芽生え
話は少し遡り晩夏の頃。
大塩平八郎は残暑特有の湿っぽい大阪の風の中、鋭く尖った空気をまとい髪の毛先を逆立てていきり立っていた。
「……はっきりいって付き合いきれない。奉行のあの態度はなんなんだ。明らかな黒を白と見る。それが大阪の町を守り抜く人間をする判断か?」
「そんなこというもんやないですって。確かに弓削の一件について有耶無耶になった感があって平八郎様が怒るのは分かります。せやけど落ち着きましょうって」
「あの場では自然に怒りが引いて冷静になれたが、やはり有り得ない。どう考えても裏であの女が手を引いているに違いない」
「せやから平八郎様ぁ……」
弓削を捕縛するべく独断でに踏み込み、その結果彼の者の遺体を見つけてからの平八郎はずっとこんな調子だった。
同心らを連れて町を廻る時も、鉄鞭を筆に持ち替えて文書と睨みあう時も、常に彼女は苛立っている。
こんなように苛立ちながら奉行所内外を問わず、露骨に上司である大岡忠春に対して不満を漏らす。これには、側に付き従っている譜代の同心である松橋主税・岡部又兵衛・新藤三郎の三老人も困り果てていた。
「主税に又兵衛、悪いが一人にしてくれないか。少し考えたいことがある」
「せやけど平ちゃん、それじゃぁ……」
「三郎、忠春様の言葉に従うんや。そういう時期もあろうよ」
主税と三郎は目を見合わせると肩をすくめて平八郎の私室から離れて行った。
少々の独断専行があるとはいえ、平八郎は有能な与力だった。自身の持ち合わせる信念を曲げないところから、融通が利かないと毛嫌いする者も奉行所内に多少はいたが、基本的には人望もありその周囲には人だかりが絶えなかった。
しかし、今は違う。
苛立つ平八郎の周りには主税・又兵衛・三郎ぐらいしか寄りつかない。それどころか、弓削の一件を強行したために他の同心達は彼女を恐れ始めていた。
いつか、何かをしでかすんじゃないかと。
「相変わらずの人気振りだな平八郎。デクと又兵衛の二人が疲れ切った顔をしていたがどうかしたのか?」
そんな空気の淀んだ平八郎の私室に一人の男がやって来た。
与力に似つかわしく無い色白の学者肌な青年。
「……済之助か。今の私に寄りつこうとするのはお前ぐらいのものだ」
「冷めたことを言うものだ。私とお前との仲じゃないか。それに親父さんには世話になったからな」
瀬田済之助。西町奉行の与力であり、済之助の父も東町奉行の与力だったことから、彼自身も幼い頃から大塩家と付き合いがあった。
そのため平八郎とも古くからの知り合いなので、幼馴染みというのが相応しい表現かもしれない。
「それで今日は何をしに来た。お前に貸す本なんてもう無いぞ」
「なんだなんだ。本の虫の平八郎がそんなことを言う時期が来たのか」
「当たり前だ。本は全て売って金に換えた。来るべき日に備えるためにな」
「……なるほど、そういうことか」
平八郎の言葉を咀嚼するように何度も何度も頷くと、済之助は言った。
「……大岡様、いや、忠春を殺るのか」
済之助は平八郎の懐に入りこむとで顔を歪ませるように微笑んだ。即座に平八郎は一歩引いて顔を赤らめさせる。
「ば、馬鹿抜かせっ! 例え、ヤツが殺すに値する人間だとしても私が手を下すことはまずない。私には行うべきことがあるからな」
「ハハハ、冗談に決まっているだろ。どうせその金も米にでも換えたんだろ。お前の考えている通り、この飢饉は皆が考えている以上に酷いことになる気がする」
「だったら最初からそう言えばいいじゃないか。まったく、つまらない冗談を言いに来たなら帰ってくれないか」
