとか、まるで想い人を語るかのようにお前の話ばかりをしている。そんなの、おかしいではないか!」
ただ、宣冬にそれほどまでに気にかけてもらっていたとは思っていなかったので、そこは純粋に嬉しかった。冬を告げる木枯らしのように冷たく、乾いた人柄だと勝手に思っていたが、案外面倒見はいいのかもしれない。桐はそう思えた。
それでも一人で激昂する佐嶋には自然とため息が出た。桐に自覚は無かっただろうが、佐嶋のことを普段の宣冬に負けないぐらい凍った視線を送っている。
「母上は宣冬様を愛していた。しかし、家を残すためには男と添い遂げなければならない。しかし私は違う。死ぬまで宣冬様に仕え、亡くなられたら墓の前で腹を切って果ててやる。それぐらいの気概で仕えていたというのに」
ある意味で桐と佐嶋は同じなのかもしれない。
偉大な母を越えるため、自分は何者なのかを探り、必死になっている。伊藤忠景から佐嶋の母、初代佐嶋忠介について多少のことは聞いていた。
どんな時でも側に付き従い、時には宣冬の代理として陣頭に立って捕物の指揮を執ったり、火盗改のまとめ役として活躍していたらしい。彼女は宣冬の右腕だったといえる。
それを越えようと必死になってもがいている。母を尊敬するように宣冬を尊敬している。そのために何をすべきか考えて行動してきたのだろう。
吐き出す言葉は違うが、鼻もちならない佐嶋だが、そうでもしないと簡単に折れてしまうぐらいに彼女はか弱いものなのかもしれない。
「羽織りの襟元から覗くあの白い肌、ああ、今思い出しても身震いがする。それに叱る冷たい視線もそうだ。同心らは背筋が凍るように身震いしているが、あれが堪らない。なぜあの目を私に送ってくれないのだ。そつなくこなすのが悪いのか? だったらいくらでも失敗してやろう」
何かを言う気力は桐から失せて行った。
とは言ってもそれから数分間に亘って「宣冬様がどれだけ優れているのか」を淡々と聞かされた。桐も当然、いい加減にしろと思った。
「……もう惚気はいいですから、どうなさるんですか佐嶋殿。愛する宣冬様の元で一生添い遂げるんですか」
「このままではお前にとって私は『勇敢にも刀を抜いたが刺客に完膚なきまでに負けた女』でしか無い。そのような屈辱に塗れて一生を過ごすなど、考えられるはずが無いではないか! 私はお前と組む。これが結論だ」
佐嶋の語気が高くなった。それから天井を仰ぎみて桐の方へ視線を向けた。
「一応言っておくが、あの時は共倒れにはなったが感謝はしている。だが肝に銘じておけ。次は無いぞ。二度と負けてたまるか」
「当たり前です。私だって悔しい。このままで終わっていいはずもない」
「それと、組むのはお前ためではない。私のため、いいや、信頼してくださる宣冬様のためにだ」
そういうと布団から立ち上がり傍らにあった刀を腰に差すと堂々と出て行った。近寄る見張りの同心を片手一本で制するその足取りは重たそうだが、一本通った意志は感じられた。
佐嶋の後ろ姿はどこか清々しさを感じた。しかし桐からしたら佐嶋が何を考えてそういう結論に至ったのかは理解しがたかった。
ただ伝わったのは宣冬に対する少々重い愛情と、武士として気高くあろうとする矜持。
それだけはとにかく心強く、少しはこの先やって行けるのではないかという、桐の自信に繋がった。
○
桐は気力を振り絞って翌日には火盗改の役宅へと出仕していた。
気が付かなかったが、小路の樹木は新緑が目立つようになってきた。墨田の大川沿いもつい数日前までは桜色に染まっていたが、今では水面が桜色に染まっている。涼やかな風を浴びながら菓子を頬張るのもいいかもしれない。
