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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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終わりの始まり


「忠春様、報告がございます」


 屋山文が西町奉行所に辿りついたのは明け五つの事だった。

 奉行所内では巡検のための準備が執り行われており、朝早くにもかかわらず慌ただしく動いていた。

 忠春も同様に、当日の工程や段取りなどを義親と確認し合った後、役割分担や各担当者との打ち合わせを行おうと私室を出ようとしていた直前の話だ。


「どうしたの文ちゃん、そんなに顔を青くしてさ」

「その、ね……」


 文は言葉に詰まりながらも必死に忠春へ事情を説明した。

 平八郎が隠居中に何を計画し、洗心洞で何が行われているのか、そして、昨晩の謀議のことを洗いざらい喋った。

 言葉が淡々と進んでいくと、忠春から乗り気ではない東西奉行の巡検のことなど全てが飛んだ。

 そのまま何も知らず、呑気に市中へ出張っていた時の事を考えると、全身の神経が逆立ち、悪寒が忠春の全身を駆け巡った。


「……義親、衛栄を叩き起こして来て」

「……すぐに呼んできます」


 横に控えていた義親も即座に出仕している与力達を呼びに行った。

 文はどこか安堵したように息を吐くと頭を深く下げた。


「ありがとう文ちゃん。それで主税はどうなったの」

「分からない。だけど、最後に私が見た時は洗心洞の数名が刀を携えて斬りかかってた」


 単身乗り込んでいった主税の気持ちは分からなかったが、そこで巻き起こったであろう結末は誰にでも容易に想像が付いた。

 忠春は沈む文を見つめると、そのまま言葉を続けた。


「……分かった。当然このことは誰にも言っていないんでしょ?」

「そりゃそうだよ。あそこから逃げだす時も誰にも見つかって無いはず。それとこれ」


 文は腰帯に挟んだ封筒を取り出すと、忠春へと手渡した。


「朝来たら門前に置いてあったよ」

「なんなのよこれ」

「訴状みたいだね。中身は見てないけど、……多分、今回の乱についてじゃないかな」


 忠春がはらはらと文書を開くと、中身は確かに乱についての密訴であった。

 参加者や、洗心洞の順序・工程・武装など、乱に関わる全てが文書には事細かに書かれている。

 その差出人は不明だが、門弟の誰かが乱への参加に決心がつかず、残していったのかもしれない。


「……文ちゃんも残ってて。衛栄が来たら対応策を考えないと」

「すみません忠春様、義親が血相を変えて来たんですけど何事ですか」


 それからすぐだった。頭をかきながら衛栄が出仕してきた。

 忠春はあくびをかく衛栄にため息をつきつつも、書状を手渡しながら説明した。


「……いや、こんなのは冗談でしょう?」

「残念だけど本当の話よ。それでどうするの。洗心洞に通ってる連中をひっ捕らえないと」


 最初はつまらなさそうに苦笑する衛栄だったが、忠春らの重たい表情を見て事の次第を察した。

 衛栄は俯いて深く息を吐くと、目頭を押さえつつ話しだす。


「当然ですが、我々が表立って動けばヤツらの身内の誰かが平八郎の所に報告に行きます。そうなったら収拾がつきませんよ」

「この謀議を知っているのは私たち4人だけだよ。幸い、誰かが書き遺してくれた書状があるから誰が関わってるかは分かるし」

「まずは瀬田ね。確実にアイツは関わってる。それに付き従う数名も平八郎と通じているのね」


 密訴状に書かれていた乱の参加者のうち、西町奉行所に属していたのは数人であった。

 その中心にいるのは瀬田済之助で、他は彼の組下にいる同心数名が列挙されている。


「瀬田殿を捕らえるのもそうですが、並行して洗心洞へも踏み込まなければなりません。彼にはそのための準備で気付かれてしまうのでは?」

