種が芽吹くとき
「平八郎様、よろしいでしょうか」
私塾が始まってから二週ほど経ったときのこと。
興奮に満ちた顔のまま子弟らが帰ってゆく中、教壇に立ったまま睨みつけるように教書と向かいあう平八郎に声を掛ける男がいた。
「キミは、その、えっと、確か……」
「東町奉行所吟味役与力西田青太夫が嫡子、西田格之助と申します。東町に居られた頃に何度か話したことがありますが、私のことをお覚えでしょうか」
緊張からか顔中に汗を溜める青年の名は西田格之助。平八郎が東町奉行所で見習いをしている頃、奉行所内で何度か見かけたことがあった。
だが、その頃とは背恰好も何もかもが変わっていたのと、教室内は人で溢れかえっているために一人一人の顔の見分けがつかないだけに、そのことに平八郎は気が付かなかった。
「なるほど、西田殿の倅殿か。なんともまぁ、大きくなったな」
格之助の齢は18。元服してからは父青太夫に従って東町奉行所の与力見習いをしていた。
記憶にある格之助は背丈の低い紅顔の少年であった。しかし、今の格之助にはその面影は無い。
体の線は細いものの、鉄製の筋で体の芯をしっかりと支えられているようにきっちりとした好青年である。父の青太夫は誇らしいだろう。
「あの頃は5.6ですからね。しかし、私が言うのもどうかと思いますけど、平八郎様も大きくなられました。父と話すたびに平八郎様のご活躍ぶりには驚いていますよ」
緊張をはらみつつも目を輝かせる格之助の真摯な姿に、平八郎は表情を綻ばせた。
「よくいうな。私よりも半尺以上はあるじゃないか。大きくなったのは格之助のほうだよ」
「いえ、背丈こそ私の方が高いですが、人としては平八郎様の方が遥かに上。私もあやかりたいものです」
格之助の並べる言葉に平八郎の気は当然良くなる。
講義中に見せる生徒向けの威厳のある顔つきではなく、一人の人間が浮かべる喜怒哀楽の喜の部分がまざまざと現れていた。
「しかしまぁ、ここでの私塾に来るのは有閑な武家の子弟ばかりだと思っていたけれど、格之助のような役持ちの御家人が来るとは思わなかったよ。まったく驚かされた」
「奉行所じゃ如何に仕事をサボって平八郎様の教えを乞おうか必死になってますよ。耳聡い親父連中の間でも話題になってますし」
平八郎は予想外の好評振りに目を丸くさせるも、すぐさま平静を装って涼やかに対応する。
そんなやり取りをしていると、近辺の整理をしていた済之助が戻ってきた。
「珍しい客だ。居残って先生の話を聞こうとするなんて感心だな」
「はい、ありがとうございます!」
格之助は溌剌とした声を上げて済之助に深々と礼をする。済之助は嬉しそうに青年を見つめると朗らか笑った。
「なかなか見どころのある青年じゃないか。名は何と言う」
「西田格之助と申します。よろしくお願いいたします!」
その名を聞いてピンとしたらしく、済之助は小さく微笑んで口を開いた。
「西田格之助というと、新しく入った東町の与力じゃないか。まさかそんな所から来るなんて予想外だな」
「そのやり取りはほんの少し前に行ったばかりだ。それで格之助、私にどのような用があるんだ?」
平八郎は肩にかかった長い髪を手で払うと、優雅に微笑んで見せた。緩んだ口元を引き締め直した格之助は息を呑んで言う。
「はい。実を言うと、物足りないのです」
彼の者の目は憧れの人を見つめる羨望の眼差し、しかし発せられた言葉は真剣そのもの。
少々驚いたように平八郎も済之助と顔を見合わせると、深く息を吐いて黙り込んだ。代わりに済之助が言う。
「物足りない、か。なるほど。それはどういう意味なんだ?」
済之助の表情は硬い。何かを推し諮るように厳しい視線を送る。
「失礼を承知で申し上げますが、この一週間、平八郎様のご講義を受けていましたが、何もかもが受け売り。平八郎様の教えとは思えないのです」
格之助の言葉が進むたびに熱が帯び始める。そして、途切れた瞬間に平八郎の表情に気が付いたらしい。
目を瞑り、俯いて拳を小さく震わせる姿に、格之助は即座に平八郎らに向かって平伏して大声で叫ぶように言った。