その笑みに平八郎は露骨に顔を強張らせた。並の同心与力であればそそくさと逃げ帰る所ではあるが、済之助は動揺一つ見せない。
それどころか、大笑いを一つしてから子供の頭をなでるように平八郎へ手をやった。
「実のところは少しだけ心配だったんだ。だがそれも杞憂でしかないな。こんな風に人に毒づける元気があるなら問題ないな」
「余計な世話だ。こんなことで心が折れるほど私自身は軟では無い。それどころか心を固め直したところだ」
吐き捨てるように言葉を飛ばす平八郎は済すぐさま之助の手を払いのけた。済之助は苦笑する。
「しかしもったいない事をするもんだ。あれだけの本、金以上の価値があったろうに」
「そうなのかもしれないが、少なくとも私にとってあの本は読みつくしたから得るものは無い。つまらない自己満足で書庫に眠らせておくよりも、多くの人々に得るべき知識を広めた方が世のためになるに決まっている」
「なるほど。そういう考えもあるのか。確かにお前は他の連中と違った物の考えをしていた。アレだ、『知行』……」
平八郎はその言葉をずっと待っていたかのように、済之助が喋るのを遮ってすらすらと諳んじて見せた。
「『知行合一』。人が成すべきことというのは自身で動いてこそ初めて成されるものだ。だからこそ私は行動で全てを示してきたつもりだし、これからも私が信じる事を成すために動き続ける」
平八郎がそう言うと、済之助は面白がるように口角を上げた。喋りつづける平八郎に先ほどの苛立ちなどは影も形もない。
「なぁ済之助、実を言うとあの事件以来、私のすべきことというのが見え始めてきたんだ。霧中に光を見つけたようというか、あの事件に対して怒りも沸くのだが、不思議な活力のようなものも感じている」
禅問答めいた限りなさのある答えに、済之助は幾分か面倒くささを感じた。適当な口調で聞き流すように言った。
「……お前と違って非才の身である俺にはよう分からんが、お前がすべきことっていうのは大阪の町を守るってんじゃないのか?」
「私が大阪町奉行所の与力である以上、町を守ると言うのが私がなすべき使命だ。だから、それはそれで正しいと思う。それに町奉行というのも面白そうだからな」
「だったらなんだ、これからは忠春様を出し抜いてお前自身が大阪を治めるとでも言い出すのか?」
「それも違う。この立場にいる以上、いつかはそういう立場になれるかもしれない。しかし、それは無い」
「そりゃそうだ。中央に繋がりの無い一介の与力風情が成れるはずもないよな」
「そんなことは分かってる。だからこそ分かった。私が町奉行所の与力として果たすべき使命というのは、町を守るということではない。 ……私の考えを世に広めること。そうやって世の中を変えるということだ」
済之助の心中には平八郎に対する面倒くささが芽生えかけていたが、今度は大輪の呆れが咲いた。
「気でも触れたか平八郎。そんなことが出来ようもないだろ。それに幕府の教えは『和を以て尊しと為す』。お前の教えとはま逆じゃないか」
幕府の学問は朱子学。しかし、平八郎が信じ抜いている『知行合一』を是とする学問は陽明学。これは朱子学と比べると異端とも取れる代物で、それを真剣に学び広めようとするものは幕府にとっての危険分子とも取られかねない。
それでも平八郎の表情は曇らない。姿勢と表情を一つも崩すことなく悠然と言葉を飛ばし続ける。
「それも分かっている。しかし、一度、私のすべきことであると分かってしまっただけに行わない訳にもいかない」
どんな苦境を目の前にしようと、夏の日差しに照らされた硝子玉のように澄んだ目をする平八郎に、済之助は黙ったまま頭を数度掻いた。
