十条屋の決斗
板橋宿の旅籠『十条屋』の中では花見客数名が中央に寄り添って怯えている。母親の懐で泣きじゃくる小さい子供、還暦を優に超えていそうな老人まで様々いる。数は十人ほどで文は他の客と同様に一階中央へと集められていた。
「なるほどねぇ。こういう状況か……」
十条屋に足を踏み入れて早々、衛栄は顎を触り思わず口にする。不意に入って来た衛栄の行動に驚いた義貞は刀を抜いた。
「おい、入ってくるな! 動いたらこいつらを殺すぞ!」
義貞は文を無理やり引き寄せて文の首筋に突き立てた。
「まぁまぁ落ち着けって。俺はお前と話をしに来たんだ。殺すのはそれからでも遅かねえだろ」
冷や汗をかきながら両手で義貞を宥める。しかし、焦燥しきった義貞には効果が無いみたいだった。
「話だと? そんなものする気は無い! さっさとここから出てけ!」
突き立てた刀に力が込められる。文の薄く透き通った首筋に、刀の先端がめり込んでいく。
「だから、落ち着けって」
「何を言っている! そこから動くなよ」
そう言うと刀を振りかぶり、文に斬りかかろうとした。しかし、衛栄は悠然と笑っている。
「ハハハ、んなことをした所で武士の名折れだぞ!」
「な、な、何だと?」
義貞は文に斬りかかるのをやめ、衛栄の方を向く。衛栄はそれを確認して近くにあった椅子に座り語り始めた。
「だいたい、そんな丸腰の奴を殺した所で何になる?」
「な、何が言いたいんだ!」
「たまたま居合わせたような泣きじゃくる小さい子供や、来年桜をまた見られるか分からないような爺さんまでビビらす事は無いだろ? そんな人質なんか取ったって三文の得にもなりゃしないぜ?」
「な、そんなことはどうでも……」
義貞は口をモゴモゴと動かすも何も言い返せない。衛栄は話を続ける。
突っかかって来る義貞を無視して話を続けた。
「俺はよお、ずっとお前さんが起こした事件を担当してたんだ。根津で殺したっていう女が浴びせられたの傷は見事なモノだったぞ。普通の男じゃああは斬れない。そんな類い希なる剣技を持つ男が無抵抗な奴を殺した所で何になるんだ。だから武士の名折れと言ったんだよ」
「だ、だからなんだと言うのだ!」
身振り手振りを交え衛栄は語った。先程まで話を聞く気の無かった義貞だが、今は衛栄の話を聞く態勢になっている。十条屋の雰囲気が急速に冷えていく。
「そりゃあ、決まってるだろ」
義貞は刀を構えながらも息をのんだ。
「人質を即刻解放しろ」
「な、なにぃ?」
衛栄の要求に義貞は声を上げて眼を丸くする。声には出さないが人質にされている誰もが驚いているだろう。泣きわめく子供も泣くのをやめるほどだ。
「なぁに、即刻全員解放しろだなんて言わねえよ。全員逃がしちゃお前の顔も立たないしな。だから、こいつらの代わりに俺とそこの女が人質となる」
「……なんだと?」
「栄ちゃん……」
またしても驚かされる義貞をしり目に、文は衛栄の方を見つめ涙ぐんでいる。
「そいつは奉行所の人間だ。お前らから見れば敵方だしな。そんな奴を逃がしてくれなんて言えるはずは無いさ。そうだろ?」
「それはそうだが……」
義貞はまたも口ごもる。何かを言いたそうではあるのだが言う言葉が見つからない。
衛栄は二人の表情を見てニヤリと笑う。
「俺だって馬鹿じゃねえ。お前への礼は尽くすさ。どうだ、解放してくれるよな?」
衛栄は念を押す。義貞も頷いた。
「……ああ、確かにそうかもしれないな。わかった。その女とあいつ以外は出て行っていいぞ」
「そうだ、それがいい」
義貞が「ほら、さっさと消えろ」というと、人質にされた客は足早にと十条屋から出て行った。
それから間もなくして、外から十条屋の中に大きな歓声が届いた。
花見客と家族との間では、きっと感動のご対面がなされ、忠春と政憲が喜びと驚きが同居した顔を見合わせている。衛栄にはそんな風景が目に浮かんだのか、緊迫した状況に置かれているにもかかわらず自然といつもの笑顔に戻る。
○
十条屋には衛栄・文・義貞の三名がいるのみとなった。
対面がひとしきり終わったのだろう。外の歓声は止んだ。聞こえるのは奉行所の与力達や野次馬達が外でざわつく声と、石神井川のせせらぎの音くらいのものだ。
衛栄はたまたま座り込んだ座席のそばにあった温い茶を一杯だけ飲んで話を続けた。