役宅内はどこか殺気立っている。季節が変わろうがなんだろうが火盗改の仕事に終わりが来ることは無いだろう。また何か命が下ることは間違いない。
痛む体の節々をさすりながら役宅内の廊下を歩いていると、険しい表情の忠景がやって来た。
「桐殿、これを見てください」
忠景が手渡して来たのは一枚の瓦版だった。
文字を読み進めるにつれ、桐の表情も忠景同様、険しいものへと変わって行った。
「……『火盗改と北町奉行所が大名小路で刃傷沙汰』って、なんなんですかこれは」
大川で新緑を楽しもうなんていう心持ちは簡単に消え去った。
第一に事実が違う。城中での刃傷沙汰には違いないが状況が違う。あくまで襲われたのは桐らであるし相手は北町奉行所ではない。それに相手は町人や武士では無い。明らかにその手の職業人であり、火盗改が刀を抜くに足る相手であった。だが、肝心の相手については細かい記述は無い。ただ、大名小路での一連の流れが書いてあるだけで仔細は無い。記事には重要な事実が完全に抜け落ちていた。
現場に居たのは桐らと北町奉行所の面々のみなので、何かの拍子に伝わったのであれば事実の誤認は出るのかもしれない。しかし、である。
「なぜ、この話が外に漏れているのでしょうか」
桐は小さくそう漏らした。
第二に現場には誰も居なかった。居並ぶ大名らもだんまりを決め込んで一連の出来ごとを見たものは誰一人としていない。武家地である大名小路に野次馬が発生するはずもない。この一件を知っているのは刺客と、桐・佐嶋・忠景の3名、そして北町奉行所の援軍十数名のみである。
それなのに事の次第の大事な部分のみを意図的に外したとしか思えない記事の内容。それから察するに、答えは一つしか無い。
「情報を漏らしたのは刺客を放った鳥居らでしょう。北町の中に鳥居と繋がっていた者がいないとも言えませんが」
「漏れた先はどこにせよ、鳥居らが悪意を持って瓦版屋に情報を流したんですね」
仮に風聞を聞いたのだとしても、市中で根強い人気のある北町奉行所らを蔑むような記事を仕立て上げる必要は無いと言っていい。情報元があやふやなのにわざわざ出版する利点はまずない。
だとすれば鳥居が一部の業者と結託して流したと見るのが正しいと考えざるを得なかった。
向かいあう桐と忠景の間に、一段と冷えた空気が近づいてきた。火盗改頭領、長谷川宣冬である。
「これは宣冬様、どうかなさいましたか」
「お前たちもこれを見たのか。この瓦版の版元は屋山家。書いたのはそうだな、先代は隠居したって話だから、アイツだな」
「……まさか、文殿がですか」
「あの家は20年近く前に屋山文が継いだと聞いている。実際に書いたのは誰か知らないが、アイツも目を通して出版を承認したことに違いはないな」
宣冬の言葉を聞いた
そこに、北町奉行所年番方与力、根岸衛栄がやってきた。
やはりどこか焦ったような顔をしている。額には汗が浮かんでいた。どこぞで瓦版の話を聞いてからすぐさまやってきたのだろう。
「おい忠景、これを見たか」
「……ええ。これの版元は屋山家だそうなので、文殿が関わっているのはほぼ間違いないようです」
忠景の言葉を聞いた衛栄は口を真一文字に結ぶと白髪混じりの頭を思い切り掻いた。
明らかに不快そうに、瓦版を眺め続ける衛栄らだったが、桐は一人取り残されている。話の渦中にある人物、『屋山文』の存在を知らない。
「その、屋山文という方は何者なのでしょうか」
「そうか。桐殿は知らないんだったな」
宣冬らは「そう言えばそうか」とため息交じりに息を吐くと、衛栄が言った。
「忠春様の無二の友人だ。まぁ、ヤツのせいで町奉行を辞める破目になったとも言えるがな」
風再び(完)