「いや、出過ぎたまねを……」
「……立ち上がりなさい。そして気にすることは無い。続けて」
平八郎の言葉に、格之助は俯き加減に頬を指先でなぞると、再び目を光らせて語り出した。
「そ、それで、人の言葉というものは、熱というものが籠もっていると思うのです。例えば、桶狭間の合戦直前に織田上総介は敦盛を舞ったとされています。その時の彼の者の言葉には熱がこもっていた。でなければ名を馳せることもなく尾張の地で終焉を迎えていたでしょう」
その真偽は定かでないが、織田信長は桶狭間の合戦の直前に清州の城で敦盛を舞ったらしい。それからすぐに熱田神社に参詣し今川義元らを討ち果たした。
「その言葉が歴史を動かしたと言ってもいい。その情熱が人を動かして天を動かした。しかし、平八郎様がこの場で仰られている言葉にはそのような熱が無い。年寄連中が語る定型句や説教と変わりません」
格之助は長台詞の最期で息を切らす。
黙って聞いていた平八郎は動かなかったが、横に控えている済之助が重い口を開いた。
「……それでは、この場で君たちに聞かせている平八郎の言葉には熱がこもっていない、やる気など無いとでもいうのか?」
済之助の冷めた視線に少々怯む素振りを見せたが、目の底で輝く魂を消すには値しなかった。
「正直に言うとそうです。ただ、他の連中は平八郎様の言葉を有り難がって聞いている節があるので違うんでしょう。ただ、私はこのような講義では物足りません。もっと世の為になる教えを、多くの事を教えてほしいのです」
喋りつづけた格之助は頬を紅潮させてぜえぜえと息を吐いた。
それを黙って見届けた平八郎と済之助は顔を見合わせると、無言のまま口角をつり上げる。
「……面白い。それならとっておきの学問を教えてあげようじゃないか」
「そうだな。本当に見どころのある青年だったな」
二人の言葉によって、部屋中を纏っていた重い空気が晴れた。
押し潰されそうに返事を待っていた格之助は、外気のように、秋らしい涼やかで透き通るような
「ほ、本当でございますか!」
「ああ。格之助のような若者にこそ幕府の重職を担ってほしいと思っている」
「そ、そんな、私なんぞが幕府の重職だなんて……」
平八郎の軽口を本気で信じて顔を赤らめている。ますます済之助は気を良くした。
「完璧じゃないか。今日はこれで締めるが、明日の私塾終わりに平八郎の家を訪ねるんだ。そうすれば色々と教えてやろう」
「ありがたき幸せです先生! それでは、失礼いたします!」
軽快に頭を下げると爽やかに私塾を後にした。
残った二人は満足そうに短く言葉をかわす。
「よかったな平八郎、地道だが芽は出たじゃないか」
「ああ。これに続くかは分からないが、長く続けて行けば我らの教えは広まることだろう。気長に行こうじゃないか」
これと同じような速度で格之助のような人材が出てくるはずもないことは平八郎にも分かっていた。
それと同時に、自身と同じように才を持ちながらも燻っている人間が今後も出てくるだろう、ということを平八郎は信じて疑っておらず、長く広く続ければ世の中は変わると真剣に思っていた。
ただ、時流は待つという術を持っておらず、悠長に過ごす時は平八郎に存在しない。
燻っていたのは人材ではなく、火種であり、その数日後にポッと簡単に火が灯った。
○
渋面な三名が火鉢を囲むように座っていた。
「……クソったれ。西町の世間知らずには付き合うてられんわ」
「そう怒らんで下さいよ。高井様と弓削様がクビになったんやからしゃあないやないですか。今のウチにゃ連中と真っ当にやり合える人間なんかおらんし」
「朝岡様怒るのも無理はあらへんけど、せやからこそ自分らがしっかりせな」
一人は、東町奉行所与力の朝岡泰久、もう一人は西田青太夫、そんな二人の横で肩身狭そうに沈黙を守っているのが内山彦次郎であった。
その三名は鉄箸で火鉢を突きながら愚痴をこぼし合っている。
その相手とは上役を更迭に追いやった西町奉行所であり、その実行犯たる大塩平八郎の姿だ。