「……さて義貞。その女だがお前はどうするつもりだ?」
「ど、どうするって……」
衛栄の人質の癖に毅然としたもの言いに、不意を突かれた義貞は何度も口ごもってしまう。
そもそも、義貞にとってはここに立て籠もる事などは予定にはないことだろう。今後のことなど考えているはずもない。
「答えられるはずねえよな。そもそもここに立て籠もる事自体が予想外だったんだからな。それに、仮にお前がこの女を斬ろうとも、囲まれてしまった以上逃げられる訳でも無い。捕まったお前は死罪だ。無益な殺生はよろしく無いとおもうぜ?」
「だったらどうだって言うんだ!」
義貞は言い返す。冷や汗を流している所を見ると、精いっぱいの虚勢だろう。
衛栄はニヤリと微笑み言った。
「俺と勝負をしないか?」
「な、何?」
「そこの女は刀を指してはいるが所詮は女。お前が目を瞑ったって勝てるだろう」
文を指差して衛栄は話した。しかし、衛栄の言い方は癪に障ったようだ。文がすかさず反応する。
「ちょっと、それは……」
「お前は黙ってろ!」
「むぅ……」
文も反論するが、衛栄に怒鳴りつけられて静かになる。
「……それでだ。結果的にお前が殺されるのは間違いない。その上、さっきも言ったが、今わの際に、丸腰の女を殺したなんて見聞が江戸に広まったら浮かばれないしな」
「何が言いたいんだ。さっさと言わねえとこの女を……」
もったいぶる衛栄に義貞は痺れを切らす。
「どうせ殺すんだったら俺を殺せ。それか潔く腹を斬れ。つまりは、お互いの命を賭けるんだよ。それがお前に残された道だ」
衛栄は微笑みながら言った。
「馬鹿か! 恰好をつけたつもりか? そもそも俺が死ねば事件は解決しないぞ。それでもいいのか?」
義貞は汚く笑う。自分が殺されたら事件の真相を聞く舞台が無くなる。それでは事件が解決しないと踏んだ。
だが、衛栄は義貞以上に大きく笑った。
「ハハハ、何を言ってるんだお前は! そもそもここに呼び寄せたのは忠邦なんだろ? そこに転がってるボロボロになった書状がそうなんだろ?」
義貞は眉間にしわを寄せる。ずばずばと言い当てられてぐうの音も出ない。
「だとすればこの事件の裏に忠邦が居るのは確実だ。それに、お前を証人にしてもあいつが首を横に振れば、お前の証言なんぞ価値など無い。この一件だって幕府の上で適当に揉み消されるだろうからヤツには何の傷も与えられないのは間違いない。それくらいお前ほどの男だったら分かるだろ?」
「ぐぬぬ……」
義貞はまたしても口ごもる。
「俺だって奉行所の与力なんぞで一生を終えて、狭ぇ床なんぞで死ぬなんてことは望んじゃいねえ。お前のような男に討ち取られた方が名前も通る。それに、お前は人質を解放したじゃないか。解放する気が無かったらこの場には誰かの死体があるだろ? ということはお前にはまだ良心があるんだよ」
「……」
「過去に殺して来た女だって、あくまで仕事で殺してるんだろ? それが忠邦の指示かはわからないけどよ。でも、そこに居る女を殺すのと、過去に犯して来た殺しとは決定的に違うと思うぜ?」
衛栄が何を言っても義貞は口をつぐんだままでいる。
「もしも、お前に良心があるんだったら俺と命を賭けろ。こんな女を捻るように殺るんじゃなくてよぉ!」
衛栄の言葉に力がこもる。旅籠内の空気が伝わったのか、外から聞こえて来るざわつきは一掃されて、衛栄と義貞の息遣いしか聞こえない。
先程から黙って聞いていた義貞が口を開いた。
「なぜだ……」
「ん? どうした」
衛栄は驚いたように言う。
「なぜそこまでするんだ……」
「そりゃあ、俺もお前と似たような男だと思ったからだよ」
「お前が俺と似ているだと?」
義貞は衛栄が声を上げた。
「昔は能力があれば、誰もがなりたい者になれると思ってた。だが、所詮は生まれが全て。どうにもならないし。お前だってそうだろ?」
衛栄は淡々と語り始めた。
義貞は野次も何も言わず、黙って頷きながら話を聞いている。
「お前が生まれたのは水野の重臣の家だ。重臣に生まれた以上はどう足掻いても忠邦は超えられない」
「確かに。お前の言った通りだ。俺はどう足掻いても忠邦は超えられない」
義貞はポツりとつぶやく。
