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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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三諦円融

 大阪市中での供米は終わらず、集められた米が江戸へと回送され続けられている。

 忠春は東町奉行所に抗議したが、良弼の「幕府の指示である」という言葉を聞き、折れざるを得なかった。

 その後も江戸の筒井政憲や大久保忠真へ書簡を送って尋ねたものの「上意に従うほかに無い」ということが回りくどく書かれているばかりで、色よい返事は返ってこない。


「ったく、八方塞がりってのはこういうことを言うんだろうな」

「どうしようもありませんね。このまま供米を拒否し続けると私たちの存在意義が問われてしまいますよ」


 十二月の暮れ、大阪西町奉行所の一室は通常よりも暗く重たい空気が漂っていた。

 例年だと年賀だ注連縄だ門松だと年越しに向けて街全体が活気付く時期のはずが、町人達は無駄な出費を惜しむ動きが強かった。

 これから濁流の如く押し寄せてくる、未曾有の大飢饉を恐れてのことだろう。


「上様の鶴の一声を期待したいところですが、その周りが供米に賛成している時点でほぼ無いと見さそうです」

「確実に忠成らによって意見は握りつぶされている。泥沼に足を取られて鳴こうにも鳴けないのよ。ほんと、ふざけた連中ね」


 送られてきた文書には「中央を説得するのは無理」と回りくどく書かれてはいても、「供米を推し進めていたのは老中首座、水野忠成らであることは間違いない」とも書かれてもいた。

 そのことから察するに、下手をしたら何度も送った書状も将軍家斉の元に届いていないのかもしれない。

 そんな状況からか忠春自身、将軍家斉に対する敬意は持っていても、脇を固める老中たちに対する不信感は募るばかりだった。


「城代の忠邦も、東町の動き止めようとする素振りも見せないし、もうどうしようもないですね」

「……跡部の好きなようにさせるしかないっていうのか。まったくもって釈然としない話だな」

「これじゃ私たちだけが悪者ね。折れなきゃいけない日が近づいてきているのかもしれないかな。さすがに心苦しくなってきたし」

「遅かれ早かれ詰問される日が来そうですよ。東町からそれとなくそんな話が聞こえてきています」


 義親の元には、匿名ではあるが東町奉行所の内部情報が書かれた文書が届けられていた。

 東町奉行所に残っていた良心なのかもしれない。


「どうするんですか。このまま水野らの悪事に加担するんですか」

「とにかくやる必要は絶対に無いわ。それだけは間違いない。ただでさえ困窮している町から食料を奪って何になるのよ。こんな無駄な話は無いわ」


 忠春は眉間にしわを寄せて腕を組んだ。

 同じように腕を組む衛栄は何度も頷きながら言った。


「忠春様の意見に賛成だが、連中の話に筋が通っているだけに厄介だ。これ以上続けると俺たちの心象が悪くなるばかりだな」

「だから言ってるでしょ。あくまで黙殺よ。本格的に文句を言われたら動けばいい。それまでは供米の件は見て見ぬふりだから」


 不当と言える供米令が上意であり、東西奉行所のうちの片方が躍起になっている以上、何もせず動かない忠春らの評価は悪いに決まっている。

 大阪市中での評判などは江戸城本丸には関係が無い。

 この冬を乗り越えた先にあるものは、いずれにしても険しい道であることは間違いなかった。


「……それと、平八郎の動きですが」

「隠居して適当な養子を立てたみたいね」

「確か、東町奉行所の西田家の倅とか。もともと私塾によく顔を出していたそうです」


 西町奉行所の与力を辞する直前、隠居した平八郎は西田格之助なる若者を養子にとっていた。

 寝耳に水の事態だが、それを阻止する余裕も気力も忠春らには残っていなかった。


「奉行所内へのツテは残しながら本人は隠居暮らし。呑気なものね」

「ただ激情に駆らたではなく、あくまで計算の上ですか。平八郎殿も抜け目ないですよ」

「まったく、その計算高さをこっちの仕事の方にも活かしてほしいものだったがな」


 養子を立てるということをしなければ「理想に生きようとする町奉行所の与力」として大塩平八郎は武士として終われたはずだった。

 しかし、責任を放棄したものの自分の立ち位置だけは今まで通り保つ行為に、忠春は自身が下した決断を悔やんだ日々が馬鹿らしく思えた。


「今さらどうこう言ってもしょうが無いわ。とにかくあの子の動向は見続けなさい。何か面倒事を起こされても厄介なだけだし」


 そんな平八郎は、と忠春らによっては「計算高い不穏な思想家」でしかなかった。

 抱えた感情が爆発して、いつ起こすのか。

 大飢饉対策と並んで町奉行所の不安の種だった。





「……西町は動かないか」

「まぁそうやろうな。あの嬢ちゃんがワシらに従うはずもないやろうし」


 骨の髄まで凍えそうな北風が吹く目抜き通りの御堂筋。

 寂れた茶屋で肩を並べて座る東町奉行の跡部良弼と筆頭与力の朝岡泰久がいた。


「骨があっていいじゃないか。上様のご意向を無視し続けられるほどの根性があった方が面白いしね」


 湯呑みを傾ける良弼は、気の抜けた言葉とともに緩く微笑んだ。


「これで供米は俺一人の実績にもなる。必死になって江戸のために動いているのは東町奉行所のみな訳だからよ」

「しかし跡部様、ほんまにええんですか。こんな事を続けたってええことなんかありませんよ」


 報告に来た与力・内山彦次郎は渋面のまま言い放った。

 隣に座る朝岡は身を竦めたが、当の良弼は平然と笑う。


「いいも何も上意なんだから仕方ないだろ。奉行所が町人らを騙し、脅してるみたいな言い草はやめてくれないかな」

「あかん、跡部様の仰る通りや。彦次、お前ほどの秀才ならそれくらい分かるやろ」

「人口は江戸の方が上。それに全国から大阪に米が集積されるんだから、そのいくつかを飢饉用に回すということに何の不思議がある。君は能吏だと聞いていたが、風の噂とはアテにならないね」


