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女奉行捕物帖  作者: 浅井
風再び
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ふたたびの朝

 江戸の外れ浅草の端、千住堤に石を投げながら男たちは囁き合った。

 二人とも腰には二本差し、身なりは共に小綺麗にまとまっており、眉こそ顰めてはいるが艶やかな好男子である。


「……お前さん、また鳥居ん所へ呼び出しかい」

「なんだって、たまたま家の箪笥に仕舞ってあった煙草の葉がダメなんだと」

「そういえば、先週だかに御禁制品になったとかいってたな。日本橋の高札に掲げてあったとか」

「あんなのは昔カッコつけて吸ってた残りカスだってのに、ただのゴミクズすらもケチつけやがる」

「本当にやっとれんわな。何が何でも『御禁制品だ』『贅沢だ』なんて、この締めつけはイカれにしか考えつかんぞ」

「そういや、どこぞの町年寄も頭抱えとったぞ『そんなんまで取り締まられたら生活できんぞ』って」

「そりゃそうにきまってる。酒屋での一杯すら俺ら貧乏旗本には手が届かない。ほんの十年前の贅沢が嘘みたいだよ」

「大御所様の時代、か。確かに良かった。なんだって買えた。なんだって食べられた」


 時は天保十三年(1842年)。

 大阪で大塩平八郎が起こした乱から二十年ばかりが経った今、世情は大きく変わっていた。

 将軍は町人文化を大きく花開かせた徳川家斉からその息子、徳川家慶へと代わり、事実上の幕府の統治者たる老中首座には水野忠邦がついた。

 異常ともいえる大飢饉は過ぎ去ったものの、市中の人々は別の苦しみを味わわされていた。

 束縛である。

 忠邦が老中首座についてからのものの、とにかく幕府からの禁制が多かった。

 その代表的な物が歌舞伎・人情本といった文芸である。

 時を駆けていた人気役者である七代目市川團十郎は江戸から追放処分にされ歌舞伎の上演は激減、為永春水や柳亭種彦といった大作家らなども揃って処罰された。


「それが今は何だっての。呑むもんに困るし、打つもんもねえ、買うもんだって買えねえ」

「違いない。吉原の門前に来たたってのに、買うもんも買えねえんだらよ」

「……あの妖怪め。さっさとくたばっちまった方が世のためだってんだ」

「どうせだったら遠山様の月番んの時に見つかりたかったよ。あのクソ鳥居」


 男二人は大きなため息を吐くと、足元にあった棒きれを思い切り川へと投げつけた。

 それからも思い思いに嘯き合った。なけなしの金で買った安酒が回っているせいもあるが、紛れもない江戸に暮らす人々の意見でもあった。


「何がクソって、たかだが勘定奉行の小間使いだったヤツが、並みいるお歴々の頭越しに奉行になりやがった。年増の癖に老中に色目を使いやがったな」

「ああ。俺も城中で何度か見かけたけど、一向に老けやしねえ。甲斐守を文字って妖怪って言われてっけど、ヤツは本物の妖怪だよ」

「ったく、この世はどうなっちまってんだってんだ」


 男二人の気分は実によかった。

 言いたい放題言い放ち、放り投げた木の棒が大きく音を立てて水面に沈む様を忌み嫌う役人達に見立てれば爽やかに思える。なおかつ、いい具合に酔っぱらっているのも大きいだろう。

