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女奉行捕物帖  作者: 浅井
風再び
131/158

それぞれの謀事

 深川の本所から北町奉行所のある江戸城呉服橋へは、徒で半刻(1時間)掛かるか掛からないか、といった距離である。

 隠された真意はともかくとして、当然のことながら、渡された書状は早く届けなくてはいけない。

 桐は必然的に、最短の道筋で江戸城へ向かう事を考えていた。

 そのことを正直に、丁寧に伝えたつもりだったが、佐嶋の表情は明らかに桐を見下したものだった。


「所詮は姫子。話にならん」


 上から目線のもの言いに加えて、蔑むように目を細めて桐の方を見つめている。

 これには桐も呆れたし困った。それ以前に佐嶋のもの言いに対して頭にきたことは確かだが、この場をどう収めようか必死になって考えていた。


「……それでは、どうすればよろしいのかどうぞご教授願えませんか」

「そもそもお主は勘違いしている。内容は知らぬが、この書状は謂わば反水野一派の一手。南町奉行や老中らが潰しに掛かるのは必定であろう」

「は、はぁ」

「と、いうことはだ。我らが長谷川様の役宅から出て一歩、すぐに連中の刺客から狙われてもおかしくは無い」


 堂々としたもの言いで、桐も事態が読めた。ただのおつかいではないのか、と。


「だから姫子と言っているのだ。当然、敵方は我らが最短距離で書状を届けるに違いないと読んでいるはず。だとすれば、その裏をかいてやればいい」

「どういうことでしょう」

「北の丸、西ノ丸を回って日比谷門から登城する。そうすれば追手を撒けるだろう」


 佐嶋の言う通り、そこまですれば撒けるかもしれない。北の丸の市ヶ谷、西の丸の麹町あたりは小路も多く、人通りもそれなりに多い。なにより武家屋敷街なので、何かあればとっさに飛び込むこともできる。

 このまま機嫌を損ねられたままではどうしようもないし、桐自身、佐嶋の策は確かに面白いとも感じた。そのまま手放しに褒めた。


「なるほど。そこまで考えが足りませんでした。流石は親子二代で長谷川様にお仕えする身。私なんぞとは天と地ほどの差があります」

「ふん、嫌味にしか聞こえんな」

「いや、そのようなことは……」

「一つ言いたいことがある。心して聞け」


 佐嶋は微笑んでいた。いつになく穏やかな笑みである。


「私はお前が憎い。お前のような者が一番憎いのだっ!」


 突然の大声だった。

 桐も驚いて尻もちをついた。目の前のいいるのは突如、烈火のごとく怒った佐嶋忠介だた一人で、肩で息をして桐のことを指差している。

 雷鳴のような衝撃を突然浴びた桐は口を呆然としながら開いて、ただただ怒りの矛先を受けることしか出来なかった。





 それから桐らは背後を気にしながら両国橋を渡った。両国橋西詰から広小路をそのまま直進し、昌平橋を南へ。町人街と武家屋敷街の境目である小川町まで四半刻ほどかかった。

 ここまで特に気配は感じられない。治安が悪いと言われる深川を抜ける際は気を張っていた桐だったが、ここまでこのような有様だったので余裕が生まれた。


「忠景殿、こうして町を歩くのは初めてです。今までは屋敷の中全てでしたので」


 ちょうどここいらで桐たちは遅れてやってきた伊藤忠景が合流した。

 忠景の登場は非常に助かった。経験があるというのは当然だが、突然激怒した佐嶋と二人では非常に心許無かった。

 四半刻ほど迂回路を進んでいたが、役宅の門前で佐嶋と口論になってからはひと言も口を聞いていない。文字通り右も左も分からない江戸を歩く中、良くしてくれる忠景の存在は非常にありがたかった。


