別れの旋風
大塩平八郎の乱の報は全国へと飛びまわった。
逃走した平八郎自身は養子の格之助と共に死んだらしいが、巷では「幕府の追手から逃れている」「日の本各地で貧困に喘ぐ人々を助けて廻っている」など、訳の分からない話しまで生まれた。
これ以上政情を不安定にさせる訳にもいかないので塩漬けにされた大塩親子の遺体を磔にしたが、そんなことでは市井に伝わる平八郎伝説が収まるはずも無かった。
「……さて、どうしたものか」
「会えども会えどもその言葉の繰り返し、この一月何も動いておりませぬぞ」
「だったら主が何か言えばいいではないか。文句ばっかり垂れおって、何一つとして建設的なことを言わないではないか」
「それはお主とて同じことよ。沈み切った詮議の場を打開する発言をしてはどうかな」
「むむむ、……さて、どうしたものか」
老中、並びに幕府の要職を占める者達は悩んでいる。
乱の詮議は続き、月を跨いだ。
なにしろ事が事のため、江戸の評定所も紛糾している。当座は会議に次ぐ会議となるため、捕らえられた関係者は獄中に止め置かれることだろう。
文字通り前代未聞、前人未到の事件であり、前例など何もない。
この安寧の世の中に、奉行所の元与力がこのような大それたことを起こすなど、幕府の閣僚はもとより、日の元に住まう全員にとって想定の範囲外の出来事であった。
「忠成様、此度の大阪での出来事、どういたしましょうか」
「そ、そんなもの私の知ったことか! それよりも忠邦だ。忠邦はどうしておる!」
「その忠邦ですが、事後処理が忙しいとの報が……」
評定所に駆り出された老中首座の水野忠成は頭を抱えて襖を蹴飛ばした。
「しかしこの文書、よくもまあここまで調べが付いていましたな」
「聞けば奉行所の与力だとか。我々の金の流れは調べが付いていると」
憔悴する忠成を置いて、別の老中や幕閣達は思い思いに語り合っている。
江戸へと事件の方が届くとともに、一通の密書が届いていた。
平八郎が認めた、現役の老中達の汚職が連なった文書である。
「こんなものを江戸に送った所でなんになるというのか」
「公然の秘密ということもありますに。しかし、明るみになれば我々の立場が危うくなったのは事実」
老中の一人は吐き捨てるように言った。
実際、江戸を生きる者の中に幕府の閣僚が清廉潔白だと信じている者は誰一人としていない。
当然のことながら、誰もがやましい事案を抱えて生きている。
「つまらん事件を起こしおって。更にこの文書。とんだ馬鹿がおったものよ」
忠成が文書をクシャクシャにまとめて燭台へと放り投げた。平八郎最後の希望は一瞬にして塵へと消えた。
時候は皐月。
穏やかな日差しと新緑が心地よい季節。
そんな緑の若葉までもが一枚たりとも残らない程に、日の本中では食料に困窮している。
「……して、奉行所らへの処分ですが」
「まったくもってけしからん。これほどの悪事をみすみす見逃し、大阪の北半分を灰燼に帰せさせた。言語道断よ」
「それにつきましては城代より意見書が」
簡素ながらも自信に溢れた装丁と筆致。右筆に書かせたのではなく、忠邦の自筆だった。
“東西奉行所の処遇など些事に過ぎなず、潰すべきは次の反乱の芽である。ここは見逃すのも手かと存じ上げます”
封をビリビリに引き裂きながら忠成が流し読みすると、吐き捨てた。
「くそ、嫌味ったらしい論を抜かしおって。己は天上人にでもなった気か」
そうは言いながらも忠成は文書を読み続ける。
“さらに、この一件が身内から出たことによって感じいることもあるはず。これを見逃すことによって、我々が大岡に借りを渡すこともできます”
