心即理
「平八郎、出張で勉学を教えて回って欲しいのよ。主に近隣の村々をさ。簡単に言えば昌平坂みたいな感じかな」
忠春からの提案はそんな折に起こった出来事であった。
自身の論説を広めて回りたいと、密かに考えていた平八郎にとっては渡りに船。これ以上ない絶好機である。
「承知いたしました。別に構いませんが、私一人では手が足りないのですが」
「それならほら、アンタの同僚に瀬田って若い与力がいたでしょ。アレもそれなりに頭いい男だから使ってちょうだい。そのうち義親とか衛栄も使わせるからさ」
忠春に呼び出され、熱気の籠もった私室で言葉を交わし続ける平八郎は笑いをこらえるのに必死だった。さらに、共に働くのに瀬田済之助まで連れだせる。
それと同時に、何もかもが忠春に知れ渡っているんじゃないかというその慧眼に恐れをなしつつも、奉行所の公認で自分自身がやりたいことをできる機会を得られた。
ここまで労せずに機会が得られたことに、何もかもが自分自身を中心に動いているんじゃないか、という一種の全知全能感を持ち始めていた。
「……それでどうする平八郎、これで忠春様の公認を得た訳だが」
忠春の私室から出て行った後、奉行所内でもひと気の無い廊下をあえて選んだ平八郎と済之助は、肩を寄せ合って小声で話しあう。
「間違いなく風は私に吹いている。しかし弱ったな」
「『私たちが本物の勉学を教えてやろう』だなんてうそぶいていた女が何を言っている。これ以上ない好機じゃないか」
済之助は調子よく声真似までしてからかった。
それでも平八郎は関心なさそうに言葉を続ける。
「あの時は気持ちが昂ぶっていたが、冷静になればすぐ分かることじゃないか。公認を得てしまった以上、これでは私の思う所を広める訳にはいかない」
「……そうか。確かにそうだな。授業に学問を据えたところで、教えるべきものは朱子学のみ。これじゃ陽明学は広められないか」
幕府の公認を得てしまった以上、教えるべき学問は朱子学のみ。ただ、最近になって長崎より伝わる蘭学が世に知れ渡りつつあるが、平八郎にそれを教える素養は無い。
得意の陽明学を教えられるはずもない。
「どうするんだ。無学な者共に読み書きを教えたところで何になる。悪戯に時間を浪費するだけだぞ」
「済之助こそ酷いことを言うんだな。あの女の前では調子のよいことをのたまわっていたくせに」
平八郎が済之助の脇腹を小突くと苦笑まじりの苦しい顔をする。
「あれはああいうしかないだろ。馬鹿正直に正論を述べたところでどうにもならない上に絶好の機会が台無しだ」
即座に背の介は言い返した。それから大きく息を吐くと言葉を続ける。
「そもそも農民に学問を教えて何になる。こんな酔狂な催しに来るやつなんてのは生きているのに余裕のある連中だけだ」
「だろうな。本当に助けるべき人間は血反吐を吐く思いをして生きている。こんな催しに来れるはずが無い」
すぐにやってくる危機に対して、残されている時間はそう多く無い。
土や草と生きる農民たちもこの秋が苦しくなることに気が付かないはずもなく、そんな折に勉強会を開いた所でたかが知れている。
じりじりと焼ける中庭を見つめながら済之助は言う。
「所詮はお姫様。前任の内藤某も酷いもんだったが、違う次元で酷いもんだ。思いついたまま動いているだけで、その下で動く人間の事をなんにも思っちゃいない」
「そんなことを奉行所内で良く言えるな。本人に聞こえたらどうする気?」
口では押さえようとしているが、平八郎の浮かべている表情は正反対の満面の笑み。口元の緩んだ皺のひとつすら包み隠そうともしない。
「聞こえているならそれはそれでいい。身内からどう思われているのかを思い知ればいいのさ。どう足掻いたって女は女。ちょっと面白い裁きをしたところでそんなことがなんに……」
「なかなか言うじゃないか済之助。”所詮は女”か。実に興味深いな」
「いや、お前に対して言った訳じゃな……」
「塵ほどにも気にしちゃいないさ。お前はお前で好き勝手ほざけばいい。とにかく明日からは忙しくなるぞ」
そう言い残すと平然と平八郎は去って行った。