 江戸から送られた指示の大まかな点はそこにあった。

 一大集積地である大阪から、一大消費地である江戸に米を回送するのがおかしいのか否か。

 理論上は何一つおかしくないといっていい。


「確かにそうです。せやけど、これはやり過ぎですよ。ただでさえ高騰しとる米を安値で買い叩けば皺寄せ食らうのは庶民です。このまま米価が上がったらおしまいですよ」


 昨年から穀物全般の値段は収穫量減で右肩上がりに上昇し続けている。

 さらに供米続きで穀物の供給量は減ったので、庶民の手に渡る糧秣は無いに等しいといえた。

 近隣の農村から食い詰めてやってくる人間に、食べる物に困った町人達。

 その先に待っているのは、一つしか無い。


「上様はこの飢饉を憂いている。ただ、中途半端にねじ曲がっているのは周りに付き従っている連中が懐を暖めたいからこんな風な指示になっちゃったんだろうね」

「……いや、それは跡部様やないですか」

「否定はしないよ。まぁ、肯定もしないけどさ」


 朝岡の肩に手をまわして微笑みを崩さない良弼に、彦次郎は視線を逸らして口を噤む。


「ともかく、あくまで俺たちは間違ったことをしている訳じゃないんだよ。何をひけ目に感じているんだ?」

「そう言う訳やありません。確かに話しの筋は通ってますけど、現況に即しとりません。その論が成り立つのは備蓄がある時です」


 あくび交じりで話を聞く良弼に、彦次郎の熱のこもった言葉が届くことは無かった。


「どれだけ正しい意見を言ったって上意なんだからどうしようもないよ。 ……とはいえ飢饉は大変なことになるだろうね。ま、それについてはあの嬢ちゃんに必死に考えてもらえばいいさ」


 腰を挙げて代金を長椅子に放り投げると、良弼らは茶屋を後にした。





「……と、まぁ、奉行所はこんな感じだよ」

「東西ともにクソだな。あんな吹き溜まり、抜けて清々した」


 盟友・瀬田済之助の言葉を受けて広間に座する平八郎は吐き捨てるように言った。

 説明を聞き続けていた平八郎の浮かべた表情には後悔とか思い残しのようなものは無く、東西奉行所に対する侮蔑の念しか残っていない。


「しかし、西町はともかく東町は輪にかけて酷いな。よくもまぁ、あんな連中が与力を名乗っていたものだ」

「本当に仰る通りですよ。暇さえあれば付け届けに袖の下。他の連中が気にしてるのは自身の懐ばかりです」


 脇息にも肘をついてたれ掛かる平八郎は、小さく鼻で笑うと白い息を吐いた。

 室内は一段と冷たくなる。


「それで格之助、そっちでは上手くやれているのか?」

「ええ。やっぱり若い与力・同心は今の上に不満を持っているんが多いですね。何人かは私塾にも顔を出して見たいと言ってました」


 西田格之助、もとい大塩格之助は嬉しそうに言った。

 良くも悪くも有名人の大塩平八郎の養子となってからは、西町奉行所内の若手筆頭的な立ち位置となり上役への不平不満の相談窓口となっていた。

 東町奉行所も西町奉行所に漏れず、突然やって来た跡部良弼と、それに付き従う朝岡泰久等に対して反感を持つ者が多かった。

 それに市中への供米活動が併さって真っ二つに割れていたといってもいい状況にある。


「悪く無い傾向だ。この状況で何もせずに安穏としている連中なんてのは心底腐っている。格之助みたいな武士が世の中を回すべきなんだ」


 格之助は嬉しそうに顔を赤らめると、調子よく言葉を続けた。


「そういえば、門前の看板はええ名前ですね」

「心を洗う(うつろか。面白い名前を考えたもんだ」


 大塩邸の門前には『先心洞』という人の背丈ほどの立て札が掛けられている。


「時間が出来たからね。これでより多くの人々に私たちの思いを伝えることができる」


 与力時代に始まった私塾が一定の成果を挙げたことに加え、

 奉行所を辞めても市中での人気は大いにあったからか、平八郎が与力を辞した時から数十名の武家の子弟たちが屋敷の門を叩いていた。

 その目的は「大塩先生に教わること」。格之助のような若者が新しい刺激を求めて来ている。


「私が広めたいのは陽明学だとか朱子学とか、そういう形式ばったものじゃない。人の生き方を知る必要がある」

「平八郎の言う通り、人はもっと主体的に動くべきだ。自身の掲げる理想や思いは伝えて行動しなければ意味が無い」

「……ということは、そろそろ動き出すんですか」


 平八郎と済之助の言葉に、身震いしながら格之助は聞いた。


「察しの通り。我々に共感して協力を申し出て来た商人たちもいくつかいる。資金はいくらあっても困ることは無いし」


 平八郎の言葉に抑揚は無かった。済之助も黙ってうなずくだけで、特別に何か言葉をかぶせようともしない。


「私は高麗橋の大店に交渉に向かう。済之助に格之助、これからも奉行所を見続けてくれ」


 平八郎の言葉に二人は頭を下げた。

 年を越す十日前の出来ごとである。

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