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女奉行捕物帖  作者: 浅井
風再び
128/158

火盗改

 桐がはっと目が覚めたのは午の刻過ぎで、その目覚めは酷く悪かった。桐も物覚えはいい方だが、未明に女中に起こされ、何か来客があったことまでは覚えているが、それ以降のことはいまいち覚えていない。誰かと話したような覚えはあるが、その内容までははっきりとはしない。それに、なぜだか鳩尾が酷く痛んだ。

 そんな酷い寝起きの中、かすかに覚えているのは、うたかたの夢のような時間だった。

 どこかで見たような面子と、母親の話をしたような気がしていた。

 その最期、何か重要な言葉があったような……


「桐、早起きのあなたが今日は遅いのね。かよが心配してたけど大丈夫なの?」


 そこまで思い出した時、春を感じさせる涼しくも温かな日差しとともに、母である忠春がやって来た。

 艶やかな長い黒髪には白髪が数本目立ちはじめ、目元に数本皺が目立っている。屋敷内では「四十には見えない」「私も忠春様のように老いてみたい」などと囃したてられており、忠春もそんな言葉にまんざらでもなさそうに振舞ってはいるが、桐からすれば年相応のおばさんであった。


「なぜだかお腹が痛みますが、特に問題はありません。そういえば母上、昨晩、来客があったのをご存知ですか」


 寝ぼけ眼を擦りながら桐が言うと忠春は笑った。自嘲気味にだが、声を上げて笑った。


「そんなはずがある訳ないでしょう。この江戸で深夜に出歩くなんて牢に放り込んでくれと言っているようなもの。ましてや我が家に来客なんて」


 そんな母の笑い顔は久しぶりに見たかも知れない、桐は少し嬉しかったのか同じように微笑んで見せた。


「そうですよね。大岡家なんぞに来客だなんておかしな話です」

「そういうこと。早く身支度をしなさい。午後は稽古があるでしょ」

「すぐに胴着に着替えますので、少々お待ち下さい」


 大身旗本とはいえ軟禁状態にある桐らにとって、なにかすることがとにかく無かった。

 そんな桐達に唯一許されたのが武道と礼節の稽古のみである。

 茶の湯・華道・筆といった文芸と、剣術や薙刀術といった武芸のみである。

 とはいえ、芸能の師匠は幕府の肝いりの人間であり、ゆとりなどなに一つない。さらに、それらを活かす場も今後あるかどうかも分からない。

 かといって休んだ所で何の得にもならない。叱責される訳でも無ければ、宥められる訳でも無い。また翌週、もしくは次の稽古になれば同じように詞章たちはやってくる。

 寝て起きて食べてを繰り返すよりかは遥かにマシな生活なのかもしれない、ほぼ毎日に課せられた身になるのか分からない稽古ごとについて、桐はそう思うよりほかなかった。





「……桐様、本日の先生がやってこられました」


 この日は剣術を学ぶ日だった。

 この浮世で何の役に立つのかもよく分からない上、いままでの先生もそれほど熱心に教えているようには見えなかった。

 どこか冷めたような目でこちらを見続け、打ち合いをしても風に揺れる柳のように歯ごたえも無い。気を入れて前に出ればずるずると押されてゆき打ち合いが終わる。つまらない接待されているかのような心地になったところで稽古が終わる。

 それが名人の剣なのであれば、きっと剣の道は私の道ではないのかもしれない、と、いった思いに至った。


「お前さんが大岡家の桐殿か」


 だが、この日は違った。

 顔を強張らせているかよに連れられて来たのは、ひょろりとした長身の男である。

 普段、来ていたのはどこか疲れたような初老の男。いいものを着ているつもりかも知れないが、芸事を見知っている桐からしたら趣味がいいとは言えなかった。

 だが、この男の身なりそれすらも上回る。継ぎ接ぎだらけの着流しを見ると、普段着ている剣術の先生が流行の最先端と思わせられるほどに酷い有様である。このような男を、曲がりなりにも大身旗本の屋敷によくも通したものだと思った桐だったが、彼の男の顔を見てすぐさま察せられた。

