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女奉行捕物帖  作者: 浅井
風再び
129/158

二代目

 行きと同じように駕籠へ入り四半刻弱、よくわからないまま揺られているといつの間にか牛込御門前の自宅に戻っていた。

 屋敷を一回りする桐だが、お目付役の警護の者たちはいまだ、気を失っていた。

 

「しかし、政憲も酷いことをするものね」


 突然、背後から声がする。

 桐はすぐさま振り返り、声の主を探した。


「は、母上ですか」


 桐の目に入ったのは緩やかに微笑む忠春の姿である。

 腰の二本差しと折り目の揃った羽織袴姿を見たところ、昼頃に言っていた「ちょっと用がある」というのは、江戸城への登城を意味していたらしい。


「私に無断でこんなことをしておいて、さらにアンタを宣冬の所に厄介にさせるなんてさ」


 忠春の言葉は続き、緩やかな表情は呆れへと変わっていった。


「政憲から昨日今日の事を一通り聞いたのよ。よくもまぁ、っていうのが正直な感想だけど」

「そうだったのですか」


 当主の知らない所でこんな動きがあったのだから笑うしかないのかもしれない。さっきの笑みはそんな所かと、桐は内心思っていた。


「それで桐、どうなのよ」

「ど、どうというのは?」

「決まってるでしょ。あの連中の企てに乗るの、乗らないの?」


 急な言葉に桐は戸惑った。

 世の移ろいに興味を持っていなかった母・忠春からこんなことを聞かれるとも思っていなかったし、質問そのものに対しても、ここ数日思う所がある内容でもあった。


「わ、私は…… いいえ、母上はどうなのでしょうか。私はどうすればよいのでしょうか」


 桐は正直に打ち明けた。忠春は彼女の言葉を聞くと、縁側に座るように指差した。


「……へえ、悩んでるんだ」

「そりゃ当たり前です。面白そうだとは思います。心では今すぐにでも屋敷を飛び出して長谷川様の所に馳せ参じたいとも思っています」

「確かに平蔵には不思議な魅力があるもんね。私が町奉行の時も、なぜだか火盗改は人気があったし」

「ですが、そうなんですが……」

「ん?」


 忠春は緩やかな笑みのまま、桐の顔を覗き込んだ。


「……不安なんです。反老中首座の頭に担ぎ出されたというのも、大きな不安なのですが、それよりも、私ごときに何ができるのでしょうか」

「なるほどね。確かに不安だ」

「たかだか旗本の娘御に何ができるのでしょうか。特別何かを持ち合わせていると言う訳でもないのに、色んな人が私を手助けしてくれます。そこらで寝ている警護の者も、よく分からない剣術の達人がやったものですし、こうやって屋敷に戻ってこられたのも火盗改の何者かが連れて来てくれたため。手始めに火盗改に入った所で、きっと、いや、間違いなく私は何にも出来ません」


 すぐ目の前を温かな春の風が頬を撫でるように上機嫌に吹いているが、それでも桐の顔は暗かった。

 市井を見渡せば水野忠邦らの強権に振り回され続けている。質素倹約を強いて、幕府の財政は好転の兆しを見せたかも知れないが、人々の暮らし振りはそれほど良くもなく、怨嗟の声は確かに溜まっている。

 そんな桐は中にポンと放り出される。それも旗頭として。


「そりゃそうでしょ。世間をロクに知らない上、道場剣術しかしらないアンタに何ができるはずもないしね」


 忠春の突き放すような言葉に桐は涙目になった。そのまま言葉は続いた。


「別に断ったっていいんじゃない? そうしたところで別の神輿を探すだけかもしれないし、神輿を担がずとも勝手に水野下ろしを始めるかもしれない」

「そんなことを言わないで下さい。ますますどうしようもないじゃないですか」


 桐の心は小さくなる。

 不安を正直に打ち明け、多少なりとも背中を押してくれると思っていた。

 しかし、掛けられた言葉はどれも現実を見据えた厳しい言葉ばかり。客観的に考えてみればどれもその通りなのかもしれない。

 桐は噂話程度にしか聞いたことが無かったが、かつて母・大岡越前守忠春は将来を嘱望された武士であり、江戸・大阪両方で町奉行を勤めあげた。

 武家に対するこのような皮肉は、政道の中心を行っていた母も、故あって道を逸れてしまったことで幕府に対する不満があるからなのか、と心の隅で思っていた時のことだった。


「先に言っておくけど、私の言葉はアンタに対する別に嫌味でもなんでもないからね。それでなに、背中を押してほしかったの? それくらいのことだったらいくらでもしてあげられるけど、そんなことであなたの不安は取り除けちゃうほど小さなものなの?」