「それは、今回の巡検の準備で武装している、とでも言っとけばいいだろうよ。それよりも東町へはどうしますか」


 これだけの一大事となれば、当然東町奉行所にも知らせなければならない。

 しかし、東西奉行所間の仲は険悪であり、どれだけ頭を下げても真っ当な協力が得られるとは、衛栄だけではなく、その話を聞いた人であれば誰だって思わないだろう。


「……私が直接言って話を付けてくる。その方が手っ取り早いでしょ。とにかく瀬田らの捕縛と出兵の準備よ」

「んな無茶な、忠春様にそんなつまらないことさせられませんよ。どうせ小馬鹿にされてお終いですって」

「つまらない誇りや矜持は捨てるのよ。とにかくこの一大事を乗り越えるしかないでしょ」


 忠春はそう言い残し、供数名を連れて奉行所を発った。





 明け六つ刻に出仕した瀬田済之助はすぐさま義親に呼び出しを食らった。

 済之助自身、突然の話に平静を装いつつ返事をしたが、心にはある種の引っかかりがあった。

 組下の同心一名とともに義親の待つ部屋へと徒を進める済之助だったが、その途中でふと足を止めた。


「瀬田様、どうなさいましたか」

「おい淵次郎、あの仰々しい武装はなんなんだ。お前の方が先に出仕してたはずだけど、何か分からないか」


 巡検の準備で忙しい奉行所内だが、中庭には武具が並びたてられ、中には火縄銃までもがあった。

 当初の予定ではせいぜい帯刀ぐらいで、ここまで大袈裟な格好はしない、と済之助は認識していた。


「あれは巡検の準備やないですか。確か根岸様が『市中に姿を見せるんやから格好つけなアカンしな』とか言っとりましたよ」


 済之助の横に付き従う若い男は小泉淵次郎という男で、日ごろから私塾へ熱心に通っていた。

 その淵次郎は伸ばしはじめた薄い口髭をいじりながら何でも無さそうに答えた。


「……悪いが淵次郎、私はちょっと厠へ行ってくる。お前は先に義親殿の所に行って来てくれないか」


 突然足を止めた済之助は踵を返してま逆の方向へと進もうとする。


「別にかまいませんが、早く戻ってきてくださいよ。平八郎様ん所にさっさと合流せないけませんし」

「すまないね。それじゃ失礼するよ」

「別にええですって。長くなろうが適当に間ぁ持たせとくんで」


 そう言い残して済之助は足早に厠へと向かって行った。


「小泉淵次郎です。失礼します」


 目的の部屋へとすぐに到着した淵次郎は上方訛りの上へ抜ける挨拶をし、腰に差した脇差を刀掛けへ置いた時だった。


「小泉君、瀬田殿はどうした」

「ああ、ここに来る前に厠へ行くと仰ってました。もう少々掛かるのではないでしょうか。にしてどうかなさったんですか。こんな急に御用聞きだなんて」


 妙に薄暗い部屋で佇む義親に向かって調子よく淵次郎が取り繕っていた時だった。

 それからすぐ、閉められていた襖が蹴り破られ、刀を携えた数名が殴り込んでいた。

 筆頭は衛栄、すぐ脇には組下の同心が付き従っている。


「小泉淵次郎、此度の巡検での密議の件で捕縛させてもらう。神妙にしろ!」

「く、くそっ! 謀られたか!」


 小泉淵次郎は反撃しようと置いた刀に手を掛けようとしたが、一直線に踏み込んできた衛栄の剛腕によって、なす術もなく一刀に斬り伏せられた。


「謀ったのはてめえらだろうが! お前らはさっさと瀬田を探せ! 野郎を逃がすんじゃねえぞ!」


 返り血を一身に浴びた衛栄が叫ぶと、数名の同心達が厠へと飛び出して行く。

 それからすぐのことだった。


「ね、根岸様! 瀬田の姿がありません! あ、あれは!」


 慌てふためいた同心達の声の先には中庭に済之助の姿があった。

 大声に気が付いた済之助は首だけでこちらを見つつ、一心不乱に白壁へと走り出している。


「追え! 撒かれたらどうしようもないぞ」


 霜柱を踏み抜きつつ、足袋のまま衛栄らは駆けだした。