「しかし、今どき陽明学を広めようだなんて大した女だ。まったく、そんな酔狂な人間と一生を添い遂げてもいいぐらいだ」
「ふん、お前は本当に冗談が好きなんだな。抜かしたければ抜かせばいい。少なくとも私はお前なんぞに友情は感じても興味は無い。成さねばならないことがあるからな」
その言葉に平八郎は振り向くこともなく、なんてことの無いように答える。前に見たように済之助は肩をすくめると小さくため息をついた。
「……その話は耳タコさ。まぁ、なんだ、幼馴染みの告白を受けた以上、俺も出来る限り協力せざるを得ないな。せいぜい頑張ってくれ」
「ふん、言われずともやってやるさ」
済之助は真夏に似つかわしく無い爽やかな笑みで私室を後にしていく。
あくまでも爽やかなのは済之助が浮かべた笑みのみで、私室に籠もった熱気は相も変わらず湿っぽく暑苦しい。蝉の輪唱が奉行所内に響き渡る度、働く者たちのため息が漏れ伝わってくるような気がする。
しかし、部屋に籠もる平八郎の表情は、晩夏の残暑を感じさせないぐらいに涼やかであった。
○
弓削の一件が済んだ一週間は荒んでいた平八郎だったが、それから次第に落ち着きを取り戻してきていた。
畳針のように太く鋭い殺気は衰え、香油の芳しい香りをまとった平八郎の姿があった。
「お、おおはようございます!」
廊下ですれ違う新米・若手の同心達は、すぐ前まで鋭かった平八郎を思い出して挙動不審にビビりながら挨拶をするも、
「ああ、おはよう」
と、いう柔らかな自然体の平八郎を見て胸をなでおろしている。
それどころか、普段の仕事でも平八郎は実に冴えていた。
事件のすぐ後に平八郎が主導となって市中に跋扈していた不逞浪士を捕縛したことで、西町奉行所の名と大塩平八郎の名は大いに高まった。
「平八郎様、どうやったらそんな風になれるんですか」
「是非とも私の倅に勉学を教えてやってください。平八郎様のような立派な方にしたいのです」
「西町奉行所の小間使いでもええんで私を雇って下さい」
といったように、平八郎の担当地域の一つである天満町では英雄的な人気を誇っている。
平八郎が市中を見廻れば自然と人だかりが出来た。
子を持つ親であれば自身と共に学ぼうと意気込む者や、若者であれば平八郎の教えを乞おうとするものが多数出てくるなど、彼女が道を歩くだけで人だかりができたほどであった。
そして、天神橋北詰側に店を構える馴染みの魚問屋の前を歩くと、手にしていた鯛を放り投げて数人の男女が駆け寄ってくる。
「おう平ちゃんやないか。先の捕物は凄かったらしいなぁ。なんたって平ちゃん自らが先頭切って斬り込んで言ったんやろ?」
「テツのおっちゃん、堪忍してな。今は平ちゃんも仕事中やから呑気に話す時間はないねん」
「そういうことや。テツ、さっさと店番に戻らんかい」
「なんや、又兵衛にデクもおったんかい。でかすぎて分からんかったわ。なんたって平ちゃんなんかお前さんの足首らへんやしな。お前さんの顔なんかお月さまより高い位置にあるんやろ?」
「久しぶりねテツさん。元気そうでなによりよ」
天高くを指差すテツらは冗談を飛ばしあい声を上げて笑っている。平八郎はほのかに微笑むと軽く会釈をした。
「平ちゃんやんけ。やっぱ相変わらずかっこええなぁ」
テツの横には愛娘である千代もいた。
両脇を固める主税と又兵衛の間をするすると抜け近づいて平八郎の腕を抱くと、冷めた目で老同心二人を見つめる。
「……それに比べて又兵衛とデクは相変わらずやな。おっちゃん二人も平ちゃんを見習わなあかんで」
「相変わらずキツイ子や。テツも愛娘にエエ教育しとるやないか」
