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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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分岐

 翌朝のことだった。

 江戸から一通の書状が平八郎の元に届いた。

 書状の主は出張中の忠春で、その名を見つけると顔をしかめながら封を裂いた。


「……今月の末に戻られるのか。予定よりも二月ほど延びたな」

「俺たちの奉行の気まぐれはいつもの事じゃないか。元はと言えば私塾だってそうだっただろ」

「はぁ、平八郎様の私塾というのはそんな成り行きだったんですか」


 平八郎はひとしきり読み終えると、手にした紙をくしゃくしゃに丸めて屑カゴへと書状を放り投げた。

 その隣で苦笑いていた済之助の興味はそれよりも、隣にいた東町奉行所与力の西田格之助へと向いた。


「それより格之助、お前は東町の与力だろう。なんでこっちに来ているんだ?」

「いやいや、ただの小間使いですよ。まったく、与力の端くれとはいえ、こんな仕事をさせられるだなんて」


 大きくため息をついた格之助は、黒羽織の懐から一通の文書を取りだした。


「なにはともあれご苦労だ格之助。それでどのような要件なんだ?」

「跡部様より『西町にこの文書を届けて来い』という話で」


 書状の宛名は大岡越前守。

 主がいない西町奉行所には手の余る書状であった。


「おいどうする。彼の人は当分帰ってこないぞ」

「私はヤツに内々の事を任せた。空けても問題ないだろう」


 済之助は呆れにも似た顔で肩をすくめると、平八郎は閉じられた文書の封を切りはらはらと書状を開いた。


「……どういうことだ。こんな話聞いていないぞ!」


 書状に目を落とした平八郎が即座に書状は音を立てて引き裂くと、慌ただしく動いていた奉行所から音が消え去った。

 大声を発した後、無言のまま動かない平八郎に、教壇に立つ姿を見知っていた格之助もこの姿には肝を冷やしたらしい。その場に尻もちをついた。


「東町奉行所の独断専行ぶりには腹を立てていた。しかし、これはなんだ」

「ああ。酷いぞ。かなり酷い。飢饉の折に市中で供米を始めるとはな。予想の斜め上を行っている。どいうことだ格之助。説明してくれないか」


 引き裂かれた書状を拾い集めて広げ合わせる済之助の顔も暗い。

 ”この秋の折、我々東町奉行所は大阪中で町人らからの供米を実施し、五十二俵分の穀物を徴収した。今は喫緊の事態であり、この出来事が事後報告となってしまったことを申し訳なく思う”