「弓削様がおらんから仕事もまともに動かへん。その上、西町の連中がワシらを舐めクサっとる。まったくどうせいっちゅうねん」
東町の屋台骨と言っても過言ではなかった弓削を失ったことで、東町奉行所は揺れに揺れ動いていた。
長年にわたって奉行所を仕切っていた男二人が一挙に抜けた上、そのうちの一人が自殺したということで市中での評判はガタ落ちに。
さらに、その事件を主導したのが西町奉行所だったということが知れ渡ると、胸に傷持つ商人たりの間で『東町奉行所と付き合うと西町に目を付けられる』という風聞まで流れだして事件の捜査になどならなかった。
「ほんま大塩とかいう輩は話にならん。ここ最近に破戒僧の大量捕縛で名を上げたらしいやないか」
「別に捕まったんやしええやないですか。これで当分は安泰ですよ」
「アホ抜かせ青太夫。あの案件も元はワシらが掴んだネタが発端や。それを合作とかいうつまらん仕組みで連中に持ってかれて片が付いた。つまらん話やろ」
破戒僧に対する下調べはついていた。後は踏み込むだけという時、情報を得た平八郎らが破戒僧らを一斉検挙した。
「ワテらがこのクソ暑い中下準備したってのに、連中、美味い所だけ吸いやがって話にならんわ。独断専行でみっちり絞られたと思いきやこの様。ほんまにありえへん」
数年先輩である朝岡の怒号に、中年与力青太夫の背中が小さくなった。そんな中、居た堪れなくなった彦次郎が助け舟を出した。
「朝岡殿、西町と言えばアレやないですか」
「なんや彦次郎、西町の醜聞でもなんかあるんか?」
食い気味に近づく朝岡に辟易としながらも彦次郎は答えた。
「いや、最近天満で寺子屋を開いとるらしいやないですか。こんな時機に何をやってるんですかね」
「ホンマにつまらん連中や。また人気取りのためにしょうもないことをやってるんやな」
「そういえば倅も言ってました。『大塩様平八郎様の教えがあったわ』とか……」
空気の読めない青太夫の言葉に、朝岡の機嫌は一段の悪くなり一層影が差した。
「ったく、ほんまにしょうもないわ。あの奉行もしょうもないしな」
「あのっていうと大岡忠春ですか」
「そいつもしょうもないけどちゃう。ウチのしょうもないヤツや」
三人の顔に一人の男が思い浮かんだ。
先月赴任してきた東町奉行の跡部良弼の軽薄な姿である。
「まぁ、堺でもいい噂は聞きませんしね。商人らと結託して暴利を貪ってたとか」
堺町奉行を半年ほど続けていた跡部良弼だが、『辣腕を振るった』とか『名差配を見せた』といったような名文句は聞こえて来ず、その仕事振りでいい話は聞かなかった。
聞こえてくるのは『前任の総献金額をひと月で上回った』『商人らを招いて夜な夜な宴会を開いている』といった類の話で、よくいる金に小汚い木端役人といった話ばかりであった。
「そんなんどうでもええわ。とにかく東町奉行所に必要なのは功名と統制や。あの奉行がそれをもたらすと思うか?」
「いや、その、朝岡殿……」
「んなはずあらへん。兄貴が大阪城代だからっていう縁故人事やないか。合議の場でもヘコヘコしやがってほんまにアホやで」
「ま、まぁ、その、アレですよ」
「何を吃ってんねん。正直に言えばええやろ。跡部とかいう男には何も期待できへん。今日だって定時前に奉行所を後にしやがった。ホンマに使えん男や!」
朝岡が調子よく演説している中、対面に控えていた二人は俯きながら閉口して朝岡の方を指出している。
「ああ? 何指差しとるんや」
「えっと、確か朝岡とか言う与力だよね。なかなか調子のいいこと言ってくれるじゃない」
「なんやなんや。ワテのことを呼び捨てで呼ぶなんざ……」
広い額に青筋を立てながら朝岡は振り向いた。青太夫と彦次郎の両名は既に平伏している。
「あ、跡部様っ……!」
満面の笑みの跡部良弼がそこにいた。
押し黙ったまま柔和な笑みを汚しもしない。それが三人の恐怖心を駆り立てた。
「表を上げなさい。とにかく君たちの意見は良く分かった。西町には随分と食わされっぱなしで水を空けられてるようだね。まぁ、事前の情報通りって訳だけど」
