はじめてのおつかい
桐が本所深川の火盗改の役宅こと長谷川屋敷に出仕すると、すぐさま広間へと呼びだされた。
「思ってた以上に早い対応だな」
「いや、それぐらい分かり切ったことでしょ……」
「なんかしらやってくるとは思っていたけどよ、まさか、左遷させるとはねぇ」
「ったく、前に来た時は調子のいいことを言っていたくせに」
殺気だった広間では件の3人が言葉を交わしていた。
遠山景元と長谷川宣冬は冷静に言葉を交わしているように見えたが、やはり言葉尻には火が付いている。
交わされている内容について、何の話かさっぱり分からない。とにかくここ数日は元服の儀式にてんやわんやであった。
その上、幕府内でも隔離されている大岡家に居たので政治劇について、何の情報も伝わってこなかった。せいぜい老中首座が誰で、町奉行が誰だ、といった基本中の基本の話しか知らない。
「いやぁ、弱りましたよ。まさかこうなるとはねえ」
しかし、渦中の筒井政憲はあくまでも平静である。
常に浮かべている少し胡散臭いぐらいの柔和な笑みを崩すことなく、白髪の交じる頭をかいていた。
そんな3人も桐が廊下を往く足音はしっかりと耳に入っていた。
「おう桐様か。お前さんも筒井様の件について噂には聞いているだろう」
「左衛門尉様、申し訳ございませんがなんの話かさっぱりで。とにかく筒井様が大変なのだとぐらいにしか」
「畏まらずに景元でいい。あくまで頭領は桐様だしな。まぁ、ここ数日の話だ。色々と忙しかっただろう」
やはり屋敷での生活は浮世離れしていたと、桐は深く思った。情報から遮断され、数少ない外の知らせは稽古にやってくる先生らのみ。
その先生らも世情についてはロクに語ろうとはしない。そうなれば桐も聞こうともしない。ただ、粛々と芸事をこなすだけで時間が過ぎてゆく。今思えば余りにも無為な時間だったと思わざるを得なかった。
とはいえそんな生活は終わりを迎えた。少しでも遅れを取り戻そうと躍起になっていた所、である。
「貴様はそんなことも知らぬのか。所詮は世情に疎い姫子ね」
背後には宣冬の側近、佐嶋がいた。
これは伊藤忠景から聞いたことだが、横で桐の事を見下すように見ている佐嶋忠介は二代目らしい。佐嶋家は彼女の母の代から火盗改・長谷川宣冬に付き従っていたが、娘を元服させてからは隠居暮らしをしているという。
性格は実直。これも母譲りだと言う。なぜだか、その時の忠景はどこか遠い目をしていた。
「佐嶋も来たか。二人ともここに座れ」
宣冬は窘めることもなく、佐嶋を傍らに置いて座らせた。桐も同じようにして座した。
「筒井様が飛ばされた件に関して、いくつか思う所がある。お前らが主体となって事に当たれ」
やはり来たか、桐はそう思った。片手で数えるほどしか出仕はしていないが、もう来たか。
真に、武士として生きてゆく覚悟が坐った瞬間でもあった。しかしである。
「なぜ私一人でないのですか。このような者の手を借りずとも……」
佐嶋は声を荒げて立ち上がった。宣冬は眉を顰めてこちらを睨みつけ、その奥に居る景元と政憲は面白そうに腕を組んだ。
桐も条件反射的に思い切り言い返した。
「そうです! 忠景殿がいれば十分です。このような者と組むなど……」
とにかく言い返してやった。そんな満足感が桐に満たされた瞬間、すぐさま佐嶋は桐の眼前数寸にまで顔を近づけて言い放つ。
「貴様に何ができると言うのだ。つい先日まで幕府の懐鳥だった姫君が調子に乗るな!」
「た、確かに、その通りです。しかし、それでも私はやらねばならないのです!」
「そんなこと私の知ったことではない! 忠景殿さえおれば足手まといなど不要。この佐嶋忠介、私一人で十分でございます!」
「お、お主こそ姫子であろう! 伊藤殿から聞いたが、ほんの1年足らず先に入ったからといって、何ができると言うんだ!」
初めて火盗改に来て色々なものを見て回った際に、これも忠景から聞いたことだったが佐嶋忠介は火盗改に配属されてから1年経ったか経たないかぐらいらしい。
それからは側近として宣冬の警固に当たっていた。当然、現場に出た経験は片手で数えた方が早いという。
佐嶋はぐぬぬと口を真一文字に結びながら桐を必死に睨みつけている。桐も負けじと睨み返した。そんなことが10数えるほど続いた。