「流石は当代一の俊英。なるほど、なかなか面白い策だな」
「ふむ、連中の面子を立ててやった、という風にも受け取れるか」
「普通であれば弟君もろとも叩き潰す所を、敢えて見逃すと言うのか。まさしく忠邦は鬼才よ」
取り巻きの数名が驚嘆の声を挙げると、その背後でガタガタと震える忠成は大きく咳き込んだ。
「何が何でも忠邦を江戸へ呼び寄せろ。京都所司代にでもしたっていい。とにかく一刻も早く、早く忠邦を……」
そう言うと忠成はばたりと畳へと突っ伏した。
「おい、医者よ、医者をはよう呼べい!」
水野忠成の症状は心労だった。答えの出ない連日の詮議が老体に応えたらしい。
詮議の後、数日自邸に臥せ体調は快調へと向かって行ったものの、心身ともにかつての威厳は無くなりつつあった。
そしてこの数日後、水野忠邦は大阪城代から京都所司代へと、立身出世の階段を上ることとなる。
○
江戸での喧騒は大阪でも同様だった。
天満の町は燃え尽き、人々は路頭に迷った。
上を見続けるのは語尾ばかりで、道行く人間はみな下を向いている。
飢饉に加えて止まる宿もなし。
天下の台所は生きるには辛すぎる環境となった。
そんな暗澹とした環境を敏感に感じ取っている人々もいた。
名のある豪商たちである。
いままでは自分たちの利益を守ろうと必死になっていた豪商達だったが、この大事件をきっかけに自身達の蔵を少しずつ開けるようになった。
「さぁ食え食え! ワシらが一体となって大阪を守らなアカンぞ!」
週に数度行われる焚きだしは、大旦那も番頭も下男も丁稚も下女も奥も関係ない。
それぞれが額に汗を流して明日ともしれない大阪の仲間を守ろうと必死になっていた。
「……今さら何だって言うのよ。私たちがクソほど暑い中、汗流して働きかけた時はなんの反応も示さなかった癖に」
そんな光景を奉行所の望楼で遠巻きに見ていた忠春は小さくつぶやいた。
眼下には焼け焦げた街並みが残る傍ら、少しずつだが新しい建屋が増えて来た。
「そんなこと言わないで下さいよ。それよりも重要なお話がございます」
「こんなところまでどうしたの、衛栄」
「先ほど江戸から飛脚が来ました。どうやら奉行所への沙汰が決まりました」
「御苦労さまね衛栄。それで、私はどんな結末を迎えるわけ?」
常に横に控えていた義親の姿はもう無い。
白州場で裁きをするときも、日々の職務に追われる時も、それ以外のつかの間の休息の時も、忠春は常に上の空だった。
時折、奉行所内にある望楼に昇り、眼下に広がる街並みをただただ呆然と眺めている。
「それが、特に沙汰はございません。両奉行所、城代ともに何の処分も」
「は、はぁ?」
あれだけの災害を起こしてしまったというのに、お咎めなしなのだから本来なら喜ぶべき報のはずだが、今の忠春にとっては訳の分からない指示だった。
目を大きく見開き、口をあんぐりと開けた。衛栄も苦笑しながら頭をかくしかない。
「私もそう思います。文書をもらい中身を見た時の私は今の忠春様と同じような顔をしていたことでしょう」
「何それ、ちょっと面白そうだからその顔やってみてよ」
「そ、それはこのような」
鳩が豆鉄砲を食らった、というのはそんな顔なのかもしれない、衛栄のふざけた顔を見て忠春はそう感じた。
屋山文がその顔を見たら腹を抱えた笑っただろうし、豊国が見ればひょうげた役者絵となり、北斎が見れば漫画にしたかもしれない。
衛栄の顔を高楼の欄干に肘を掛けながら微笑ましく眺めていた忠春だったが、ふと思ったように答えた。
「……なるほどね。今の私にはもう価値が無いと。昔みたいに何も無くなったんだ」
「何を仰るのですか」