 今日やって来た先生も同じように初老ではあるが、目元が違う。眼光がとにかく鋭い。見たことは無いが、獲物を狩る虎や狼といった類の動物はそういう顔をしているのかもしれない。

 桐もその目を見ると、自然と身構えた。


「なるほど。良き生徒かもしれんな」

「馬鹿言うな、ビビらせてどうするんだ」


 桐を見つめ面白そうに身なりの雑な男が言うと、申し訳なさそうに同じぐらい長身の男が遅れてやって来た。

 体つきは似たような感じだが、まだ目元は柔らかい。何より、身なりがしっかりとしている。黒い羽織と腰の二本差しを見る限り、目の前に控えている実体の掴めない謎の剣術の達人ではなく、話のできるきちんとした役人であろう。


「……名は何と言いますか」

「伊藤忠景と申します。早速で恐縮ですが、ちょっと付いて来て下さい」

「……町奉行様の所へですか」


 その一言で全てを察した。

 昨夜の出来事はどうやら夢ではなかったらしい。

 大目付や町奉行らと出会い、反水野忠邦らの派閥の棟梁に祭り上げられたのは現実だった。


「事情をご存知であれば話は早いですね。あまり刻が無い故、こちらへついて来て下さい」

「おいおい、今日はよく喋るじゃねえか弥五郎」


 忠景は身なりの汚い男へと露骨に嫌な視線を送った。すぐに小さく舌打ちすると、無言のまま廊下へと躍り出ようとする。

 そこで、桐はふと思った。


「しかし、遠山様らの使いだとしても、よくここまで来られましたね。屋敷は厳重に守られております。その中をどうやって抜けられたのですか」

「ま、幕府の犬なんぞ、鞘一本あれば十分よ。ほら、桐殿、さっさとついて参れ」


 腰に差した一本差しを空中へ放り投げて腰にさし直すと、襖を大きく開けて裏門へと徒を進めた。

 裏門へ連れられる際、監視目的で老中らが派遣してきた侍たちはことごとく地面へと突っ伏していた。

 身なりの汚い方の男はそれらに目をくれることなく飄々と屋敷を闊歩している。もう一人の方はそれらを見つける度に深いため息をついていた。


「……おい周作さん、あれはやりすぎじゃないのか」

「馬鹿言え、こちとら抜いてないんだから問題ないだろ。なあ弁吉」

「え? あ、まぁ、鞘のまま構えて一歩踏み出したら相手の方が勝手に倒れてしまったので……」


 遠くの方で乾いた笑い声がした。顔は見ていないがきっと苦笑しているに違いない。

 母の仇とはいえ、これほどまでに簡単に屋敷への侵入を許すとなれば、老中に頼みこんで屋敷の警備を強化してもらわないと、と桐は心の底で強く思った。





「……御頭、ただ今戻りました」

「よく戻ったな忠景、桐殿はどうだ」


 籠の外で何やら話しあっているのが桐にも聞こえた。

 牛込御門から本所にある長谷川平蔵宣冬の役宅へは通常だと半刻以上はかかる。

 しかし、籠に乗せられてから、よく分からないまま河や坂を下ったような感覚が四半刻ほど経って今に至る。

 籠から降りると身なりの雑なひょろりとした男の姿は無い。

 見知った顔は横にいるのは伊藤忠景一人である。


「よく来たな桐殿」


 籠越しに聞こえたのは、昨日耳にした氷のような冷めた声色。長谷川平蔵宣冬である。


「急で悪いがお前にはここで働いてもらう。火盗改の与力だ」

「は、はぁ?」

「忠景、お前は桐に従え」


 忠景の立派な体躯も、宣冬の氷点下の言葉には小さくなった。

 宣冬の言葉に対して無言で頷くほかないらしく、目を瞑り、どこか諦めたように首を縦に振った。


「佐嶋、お前も桐に従え。ここの事を一刻で叩きこめ」

「ははっ!」


 突然、背後から一人の女性の声が聞こえた。

 振り向くと、桐と同じぐらいの年齢の女性がいる。

