ある男の死
二月の初め、市中は相変わらず暗澹としていた。
飢饉が改善するはずもなく、大阪の話だけではなく、日の本中で慢性的な食糧難に苦しんでいる。
ただ、そんな中でも一縷の光明も見えた。
右肩上がりを続けていた米価はほぼ横ばいへと推移し、商人たちも自主的に奉行所へ穀物の供出を申し出て来た。
それらを元手にして市中へと配り、死者数も些少ではあるが減りつつある。
忠春らが続けてきた、粘り強い交渉が花開いた瞬間だった。
「なんや三郎、やけに慌ただしそうやないか」
「そ、そらそうやろ。明日は東西奉行の巡検や。色々と準備があるやんか」
明け七つの西町奉行所は、東西町奉行による市内巡検の準備に追われて慌ただしかった。
そんな中、書類の山を抱えて廊下を往く松橋主税と岡部又兵衛は、汗を吹きながらトタトタと走り回る新藤三郎を見つけた。
「何ゆうとるんか。ワシらは奉行所で待機のはずやろ。何を準備するっちゅうねん」
東西町奉行による巡検は大きな行事とはいえ、当然のことながら全員がそれに参加するという訳ではなく、一部は奉行所内で待機することになっていた。
その待機組の中に、主税・又兵衛・三郎も含まれており、こと巡検で与えられた仕事は無い。
普段からの仕事が忙しいことは忙しいが、何もこの真冬に汗をかきながら走り回るほどのものではない。
それに、三郎は普段は落ち着いた男で、夏場ですらも汗をかいて仕事をした姿など見たことも無かった。
「じゃかましいデク、お前さんになくてもワシにはある。悪いが失礼するわ」
「お、おい、待てい三郎……」
どこか焦ったように身振り手振りを交えながらひとしきり喋りきると、主税の言葉を待たずして奉行所を後にして行った。
そんな不思議な後ろ姿を眺める主税と又兵衛は、首を傾げながら話しあう。
「なんやアイツ、そんな忙しいことなんかないやろ。何するっちゅうねん」
「さあな。いや、待てよ……」
少し小馬鹿にしたもの言いの又兵衛だが、主税は違った。
三郎の言葉を聞いて、一点だけ気に掛かることがあった。
「アイツ、平八郎様の所に行くんやないか」
「まぁ、行ったって可笑しくは無いわな。私塾の常連なんやし」
「……その私塾や。なんかやらかすんやないか?」
主税の思い憂い気な言葉に、又兵衛の馬鹿にしたもの言いの矛先は変わった。
「んなアホな。わざわざ合同での巡検狙ってなんかするはず無いやろ。仮になんかするっちゅうたって、忠春様に跡部なんか殺したところでなんの意味も無いやないか」
「いや分からんぞ。アイツが明日の東西合同のアレに関わるっちゅうたらソレしかない」
最初は小馬鹿にしたような又兵衛だったが、いつになく神妙な面持ちの主税を見て再度首を傾げさせられた。
「……確かにそうかもしれんな。せやけど、普通、そこまでするか?」
「正直分からん。これは小峰様や根岸様に報告した方がええんとちゃうか」
「そんな妄言相手にされんやろ。たかだか同心の一人が関わっとらん仕事に一枚噛んでる風の素振りを見せただけで何かあると思う方がおかしいで」
又兵衛の言葉には説得力があった。
内与力である小峰義親と根岸衛栄は市内の豪商・町役人ら各所との調整、東町奉行所との段取りの打ち合わせなど、巡検に携わる仕事に忙殺されていた。
それに加えて普段からの仕事もある。こんな報告を受けたところで、気を割くことすらもないだろう。
疑問を浮かべた主税だったが、ひとしきり考え込んでから言った。
「……それもそうやな。ワシの考え過ぎか。あくまで殺す云々ってのもパッと思いついただけのことや。本気にせんでええ」
「せやせや。なんなら平ちゃんところに顔を出せばええやないか。ワイは長い事行っとらんから不思議や思われるかもしれんけど、お前は割と顔出しとったし問題ないやろ」
主税に関しては、洗心洞へと月に数回は平八郎の見舞いがてら顔を出していた。
ただ、このひと月は流民達の対処に追われてそんな余裕は無かったが、又兵衛が突然顔を出すよりかは幾分か自然であった。
「まぁ、ひと月振りぐらいにはなるけどな。確かにそれで探ってみればええのかもしれへん」
「何か心配なら誰か連れて行けばええやないか。例えば、ほら……」
「なになに、私を呼んじゃってどうしたのさデクさん、まさか平八郎さんのとこにでもいくのかな?」
老同心二人がひそひそと話している所に、屋山文が突然やって来た。
「ちょうどええ所に来すぎてなんか気味悪いな。まぁその通りや。デクに付いて行ってやってくれへんか」