意地を張り合う二人を見て景元と政憲は笑いをこらえられなかったらしい。顔をそむけながら二人して吹き出しあっている。
宣冬は頭に手をやると、小さく、ため息交じりに言った。
「……火盗改の頭は誰だ。佐嶋、言ってみろ」
その言葉に、辺りを照らしている温かな日差しすらも凍った。
「は、長谷川平蔵宣冬様です」
「……桐、お前にも聞こう。火盗改の頭は誰だ」
「と、とうぜん、長谷川様です」
「……話は以上だ。忠景を訪ねろ。仔細はヤツに聞け」
佐嶋はすぐさま三つ指を立てて平伏した。桐も同じように平伏した。
横目で佐嶋の顔が見えた。あれだけの風格を見せられても、底では下知に思う所があるらしい。目を閉じることなく、畳を真正面に見据えていた。
○
「……御二方、どうなされた」
伊藤忠景は役宅内の薄暗い一室で書机に向かっていた。
「伊藤殿、宣冬様から話は聞きました。事件の説明を早う! あ、この横に居る世間知らずのお姫様は関係無いので」
「いや、私にお任せ下さい。まだ、何ができるかは分かりませんが、とにかくやる気だけは……」
「やる気だけではどうにもならぬ! いくら宣冬様の命とはいえ納得できぬ。さっさと失せよ!」
「な、宣冬様の上意に刃向かうというのですか。私はこの場からいなくなればいいかもしれないが、お主は役宅から失せることになるぞ」
「この、言わせておけば!」
言い争う二人を見て、忠景も宣冬と同じように小さくため息をついた。
「桐殿、何も起こることは無いではないですか。まずは落ち着いて下さい」
「……そうだ、さっさと落ち着け。そして帰れ」
「佐嶋殿も落ち着かれよ。あなたまでが桐殿の調子に合わせてどうするんですか……」
「その、すみません……」
一瞬、勝ち誇ったような笑みを桐に向けていたが、忠景の叱責にすぐさま沈黙した。
「早い話、筒井様が町奉行を辞めさせられた一件の大元を探ります。下手人はこの世にはいないが」
どういうことなのだろう。二人の顔にそう書いてあった。
「事情を知らないのはとにかくとして、やる気があるのは素晴らしい。それでは概要を……」
忠景が話したことの概要はこうである。
南町奉行所与力に仁杉幸生という男がいた。
仕事を良くこなし、配下の同心からも人望があり、町人らからも慕われていた。
しかし、転機を向かえたのは昨年の天保。
かつて日の本中を襲った飢饉の際、町奉行所は困窮した町人らを救うために「御救小屋」と呼ばれる避難所を設立し粥や雑炊などを提供していた。被害を受けた人数全員から見れば些細な数かもしれないが、すくなくとも10万近い人々を餓死から救うことができた。
御救小屋の指揮を執ったが筒井政憲であり、現場は仁杉幸生が仕切っていた。
その際のことである。
「20年ほど昔の話なのでお二人はご存知ないかもしれませんが、米価は今の数倍の値を付けていました。それでも、筒井様の粘り強い交渉のお陰で多少はマシになりました」
「あの爺さま、なかなか骨のある男だったのか」
佐嶋は声を出して感嘆していたが、それは桐も同様だった。
噂ではそのようなことを聞いたことはあったが、何度も会った時は好々爺といった感じで、切れ者具合は時折見せるが、時間で言えばほんの一瞬でしかなかった。
そもそも、町奉行になるのだから少なからず能力はあったのだろうが。
「御救小屋を維持するためには幕府からの供米では足りませんので、一部を商人らから買い取っていました」
「穀物の価格が下がったとはいえ、奉行所もそんなに裕福な訳ではない。忠景殿、これはそういった話でしょう」
連日連夜訪ねてくる餓死寸前の人間に食べ物を常時供給するなど、どだい無理な話だった。
身銭を切っても足らなかっただろう。そうなってしまっては、町奉行所が取るべき手段は限られてくる。
佐嶋の答えに忠景は首を縦に振った。
「そういうことです。私も当時は町奉行所に居ましたが、担当が違ったので詳しくは分かりません。仁杉殿は商人らに何かしらの便宜を図ったのでしょう」
飢える人のためには仕方が無かったのかもしれない。感情を抜きにしてものごとを円滑に動かすために、清濁併せ持つのも大事なのかもしれない。