「俺は次男坊でな。親父は兄貴の世話で一杯で、親父よりも隠居した爺さんと一緒にいる時間の方が長かった。それでずっと爺さんの話を聞いて育ったんだ。その爺さんってのは面白い人でさぁ、ほんとに憧れたよ。だから奉行所に入った」
義貞は衛栄の話を黙って聞いている。衛栄は一つため息をつくと言葉を続けた。
「なんだかんだあって俺は年番方にまでなった。話によれば歴代の年番方でも最年少らしいな。まあどうでもいいんだけどさ。そうしたらよ、パッと降ってきたように 忠春様が町奉行になった。多分だが、忠春様じゃなかったら同じように降って来た政憲殿が奉行になってただろう。お陰で俺は年番方をクビになったよ」
衛栄は乾いた笑いとともにため息をつく。
「それで、お前は死に場所を探して単身乗り込んできたのか」
「いや、俺は死なないよ。生きる場所を見つけたからな」
「なぜだ」と義貞は聞き返した。衛栄は笑った。
「そりゃぁ南町奉行所に決まってるだろ。さっきは愚痴をこぼしたけどさ、あんなに面白くて支えがいのある上司は生まれて初めてだよ」
衛栄は口を大きく開けて大声で笑った。
眼は細くなり、頬は上がり、口は大きく開かれて笑っているのだが、嗚咽と共に目から大粒の涙がこぼれる。
「下らねえ。下らねえ話だ……」
義貞が俯きながら呟くと、ひとしきり笑い終えた衛栄が静かに言った。
「お前も違う所で生まれていれば、汚れずに生きて行けたのかもしれないな」
「今さらどうでもいいさ。俺だって楽しかったよ」
「……さあどうする? 腹を切るか、俺を斬るか」
観念したのか、鼻で笑いながら義貞は答えた。
「フンっ、俺は腹を切るよ」
「……そうか、それなら介錯する」
義貞は文を黙って衛栄の方へ突き返した。
「栄ちゃん……」
「さっさと外へ出ろ。心配掛けやがって……」
「本当にごめんなさい……」
文が衛栄の前に立つ。下を向いている。地面には涙の粒がこぼれおちる。衛栄は文の頭に手を置きなでる。
「馬鹿野郎、そういうのは後にとっておけ」
「うん……」
そう言うと文は足早に十条屋を出ていく。
文の後ろ姿を見送った黙って義貞は、衛栄に静かに話しかけた。
「忠邦は色々と気に障る所が多々ある。他人をコケにしたように見れず、他人との軋轢もまったく気にしない。あんた達に様々な妨害をしてくる事だろう」
義貞は吐き出すように言う。
「アイツは不器用な男なんだ。自分の思いを簡単に話さないからな。そのお陰で色んな勘違いをされている。そんなことを言えるかは知らねえけど、アイツと真摯に向き合ってやれってお前の所の奉行に言ってくれねえか……」
「ああ、保証は出来ないがな」
衛栄がそう言うと義貞は大きく笑った。側に置かれていた荷袋を開き、衛栄に背を向けて白装束に着替え始めた。
義貞は着替える最中に色々と思うことがあったのだろう。突っ張っていた肩が小刻みに震えている。
「それにしても、なんで忠邦は白装束なんか送って来やがったんだ?」
「っは! んなこと知るかよ。今から死ぬヤツに聞くような話かよ」
白装束の帯を締めると、義貞は衛栄の方を向いて小馬鹿にしながら毒づく。
衛栄も「ごもっとも」と口に出さんばかりに頷いた。だが、気になったのだから仕方が無く、めげずに義貞へ再び尋ねた。
「いやいや、これは重要なことだと思うぜ。考えても見ろよ。お前が忠邦だったとして考えてみろ。こっちが裏切って死んでもらう奴に白装束なんか送るか?」
「確かに。お前、頭いいな」
「だから年番方になれたんだ。それでだ。なんでだと思うか?」
義貞は頭を捻った。同様に衛栄も頭を捻る。
「いや、分からねえ。俺だって浜松藩六万石の筆頭家老だぞ。ちなみに、お前の五倍は俸禄を貰ってる身だ」
俸禄二百石と千石の二人が顔を突き合わせて悩んでいる。そうこうしていると、何かひらめいたのか、衛栄が手を叩く。
「……ははぁん、分かっちまったぜ。やっぱ奉行所の与力ってのは優秀なんだな」
ニヤニヤと笑みを浮かべて言うと、義貞は露骨に顔をしかめた。
「ああ? やけむ絡むじゃねえか。だったら言ってみろよ。その理由ってのをよぉ」
「白装束って案外重たいよな」
「は、はぁ?」
閃いたように衛栄は言うが、対する義貞は何を言いだすのかと首を傾げる。
「いや、冗談抜きにして重いだろ。折りたたんだって大きいぞ。そんなものをお前に送るんだ。つまりだな……」
衛栄はワシャワシャと頭を掻くと言った。