「確かに文さんなら隠れられそうやしな」
「そんな、私に都合よく忍びみたいなマネしろっていうの?」
又兵衛が毒づきながら喋り倒すと、文は甘えたような声を出して体をくねらせた。
「……まぁ、余裕で出来ちゃうんだけどね。デクさんの近くで潜みながら話の内容そのたを聞いていればいいんでしょ?」
「そういうこっちゃ。ヤバくなったらすぐ奉行所に報告すりゃええだけの話や。ちょろいもんやろ」
「確かに簡単だね。それじゃデクさん、よろしくねー」
又兵衛と同様に文も軽く言った。
確かに、この時は又兵衛の言う通り、洗心洞がどんな状況になっているのかを少し見てくるだけで良かった。
しかし、この一月で全てが変わっているなど知る由も無い主税らにとっては、この一件を抱えるには大きすぎる問題だった。
○
主税は奉行所内での仕事を一段落させ、又兵衛に言伝を残してから洗心洞へと足を運んだ。
ちょっとした外出すらも避けたくなるような冬盛りであるというと、普段からの不景気からの閑散ぶりが合わさって、天満の武家屋敷街はより一層の寂しさを感じさせた。
どこか寂れた雰囲気というのは、正午という時間から、多くの人たちが城中へと出仕しているということもある。
ただ、町人や流民のみならず、飢饉の波は武士にも訪れていることの証左でもあった。
「久しぶりやなぁ、平八郎様はおらんのか」
洗心洞内に一歩踏み込むと、必死に足止めしようとする若い門弟と広い額に汗を浮かべる三郎が出迎えて来た。
「ちょ、あきませんて、主税さん、突然……」
「な、なんや、急にどうしたデク。何の用や」
「別におかしな話や無いやろ。ワシかて前は私塾に顔を出しとったんやから来て何の問題があるんや」
「いや、そう言う訳や無いんやけどなぁ……」
目線を逸らしながら言葉をぶつけてくる二人を見て、主税自身、感じ取った予感が何かに掠ったことだけは分かった。
門外へ押し出そうとする門弟の手を払いのけるると、主税はそのまま言葉を続けた。
「とにかく邪魔するで。平八郎様は元気にやっとんのか」
「お前なんかに気ぃ遣われんでも元気にやっとるから、はよ帰れや」
「どうした三郎、やけに調子がおかしいやないか。何か隠し事でもあるんか?」
主税はカマを掛けた。
この三郎らの応対を見てしまった以上、疑惑は深まるばかりで一連の考えも単なる主税自身の思い込みにしては現実味があり過ぎる。
「なんだ主税じゃない。久しぶりね。ここに来るのは一月振りぐらいになるのかな」
そんな押し問答を玄関先で繰り広げている所に、平八郎がやって来た。
身なりは木綿地の着流しと非常に簡素だが、奉行所で第一線を戦っていた時のように気高く咲き誇っている。
「平八郎様、お久しゅうございます。」
「へ、平八郎先生……」
三郎は目を丸くしたまま黙っており、その周りに付き従う門下生達はおどおどとした目で主税を見ている。
しかし、平八郎は平然そのものだった。
心の底から久方ぶりに会う知り合いに向けられる、どこか安堵したような懐かしみに満ちた笑みを送っている。
「奥に通しなさい。信頼できる男だから問題は無いわ」
平八郎は小さな歩幅で主税の足元まで来て見上げながら微笑みかけると、背後に控えている門弟たちに主税を案内させた。
「……こっちやデク、ちょっと待っとれ」
主税は不服そうに視線を送る三郎と数名の門弟に案内されて奥の院へと通された。
玄関先で出会ってからここまでの平八郎には、特段違和感が無かった。
しかし、屋敷内に入った途端の他の門弟たちのどこか落ち着かない緊迫した雰囲気と、部屋まで通された時の周りへの厳重具合はひと月前には無かったことだった。
そしてかすかに漂う硝石臭さ。主税は鉄砲蔵で嗅いだ硫黄っぽさを思い出した。
「……こりゃ何かあるで」
奥の一室へと通され、そこで一人で座すると主税が小さくこぼした。
「……確かにそう思うよ。屋敷もかなり空気が張り詰めているしね」
「……文さん、しっかり聞いとけ。そんでしっかりと奉行所に持って帰りや」
板張りの床に向かって小さく言うと、コツりと返事があった。
それからの主税は腰に差した刀に手を掛けながら、襖が開くのをひたすら待っていた。
○
半刻ほど部屋で待たされると、襖の奥からトタトタと足音がした。
その小さな歩幅は聞きなれた音だった。
「三郎か。やけに時間が掛かったのう」
「突然やってくるから焦ったわ。まぁ、ゆっくりせいや」
