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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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 涼しさが寒さへと変わる11月の末。

 奉行所主宰の私塾は好調で、出張教室は大阪市中を飛び出して茨田・交野といった近隣の郡にまで波及した。

 第一回目が10月の始めだったことを考えると、平八郎が説き続けた言葉は荒みきった人々の心に響いたらしい。


「『近隣の村々でも教えを広げてくれ』。これで大岡様にも言い訳も立つ訳だ。文句無しだな」

「ああ。万事抜かりない。順調過ぎて怖いぐらいだ」

「そうだな。今まで教えた人数は千を超えた。それに目ぼしい人材も多くいる」


 私塾を開くたび、各地で先の格之助のような若者が続々と平八郎の元に集ってきた。

 今回の茨田郡での私塾でも、土着の農民数名が平八郎の元にさらなる教えを求めている。


「優れた人材に貴賎は無い。高禄を貪っている無能が数多くいるのと同時に、清貧を貫く才能を持った者がいる。この世というのは実に不公平な話だ」

「……ああ。そうかもしれないな」


 ボロ椅子に座って頬杖をつく済之助は、沈む夕日を眺めながら素っ気なく答える。


「だからこそ理を変えなければならない。今すぐに、とはいかないかもしれないが、少しでも良い方向に動けばいいと思っている」


 平八郎の紡ぐ言葉に曇りは無い。

 澄んだ視線の先には薄く見える大阪城の大石垣。そこに至るまでに見える田畑の作物は、既に収穫済みで乾燥させるために積み置かれている。

 その量は明らかに少ない。

 このひと月ふた月は越せたとこころで、その後は無いのは明白だった。


「とはいえ教えているのは朱子学一本。お前はそれで満足なのか?」


 遠くを見つめ続ける平八郎の言葉に、冷水を浴びせる済之助だが、感情を発露しないまま言い返した。


「教える立場になってから思ったのだが、最初は朱子学なんてものは腑抜けた学問だと馬鹿にしていたけれど、世の中を治めるための学問としてはこれ以上ないぐらいに有用だ」

「平八郎の口からそんな言葉が出ると思いもしなかったな。どういう風の吹き回しだ?」

「特別な意味など無い。あくまで事実を述べているだけだ。朱子学とは、下の者が上の者に付き従うことを是をするのだから、それを信奉し続ける限り、下からの突き上げを食らっての構造変革が起きるということが絶対に無い」


 統治体制が変わる理由は二つしかない。

 平和的に体制移行となるか、下からの突き上げで強制的に入れ替わるか。

 体制護持を第一目標とするならば、絶対的な上下関係を求められる朱子学を広めれば、少なくとも第三者による下からの突き上げによっての構造変化はあり得ない。


「だからこそ、この教えに執着するんだろうよ。これさえ教えれば勝手に世の中が治まるんだからな。こんなに楽な仕事は無い」 

「しかし、それではこの困難には立ち向かえないし、上を見れば無能ばかりの世では通用しない。腐りきった教えであることは間違いない。物書きを教えるにせよ、そんなものが教材であるということに対しても反吐が出る」


 首だけで振り返る済之助を手招いて誰もいない講堂に誘った。

 一刻以上前まで繰り広げられていた熱の冷めやらない教壇の縁に腰を掛けると、一呼吸おいてから平八郎は落ちるような声で言い放つ。


「実を言うとな済之助、私は正直迷っている」

「ほう、どういうことだ?」

「あくまでこの活動は奉行所の仕事。ヤツの思いつき一つで即終了ということもあり得る」

「今はこの仕事に専念しているが、外されて元の仕事に戻されればこっちの活動は出来なくなるよな」


 与力としての仕事は複数ある上、片一方に注力し続けることは不可能である。

 さらに、上からの指示によって今の立場が外されるという可能性もある。

 平八郎が一生涯、この仕事を続けるというのは与力という身分である以上、現実的では無かった。


「そんなことはずっと前から分かっていたことではあるんだけど、正直な所を言うとかなり惜しいと思ってる」

「だろうな。仕事への熱の入り方が今まで以上だった」


 自身の考えを人に教え伝えるということが課せられた使命であると感じている平八郎にとって、この選択肢は厳しいものであった。

 疑問を抱えたまま動き回るということ以上に難しいことは無い。

 そんな重責に押し潰されそうになりながらも、平八郎は必死に言葉を発する。


「それに、今となってこの活動はヤツが思い描いていた域を遥かに超えていると思う。上手には説明できないんだけど」

「読み書きを教えるどころか、人の営みというものを考えているんだから俺にも分からんよ」

「はっきり言って分からない。あくまで私は奉行所の与力。自身の思想云々も大事だけど、仕事は今の体制を守ること。到底受け入れられる話じゃない」


 平八郎自身が率先して歪めて始めた事柄とはいえ、平八郎の小柄な体に溜めこむには大きすぎる重荷であり、責任だった。

 済之助も同じように宙を向いてひとしきり考え込むと、鼻で小さく笑って口を開いた。


「悩むってことは、誰よりも考えているって証拠だ。結論が出ようが出まいが、今はとにかく動くしかないと思うぞ。動き切った後に反省でもすればいいさ。 ……いくらでも付き合うぞ」


