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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
122/158

乱・起

 明け五つに西町奉行所内で事が露見した瀬田済之助だったが、明け五つ半になるころには洗心洞へと命からがら辿りついた。

 息を切らして苦々しく微笑む済之助を見て、大塩平八郎も色々と察したらしい。


「済之助、事の次第がバレたというのに、よくもまぁ無事だったな」

「あの重武装は明らかにおかしかった。淵次郎は犠牲になったみたいだがな」


 このところ続く寒さに似つかわしく無いほどに汗をかいて戻ってきた済之助を見てどよめいている洗心洞内だったが、当の平八郎はやけに冷静だった。

 その内に情熱をどれだけ燃え滾らせているとしても、とにかく顔には出ていない。

 しかし、目だけは煌々と真正面を見据えている。


「多少の犠牲は仕方無い。しかし、予定が狂ったな」

「さっさと出なければ奉行所から追手がやってくるぞ。……いや、奉行所だけじゃない。城代の兵も来るだろう」


 憔悴する済之助の言葉に、黙々と作業を続けている門弟たちは色めきたった。


「慌てるなんてお前らしくも無い。だけども安穏ともしていられないな。……格之助、人を集めるんだ。出るぞ」


 格之助は、背筋を天高くピンと伸ばすと大声をあげながら屋敷中を駆け回った。

 思いを巡らせながら平八郎が帷子を着込んでいると、殺風景な中庭に門弟たちが集まり始めていた。

 隣に済之助がやって来ると、ため息をつきながら言った。


「色々とあったけれどもとうとう出撃か。武者震いが止まらないぞ」

「今の世の中は、はっきり言って狂ってる。幕府も、城代も、旗本も、譜代も、商人も、町人たちも、農民たちも何もかもが分かっていない」


 平八郎はここで初めて感情を見せた。

 熱情に駆られた頬は赤く染まり、背で輝き続ける篝火よりも熱く、眩しい。

 済之助は平八郎の肩に手を優しく置くと、道場から中庭へと下って門弟たちの列へと加わった。

 色めき立っていた百名近い門弟達も動きを止めて息を呑んだ。


「この数月ほど、ここで教えを受けて分かったと思う。いかに奉行所の連中、城代、世の為政者たちは惨状に対して何もしてこなかったということを」


 身を粉にして働いても遅々として進まない治世に嫌気がさし、奉行所を辞めた。

 そんな渦中から離れてみると、無能を晒し続ける奉行所そのものの穢れた点というのが嫌というほどに分かってしまった。

 未曾有の大飢饉に歪んだ治世。

 世を立て直す手段というのは人と人の調整や、上への嘆願では無い。


「私たちの激情を叩きつけるのよ。世の中を変えるという灯火で大阪を……いいや、大阪だけじゃない。日の本も全土を照らしてやるの!」


 行動。

 これしか無かった。

 済之助を含めて、門弟達の表情は自然と引き締まり、拳も固くなる。

 参加者の大半は武家の次男三男や農村の庄屋たち、為政者の側にいつつも、常に上からの非道な命令に従わなければならないか、そもそもとして世の中の潮流から見放された者達である。