 そんな表情を察してからか、嫌味っぽく微笑む忠春が機先を制す。

 思わぬ図星に桐はぐうの音も出なかった。


「そういうわけではないんだけど……」

「こういう決断に大事なのは自分自身がどう思っているかでしょ。私も良く分からないまま色んな人の協力で町奉行に仕立て上げられたけど、やっぱり不安だった。でも、最後は自分がどう思うかだし、どうしたいかなのよ。死んじゃった父上にもそんなようなことを言われたような気がするしね」


 確かにそうなのかもしれない。桐ははっとする。

 桐のそんな表情が変わったのを忠春は見逃さなかった。


「結局のところ、心の不安なんてものは消えないの。きっと『私は何かができるんだ』ってことが分かった所で、次の不安がやってくるだけ。私もそうだったしね。だからさ、今悩んでいたって無駄なだけよ。別に、神輿から下ろされたっていいじゃない。その時思い切り悲しんで、考えればいいだけよ。まぁ、水野一派への反逆?みたいなのはアンタで二回目になるんだから命の保証は無いけど」

「命の保証は無いんですか」

「さあね。耀蔵なんかからは相当嫌われているから無いんじゃない? それにさ、正直なところ私も今こうやって生きているのが不思議なぐらいだからさ、どうせ死ぬ時は死ぬんだし、後悔しないように好きなようにすれば?」

「……そんな適当な」

「人の命なんてのはそんなものよ。それで、どうなの。アンタの心はどうなの?」


 桐の中では正直なところ、母を小馬鹿にしていた節があった。

 幕府のために奔走していた頃はかすかに聞いている程度なのでそれなりに尊敬できたかもしれないが、家中の者が知るのは大塩平八郎なる元部下に大阪中を火の海して以来の、腑抜けたように屋敷に籠もりになってからであった。

 漏れ伝わっている話をまとめると、家名を上げることもせず、ただ悪戯に私自身を育てていたということだけ。

 荒んだ江戸市中でも、しっかりとここまで育ててくれたことに感謝は当然している。

 しかし、一武家の主としての姿はそれでいいのか、そういう疑問も持っていた。


「……ほんとになんなんですか。母上まで私を宥めたり賺したりして」

「親っていうのはそういうものなの。私もそうしてもらったし、桐のさ、大きな決断の時にはやっぱり心を尊重してあげたいしね」


 表情を柔和に崩した母の真意は分からない。

 後ろに町奉行の遠山様や筒井様、長谷川様が付いているとはいえ、鳥居に難癖を付けられて詰め腹を切らされることも大いにあり得る。

 それでいて、私の背中を押すのか。

 それでいて、袖を引くようにひきとめるのか。

 かつて母がどのような失敗をしてきたのか、世情とか、家柄とか、他の意見とか、確かにどうでもいいかもしれない。

 それでも、桐が返す言葉は一つしか無かった。


「……やりますよ。やりますとも!」

「ま、がんばってよ。どうしようもなくなったら無理をしないで私に話してくれてもいいしさ。幕府に目を付けられたって、私は桐の味方だから」

「はい、はい! 精一杯、役目を全うしようと思います!」

「それでこそ大岡家の子ね。 ……やっぱり、あがき続けるしかないのね」


 顔を紅潮させて庭へと駆けだした桐の耳に、忠春の放った言葉の最後の方は聞き取れなかった。ただただ一念、「とにかくこの世を生き抜くしかない」。桐にはそれしかなかった。

 翌日、幕府からの届けがあり正式に元服の儀と相成った。

 名は大岡家の通字と将軍から一字もらい、大岡忠慶。二代続けての女武士である。





「……発起人はどうせ左衛門尉や大目付の死に損ないだろう。つまらない事をするものだ」


 老中首座・水野忠邦は一枚の書状を手にしてそっと呟いた。

 内容は大岡桐の元服について、そして火盗改への任官についてである。

 側に居るのは南町奉行・鳥居耀蔵、勘定奉行・跡部良弼の両名以下、幕府の重職に付く水野派閥の幕閣である。

 忠邦が大阪へ行った後も勘定奉行所で勤めあげた耀蔵は甲斐守に叙任され、ついに昨冬、江戸南町奉行の座についた。そして実弟である良弼も、大阪東町奉行の後に勘定奉行に就任している。