 ただ彼らにとって最も気分をよくさせたのは、暗闇をざくざくと切り裂いて行く、黒羽織の男たちの存在を知らずにいられていたことだった。





「かよさん、どうかしましたか」


 大岡桐は襖の開く音で目を覚ました。


「……桐様、来客だそうで」

「……この夜更けになんですか。さらに私に、母上では無くて」

「ええ。それくらいの小間使いは私にでも出来ます」


 女中のかよは小馬鹿にされたかと思ったのか、少し怒って見せた。

 寄合旗本、大岡忠春の屋敷は神楽坂を下りきった牛込御門の対面に位置していた。

 時刻は江戸も寝静まる子の刻。屋敷の主、大岡忠春が愛娘、大岡桐への来客はあまりにも遅すぎる。


「とっとと追い返して下さい。あまりに無礼であろう。明日、日中であれば会うと」

「それが、その……」


 夜更けも夜更けの来客に、寝起きの桐は少々苛立っているも、女中かよはそうでもない。

 視線を背後にチラチラと向けながら、来客を押し返すことにためらっている最中、その背後から銀の刃がチラッと光った。

 桐は即座に傍らに掛けられた脇差に手を伸ばす。


「ほう、その面構え。懐かしいものがある」

「……どなたでしょうか」


 桐が見せたその動きはかよの背後の者に筒抜けだったらしい。

 かよの背後から凛と光る声が放たれると、かよはばたりと倒れた。

 明らかな外傷は無い。しかし、かよはしっかりと気を失っていた。


「貴様のおふくろ殿の知り合いだ。ちょっと面を貸せ」

「だ、誰か、いや、何をっ……!」


 桐は鞘から白刃を抜いて身構えようとするも、目元に傷のある女武士は一寸も経たないうちに桐の眼前へと躍り出た。


「少し痛いが一瞬だ。なに、大したことは無いさ」


 桐には構える暇も与えられなかった。

 女武士は左手一本で桐の手を制し、残る右手の平で刀を握り直すと、桐の鳩尾へと思い切り柄をぶち当てた。


「……義親様、あなた様の大事な御子に手荒な真似をして申し訳ございません。これも上様、ひいてはヤツの為なので」


 ぐったりと泡を吹く桐に向かって言い放ったが、彼女の耳元には届かなかっただろう。

 女武士の後ろに控えていた者たちもこの手の荒事にはよく通じていたらしい。

 慣れた手つきで桐を縛りあげると、裏門に隠していた駕籠へと詰め込み、江戸の闇へと消えて行った。





 桐が目を覚ましたのは日が真上に来た午の刻である。

 窓から漏れ伝わる光の量と、どこか遠くで時の鐘が聞こえたので、時刻だけはすぐに分かった。

 思い切り殴られた鳩尾が少し痛むも、大きな外傷は特にない。


「目を覚ましたか。ほら、水だ、飲むがいい」


 夜中に襲ってきた頭領格の女性が湯呑みを差し出して来た。

 当然、桐は即座にその手を振り払う。


「何者だ! 大岡家の娘を拐すとはいい度胸をしているな」


 桐が女武士の目を見据えて大きく叫ぶと、襖が開いた。

 控えているのは桐の行動に目を丸くした老人1名と中年が3名。目の前にいる女武士も驚いたように桐の顔を見ている。


「話には聞いていましたが、忠春様そっくりだな。流石は血を分けた娘御とでもいったものか」

「そりゃ忠春様と義親殿の娘だぞ。気柱がしっかりしているに決まっている」


 中年二人は驚きながらもうんうんと頷きながら桐の方を眺めていた。老人は蓄えた顎髭を撫でながら柔和に微笑んでいる。

 訳の分からぬ連中に攫われ、その上で何か見世物のように笑われている。桐の気分は一段と悪くなった。


「ふざけるのもいい加減にしろ。何が目的だ。貴様ら悪党どもと取引なんぞはせぬぞ」

「よく言う娘だ。没落旗本の大岡家に何ができる」

「な、何を言うか!」

「何を怒る必要がある。まったくの事実ではないか。貴様のおふくろ殿は、現老中との権力闘争に負け、大阪町奉行を辞してからは牛込御門の対面で監視付きの籠の中の鳥よ。ただ、その娘には食らいつく嘴が残っていたのは意外だったがな」

