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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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決意の日

「はぁ? 今さら東西奉行で市内を巡検する意味がどこにあるのよ」

「今の東西奉行所のあり方を見る限り、忠春様がそう思われるお気持ちは分かりますけど、んなこと私に聞かれても困ります」


 大阪城からやって来た大阪城代水野忠邦の使者に忠春は毒づいた。そんな忠春に対して、使者も困り顔のまま応対するしかない。

 大阪町奉行所の恒例行事として、東西の町奉行が合同で大阪市中を見廻るというものがあった。


「確かに跡部が就任してからやってないけどさ、なんていうか、今さらすぎない?」

「慣例は慣例ですからね。別に明日明後日やれって話やないんですからええやないですか」


 先に大阪へ赴任していた町奉行が新任の町奉行を連れて歩くと言うもので、新しくやって来た町奉行の市中への顔見せ的な意味合いも強かった。

 忠春自身も着任してすぐ、高井実徳に市内を案内された。

 「大阪人の気風について」だとか「各町の特徴」といった些細なことなど、実徳へ何を聞いてもきめ細やかな対応があったと記憶している。


「まぁ、私の方が長くやってるから案内ぐらいは出来るけどさ、それを今やる必要はあるのかって話よ」

「……とにかく言伝は以上です。日付等は東西で合わせてください。失礼いたします」


 小言の多い忠春へ渋い面を見せながら、使者は奉行所を去って行った。

 部屋に残る義親らに向け、忠春は「ふぅ」と息を吐いて言う。


「忠邦も面倒事を持って来たわね」

「なんだかんだいって私たちも東西合同で市内を廻りましたからね」

「確かにそうだけどさ、あの時はまだ余裕があったじゃない。あくまで今に比べればだけど」


 忠春が着任した時の大阪は景気が良いとは言えなかったが、ここまで酷い有様ではなかった。


「別にやればいいじゃないですか。対外に東西の結束を誇示する……」


 勇気づけようと義親が言葉巧みに取り繕うとするが、現実との剥離具合に自然としりすぼみになっていく。


「聞いてるこっちが悲しくなってくるから無理しないでいいわ。とりあえずやらなきゃいけないんだからやるしかないわね」

「それで、いつ頃にいたしましょうか」

「この1月は詰まってるから2月中にして。どうせ向こうも暇でしょ」

「暇かどうかは知りませんが、お伝えします」


 義親は言伝の大枠を、懐紙を取り出して慣れた手つきでさらさらと筆を走らせた。

 ぼんやりと筆先を眺める忠春は呟くように言う。


「……とはいえ、さすがに……応じるよね?」

「断られることは無いと思いますが、どうなるんでしょうね」

「良弼自体は私たちの指示通りに動いてくれているんだけど、その下はどうなのよ。合同の行事すらまともに行えないなんてなったら大恥をかくことになるし」


 東西の仲が悪い現状からして、何かしらの妨害があるということも考えられた。

 それに加えて忠春の方が跡部良弼と比べて一日の長があるとはいえ、その期間はたかだが半年である。

 共に市中を廻った所で、何ができると言う訳でも無いのは、案内される良弼ですらも分かることもであった。

 そんなこともあり、忠春自身もこの行事が滞りなく進むとは到底考えられなかった。


「その時は私が付いてますから。というか、そのために我々が居るんですよ」


 忠春が抱えたそんな不安げな感情を察したらしい。

 義親が筆を止めて笑みを送ると、小さく微笑んだ忠春は言う。


「その言葉だけが頼りになるかな。とにかく伝えてちょうだい」





 一月の暮れは地獄だった。

 行き倒れる人々が日に百人を数える時もあり、街中を遺体を積んだ大八車が駆けまわっている。

 市中の外れでは食い詰めた人間が溜まり、凍えた地面に筵も曳かず寝そべる姿がよく見えた。

 これまでのちぐはぐな応対により、本格的な飢饉に大して奉行所も具体的な対策を打てず、ただただ人が死ぬばかりであった。


「……これは堪えるな。連中もやりたくてやった訳やなんやろうし」

「んなこといったって食えないながらも真面目にやってる連中もおる。いい訳にはならんぞ」


 大塩平八郎の組下から外れた松橋主税・岡部又兵衛の両名は揉め事の処理に追われていた。

 この日は食い詰めた人間同士の諍い事であり、殺し合いに発展する事態になっていた。


「しかし、この辺りは酷い有様やな勝手に住みついた流民の町が出来とるし」

「近畿中の食い詰めた人間が集まっとるみたいやな。あっちは紀伊訛りが聞こえる」


 大阪が米の集積地であるということは近畿では常識であった。

 それだけに『大阪に行けば飯にありつける』といった評判があちこちで立ち、明日を求めて人々が集まった。

 待っていたのは似たような境遇の流民ばかりで、その流民同士の諍い事が絶えることは無かった。


「しょっぴいてもしょっぴいてもキリがない。このまま居座られたらロクなことにならへんぞ」

「とかく根岸様に報告するしかない。それしか無いわ」


 奉行所の月番が変われば、次の月番の奉行所へ仕事内容は引き継がれる。

 しかし、ここ数月はその引き継ぎが正確になされていない。

 東町奉行所は供米に腐心し、西町奉行所は流民対策に腐心している。

 互いに違う項目に重点を置いているため、町政が滞りなく進むはずが無い。

 月番も東町奉行所へと移りかけているこの時期にこういったことを報告しても、対策が取れるのは次々月以降となる。

 内々で計画を進めることは出来ても、具体的な方策を立てることは出来なかった。


「……仕事の話はもうええ。街探ってなんか変な話でも無かったんか」

「変な話っちゅうたらアレや、平ちゃんは金子を配っとったらしいで。目ぼしいんはそれぐらいやないか?」


 一月の初め、大塩平八郎は市中で金子を配っていた。

 金子とともに同封された文書には『大坂の町は我々が救う』『飢饉の解決は近い』『我々に是非共協力を』といった内容が書かれており、捻りの無い簡潔な言葉は彼らの心を安らがせた。もっとも、その文書よりも金子が何より助かったのかもしれないが。