 済之助の走る先には都合よく梅の木が一本植えられている。

 その太い幹を掴むと勢いそのままに木へと登り、簡単に白漆喰の塀を飛び越えて行った。


「くそっ、表だ! 表から追え!」


 衛栄と同心達はすぐさま裏門から表に出て瀬田の背中を追った。

 しかし、不景気だろうがなんだろうが、朝方の大阪の道路ははえらく混んでいる。

 どれだけ衛栄らが息を切らして走れども走れども、谷町通りの人混みをかき分けることができず、済之助のきっちりと結った髷が遠ざかってゆくのみである。

 細身の済之助は、そんな人混みをするすると掛け抜けて行き、天満橋に差し掛かる前には奉行所の追手を撒いていた。





 明け六つを迎える少し前、忠春は東町奉行所に到着した。

 忠春は数名の取次に露骨に敵愾心を露にされながら中へ通されると、すぐに良弼と面会した。


「わざわざご足労をありがとう。要件は大体分かってるよ」


 憮然とする忠春を見て、良弼は懐から一通の書状を取り出した。

 密訴状の主は東西奉行所に同じものを送っていたらしい。それを見た忠春は小さく息を吐くと言葉を向けた。


「そっちにもあったんなら話は早いわ。その件について協議しましょ」

「はっきり言ってゆゆしき事態だ。巡検は中止にして平八郎追討の命を城代に進言しなければね」

「当たり前よ。それよりもあんたの所にも平八郎の組したヤツがいるんでしょ」


 密訴状には西町奉行所の与力・同心だけではなく、東町奉行所の与力・同心も書かれていた。

 人数だけならいずれも数名でしかないが、身内に平八郎らに組した人間がいるということ自体は大きな問題であった。


「ああ知ってるよ。平八郎の養子になった格之助が筆頭ってところだな。ただ、今日ヤツは体を壊したから出仕しないと下男がやって来た。きっと企ての準備で忙しいんだろうな」

「出兵よ。準備しなさい」

「そんなに急くなよ。急いだっていいことなんてないぞ。ほら、茶でも飲めって」

「……大阪の一大危機なのよ。茶なんか飲んでる暇なんか無いでしょ」

「別に呑気なんかじゃないさ。人より冷静なだけだよ。せっかく玉露を点てたのにもったいな」


 ぶつぶつと湯呑みを口に運ぶ良弼は、茶をひとしきり飲み終えるとため息交じりに襖に向かって言った。


「ほら、朝岡聞いただろ。さっさと支度だ。神君家康公以来の大戦が始まるぞ」


 良弼が言うと、廊下がドタバタと動き出した。

 目的の言葉を予想以上に早く聞いてしまった忠春の思考は一時停止した。


「……何を呆けてるんだ。協力的過ぎて恐れ慄いたか?」

「い、いや、そんなことは無いんだけどさ」

「それと、東西奉行所の指揮権は大岡殿に任せるよ。アイツらを好きに使うが良いさ」


 数秒の間が空き、呆けたように忠春が言う。


「……え、いいの?」

「何驚いてんだよ。月番は西町奉行所なんだからその方が合理的だろ?」


 この危急を告げる中で、数少ない喜ばしい出来事だった。

 あれだけ非協力的だった東町奉行所から自主的に協力を申し出るという予想は


「分かった。遠慮なく使わせてもらうわ。これなら案外、早く片付くんじゃ……」


 それからすぐのことだった。

 天を穿つような轟音、というのはこのことを指すのだろうか。遠くで聞こえた雷鳴にも似た大音を聞いて忠春はそんなことを思った。

 すぐさま忠春は奉行所の二階に登り、音が聞こえた北方を眺めた。

 同じように登って行った良弼がのんびりと呟いた。


「……あれは、火だね。始まったみたいだ。早く片付くといいね」

「すぐに火消しの手配を。手遅れになる前に行かないと!」


 武家屋敷街と町人達の住まう長屋が密集する北天満で火の手が上がっている。

 冬の澄み渡る青い空へ昇る白い煙。

 二月十九日、大阪で乱が始まった。

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