 大阪城代から京都所司代という出世街道をひた走り続ける水野忠邦も、三年前に老中首座となった。

 このことで事実上、幕府は水野忠邦の掌中にある。


「へえ。あの大岡の娘御が元服か。それで火盗改にねえ」

「あの女の娘なんぞ、なんてことはありません。それに、連中が必死になって考えた策を我々の手で握りしてやりましょう」


 四十を越した耀蔵の肌張りは十代のそれと変わりない。それどころかそこいらの娘御よりも幾分か若くも見えた。そして、威勢の良さと性根も何一つ変わっていなかった。

 しかし、忠邦は冷めた様に言った。


「あくまで上様の意志だ。それはあまりに畏れ多い話だ」


 この言葉に耀蔵・良弼も両名を筆頭に、居並ぶ者の表情が消えた。


「どうした、私の何か顔にでもついているか?」

「いや、そう言う訳ではないのですが……」


 耀蔵を筆頭に、忠邦から視線を外してそれぞれがバツの悪い顔をしながら口を噤む中、良弼は相も変わらず軽やかに笑った。


「老中首座様は随分と優しくなりましたね。少し前なら耀蔵の言う通りにしていたというのに。上様の朱印なんぞなんとでもしたっていうのにねえ」

「何が言いたいんだ」

「別に何でもありませんよ。ただ、思ったことを口に出しただけです」


 それから良弼は不敵に笑った。しかし、あくまで忠邦は冷静だった。


「小事に構って大事を見逃しかねない。それに、大岡家は上様の眼鏡にかなった家。ここで握りつぶしたことでつまらないいざこざを起こすのは得策ではない」

「……なるほど。私の意見は小事ということですか」


 今度は耀蔵が笑った。ただの笑みでは無い。上役である忠邦を見下すように歯を見せて笑った。


「何怒ってんだよ耀蔵。いくら大岡家がお前と違って将軍家の意志で行かされてるといえ、年増の僻みは……」


 良弼が小馬鹿にしたよう言いながら耀蔵へと視線を向けた。

 耀蔵の顔面を慎みやかに守っていた白粉の壁は、怒りに満ちた皺によって突き破られている。その形相に言葉を失った。


「……いや、なんでもありません。はい」

「何度も言うが、あの連中がどう動こうが私たちの政治にとってはつまらない小事だ。左衛門尉や大目付の抵抗などは小骨に過ぎない」

「確かに小事に違いありません。しかし、あの筒井のクソ爺の策です。きっと裏に何かあるに違いありません」

「ほう。久しぶりに他人の意見を聞いた。あの老人を追い落とすのにも苦労をしたしな。その言、一理あるかもしれない」

「出過ぎたもの言いでした。申し訳ございません」

「気にすることは無い。耀蔵なりに慮ったんだろう。それでいい。この身の上になって正直に話してくれる者が居なくてね。いささか窮屈だった」


 今度は忠邦が不敵に微笑み、居並ぶ幕閣たちを品定めするように眺めた。

 余計なひと言を言いまいと、顔面を青くしながらじっと押し黙っている。忠邦が嘲笑った。


「まぁいい。さがれ。今宵はここまでにしてやろう」


 懐から扇子を取り出して右手の平に数度当てると、幕閣らは我先へと忠邦の元から駆け足で去って行った。


「……ヤツらは腑抜けばかり。まとめて牢に放り込んでもよいのでは」

「連中の望みは家を保つことだけ。この世を真に生きちゃいない。つまらない連中さ」


 耀蔵と良弼は鼻で笑いながら開かれた襖を見つめていた。

 何をするにも、どうやって家の存続を保つかを真っ先に考えている。そんな閣僚達を忠邦は心底見下していた。

 そういった連中は上へ這いあがるためにはなんでもするが、その中心に居るのはあくまでも自分自身であり、何が主体であるのかを見誤っている。


「あくまで私は将軍家のために身を粉にして働く。他のつまらない連中とは違う。お前もそうだろう」

「当然です。幕府に、ひいては忠邦様に仇なす連中はこの鳥居耀蔵が守って見せます」


 耀蔵の言葉に忠邦は満足そうに鼻を鳴らした。


「……しかし、あの爺め。何をたくらんでいる」

「我々の情報網に引っかからないとは不自然です。ここ数日の奉行所への報告にも大岡関連の報告はございません」


 この一件は水野らにとって、政憲・景元に完全に出し抜かれた形となった。

 今まで完全な統制下にある閣僚らだが、ここ数日で綻びを見せ始めたということは常日頃から彼の連中の接触があったということになる。

 かつての政敵の子が元服をして役職を得て、かつ将軍の偏諱まで受けるとなれば話は大きくなるだろう。忠邦らが推し進める政治に反発が絶えないということもあるので、そのことは忠邦らにも容易に想像が付いた。

 それでも、忠邦は普段通りの悠然した面持ちで、それらの話が書かれた報告書を眺めている。


「さっきのクズらの中に筒井らに通じているものがいようが、それも所詮は小事に過ぎない。そのような話は勝手に進めてればいい。なんだったら『老中自らの指図だ』とでも噂を流したらどうだ」

「しかし、小骨とはいえ喉に刺されば痛みをもたらす。 ……かしこまりました。私の方で手を打ちます」

「……頼んだぞ、耀蔵。あと筒井は西ノ丸留守居にでもしろ。とにかく中央から遠ざけろ」


 耀蔵は三つ指を立てて部屋を去った。

 それから、忠邦は書机の前に座ると一冊の書物と向かいあい、ひたすら文字をしたため続けた。

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