「そういやデクもアレやろ。平ちゃんの塾に通っとるらしいやないか」

「ワシはたまに顔を出す程度や。ここ最近は顔を出せてへんからよう分からん。ま、平八郎様のことは気になるしな」


 主税は組下から外れた後も、平八郎の私塾へ顔を出していた。

 又兵衛は力の言葉を聞いて、懐かしそうに言った。


「確かにそうやなぁ。ここのところ顔も見てへんしな。元気にやっとるんか?」

「いつもの平八郎様や。元気にやっとる」

「なんも言わずに辞めてったけど、どっかで後悔しとるんとちゃうか? 『又兵衛の顔が懐かしいわぁ』とか」

「いや、そんなことは言っとらんな。又兵衛のまの字も言っとらん」

「なんやなんや、ワシの存在っちゅうんはそんなもんかい。それはそれで悲しいわ。ま、前みたいな気落ちした姿を見んでええんやからいいけどな」


 少し寂しげに遠くを見ていたが、言葉が進むにつれて普段のとにかく明るい又兵衛の姿に戻っていった。

 そんな又兵衛だが、ひとしきり言い終えると、突然首を傾げ始めた。


「……しかし金子なんか配る余裕があったとは思えんけどな。前に屋敷へ行ったけど家財道具一式全部売っとったし。どっからそんな金が出とるんやろうか」


 又兵衛自身、平八郎が奉行所を辞める前に何度か屋敷を訪れていた。

 既に私財と呼べるものはほとんどなく、質素という言葉が似つかわしい状態にあった。


「市中じゃ人気あるしな。それなりに協力したいっちゅう連中もおるんやろ」

「そんなところやろうな。とにかく、ほんまに元気でやっとるんならええわ。さっさと罪人しょっ引いて奉行所に帰るで」


 主税の言葉に又兵衛は「不思議なことがあるんやな」といった表情で流民街を後にして行った。





「東西奉行所の市内巡検か。そういえば行っていなかったか」


 一月の寒さの中、肌着一枚で道場の真ん中に正座で座り込む平八郎は白い息を吐きながら言う。

 報告をした大塩格之助は膝をつき顔を上げると言葉を続けた。


「日取りは2月の中旬を予定しているとか。西町奉行所からそういう風な打診がありました」


 格之助が言うと、少しの間だけ平八郎は目を瞑った。

 それからすぐに目を見開くと、白い息を少し吐いて言う。


「諸々の準備を含めればそれぐらいになるだろう。きっと東町奉行所の連中は妨害するんだろうな」

「他の与力たちも『そういえばあったなぁ』としか思っていないようですね。この件についてやる気を感じられません」

「つまらない慣習に縛られてこんなことに金と労力を割くぐらいなら人の為になることをした方が良いと言うのに。まったく、下らない連中だ」


 平八郎は吐き捨てるように言うと、ゆっくりと立ち上がりしずしずと格之助の方に歩み寄った。


「しかし、私たちにとっては僥倖。この機を活かすほかにない。格之助、巡検の詳細な時間等を調べて来てくれ」


 なんてことのないように言った平八郎の言葉だが、そこにはしっかりとした重みがあった。

 まったくの部外者である洗心洞の頭目である大塩平八郎が、東西奉行が合同で町を練り歩く行事の工程を調べ上げる。

 それがどういう意味を示すかを格之助も簡単に理解した。


「……そういうことですか。分かりました。しっかりと調べ上げてきます」


 唇を強く噛みしめ、ゆっくりと頭を下げると、平八郎の覚悟が乗り移ったかのごとく一歩一歩を踏みしめながら屋敷を後にした。

 それと入れ替わるように、瀬田済之助が平八郎の元にやって来た。


「平八郎、調子はどうだ」

「この一月、些少だが冬を越すだけの金子を撒くことは出来た。多少はマシになるだろう」


 年が明けてすぐ、平八郎らは門弟を引き連れて流民たちに金子を配っていた。

 その額は一朱と少ないが、それすらを持たない人にしたら大きな額だった。涙を流して一朱銀を両手に握りしめて何度も何度も頭を垂れている姿が平八郎の脳裏に焼き付いていた。