三郎広い額にかいた汗と、繕い笑顔には無理があった。
それが何かは分からないが、確実に三郎をはじめとする洗心洞では何かが起こり始めていることだけは部外者ですら分かる。
「言われんでもそうさせてもろうてるわ。しかし、この厳戒態勢は何なんや。戦でもおっぱじめるんか」
主税の言葉は半分は冗談だったが、半分は本気だった。
「戦やない。まぁ、当たらずも遠からずってところかもしれんな」
「じゃあなんなんや。オッサンがもったいぶってないで言えばええやないか」
「乱や。平八郎様は乱を起こす。そんで、両奉行に城代の首を取る」
三郎がこぼすと、主税の中で流れていた時間が止まったように、長い数秒が続いた。
「……んな、んなアホなことがあってたまるかい!」
そんな静寂の後、主税の口から発せられたのは怒鳴り声だった。
声を発した主税自身も予想を遥かに超えた出来事と思っていた以上の声量にたじろいだ。
すぐさま周囲を見回して、三郎の首根っこを掴むと顔を近づけて小声で話した。
「忠春様に跡部様を誅殺やと? 気でも触れたか三郎さんよ」
「なぁデク、今のままじゃどうしようもないやろ。もうこれしか残っとらんのや」
「そんなことあるか。跡部はよう分からんが、忠春様はしっかりやっとるで。今週は死者も多少は減ったし、米も少しずつやけど流民や町人に回っとる。次第に治まるやろ」
「いいや、もうアカんで。平ちゃんが大阪を救うんや」
三郎は主税の手を払いのけると、細い目で主税を見据えた。
「じゃあなんや。跡部はともかく、忠春様殺したら世の中が変わるっちゅうんか? アホ抜かせ。なんの意味も無いやろ」
「ワシらは本気やぞ。それ以上言うとしまいにゃ怒るでデク」
言う通り、三郎の目は本気だった。
いつぞやに見た一つの事を信じ抜く人たちの目。新光門に足を踏み入れた時に出会った人々と同じ目をしている。
「目ぇ覚ませ三郎っ! こんなことに加担してなんにもならんぞ。不細工なカミさん置いて死に出の旅か。そんなん下らなすぎやろ」
「下る下らないの話や無い。それにアイツも関係あらへん。ワシは平ちゃんを信じとるし、考えに深く共感した。だからやるだけなんや」
それでも主税は諦めなかった。
はっきりいってこんな計画が成功するとは主税にも思えなかったし、この話を聞いた洗心洞以外の誰もがそう思ったことだろう。
「そもそも乱を起こした先に何があるんや。城代は水野やぞ。いや、別に水野やなくたって同じことや。追討軍が動いて滅多打ちにされるだけやぞ。何の価値もあらへんで」
主税自身も忠春ら町奉行が殺された後の事を考えたくも無かったが、その後に起きるであろう状況は簡単に予想が付いた。
反乱が起きて町奉行が死んだとなれば、当然の如く大阪城代が鎮圧すべく定番と呼ばれる大阪城の守備兵が動き出す。
この状況下で正確な人数までは把握していなかったが、少なくとも千人弱はすぐに出てくるだろう。
いずれにせよ、ちょっとした火器を持っていたところで、百人程度の兵数じゃ幕府の軍勢に敵うはずが無いのは明白だった。
「ワシの決意は決まっとるし、平ちゃんの考えは的を得とる。このままじゃどうしようも無いんや。他の連中を救うためやるしかない。加わればええ」
「……ホンマアホや。いいや、ホンマのアホはワシや。こんな企てに気が付かんなんてどうしようもないわ」
そんな明らかな事実以上に、親友がこんなバカげた話に乗っかって無駄死にすることが何より嫌だった。
「起こした所で被害を食うのは自分らやぞ。いや、火い使うんやからもっと多くの人が何もかもを失う。それがホンマに天下国家のためになるんか?」
「お前もこれを読めばええ。ここ一月、平ちゃんが近くの村々に配りまわっとった文書や」
一通の書状を手渡して来た。表書きには“檄文”の字。主税は軽く目を通したが、真剣に読む気にはなれなかった。
今これを読んだ所で何になるのか。仮にどれだけ正論を述べていた所で、体制側に付く主税自身が共感も出来るはずが無い。
三郎には言葉が響かなかろうが主税はとにかく論を説くしかなかったし、実際に主税はそうやって三郎に言葉を叩きつけた。
「それがあるんやったら事の次第を忠春様に話せばええ。お前の立場が危うなったらワシの進退を賭けてでもお前を守ったる。奉行所までそう遠く無いからなんとか逃げおおせるやろ」
「せやったらどうする。ワシはこの乱の血判状にまで印を押したんやぞ。一人逃げおおせた所でどうしようもない」