風切るように去っていく平八郎を眺めつつ、日当たりの悪い廊下で一人、済之助は呆然と突っ立っている。
○
「大塩様ありがとうございます! 私の道が開けたような気がしますっ!」
「これで大塩様のような武士に近付けたでしょうか」
「流石は上方一とも言うべき女性の授業というべきか。今までつまらないと思っていた学問も面白く感じます!」
翌日に天満町で開かれた大塩平八郎の私塾は大盛況であった。
路地は人で溢れかえり、室内は熱気で蒸せかえほどに詰まっている。ネズミ一匹盗み入る隙間など無かった。
そんな熱量を冷めやらぬ一室に籠もる二人は、興奮にいきり立ちながら去りゆく人々を見て吐き捨てるように言い放つ。
「忠孝に五倫。 ……いつ見ても朱子学というのはくだらない学問だ。御上の指示通りに治まっていれば世の中が落ち着くはずもないのに、あの連中はそんなものをありがたがっていてどうするんだ」
「そう怒るな平八郎。今まで身に付かなかったことだって、憧れの存在に教われば高貴に感じるもんだ。勉強なんてもんはそんなもんだよ」
開かれた場所は天満町ということもあって、武家の子弟の参加が目立っていた。初めての私塾は忠春が言ってた通りのさながら昌平坂といった有態である。
キラキラと目を輝かせながら平八郎の一言一句を逃さず聞こうとする子弟を見て、平八郎は辟易としながら授業を進めていた。
「長序の礼を貴ぶような教えは人を堕落させるに決まっている。このような教えが罷り通っているから下々の者は自らで考える術を失う。それがこの有様だ」
「それには同意だ。自らで考え、自らが行動して結果を残す。それこそが真の武士の道だろうよ」
「この根幹が変わらなければこの危機は乗り越えられるはずもない。黴臭い学問なんぞはクソ食らえだ」
真夏の密室に籠もる熱以上に平八郎の目は燃えていた。教えていた子弟と同じように目を輝かせて拳を固めている。
そんな目を緩やかに眺めていた済之助は言う。
「しかしまぁ、最初の塾は盛況は盛況ではあるが、上にはどう報告するんだ。忠春様が言っていた本来の目的とは逸れているんじゃないか」
使命感に燃えていた平八郎は、済之助の興を殺ぐようなひと言にため息をついた。
ただ済之助が言うことも尤もで、農民相手に農村部で教えろという指示なのに、武家の子弟を対象に教えているとなれば指示通りの行動とは言えない。
しかし、平八郎はその言葉を気に止めることもなく平然と言ってのけた。
「そんなこと知ったことか。江戸に呼ばれたから実際に見られている訳でも無い。いくらでもやりようはある」
私塾の運営の任を授かってから、忠春はすぐに江戸への旅路に付いた。江戸へは徒で十日ほど。
忠春が江戸にどれだけ滞在するのかは定かではないが、少なくともひと月ほどは帰ってこない計算になる。
そうなると、忠春が江戸にいる間は定期的に報告書を送るとはいえ、事実上放し飼い状態といってもいい。
「時間を経てばやりようも分かってくるだろうから、とにかく教え続けるしかないだろう。さすれば道も開かれるはずだ」
立ち上がって私塾を後にしようと間口を大きく開けると、湾からの程良い潮気と、雑踏の空気が入り混じった生温かい空気が部屋中に流れ込んできた。
密室から出た平八郎にとってそんな秋風が気持ち良かったらしく、目を細めて背伸びをするとすたすたと奉行所に向かって歩いていく。
平八郎は五尺と少ししか無い背丈の低い華奢な女子だが、自身を信じ切る心と、その類い稀なる実行力によってその数倍にも大きく見える。
「……心即理か。アイツは本当に自らの進むべき道を見つけたらしい。あれは本物だな」
そんな彼女を眺める一人残された済之助は、畳の上で腕を頭にやって寝そべると薄汚れた天井を見た。
陽明学の教えだと、人は生まれ持った時から、その人の秩序や道理の根幹となる”理”というものを持っている。
平八郎を見つめる済之助から見て、彼女はその”理”に気が付きつつある。
対する済之助はどうだ。
成り行きと幼馴染みに対する面白半分の気持ちで、焚き付けた結果第一回目の私塾を手伝った済之助だが、覚悟の時が近づいていた。