 それだけに自分たちが世の中心に立つという気持ちの昂りが抑えられない。

 涙を流して体を震わす者、目を瞑り今までの人生を回顧する者、何度も何度も深呼吸をして気を落ち着かせようとする者などさまざまである。


「その第一歩は対面の朝岡邸よ。大筒、準備はいい?」

「は、はいっ! すぐにでも撃てます!」


 大筒番の青年はキリリと答えた。

 控える門弟達はさきのようにそれぞれ違う行動をとってはいるが、内に秘めた感情は一緒だった。

 “俺たちが世の中を変えてやる”のだと。

 平八郎は満足そうに微笑むと、手にした采配を大きく振るった。


「私たちの思いを叩きつけろ! 放てぇ!」


 甲高い号令と共に轟音が噴き出し、朝岡邸の棟門は簡単に吹き飛んだ。


「俺たちの旗を立てろ! 悪逆非道の輩、奉行所らの与力屋敷に火をかけろ! 世をひっくり返せ! 連中の悪行三昧は断じて許せない!」


 門弟達は各所に立てられている篝火を蹴飛ばし、洗心洞各所で火を付けた。

 『救民』『八幡大菩薩』と荒い筆致で殴り書かれた旗指物を天高く掲げると、北天満の与力・同心屋敷街を走り回る。

 心には自身達の正義を信じ、左手には小筒や槍刀、右手には燃え盛る松明。

 静かに立ち並ぶ屋敷の木塀は簡単に火が付き、異変に気が付いた人々の慌てふためく声が辺りに響き渡る。


「変えてやるのよ。私がこの世を変えてやるの……」


 燃え盛る火中でチリチリと火花が音を立てて向かってこようとも、平八郎は顔をそむけることも無く前進し続ける。

 目指す先は大阪城本丸。

 数百年にわたる安寧の日々が終わりを告げ、大阪の町に再び戦火の嵐がやって来た。





 高麗橋にある高札には怪文書が張られていた。

 怪文書を貼った実行犯は分からないが、内容からして文書の主は平八郎なのは間違いない。

 “檄文”と題された文章は以下の通りである。



――


 天から下されたこの文を人々に捧げる。


 今の世は何もかもが腐っている。

 上に立つ者が無能では、国の社稷が治まるはずもなく、かつての聖人たちもそう言う風に書き残していた。

 人々は飢え苦しみ、農村では一村逃散が絶えず、明日の身も分からない暮らしをしているというのに、上に立つ者はどうなのか。


 賄賂が横行し、道義に欠く者たちが地縁で要職に就く非道がまかり通っている。

 そんな人間のために、農村が苦しむということはもってのほかである。

 これまでの年貢ですらもろくに払えないと言うのに、ここのところの供米や苦役の日々。世を恨まない者なんて誰一人としていない世の中のはずだ。

 それは大阪だけでなく、江戸表から全ての土地で言える。京の天子に頼もうとも、そんな権限は持ち合わせていない。

 誰にこの訴えをすればいいのだろうか。


 また、世の中の恨みが通じたのか、長梅雨に夏の猛暑、ここのところの厳寒と、天変地異が続いてこの飢饉。

 古来より、天災は世の乱れが原因と聞く。まさしく今まさに世が狂っているからこそ起きた事象である。

 この現を鑑みて行動を起こした者がいた。しかし、威勢も無ければ力も無い。蟄居させられ慎ましい日を過ごしていると聞いた。


 ここのところ、米価がますます高価になっている。

 それなのに奉行所はその値を下げる努力をせずに惰眠を貪っている。

 さらに、飢え苦しんでいる人々へと米を届けず、江戸への回米という暴挙に打って出た。


 そのような奉行所の暴挙に商人たちも乗って暴利を貪っている。

 大名への多額の貸付金や米の転売をいいことに、多額の金銀を掠め取って世の不幸を見ようともしない。

 飢民に援助もせず、ただただ美味いものを食べ、酒を呑み交わして人々を殺し続けている。

 危機に対して何も感じず、どういった了見なのだろうか。


 酒池肉林を続ける商人・奉行所らを取り締まり、農村や町人を救うべきである。

 そのために我々は誅戮を行う。

 ヤツらが溜めこんだ金銀・米穀を全て配ることを約束しよう。

 親子を助け、世の風紀を糺し、地獄の日々に終わりを告げさせ、そして未曾有の大飢饉を救って見せる。


 もし、この文を聞き、読んで思う者があったらすぐに大阪に来てほしい。

 この乱もそうだが、後も同じような悪逆の徒を討つために人は一人でも多く必要である。