「お前の事を大事に思ってたんじゃねえのか?」
義貞はきょとんと衛栄の赤ら顔を見つめる。少しの間、旅籠内は沈黙に包まれた。しかし、すぐさま義貞は正気に戻って大きく笑った。
「……おいおい、何言ってんだよ。奉行所の与力ともあろう奴が下らねえ話をすんじゃねえよ。俺、死ぬんだぜ? あの野郎に裏切られて、死ぬんだぜ?」
「そうとしか考えられねえだろ。嫌味にしちゃ手が込み過ぎている。まぁ、忠邦の野郎ならやりそうなことかもしれねえけどな」
義貞は鼻で笑いながら黙って衛栄の顔を見ている。
衛栄は言葉を続けた。
「俺はヤツのことは嫌いだ。己の権力を笠に着て大きく振舞う奴なんざクズでしかねえ。だがな、この白装束はどう考えたってよ、なんだかんだいって、お前の事を思ってたんじゃねえのか? 武士としての尊厳を持って死なせるだなんて、そういうこととしか考えられねえだろよ」
手間をかけて持って来させた白装束。それに、義貞の「忠邦は不器用な男」という言葉。これらを繋ぎ合わせると、こういう結論に至ってしまう。衛栄もそう言い切ったが、いった内容が気持ち悪くて身震いがしてしまう。
「まぁ、笑ってくれ。自分で喋ったけど、気分が悪くなっちまった。思いっきり笑い飛ばして……」
衛栄は両手を交差させて自分の肩をさするが、義貞は俯いたまま動かない。
「……ったく、ほんとに嫌味な野郎だ。それでいて不器用な野郎だ。忠邦はよぉ!」
義貞はそう呟くと白装束の袖で顔を拭い、真正面を向いて胡坐をかいた。手には自らの脇差を持っている。
衛栄は息をのみ言った。
「さあ、覚悟はいいな」
「俺だって楽しんだから因果応報だ。潔く掻っ切ってやるさ」
「その、決心をした中悪いんだが、最後にもう一ついいか?」
「……ったく、話しの長いやつだな。手短に話せよ」
義貞は衛栄を見つめると肩をすくめて小さく口角を上げた。
「今までいくらでも隙があったはずだ。特に白装束の時なんかは、お前ほどの腕があるなら、俺から無理やりにでも刀を奪って一矢報えたんじゃねえか?」
衛栄は今になって身震いがした。今度のは違う。命の危険を感じたのだ。
その場をうろうろと動き回ったり、隣に座ったりと、古い友人に接するかのようにして無警戒で自由気ままに喋っていた。義貞ほどの使い手ならば懐に潜り込んで刀を奪って衛栄を殺すなど容易かっただろう。
だが、義貞は笑った。
「ああ。いくらでも殺す隙はあった。だがな……」
「だ、だが?」
「お前と話したのが楽しかったからだ。お前を殺して逃げるなんてことは、言われるまで忘れちまってたよ。最後に楽しめてありがとよ」
義貞は嘯く。衛栄は眼を見つめた。ヤツの眼には寸分の闇も無かった。
「……そうかよ。俺もだ。楽しかったぜ」
息を吐くと衛栄が後方に立ち、義貞は小刀を腹に突き立てた。
「うぐっ! うぐぐぐぐぐっっ!」
銀色の刃がするすると体内へめり込んでいく。背中越しに見えていた握り拳は腹へ沈んでいった。とその切り口からは血が滴り、臓物が溢れて出る。義貞の顔は見えないが、月代頭には血管が浮き出ており、苦しんでいる表情が分かりたくもないのに手に取るようにわかる。
義貞は唇を噛みしめながら苦悶に耐えている。腹を掻っ切り終えた後、腸を握りしめて引き摺りだした。
「お、おい! こ、これで、い、いいの、だろう!」
義貞は臓物を天高く持ち上げた。体は小刻みに震えて血や粘液でドロドロと地面に滴り落ちる。力強く握りしめているはずの拳から、臓物がぬめってズルズルと垂れてゆく。
「お見事! 義貞殿!」
衛栄は渾身の力で刀を振り下ろた。肉を裂き、骨を割く音が十条屋の周囲を轟かす。終始ざわついていた野次馬達もその音を聞いて静まり返った。
その場で聞こえるのは、石神井川のせせらぎの音、風で桜吹雪が飛び散る音、そして、首から勢いよく流れ出る血しぶきの音だけであった。
床に転がる義貞の顔も、旅籠に踏み込んだ時の怒りに満ちて歪んでいた先程とは違い、どこか心地よい表情をしている。
衛栄は両手を合わせて小さく拝む。二本松義貞はここに果てた。
「ったく、お前とは別の形で出会っていたかったよ……」
刀を懐紙で拭うと天を仰いで鼻をすすった。
衛栄は両手で頬を叩き気合を入れ直した。
「さて、一件落着だな……」
そう言い残すと衛栄も十条屋を出て、歓声の元へ戻っていった。