 目元は宣冬に負けず劣らず冷たく鋭い。しかし、宣冬へと掛けられたひと言のみで、胸に秘めた忠誠心の篤さが簡単にうかがい知れた。

 桐もそれなりに事情は聞き及んでいたはずだった。しかし、これは予想外の話である。


「ちょ、ちょっと待って下さい。そのような話、全く聞いておりませぬ」

「俺が決めたことだ。この件については追って沙汰が下るだろう。無理やり押し通すにはなかなか難しい案件だったがな」


 今度はなんだと視線を門へと向けると、石畳を優雅に歩く遠山景元がいた。

 しかし、昨日見たような裃姿ではなく、濃く染められた紺色の着流し姿。髷もきっちりと固めている訳でもなく、鬢と髱を少し緩めて町人風に仕上げてきている。


「よく参られた遠山殿。寛がれよ」

「おいおい、『遠山殿、寛がれよ』だなんてガラでもない。約束したはずだろう。このなりの時は金さんと呼んでくれってな」

「生憎だが、お前の趣味に付き合う暇は無い」


 景元の軽口に対して宣冬は露骨に嫌な顔をした。

 『二代目鬼平』と渾名された鋭い眼光に並の者なら肝を冷やすところだが、景元はなおも目を細めて歯を見せている。


「さて、桐殿。俺が今日ここに来たのは暇つぶしじゃない。家から連れ去られて、突然火盗改なんぞに放り込まれて気苦労が絶えないんだろう、と思って駆けつけて来た訳よ」

「……何がなんぞだ。失礼な。それに、お前のもの言いなら、これは単なる暇つぶしじゃないか」


 宣冬はなおも鋭い眼光で睨み続けている。横に居た佐嶋某も腰に提げた獲物をギュッと握りしめ、号令を待っている。

 そんな雰囲気の悪さに桐はあたふたと周囲を見回し、忠景は何も言わんとする強い意志を持って下を向いたまま動かない。

 へらへらと笑みを浮かべている景元も、酷い空気を察したらしい。


「いちいち噛みつくな。あくまで気を紛らわせようとしただけのことよ。平蔵は見た目こそ怖いかもしれんが中身は可憐な乙女よ。なんたって男を知らぬ」

「ば、馬鹿を言うな!」

「おいおい、俺らの知らないうちに男でも作っていたってのか。まさか、そこの色男がそうなのか」

「男なんぞ、作ったことも……」


 氷のように透き通った肌が赤く灯った。ぐぬぬと口を尖らせて景元のことを精一杯睨みつけている。

 横に付き従っている佐嶋某も、宣冬のこんな表情を見たことが無いらしく、呆けながらただただ見つめていた。


「とまぁ、こんな御仁だ。細腕一人で水野治世を生き残っただけの手腕がある。お前のこともとにかく悪いようにはしないさ。それに、ここへは筒井様も近いうちにいらっしゃる。忠春様の昔話はそこですればいい」

「上げたり下げたり調子のいい奴め……」


 宣冬は苦笑しながら深く息を吐くと、佐嶋の腕を下ろさせた。


「……それで平蔵殿、件の話だが」

「今日ここに来た本題はそれだろう。さっさと言え、この馬鹿め……」


 乱れた襟元を引き締め直すと、冷たい宣冬の声色に戻った。

 それから、佐嶋を連れて、奥書院へと徒を進めて行く。


「して伊藤殿、私は何をすればよろしいのでしょうか」

「正直なところ私にもわかりませんが、とにかく火盗改の仕事について教えることにします」


 嵐のような半刻弱が過ぎて行った。

 長谷川宣冬・遠山景元らからの訳の分からない命令の応酬に、桐はとにかく振り回され続けている。

 その上、自分ひとり残されて何もかもが決まって行き、その上見ず知らずの付き人まで付けられた。

 ただ、そんな慌ただしさの中で今まで胸にしたことの無い、これから何が起こるのだろうという、気持ち高まりもしっかりと感じていた。

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