 早い話が市中で米の強制徴収を行ったということで、この時期にこんな文言を突きつけられて平八郎らが怒らないはずもなかった。


「その一件については富農や富豪が対象だとか、それが誰にまで手が及んだとか、は、詳しく聞いていないもので……」

「誰が対象だとかというのは関係が無い。その姿勢に問題がある」

「その、申し訳ございません……」


 平八郎と済之助の渋い顔に、青ざめた格之助も書状の内容は寝耳に水だったらしい。

 すぐさま頭を畳に叩き付けんばかりに平伏する。


「お前が謝ることは無い。だが、連中は何を考えているんだ。こんなことをしたらどうなるか分かっていないのか?」

「こ、これからはすぐにでもあったことをご報告いたし、いたします」

「手間を掛けて悪いな格之助。東西合同の合議が機能していない以上、連中の内情を知るにはその手段しか無い」


 格之助の震える声に済之助は優しく添える。


「とはいえどうする平八郎。このまま指をくわえて見過ごすつもりか?」

「こんな非道が罷り通るはずが無い。即刻抗議だ。済之助、付いてこい」

「あ、ああ。そうだな。適当に人数を集めてくる」


 そんな済之助と入れ替わるように平八郎の元に慌てふためく衛栄がやって来た。


「おいおいおい平八郎、そんな大声を上げてどうかしたってんだ」

「なんだ髭め。お前になど用は無いぞ」

「お前に無くとも俺にはある。今のはいったいなんの騒ぎだって話だよ」


 平八郎の先制口撃にも怯むことなく、衛栄は顔を引き攣らせながら言う。

 それからすぐに平八郎の足元に散らかった書状と、側で固まったままの見かけない青年に気が付いたらしい。


「おい坊主、一体何があった」

「いや、その、私は東町奉行所の与力で、足、足元に落ちている書状を届けに……」

「それを見たければ見るがいい。今になったって私の心は変わらんがな」

「ったく、訳が分からねえ。大体なんだって言うんだ……」


 初めて見る怒り顔の大男に身を震わせる格之助が平八郎の足元を指差すと、大阪に吹き荒れる北風のように厳しい口調の平八郎が口添える。

 衛栄はため息交じりに屈みこみ、散らかった書状をまとめ上げて手に取った。

 それから、書かれた内容を読んでから事の深刻さを理解するまでの時間は一寸も掛からなかったらしい。


「……こりゃぁ一大事じゃねえか! すぐに合議だ。東町の連中に真意を問わねえと」

「そんなことをしている暇など無い。即刻抗議に行くぞ。お前も来たければ来るがいい」

「元々おかしいと思うが、勉強の教え過ぎで頭までイかれちまったのか? お前単独で行って何になる。余計な問題を増やして何がしたい」


 衛栄も眼前まで詰め寄って捲し立てるが、平八郎はどこ吹く風で涼しい表情のまま動じない。

 それどころか、顔を赤くしている衛栄を小馬鹿にするように鼻で笑った。


「そもそも髭、私たちのお奉行様は今月末のお帰りだ。それまでこの状況を看過していろとでも言いたいのか」

「そりゃそうだろ。そもそもこの書状だって忠春様宛の物だ。そのことを罪に問わないだけありがたいと思え。正当な手順をだな……」

「こうしてお前とつまらぬことを話して無駄に過ごしている間にも町人達は明日の食糧を奪われているんだぞ? 安穏と連中の不法行為を目を瞑ってろとお前は言っていることに気が付かないのか!」

「そういうことを言いたいんじゃねえ。前からそうだったが、どうして事を急くんだ。頭に血が上ったまま連中の所に行って何になるんだ。言葉の応酬になって東西の溝が深まるばかりじゃないか。それが今後の活動に何の為になるって言うんだよ」


 平八郎は少しの間だけ口ごもった。すかさず衛栄は諭すような口調で言う。


「前だってそうだっただろ。弓削の野郎を捕らえようと血気に逸ったお前は、ヤツに何かを察せられて捕り逃した。正しい手順を踏めば取り押さえられた可能性だってあった」


 仰々しい軍団を連れて北天満にある弓削の屋敷に乗り込んでいけば、途中で誰かに気がつかれて弓削にこの話が行くに決まっている。

 そもそも、橘屋の捜査だって東町奉行所に気がつかれる場面はいくらでもあったし、西町奉行所の動きに気が付かないほどの間抜けなはずは無い。

 弓削本人に先に死なれた原因の一端は平八郎にもあったと言えた。

 だからこそ、衛栄が酷く言おうが平八郎はずっと黙り込んでいた。


「少なくとも俺はお前の正義感は嫌いじゃない。むしろあるべき姿だと思ってもいる。だから少し、いや、少しの間ではないが待っててくれないか。俺たちの奉行は必ずなんとかしてくれるんだからよ」


 俯く平八郎の肩に衛栄は優しく手を置いた。


「今ならまだ引き返せるぞ。連中に対しての言伝ならそこにいる若いヤツに頼めばいい」

「……くともな」


 ずっと黙り込んでいた平八郎からポツリと言葉が零れ落ちた。


「……少なくとも、その光景を指をくわえて見ているよりはマシだ。失礼する」


 黙り込んでいた平八郎は踵を返して勢いよく部屋を去った。


「なな、なんていうか、あんな大男を退けさせるだなんて流石は平八郎様だ。横で何も出来ませんでしたが、感動いたしました」

「造作もない。町奉行なんぞにこの危機を乗り越えられるはずが無いのは話までもない」

「話というのは当てにならないものですね。市中では天井知らずの評判だというのに、平八郎様が大岡様をそう評価するのであれば彼の者の実態はそうなのでしょう」

「しかし、この事態に義親殿が居ないのは心寂しい限りだ。あの腕前と切っ先鋭い言葉があれば東町など問題になどならないのに」


 平八郎が放った言葉に、怒りに顔を歪めながら退散していく衛栄の後ろ姿。この光景にビビりきっていた格之助も気を良くしたらしい。

 興奮に頬を赤らめながら平八郎に擦りよって言い放った。


「その町奉行ですが、そういえば内与力の小峰某とかいう輩と祝言を挙げたそうですね。まったく、この時期に何を考えているのか……」


 格之助の言葉に平八郎は歩みを止めた。

 体の底から沸き上がる震えに、腰に差していた鉄鞭が小刻みに揺れた。


「……格之助、その話は本当なのか」

「え、ええ。書状をもらった際に『江戸から書状から来た』と跡部様が仰られていましたし」


 すぐに叩きつけられた鉄鞭は壁に塗られた白漆喰へと突き刺さる。

 