「だ、だったら西町相手に頭を下げないでくれませんか。せっかく意気上がってたってのに、上がそんなんやったらまとまるもんもまとまりませんて」
平伏を解いた朝岡は、腰を引かせながら良弼に食いかかった。
それを聞いた良弼は懐から扇子を取り出すと音を立てて開かせた。
「まったくつまらん連中だなぁ。なんつーか、田舎侍っていうのはお前たちの事を言うんだろう」
及び腰であった朝岡も、微笑みながら話す跡部の言葉には火が付いた。姿勢を直すと年下の飄々とする男に向けて厳しい視線を送る。
「西町奉行所の功名なんてものは小さな事じゃないか。そんな小事に惑わされていると大事を見過ごしちまうよ?」
「何が小事ですか。現に世間じゃ東町は西町に遥かに劣るって評判です。小馬鹿にされるようじゃワテらも仕事にならんですよ」
良弼が朝岡の言葉を一笑に付すと、歯を見せてニヤニヤと嫌味に笑った。朝岡は当然のこと、対面で小さくなっていた彦次郎や青太夫の顔も鋭利さを増す。
「大塩がなんだ。西町がなんだ。お前たちの仕事は東町の連中を一杯喰わせることなのか? しょうもないな。本当にしょうもないのはお前たちの方だぞ」
「何が言いたいんですか跡部様、私らを貶したいだけならこっちの堪忍は利きませんよ」
「堪忍が何だって言うんだ。大阪の事も良く知らない上役にからかわれただけで斬るとでもいうのか? それこそ何になるっていうんだ。君たちの大好きな東町奉行所の名はさらに折れてしまうぞ。まぁ、折れる程の名なんてものはとっくに無いと思うけどさ」
朝岡は腰の物に手を伸ばした。彦次郎は喉を鳴らして息を呑み、柔和な青太夫も冷や汗を流しながらそれを見つめていた。
「……やりたきゃ勝手にしろよ。腰に提げてるのはナマクラか? めい一杯悪口を重ねられて悔しいとでも思う気持ちがあるんなら掛かって来いよ。ほら、ほらさ!」
良弼は怯まない。
必死の形相のまま睨みつける朝岡の事を、先ほどと変わらない嫌味ったらしい笑みを崩すことなく見つめている。
そんな緊迫状態が数分続いた。
滞留する冷ややかな風がキリキリと音を立てるように震えると、良弼は再び歯を見せて笑った。
「まぁ、斬れるはず無いよな。どれだけ嫌な思いをしようが、思い切りもつかないない程度の男なんだよお前たちは。だから東町の連中にやられっぱなしなの。自分等がどれだけしょうもないのか分かったか?」
朝岡のハバキがシャキリと音を立てる。緊張感がより一層増すと、良弼の嫌味な笑みが苦笑へと移り変わる。
「今までのは冗談半分だから気にするなって。なかなかよくやってると思うぜ? 俺はこの一月、君たちの仕事振りを見させてもらっていたから分かるさ」
「は、はぁ、そうですか」
三人の反応の薄さに良弼は顔をゆがませるが、すぐさま立ち直り言葉を続けた。
「ここにいるのがお前たちだから話してやるけどさ、とっておきの秘策があるんだよ。俺の言う通りに従っていれば憎き西町の連中が臍をかむ姿が見られるぜ」
そう言いながらにやけ顔の良弼は、怪訝そうに顔を見合わせる三人の間に割り込むと、一通の書状を取り出して読み上げた。
良弼の言葉が進むたびに、怒りに満ちていた朝岡の顔はするすると平常時の小難しい顔に戻り、更には笑顔まで見せる。
「……そりゃええやないですか。こんな策があるなんて思っても見なかったわ」
「だろ? 大義名分はあるんだ。後はお前たちが行動するだけでいい」
「ま、まぁそうやけど、ほんまにええんですか」
「全く問題ない。これは東町奉行直々の指示なんだ。俺たちは何一つ逆らっちゃいないし、指示通りに事を進めるだけだ」
「そりゃそうですけど、事を荒立てたら洒落になりませんよ。ほんまにアレですよ、下手したら……」
彦次郎の言葉に朝岡が覆いかぶさった。
「安心しろって。跡部様が言ってるように、多少の無理は多めに見てもらえるんやからええやないか」
「そういうこと。大義は俺たちにあるんだ。お前たちは粛々と米集めに奔走すればいいんだよ」
眉をひそめる青太夫と彦次郎をしり目に、朝岡と跡部は笑い声を上げる。
文政四年の晩秋。すぐ後で巻き起こった嵐の火はここで着いた。