「江戸というのはこのように広いものなのですね。正直なところ、少しばかり興奮しております」

「知らなければそうでしょう。月並みですが、八百八町と呼ばれるほどですからね」

「……ふんっ、この世間知らずめ」


 佐嶋は黙って徒を進めてはいるが、桐が忠景と話す中途で必ず舌打ち交じりで不満を口にしていた。

 その度に忠景との会話は途切れ、忠景は肩をすくめながら佐嶋のことを宥めていた。


「最初は誰でもそういうもの。佐嶋殿もそうだったであろう」

「いいえ、私はこの姫子よりは世間を知っておりました。忠景様もご存知の事でしょう」

「……それでもそのようなことは申すものではございません」


 口を尖らせた佐嶋に忠景も取りつく島が無い。とはいえ、出発時の時と比べて、佐嶋はどこか上機嫌だった。


「武家地が静かなのは分かりますが、さきほどの町々はやけに静かでした。飢饉は続いているのでしょうか」


 幕府が質素倹約を強いているのは知っていた。しかし、それだけでこれほどまでに市中が閑散とするものなのか。

 浅草の両国広小路から昌平橋にかけて幾町も商店が連なっているが、道を歩いて聞こえるのは神田川に植えられた柳の緑がさらさらと揺れる音ばかりで、威勢のいい物売りたちの掛け後はほぼ聞こえなかった。

 道行く人々もどこか疲れたような顔つきでいる。

 飢饉は去ったとはいえ、これほどまでに寂れるものなのか。桐は江戸の街並みの広さに加えて、町人ら民衆の疲弊具合に驚いていた。


「……飢饉はほぼ終息しましたが、倹約が尾を引いているのでしょう。潤いは減りますからね」

「お前のような者に分かりやすく言えば、市中に回る金が少なくなれば当然、使う金も少なくなる。それが回り続ければ経済はどんどん縮小していく。そういうことだ。それに、ほんの数十年前までは狂ったように金を使っていた。町人らはその差に苦しんでいるんだろうよ」

「なるほど、そういうことですか」


 卸売・小売に関わらず、何かを売る者にとって、市中の金の流れというのは非常に大事なものであった。

 その金の流れが堰き止められれば、必然的に人々の暮らしの質が落ちる。最低限、食べてはいけるが、その他の副産物である娯楽の類いは制限される。

 特に、庶民ですらも良い暮らしをしていた頃を知っている者からすれば、この浮世は酷い有様と思えるのだろう。


「ということは、今の御政道は……」

「決して悪いことではないと思います。使うべき所に集中して使う。詳しくは存じませんが、そういった方向に動いているようですよ。何より、上様の豪奢趣味は無くなりましたから」


 忠景がすぐさま援護に回ったが、少なくとも日々を暮らす町人らにとっては苦しい時代なのだろう、ということは分かった。

 どれだけ忠邦に深慮遠謀を巡らせていようが、今を生きる者らにとってはなんの意味も持たないのかもしれない。そうとも感じた。

 対する武家街が賑やかであるはずもない。通りに面しているのは大名・幕閣らの上屋敷や、中堅旗本らの屋敷である。その階級にいる屋敷ですら、屋敷の顔である門すら満足に維持出来ていない。瓦の一部は禿げ、棟木は黒く滲んでいる。そこから一歩、一本だけでも小路に入れば小普請組入りの無役の貧乏旗本らの屋敷があるが、それはどうなのだろうか。些禄を増やすことも出来ず、明日の暮らしも分からないのかもしれない。

 果たして、水野忠邦が行おうとしていることは何なのだろうか。どのような策によって彼は動いているのか。道中、そのようなことを考えていたが、桐の中で答えが見つかるはずもない。

 しかし、そのようなことを考えるためには実際に通りを歩き、人々がどのような暮らしをしているのかという観察をしなければ分かるはずもない。たまたまではあるが、桐にはそれが叶った。