血判状にまで名を連ねた男が突然姿を消したとなれば、計画がどう転ぶか分からない。
ただ、予定通りに事が運ぶよりかは幾分かマシかもしれないとも、主税はどこか思っていた。
少なくとも両奉行が殺される事態だけは避けられるだろう。しかし、巻き起こるであろう被害はより混沌として分からなくもなる。
「いいからさっさと云ねや三郎。お前の耳でも聞こえるやろ。連中、準備を始めとるで」
屋敷の奥ではバリバリと大きな音が立っていた。
板塀を剥がし、床板を抜く音。使える材木をかき集めているのだろうか。それら同じくして、数名のうめき声が遠くで聞こえた。
察するに、この乱に乗り気で無かった塾生数名が討たれたのかもしれない。
三郎は黙っていた。
主税の必死の説得も、三郎に届くことは無かった。
「とにかく忠春様が天満に来る前に中止を進言すればええんや。それなら死ぬことは無い」
「……悪いなデク、もう引くに引んわ」
三郎がそう言い残して襖を開いて帰ろうとすると、入れ替わるようは襖の後ろに控えていた男が吠えた。
「松橋主税ぁっ! 平八郎様の命や。生きて返さへんぞ!」
東西奉行所のどちらでも見かけたことが無い所を見ると、どこかの武家の子弟なのだろう。
主税はこの現状を憂いた。
武家の子弟までもがこんなバカげた企みに乗ってしまうこともそうだが、なにより親友である三郎がここまで染まってしまっていたことがとにかく悲しかった。
「……しゃあない。もう御託はいらんな。両脇に隠れとるヤツらも出てこいや。殺りたきゃ殺りゃええ。ま、ただで済むとは思わん方がええぞ」
左右の襖が踏み倒されると、鎖帷子を着込んで鉢金を頭に巻いた数名の若者がやって来た。
「すまんなぁ、これも町のためなんや……」
いつも以上に小さくなる三郎の背中越しに、擦れたような声が聞こえた気がした。
それからすぐに、若い男たちの雄叫びと、銀色の閃光が主税の周囲を走った。
しかし、既に得物を携えていた主税の長い腕から振り下ろされた刀の方が斬撃の範囲が広く、簡単に弾き返される。
若い門弟達に勢いはあっても、腕前はそこまで上手ではなかったのも幸いした。
数合撃ち交わすまでもなく、相手の出方を見た主税自身、「こんなのは敵では無い」という程ではなかったが人数差があっても多少はやれる相手だとも分かった。
それを上手いこといなしていると、数的有利を活かせない門弟たちの方に焦りが出た。
「往生際が悪いぞおっさん! さっさと逝ったれや!」
「じゃかましいぞ坊主、喋っとらんでさっさとかかってこんかい」
細い線一本の上を渡り歩くようにのらりくらりと撃ち合うにつれ、防戦一方だった主税も脇から襲いかかって来た門弟の肩筋に数太刀入れることができた。
吐くようなうめき声と噴き出す血を見て、勢いのあった若い門弟もこの状況下を悟った。
紅潮しきっていた頬は白く染まり、繰り出していた手も止まる。
悶え苦しむ仲間を見て、現実が分かったのだろう。
剣戟を交え、真剣に斬り合った末路はどちらかがこうなる。
理想にばかり生きる若者にとって残酷すぎる事実だった。
「……お前らがやろうとしてんのはこういうことやぞ。そこまでの覚悟がお前らにはあるんか? 今ならまだ引き返せるで。アホなことはやめたほうがええ」
主税は空気を呑みこんだ。
それから白い息を吐く。
黙りこくるのは勢いのみで参加を誓った門弟たちだったのだろう。いずれも血の気が引いていた。
が、深く平八郎に心酔しきっている若者も何人か残っていたらしい。
「くくそったれぇ! っちぃ、板持ってこい、そのまま押し潰してしまえばええっ!」
そんな門弟が震えながら叫ぶと、血の気が引いた若者らは、元は床板だったであろう、両腕で抱えるほどの板を探しに部屋を出て行った。
単なる斬り合いならなんとかなったかもしれないが、主税の腕よりも長い得物と、刀を防がれてしまう盾があるとなれば話は違ってくる。
ドタドタと慌ただしく廊下を往く音を聞き、ここで主税も覚悟した。
「……文さん、居らんかもしれんが言っとくで。さっさと忠春様へ報告せえ。こりゃぁ、思っとった以上の災難やぞ」
主税が小さくつぶやくと、ほんの小さな音だが足元でがさごそと鳴った。
その音は騒ぎから遠ざかる方向へと走って行く。
「結、ほんまにすまんなぁ、ワシぁ先に逝っとるで……」
それからすぐ、ドッと声を挙げた若衆の板と刀が主税めがけて走って行き、その巨体は血染めの畳へと斃れた。