 私たちの行動を平将門、明智光秀、漢の劉裕、朱全忠と同じだと謗る人もいるだろう。

 だが、これは彼らとは全く違う。

 あくまで世のためであり、天下を簒奪するような気は何一つない。湯武の放伐や、漢の高祖、明の太祖が民の声を聞いて世をあるべき姿に戻した時と同じである。

 もしも疑うようなら自身の目で見届けてほしい。 


 字が読めない人には僧侶や医師が読んで聞かせてほしい。

 この書を持っていても自己保身で隠すような輩がいたら天の報いとして処断されるだろう。


 天命を受け、世に天誅を下す。



――





 明け六つ半前、忠春は東町奉行所から急いで西町奉行所へと戻ると、義親ら与力が武具を着込んで出迎えて来た。


「忠春様、出立の準備、万事整いました」

「連中の数はいくつになるの」

「……分かりません。ただ、火は北風に乗って燃え広がっております」


 この日は六甲山系からの颪風が一段と強かった。

 乾いた空気に強い北風。

 火種が一層と燃えるのには絶好の機会である。


「避難民も多そうね。どうするか……」

「いずれにしても連中の目的は奉行所か大阪城。勢いに乗じて天満橋を渡って来るに決まっています」

「天満橋を越えさせると大阪城まで簡単に来られてしまう。忠春様、天満橋を落としてしまましょう」


 衛栄が重々しく口を言うと、与力達はざわつきはじめる。

 平八郎らの士気は今が一番高いだろう。

 火器を揃えた平八郎らも、消耗戦をしながら北から南へと下っていくよりも、最短経路でケリを付けようとすることは容易に想像が付いた。

 そうなると、それを防ぐための策は一つしか無い。


「そんな、天神橋を落としたら町人はどうなるんですか」


 すぐに義親が口を開いて真っ向から反論する。

 天満町は大阪三郷の内の一つに数えられ、簡潔に言えば大阪の北側に位置する武家・町人が入り混じった住宅街である。

 その天満の最北にある与力・同心たちの屋敷に火が付き、街全体が強い北風に晒されている。

 人々の流れは当然火を避けて南へと流れて行き、逃げる先は大阪城や東西奉行所といった所に落ち着くだろう。

 淀川に架かる橋々が人でごった返すことは確実であり、町人らの避難経路の大動脈である天満橋を絶つというのはかなりの危険を孕む話でもあった。


「平八郎の門弟達は数十という情報もあれば、千を超える、なんて話もあります。はっきり言って連中の実態が掴めない以上、とにかく打っておいて確実な策を取るべきだ」

「それは知っております。しかし、町人たちは少なくても数万はくだりません。彼らの逃げる先はどうするのですか」

「準備がある程度整ってる俺たちは問題ないかも知れない。だが、東町は、城代はどうだ。忠春様、さっきまで連中の所にいたんだから状態は分かりますよね?」

「ええ。はっきり言ってなんにもしてなかった。私がやって来てやっと動いたってぐらいね」


 与力達の総体も二つの内のどちらかの意見に与しているようで、それぞれが口論を交わし続けている。


「勢いに乗じて攻め込まれるのが一番厄介だっていうのに、さらに連中に東町が負けた、なんてことになったらどうするってんだ。さっさと橋を絶った方が良いに決まっている」

「見殺しには出来ません。対岸で火を避けながら逃げ惑う人々を見続けるなど奉行所の恥ですよ」

「……落ち着いて、私が決断するから」


 両者の意見は真っ当なものだったが、いずれかどちらかの意見を採用しなければならない。

 忠春の一声によって、場は静まり返り、それぞれが息を呑んだ。


「……天満橋は絶つのよ。橋なら天神橋も難波橋もある。これに関しては、東町がすでに動いてると思うけど伝えて来なさい」

「かしこまりました。すぐに手配します」

「それからすぐに大阪城に伝令よ。とっくに気が付いてると思うけど、城代に援軍を乞うの。どうなるのか全く分からないけどさ」


 事の成り行きや現状を城代に報告しなければいけないし、奉行所単体で対応するには大きすぎる案件なのは明白である。

 跡部が協力的だったのは幸いだったが、城代はどうだろうか。

 あの水野忠邦が簡単に首を縦に振るとは思えず、忠春の暗澹とした気持ちは更に重くのしかかって沈みこんでいった

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