「私の判断は全く以て正解だ。あの女に何ができるというんだ。この危機に野郎…… この危機にあの野郎!」


 壁に拳を叩きつけると剥がれかかっていた白漆喰は、拳からにじみ出た血と共に音を立てて落ちた。


「人数は揃ったぞ…… おい、格之助、これはどうしたんだ」


 突き刺さる鉄鞭とひび割れる壁に、顔を引き攣らせながら首を横に振る格之助。

 ぞろぞろと済之助の背後に連なる同心たちも何事だと不安げに彼らを見つめている。


「……なんてことは無いぞ済之助。私の決意は決まった。行くぞ。連中をぶっ潰してやる」





 平八郎らが東町奉行に着いたのは日がほんの少し上ったぐらいの、朝靄の肌寒さと町を照らす太陽の心地よさが同居するそんな時間帯だった。


「なんやなんや、血相変えた大塩様に物騒なもの携えた同心連中。ご丁寧にありがとうございます」


 顔を青くさせた取次によって呼び出された与力の朝岡は半笑いを浮かべながらそう口漏らした。

 目の前にいるのは完全武装の大塩平八郎以下十六名。その誰もが気を張っている。

 何も言わずに睨みつける平八郎らを見ると、表情を引き締め直して言った。


「……さっさと帰らんかい。事と次第によっちゃ冗談じゃ済まんで」


 朝岡が右手を挙げると、その背後にわらわらと同心達が沸きだした。

 平八郎らと同じように完全武装。鎖帷子に刺又。朝岡自身も手を腰に伸ばして抜刀の構えを取っている。


「私たちの言いたいことは分かっているだろう。その返事がこれか?」

「先に抜いたのはお前らやないか。話す気がさらさら無いのはお前らのほうやろ」


 決死の平八郎らを見ても朝岡は薄ら笑いを浮かべる余裕がある。


「お前なんぞでは話にならんな。さっさと跡部を出せ。話がある」

「分からん連中やなぁ。お前にあっても跡部様に話は無い。引き返せどアホウ」


 へらへらと口角を吊り上げる朝岡の嘲笑にも似た表情に平八郎が痺れを切らしそうになった時であった。


「お、おい、何をやっとるんですか!」

「なんや彦次郎。見れば分かるやろ。連中が吹っ掛けてきた喧嘩や。買わんでどうする」


 朝岡がそう言うと、平八郎の配下も腰を落として得物を構えた。

 彦次郎は額に手の平を当てて大きく息を吐くと、すぐさま平八郎の元に駆け寄る。


「確か大塩殿ですよね。言いたいことは分かります。せやけど、そっちは確か大岡様もおらんはずや。きちんとした場を設けるんでお引き取り下さい」

「弓削の腰巾着か。お前でも話にならん。跡部を出せ。でなければやるべきことは一つだ」


 この状況に戸惑いながらも腰を低くしてやってきた彦次郎の言葉にも、平八郎は耳を貸さなかった。

 彦次郎の背後にいる朝岡に視線を据えたまま動こうともしない。


「彦次郎、もうええ。そっちに話し気はさらさらあらへん。せやったらやることは一つやな」


 おどけるように肩をすくめると、腰を低くしてハバキを切った。

 背後に控える東町奉行所の侍たちも一斉に得物の切っ先を平八郎らに向ける。


「ほんましゃぁないなぁ。しっぽり事を収めようと努力したけどしゃあないわ。連中が武装して得物携えてる以上、理はこちらにある。さっさとやっちま……」


 平八郎が一歩踏み出して朝岡めがけて一直線に駆けだそうとしたその時だった。


「なんだよ朝岡。面白そうな場なんだから俺を呼んでくれなきゃ困るでしょ」

「跡部様、なんで出てくるんですか、せっかく連中を潰せるっちゅうのに」


 重苦しい両者に分け入ったのは東町奉行、跡部良弼であった。


「奉行所で血は見たくないしさ。ほら大塩平八郎とやら、言いたいことがあるなら言ってみなよ。聞いてあげるからさ」


 着流し姿の軽装を見て、平八郎は鉄鞭を腰にさし直した。朝岡も釈然としないまま刀を治めた時。


「話が早くて助かります。 ……市中での供米を即刻辞めろ。お前らの行動が大阪に何を生むというんだ!」


 冷静になったと思いきや掴みかかりそうな勢いで跡部目がけて詰め寄った。