 街樹の木漏れ日を浴びて御濠はチラチラと輝いている。この遠回りはあながち無駄ではなかった、桐はそう心に刻んでいた。





 一ツ橋御門を脇に見ながら江戸城内堀をぐるりと回り、轟々と水を立てる千鳥ヶ淵に半蔵門、櫻田門を通り過ぎると日比谷門に付く。

 それでも誰かにつけられている、といったことは感じられなかった。桐らが単なる技量不足なのかもしれないが、忠景もどこか穏やかに徒を進めている辺りを見ると、そういうことなのかもしれないと桐は感じていた。

 そのまま日比谷御門を潜り、諸国の雄藩らの上屋敷が連なる大名小路と呼ばれる通りを進んだ。

 威容に満ちた門構えや白漆喰の塀。それらをくぐり終えると、角に人影が見えた。


「……なるほど。ここで来るか」


 その人影は殺気を孕んでいた。素浪人にしては余りに不用心である。数は3名ほどだろうか。少なくとも一人だけということは無い。

 忠景がすぐさま身構えると、寸だけ遅れて佐嶋・桐も刀の柄に手をやった。


「ここで狙われるというのであれば回り道も結局、無駄でしたね」

「余計な言葉はいらぬ。相手の動きだけを見てろ姫子め」


 桐らは影に注意を傾けつつ、そのまま徒を進めた。ちょうど十字路に差し掛かった時である。

 隠れていたのは一人だけではなかったらしい。その反対側の街路にも4・5名ほどの刺客がいた。

 それぞれは既に得物を持っている。文書を奪うにはいささか大掛かり過ぎる。


「……話が違うぞ、宣冬様」


 忠景が何か小さくつぶやいた。

 3人対7人。向こうも手練を送ってくるだろうから、あまりに不利な戦いであった。

 すぐさま増援を呼ぼうと居並ぶ諸大名の屋敷に目をやった。


「……なるほど。妖怪はすでに手を打っている、と」


 門は当然のこと、門番らが詰めている木戸すらも閉じられていた。これでは誰かを呼ぶこともできない。

 鳥居耀蔵の策略には抜かりは無かった。

 尾行はいたのかもしれないが、道中で事に及ぶことが無い以上、その姿かたちを見せる必要が無い。感覚で分かるほどの近くにはきっといなかったのだろう。

 いや、大名小路で仕留める事を想定していたのであればそのような尾行も必要が無いのかもしれない。

 主要な門に数名を配置して、どの門を通るかによって刺客らを配置すれば簡単にカタが付く。だとすれば最短距離で掛け抜けた方がより安全だったかもしれない。

 桐は横に居る佐嶋を見た。

 どうやら同じようなことを思っていたのかもしれない。主君宣冬に似た涼しい表情の上に、汗が数筋伝っていた。


「どうしますか。かなり不利だと思われますが」

「二人は角を曲がり、一直線に北町奉行所を目指せ。遠く無い上、あそこに着けばなんとかなる」

「それでは忠景様が……」


 佐嶋は小さく漏らしたが、桐も同じことを思っていた。

 3人対7人が1対7になる。そうなれば事態は明白だ。


「……これでも剣には自信がある。前もそうやって修羅場をくぐり抜けた。どうせ捕り方が来るまでの辛抱だ」


 忠景は微笑んで見せ、羽織の右肩を肌蹴させた。肩や胸には剣筋が数本覆っている。確かに真剣勝負の場数を踏んでいる証左なのだろう。

 それでも、忠景が浮かべているその笑みも、二人を落ち着ける物であって余裕の笑みでないことは間違いない。


「いや、それは……」

「そうです。忠景様の身に何かあったら……」

「考えている暇は無いぞ。俺は右の刺客らに掛かる。そのまま脇を通って突っ切れ」


 そう言うと右手で刀を抜き、左右を見た。それから腰を落とし、一気に駆けた。


「……御両名、行くぞ」


 桐と佐嶋はたがいに頷き合うと、そのまま忠景の後を追った。

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