しかし、その話を聞いて佐嶋はしょうもなさそうに鼻で笑った。どうやらこの手の手段は気に召さないらしい。
「……なるほど。筒井様はそこを付け込まれたと」
「桐殿の言う通りでしょう。しかし、それも方便に過ぎません。元より水野らとは犬猿の仲。もっとも、猿は向こうですけどね」
「飛ばすならもっと派手に飛ばせばいいものを。わざわざ大目付に任命するのはあまりに無駄ではないか。それに、今さらそのネタで筒井様を追いやると言うのも不思議な話です」
吐き捨てるように佐嶋が言った。
酷い言葉に目を細めて佐嶋の顔を見ている桐だが、確かにその通りだとも思っていた。
なぜ、すぐさま閑職に飛ばさず、少しだけでも中央に居させたのか。何か所以あってのことなのか。
「そこが私も分かりません。筒井殿が奉行所を辞める一年ほど前に私も色々あって火盗改に配属されましたが、その理由は定かではありません」
「それで、その理由を私たちに探って来いと」
「仁杉殿がどこで足元を掬われたか、粗方の検討はついています。しかし、この時期に我々が動くのは少々危ない。だからこそお二人に任せたいと」
「なるほど。その下手人を捕まえる大捕物ですね」
「いやいや、そのような危ない橋は渡らせません。この書状を北町奉行所に渡してきてほしいだけです」
忠景は袖から書状を取り出した。北町奉行宛の書状である。
大捕物かと思っていた桐は少々ホッとした。最初はそのような仕事から初めて馴らしていくのだろう。いや、だとすればそれこそ私一人でも十分なのでは。それに、このような丁稚の小間使いなど……。
「……そのような仕事、下男にでも頼めばいいのでは」
安堵からか思わず口に出てしまった。桐は急いで細い両手で口元を塞ぐが言葉はしっかりと二人に届いていた。
「馬鹿言え。そこらじゅうに南町奉行所の監視がついているんだぞ。下男といえども、連中の手が回っていれば全てが水の泡よ」
確かに密書が相手に奪われでもしたなら、自身らの首を絞めることになる。その役目は信頼の置ける者に任せたいのも当然だろう。明らかに見下したような目で桐の事を見つめている佐嶋だが、彼女の言うことは道理であった。
それにしても、我々が潰すという水野忠邦という男は絶対的な権力を持っているとはいえ、敵対する者への監視も怠らたないらしい。
ここまで水野ら優位で局面が進んでいる中、どうやって追い落とすというのか。桐の中にある不安の種はやはり尽きない。
「……そこまでご老中の権勢は大きいのでしょうか」
「と、いうよりも鳥居様が危ない。あの執着心はかなり度を過ぎている」
忠景の言葉により、桐に分からない事が再び出て来た。鳥居耀蔵のことである。
さすがに耀蔵が町奉行だということは知っている。同時に水野の側近だということも、話の流れでなんとなく分かった。
「忠景殿、鳥居が度を過ぎているというのは、どのようなことでしょうか」
「……それはまた追々に」
そういえば母に忠景の事を話したら面白そうに笑っていた。それと同時に「忠景と言えばそう言えば物静かな男だったわね。剣術一筋みたいな男だったっけ」と、寡黙な男だとも聞いた。
ここ数日、彼は喋りすぎて少々疲れていたのかもしれない。俯きながら額に浮かべた汗を懐紙で拭うと、小さくため息をついた。これ以上、喋らせるな。桐は彼のの表情を見てそんな感情を受け取った。
「その、忠景殿」
「……佐嶋殿、どうなされた」
そんな折、佐嶋はなぜだか顔を赤らめている。
「せ、精一杯がんばりますので、私の事を見ていて下さい!」
「……ああ。頼んだぞ」
聞いたことの無い彼女の声色に桐も唖然とした。忠景は小さくため息を吐ている。
それから桐は文書を懐に入れ、縁側を歩きながら大きく息を吸った。今日は少し冷えていたからか、ほんの少し冷たい空気が喉いっぱいに広がった。
爽やかに広がる冷気で初仕事への昂っていた熱気も少し落ち着いた。だからなのかもしれない。そこで、ふと思った。
北町奉行所に文書を届けるのであれば、さっきまで役宅に居た遠山様に直接渡せばいいのでは?
それに、表だって動くのはまずいと言いながらも、密書の伝達という大事な役目を敵対する派閥の長に成り上がった人間を使うのはどうなのか?