「昔の私は文字通り何も無かった。実績はもちろんのこと、武士ですらなければ一介の武家の娘御。こうやって奉行になるなんてありえない話だしさ」
一人で呟く忠春に衛栄も口を閉ざした。
「そうか、これで、やっとただの大岡はつに戻ったってわけかな」
一人で納得をし、一人で息を吐く。それから言葉が続いた。
「平八郎の一件もさ、色々とあってそりゃぁ悲しいよ。でもさ、なぜだか恨めなくてね」
燃え落ちる大阪の町を平八郎は後にした。
だが、摂津へと落ち延びようとした平八郎は何を思ったのか大阪へと戻ってきた。
それからは馴染みの商家へと身を隠し、一月ほど隠棲していた。
しかし、商家の家の者の通報によって商家は包囲。義息の格之助とともに自刃したという。
「聞けば聞くほどなかなか可愛い所あるじゃない。ひと月ほど隠れてたらしいけど、あの子もきっと苦しんでたと思うわ。自分が燃やした所に戻ってくるだなんて早々出来ることじゃないし」
自らの手によって灰へと変えた町に戻るのは勇気のいることだっただろう。
そんな平八郎の行動には、忠春はそれがどうにも憎めなかった。
それが、愛する者を失ったとしても。
「それにさ、このひと月の間、この一件を鑑みて思ったことがあるのよ」
「なんでしょうか」
「……私もああなってたんじゃないかってね。いつかはああやって手をあげていたのかもしれない」
浮かべたのは呆れにも似た笑みだった。
炊き出しの炊煙が梅雨前の晴れ渡る空へと登って行く。忠春は遠くを見つめた。
「同じ立場だったらこんな決断を下す上役を嫌ってると思う。最初は威勢のいいこと言ってたのに、自分の立場が危うくなったら簡単に信念を曲げちゃってさ」
「いや、そんなことはございません。ま、まぁ、確かに忠春様らしくは無かったかもしれませんが、ああいう決断も必要なのです。詳しくは存じませんが、大阪には水野忠邦もいます。彼に対抗出来るのは大阪では忠春様一人のみ。軽々しく身内を告発するのはご自身の身を危うくさせること、それでは……」
つらつらと宥める衛栄を、忠春は片手一本で制止する。それでも止まらない。
「そもそもどれほど義憤に駆られようが、あのような結末を迎えた以上、何一つ彼の者を行跡を誇る理由などございませぬ。むしろ誇るべきは忠春様だ。それなのに、世間は両奉行を貶しやがって……」
「もういいわ。こんな決断を下す大岡忠春は必要ないのよ。だからこそ特に何も沙汰が無かったんでしょうね。もう潰すべき相手でもないと」
「弱気になってどうするんですか。私も忠春様もまだまだ若い。これを糧に次へと活かせばよろしいではありませんか」
「別に弱気になった訳じゃないわ。なんていうか、もう限界なのよ」
「それでは身を呈してまで忠春様を守られた義親殿が浮かばれませぬぞ!」
「……お願いだから義親の事は止めて」
衛栄の大声に忠春は俯いた。
そして、小さくつぶやいた一言とともに高楼の狭い床板に涙がにじんだ。
「……その、申し訳ございません」
「涙流しちゃいけないわよね。でもやっぱり悲しいわよ。十数年間一緒にいてさ、せっかく結ばれたのにすぐに居なくなっちゃうんだもん。悲しすぎるよ」
忠春はふぅと一息つくと、凛と光る声色で言い放つ。
「アンタはアンタで優秀なんだから江戸に戻って政憲を支えなさい。これから忙しくなるはずなんだからさ」
「た、忠春様……」
「私は私で生きて行くからさ、お腹の子と一緒にね」
このやり取りがあった翌日、忠春は江戸へと一通の書状をしたためる。
その数週間後、忠春は江戸への帰還と寄合組入りが命じられた。
ここに、大岡忠春の町奉行としての役目が終わった。
別れの旋風(完)