「抜け! 今すぐ腰の物を抜け! その無礼な口を叩き斬ってやる!」


 女武士のはっきりとしたもの言いに、中年二人は痛快そうに声を上げて笑った。


「そりゃぁ長谷川の旦那、なんたって忠春様の娘ですよ。食らいつく牙はいくらでも生えてるでしょうよ、ねえ遠山の大将」

「正直、江戸を守る身としてはこの策には反対だったが……いや、最高だよ。素晴らしい。面白いものを見させてもらった」

「衛栄の言う通りです。忠春様の性根はしっかりと受け継いでいます」


 桐も混乱した。何かされるのかと思えば、特に何もさせられずに値踏みされるように面白そうにこちらを見続けている。


「だ、大体なんなんですか! 武家の娘を屋敷から連れ去り、その上で我が家を虚仮にし、その無礼千万の振舞い。なぜだか私の名を知っているようですが、き、貴様らも名を名乗るのが道理ではないか!」


 窓の格子から部屋へと光が差し込んだからか、奥に控える人々の顔までしっかりと見えて来た。

 目の前に居る女武士も含め、どれも身なりはしっかりとしている。腰には大小の二本に加え、きらびやかな腰紐まで付けている。

 この豪奢禁止のご時世に、これほどまでの装飾品を付けているということは、それなりの身分であることは簡単に察せられた。

 それと同時に、このご時世にあるまじき行為をしているということも、それ以上に簡単に理解できた。


「うむ。微妙にズレている所も忠春様そっくりだ。これなら我らの棟梁に相応しい」

「まず、まずはお前だ! そこのご老人、貴様は何者だ!」

「大目付の筒井伊賀守政憲です。幼い頃に何度かお会いしましたが、覚えてませんか」


 政憲はふさふさとした白髪頭を数度掻くと、いかにもという笑みを浮かべた。


「ば、馬鹿言え! 大目付様がこんな所に居るはずもないだろ! 次はお前だ、お前らは何者だ!」

「長谷川平蔵宣冬。火盗改である」

「こいつは北町奉行所年番方与力の根岸衛栄。それで俺は北町奉行の遠山金四郎景元だ」


 目の前に控えていたのはいずれも幕府の重鎮達であった。


「……じょ、冗談も大概にしろ!」


 桐にこの状況が信じられるはずもない。

 とはいえ、彼の者達の笑うでも、偉そうでも無い平然とした態度。

 そして、どこかしこからか漂う風格が、桐にこの状況が真の物である、ということを呑みこまざるをえなくさせた。

 ぐぬぬと口の中をもごもごと空転させ、大きく息を吐くと、桐は小さく答える。


「……だとすれば、だとすればだ。なぜ私を攫った。長谷川殿の話した通り、我が家は家斉公のご恩によって辛うじて生かされているだけの旗本家だぞ。それに加え、母上だってなんの価値も無い、ただの腑抜けだ」

「我々一同、桐殿の母上には実に世話になりました。それでいて、この幕政に異を唱えるものでもございます」


 江戸の町はとにかく何もかもが寂れている。そのことは桐ですら簡単に理解した。

 簡素な身なりの者が、干からびた物を買いあさる様が日常的に行われている。

 住まう人々の大半は明日をも知れぬ我が命、という危機的状況な訳ではない。しかし、致命的に生活への潤いが足りていない。笑うことも許されず、生きることを楽しむことすらも許されない。少々の破目を外せば良くて小伝馬町の牢獄行きか、酷ければ鈴ヶ森で晒し首である。きっとあの世の方が生きることを楽しめるのかもしれない、と言う人すらもいた。


「簡単な話です。目的は忠春様の仇を討つことのみ。幕政は無論ですが、桐殿のお母上への仕打ちはそれ以上に許せない」


 政憲の言葉で、桐は完全に理解した。

 目の前にいる4人は途轍もなく、無謀な野望に燃えている。更に、その企てに自身が参加させられようとしている。


「という、というと、相手は……」

「ああ。敵は水野忠邦よ。ヤツを老中の座から引きずり下ろす」


 景元の威勢のいい言葉に、桐は大きく眩暈をした。

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