「せいぜい一週間の猶予だろう。それに、たかだが数百人ぐらいだから気持ち程度でしかない」

「鴻池屋が断らなければもっと渡せたのにな。まぁ、俺たちが飢饉対策に動いたっていうのに大きな意義があるんだからいいんじゃないのか?」


 奉行所が行っていることと言えば、少量の米を支給していることぐらいで、他に目立った行動は取っていない。

 そんな中に平八郎らが身銭を切って流民達が生き延びるための行動を取っている。実際、この生活支援策は大阪中の評判となっていた。


「鴻池に関しては奉行所に配慮したみたいだった。まぁ、元与力が突然『飢饉対策のために金を貸してくれ』なんて言いに来たら相談するに決まってるけどね」


 年末に平八郎は大阪でも随一の豪商鴻池屋に金策を頼みに行っていた。

 しかし、その場でも色よい返事は来ず、数日前に正式に断りの言伝を預かった。


「そりゃ町奉行に相談もするさ。幕府と繋がりの深い鴻池屋にも立場ってものがあるだろう。しかし、お前も無理をするようになったものだ」

「全てはこの町を救うためだ。果たして今の奉行所はここまでしているのか甚だ疑問だがな」


 平八郎はここ半年ぐらいの間、完全な傍観者となって町奉行所を見ていた。

 個別の案件はいくつか解決していても、違う方向を向き合う両者。

 両奉行所に対する感想は、迫る飢饉に対して無為無策に時を過ごすだけの無能集団でしか無い。

 そんなことをぼんやりと思い浮かべながらも、済之助が放った言葉は平八郎の心にしっかりと引っかかっていた。


「しかし無理云々とお前に説教される筋合いは無いぞ。アレを持ってきたのはお前じゃないか」

「いつか必要になると思ってな。あって困ることも無いだろう」


 中庭では数名の武家の子弟が大筒を磨いていおり。石火矢が一門に十匁筒が数本。焙烙弾も数発。

 その周りには甕が数個置かれている。砲弾もいくつか置かれていた。


「この数月のあいだ教え廻ってこれだけ集まるんだから、近隣の村々で教えというのも無駄じゃない。それだけはあの女に感謝しなければならない」


 平八郎は小さく鼻で笑った。済之助は誇らしそうに微笑んだ。


「決行は東西奉行所の市中巡検の日。確か月番は東町奉行所のはず。それまでに準備をしておかなければならない」

「跡部に忠春、両方とも殺すのか」

「民を救うには今の両奉行では無理だ。それにこの体制は腐っている。根幹から覆さなきゃ人々は死に行くばかりだ」


 一朱銀を配った際に見た流民達は当然のこと、市中を廻った時に見る町人たちも疲れ切っていた。

 ここ数年にわたる飢饉に物価の高騰。先行きの見えない政治機構と、挙げて行く条件はあまりにも多すぎる。

 それに、古参与力の誰よりも平八郎が功績を挙げて町のために尽くしても、つまらない反感や慣例に縛られた無為無策によって潰される。

 平八郎がそんな日々を思い返して、出てくるのは日々への哀愁や仕事への郷愁といった感傷的なものではない。

 反吐のみだった。


「……結局はそこに行きついたか。まぁ、仕方ないとでもいうのかな」

「奉行所を辞めたときから、このことはすでに見えていた。それに、煽ったのはお前だろう」


 平八郎はいつか橋の上で見せた様に済之助の肩を小突いた。

 まんざらでもなさそうに済之助は笑って見せる。


「当たり前だ。そもそもここまで来て逃げるだなんて男じゃない」


 線の細い体を大きく見せようとするも、あくまで学者風の体立ちは隠せない。

 そんな姿に我慢できず、平八郎は声を出して笑った。


「何が男だ。つまらない誇りや矜持を語るだなんてお前らしくも無い」

「何とでも言えばいい。俺はお前を信じてどこまでも進んでやるよ」

「……知ってるよ。今際の際まで付き合ってもらうからな」


 この日は年が明けてから十九日。

 決行のひと月前であった。

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