「この口の悪さはアイツ譲りやからしゃあないわ。にしてもホンマに平ちゃん人気は凄いな。風の噂じゃ地に堕ちたなんて聞いとったのに実際は大したもんや」
「そんな大したことじゃないわ。普通にやってただけの話だから」
「またまたオモロイことを言うやないか。ま、そんな奥ゆかしい所も平ちゃんの魅力の一つやけどな。ほら、これを見てみい」
平八郎の肩を叩きながらケラケラと笑うテツは、懐をがさごそとまさぐると一枚の紙を取り出した。
「どっかの瓦版屋も言っとったで。『愛刀代わりの鉄鞭を振るって薙刀を構える生臭坊主どもを滅多切り』ってな。数あるお侍はんの中でもやっぱ平ちゃんはちゃうな。大阪の誇りや」
テツの言葉は止まることが無かった。それから少しのあいだ瓦版屋の受け売り文句と共に、平八郎を目の前にして平八郎自身の武勇伝を語りだす。
調子のいいテツとは対照的に、上機嫌に笑っていた主税・又兵衛の両名の視線が徐々に落ちて行き、平八郎の緩やかな笑みも止まった。
平八郎自身がそういった風評や噂の類の話を何より嫌っていた。
そのうえ、平八郎の事をネタにする調子のいい瓦版記者は一人しか思い浮かばない。
「お、おい、テツ、もうええやろ。何より平ちゃんがおるんやからそこまで話すことなんかないやろ」
「せやせや。瓦版屋の話なんてのは話半分に聞いときゃええんやって」
「なんでやねん。お前さんらの殿様が褒められとるんやから嬉しそうにせんかい。それにちっこい女の瓦版売りが自慢気に話しとったで。『私のこの両目と大きな胸が見たんだから間違いない、やっぱ平八郎ってのは凄いねっ!』っちゅうて」
不思議そうに目を丸くさせるテツを見て主税は深いため息をついた。又兵衛は肩をすくめて平八郎に視線を移す。
「へぇ、知らなかったわ。でも悪い話ではないわね。このままその調子で冗談を飛ばしてちょうだい」
苦笑しつつも悪くなさそうに微笑む平八郎に、存分に怒り散らすのを覚悟していた老同心二人であったが、予想外の上機嫌振りに面くらっていた。
そんな老同心二人を見ると、平八郎はテツと同じような目で不可思議そうに答えた。
「何を驚いてるのよ。おかしなことでも言った?」
「いや、別になんでもありませんよ。上機嫌ならそれでええんです」
「まぁそうやな。噂を撒き散らしとるんが屋山の文ちゃんでもかまわないんならそれでええわな」
「お、おい阿呆、何言っとるんや……」
主税が即座に毒づくと、調子よく冗談を飛ばしていた又兵衛も、しまったと言いたそうに広い額に手をやった。
しかし、平八郎の反応は違った。
「確かに思う所が無いと言えば嘘になるけど、別に誰が言おうが誰も損していないじゃない。私たちの活動がしやすくなるのであれば、それはそれでいいんじゃないの?」
「は、はぁ、さいですか……」
老同心はただただ返事をするしか出来ない。
平八郎はそんな二人をしょうもなさそうに見つめると、千代の方を振り向いてしゃがみこみ、夏の日差しを浴びてキラキラと輝き放つ黒々とした髪を何度か撫でながら言った。
「それじゃあね千代ちゃん。今度ね、この辺りで塾を開くから、お友達を連れて沢山来てね」
「なんかよう分からんけど面白そうやな。街中の子らを連れて遊びに行くわ!」
無邪気に微笑む千代を見て、それに負けないぐらいの笑顔を見せる平八郎に老同心二人は肝を冷やした。
平八郎が浮かべた表情は、なんてことの無い笑顔に相違ない。
しかし、その邪心の欠片ひとつ無いなんてことの無い笑顔が、平八郎の心の奥底に眠る溜まりに溜まった何かどす黒いものの片鱗を、彼の二人に思わせてしまっていた。