 伸ばした指先が跡部の鼻先をかすめる所で済之助らが抑えにかかったので、跡部に手が出ずに済んだ。

 とはいえ、その行動は東町奉行所の怒りを買うのは当然の話で、収まりかかっていた場の雰囲気は一気に重くなる。再度得物を携えた東町に、同じように得物を携え直す西町奉行所の決死隊。

 しかし、そんな状況でも跡部良弼は悠然としていた。


「大阪には何も生まないよ。あるべき所から正当に買い取った。それが市中に格安で流れるんだから」

「は、はぁ?」


 良弼の気の抜けた返事に平八郎も落ち着いた。


「意味が分からないぞ跡部。お前の行動のどこが正当だと言う」

「大集積地である大阪で転売目的に眠っている米を消費することのどこに非があるんだ」

「大いにありますよ。跡部様、この時期にそんなことをして何になるんですか。市中の協力を得なきゃいけない今、むやみやたらに反感を買うようなことをする意味が無い」

「だいたい供米対象は俺たちがゆとりがあると判断した米問屋のみ。それを適正金額で買い取っているだけなんだからおかしな話じゃないでしょ」


 それから跡部は様々な資料を用意して事の成り行きを説明し始めた。

 良弼の話によれば、大商人から、溜めこんだ米を月賦を組んで買っているという。

 手段そのものは正当であり、月賦を組んで数十年かけて支払うという発想は無いものであった。


「視野が狭いんだよキミは。何年かかっても金銭を払うという確約状まで宛がっている以上、正当な契約さ。問題は一つもない」


 臍を噛みながら黙って話を聞いている平八郎らに、良弼は冷や水を浴びせた。


「貧民層へ流れる量が少ないと言うが、眠っている所には眠っているんだ。お前たちが胡坐をかいて座っている間に俺たちが必死になって考えた策なんだ。文句を言われる理由なんて無いんじゃないのかな」


 それでもなお、平八郎は閉口する。背後に控える済之助らも、自分たちの頭領の意気消沈振りに目を丸くさせていた。


「だいたい、この話をどこで知ったんだ。お前は役持ちとはいえ一介の与力だろう。それにその文書を送ったのは昨晩か今朝の話。そっちを教えてほしいぐらいだ」

「そんなことは問題じゃない。今私たちが言っているのはお前たちが動いた話であって……」

「何か言えない理由でもあるのか? 江戸にいるはずのお前たちの頭である大岡殿宛てに送った信書の中身を知っているなんておかしな話じゃないか」


 平八郎の開きかけた口は再び閉まる。

 張り合いのない相手との口論に疲れたのか、良弼は首を傾げると元のつまらなさそうに表情に戻り踵を返した。


「そもそもこの件はお前らの御主人に従ってまでだからな。まぁ、今回の事は私の胸の中に納めてあげよう。感謝するんだな大塩。お前の首は寸での所で繋がったぞ」

「……お前にかける言葉など無い。失礼する」


 平八郎を筆頭にぞろぞろと連なって歩く西町奉行所の姿は、殴りこみに行った時とは比べ程にならないぐらい貧相であった。

 主と崇めて信じ切った頭領の黙り込んだ姿に涙を流す者や、こんな人を信じていたのかと無表情のもの、はたまた斬り合いにならず胸をなでおろす者など反応は様々であったが、総じてそれらは無様と言うほかに無い。

 しかし、その先頭を歩く平八郎の表情は違う。

 決定的な敗北を受けても、その顔に悲壮感はなく、どこか飄々としていた。


「どうした平八郎、この屈辱を受けて頭でもおかしくなったのか?」


 暗い顔をする済之助が縮こまりながら平八郎に声を掛けたが、返事は無い。

 そのまま集団は街道筋を進み、西町奉行所の門前で歩みを止めた。


「この一件でモヤモヤとしていたものが消え去った。私の進むべき道は決まった」


 突然の言葉に済之助は首を傾げた。

 そんな態度をにべにもせず、平八郎は凛として言う。


「ここに私の居場所は無い。与力を辞めることにするよ」

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