「さて、俺はどうするべきなのかねえ」
そんなことを考えたところで結果が出てくるはずもない。
いずれにせよ、自分たちは行動するしかなく、ゆっくりと起き上がると、彼女の大きな背中を追っていた。
○
大阪城本丸では、東町奉行に就任した跡部良弼が実兄である水野忠邦の元を訪れている。
時刻は暮れ四つ。
櫓台に登る水野兄弟は、不貞寝する大阪の街並みを眺めつつ言葉を交わし合った。
「お前がやって来てひと月か。良弼、大阪の暮らしはどうだ」
「なかなか面白い所じゃないか。江戸とは違った活気にあふれた町さ。着任早々に振舞われたハモとかいう魚なんて絶品だったぞ。口に入れたら溶けちまうんだ。氷でも食べているような……」
大阪城代である忠邦を目の前にしても、小天守の欄干に頬づえをついて素っ気なく答えた。
「お前は何をしにここに……」
脇息にもたれ掛かる忠邦が露骨に顔を歪めて言い返そうとした時、良弼は欄干を蹴飛ばして忠邦の眼前に飛び込んだ。
「……とでもいうと思ったか? 寂れたつまらない町さ。天下に名だたる天下の台所とは全く思えないね。寂れた寒村のほうがまだ活気に溢れているよ」
突拍子もない良弼の行動に忠邦は一瞬だけ目を丸くさせるも、湿気る空気を切り裂くようなため息をつくと冷ややかな目に戻り言葉を続けた。
「……ここ最近は特にそうだろう。大阪中の富は一部の商人が握っている。大多数が急かされて生きているのは当然だ」
「江戸以上にこの商人たちは自分の稼ぎに必死だ。この飢饉だから今のうちに金になるものを集めようと必死になってるよ」
「高く売れる時に大量に商品を捌くのが商いの鉄則。至極真っ当な行為だが反感も大きいだろう」
事実、穀物の価格は一昨年の三倍にまで膨れ上がっており、必需品である穀物がこんな額で生活が成り立つはずもない。
仕入れ値が増えたとはいえ、それでも大商人たちはいつも通りの生活をしている。
一般庶民と富豪たちの間で感情の剥離が始まっていた。
「そりゃそうでしょ。貧民にとっちゃ商人は仇敵同然。自分たちの所に食い物が降りて来ないのに連中はたらふく持っているんだからな」
「火が付くのも時間の問題か。まぁ、俺の管轄じゃないから知ったことじゃないがな」
窓辺に向けて煙を吐くと、口に運んでいた煙管を大きく叩きつける。瓦に留まっていたカラスらが苦しそうに甲高く喚きながら一気に飛び立った。
「まったく無責任な兄貴だなぁ。世間じゃこの飢饉は城代が大阪にやって来た天罰だとか、価格の上昇には城代が商人と結託して裏で手を引いてるだとかボロクソに書かれているってのに。噂じゃ大岡忠春の手の者なんて話もあるけどさ」
「知ったことか。そう言った後に風聞は使えるぞ。流させとけばいい」
良弼は忠邦を馬鹿にしたように口を曲げると肩をすくめた。
遥か上官に位置する男に対する舐めた態度にも忠邦の表情は変わらない。平然と言葉を続ける。
「それでお前はどうする。東西詮議の場で大岡の意のままに動くといったそうじゃないか。このままヤツの従順な協力者になり下がるつもりか?」
「馬鹿言うなよ。そんなつまらない役目を果たすためにここに来たわけじゃない。『当座は忠春殿の言う通りに動く』。これがどういうことを示すか天下に名だたる名宰相にも分からないのか?」
良弼は口元を空に浮かぶ半月のように曲げた。
忠邦は軽く息を吐くと、薄皮一枚ほど仄かに口角を上げると言ってのけた。
「……抜かせ。これからお前が起こす多少の無理には目を瞑ってやるよ。アイツの縄張りを思い切り荒らして来い」
「俺には大義名分があるからな。好き勝手させてもらうよ」
褒美を与えられた愛玩動物のように良弼は飛び跳ねると、大きな音を立てながら櫓から出て行った。
一人残った忠邦は減りに減った三日月に向かって煙を吐くと、時を同じくして本来の光を失いつつありながらも必死になって大阪を照らすか細き月に雲が差し込んだ。ただえさえ暗がりに包まれている大阪の町はより一層暗く映えた。
半年後に迎える騒乱の時は着実に迫りつつある。