 空笑いを一つして、済之助は無理やり立ち上がる。

 幼馴染みの大きな背中を見つめると、平八郎も同じように笑った。


「それもそうかもしれないな。ありがとう済之助。お前みたいな友人がいてくれて、少しは気が晴れたよ」

「……馴染みってのはそういうことを請け負うものさ」


 黄昏時に呟いた一言は済之助の中だけで消化された。平八郎らは先に行っている。

 茨田郡から大阪までは徒歩でも一刻も掛からない。済之助は組下の同心から手提げ提灯を受け取ると、速足で境内を後にした。





「……なぁ三郎、本当にこれでええんやろうか」


 大盛況に沸きかえった講堂の脇で、近辺の整理を行っていた平八郎組下の老同心二人が毒づいていた。

 そのうちの一人は新藤三郎、もう一人は松橋主税であった。


「ええに決まっとるやろ。平八郎様もいろいろあったけど、なんとか気力を持ち直してやっとる。それの何が問題なんや」

「まぁ、平ちゃんが元気になったんはええよ。せやけど何かおかしいと思わんか」

「……何が言いたいんやデク」


 主税は辺りを見回して誰もいないのを確認すると、天まで届くんじゃないかというぐらい大きな体を小さくして言った。


「ワシは正直いってあの男らは信頼できへん」

「瀬田様がか? 奉行所でも生真面目で通っとるやないか」

「瀬田様やない。周りに集まっとる連中の目や。明らかにおかしいやろ」


 私塾が終わったのは申の刻の半ばほど。

 しかし、今は夕日が沈む暮れ六つ。

 鼻息を荒くし、頬を紅潮させ、肩で風を切り石畳の参道を闊歩する。遅くまで残っているのはそんな若者ばかりであった。

 彼らの中に宿る感情は尊敬以上ものに間違いないだろう。


「連中がする目は世情を見誤っとる。なんかおかしいと思わへんか?」

「何が言いたいんや。いまいち伝わってけえへん」

「新光門。道場に通った時に見た信者の目と一緒や。ありゃイカれとるで」


 奉行所主宰の私塾は各地で開かれたいたが、その中には毎回のようにやってくる熱心な塾生もいた。

 遥か南洋の海水は透き通った群青色をしているという話を、主税は過去に聞いたことがあった。彼の者らの目はそんな海が裸足で脱げ出すぐらい透き通った純真さを誇っている。


「っちゅうことは平ちゃんが教祖様っちゅうわけか。冗談も大概にせいデク」

「別にそういうことを言いたいんやない。連中を見た時の単なる感想や。別に他意はないから気にせんでええ。ただな……」


 温厚な三郎が珍しく口を荒げた。主税も普段とは違う三郎に少々戸惑っていた。


「平八郎様が乗り気になってやっとる分ならええけど、これが違う方向に動いたら、なんて考えると恐ろしくてな」


 主税にはその目が恐ろしかった。かつての新光門の事件のように、道場で曹乙へ向けられていた眼差しと変わらない。

 羨望は一歩踏み外せば狂気へと変わる。若者たちがする目は、そんな目であった。


「まぁ、お前さんの気持ちは分からんでも無い。気持ちが入り過ぎて破目を外すってのも若者たる所以やしな」

「そういうことや。三郎も分かるか」

「……ただなぁデクさん、苛立って当たり散らすよりかはこっちの方がええと思うで。ちょっと前なんかは酷かったやないか」


 平八郎の行き過ぎた生真面目さが仇となり、つまらない事で奉行所内外とぶつかり合っていた。

 つまらない諍い事は何も生まなければ、失うことの方がはるかに多かった。居場所は無くなりつつあり、平八郎の心身は憔悴していたといってよかった。

 そんなことがあってから、町奉行である大岡忠春に今の仕事を与えられて肉体的にも、精神的にも普段通りの溌剌さを取り戻している。


「かなり強引に話を進めたり、勝手に協定破って動いて怒られたこともあった。せやけど、元気な平ちゃんが気持ちを持って取り組んでるんやで。父君の敬高様以上に立派に与力をやっとるんや。これ以上の喜びがワシらにあるっちゅうんか?」


 三郎・又兵衛・主税の三名は生まれた頃から見知っている大塩平八郎の事を親以上に心配していた。

 彼女が元服した時は三人で肩を抱き合って涙を流したほどである。

 この言葉には、主税も黙って頷くことしか出来なかった。


「確かにそうかもしれへんな。なんかあったら止めに入ればええだけの話やしな」

「そういうことや。なんやかんやで平ちゃんの話を聞くのはオモロいしええやんか」


 三郎は主税の広い肩を何度か叩くと、大きく背伸びして体を捻りながら歩いていく。

 叩かれた主税はで大きくため息を吐くと、小さく呟いてのたのたと歩きだした。


「……その目や三郎。その目がワシは怖いんや」

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