不思議な縁
「こりゃ良縁じゃ! これ以上ない良縁じゃのお!」
粛々と進んでいた大岡家の祝言は大広間は文字通り荒れていた。
酒膳を変えながら酒を呑み交わす式三献の中ほどになると、参加者に酒が回り始めたようで祝言の体をなさなくなっていた。
「畜生! なんで俺じゃねえんだよ! なんで姉御の婿は俺じゃねえんだよ!」
「倅よ、男というのは諦めが肝心。ワシだって忠春と祝言を結びたかった。こんな出来た娘御は江戸中を探し回ったって居らん。暮らしを捨ててしまってもかまわんぞ!」
漆塗りの膳台をひっくり返そうとする遠山景元と景晋父子。
どうにかしてくれと困ったように忠春が政憲に視線を送るも、将軍家からの贈り物である灘の清酒と酒膳用に振舞われた上方土産の奈良漬が加速させたらしい。
仲人の政憲もその役目を半ば放棄して酔い潰れている。
「義親ぁ…… このご恩は絶対に忘れるべきではないぞ…… 死して、なお、大岡家に……」
同席していた大岡家家老、小峰義時はうわ言を呟くと泣きながら奈良漬を頬張っている。シャキシャキとした音が心地よい。義親は苦笑している。
「……まったく、情けない連中ね。他所の祝言でこの無様な姿は何なのよ」
「ははは、でも楽しいじゃないですか。こんな機会は滅多にありませんから」
実父の醜態を目の前にしても義親は爽やかに参列者を眺めていた。
忠春が怪訝そうに義親の顔を見つめると、表情を崩さずに答えて見せた。
「それに忠春様と挙げる祝言。どんな形であっても楽しいですよ」
臆面の無い笑みに忠春は俯いて顔を赤らめると、それ以上何も云わず、義親も同じように俯くと膳に置かれた奈良漬を頬張った。
「……ったくよぉ、なんて光景を見せつけてくれるんだ。あれほど熱い夫婦なんてのは見たことがねえや。ったく、見てらんねえよなぁ政憲殿」
「もぉ、衛栄、そ、そんなこと言っていると……」
遠くで眺めていた衛栄が即座に毒づいた。すぐさま忠春から盃が飛んでくる。
風通しの良い縁側付近で潰れている政憲は言葉を発していたようだが、うめき声しか聞き取れない。
底なしに楽しい宴会であった。
頼りがいのある懐かしい顔ぶれに、心から願っていた人とのかけがえの無い時間。
人生の節目を飾るにはこれ以上ない場面であり、ふと冷静になれば後片付けや酔っ払い連中の処理など面倒くさい事柄も多いが、何度も味わえる機会では無いので、これはこれで楽しいのかもしれない。
この狂乱が当分は続いてもよいと少なくとも忠春自身は思っていた。
そんな折だった。
「まったく、我々が大岡殿にもってこいの縁談を用意していたと言うのに、何もかもが台無しじゃないか」
突然耳に入ったのはヌメり気のある嫌な声。老中首座の水野忠成だった。
敵陣の中央で不敵に微笑む忠成の圧倒的な貫禄が、寒くなってきた秋の夜をより一層冷えさせる。目線があった瞬間、間髪いれずに景晋老が食いかかった。
「なんじゃいなんじゃい! めでたい席だというのに、そのシケたを見てしまっては興醒めよ。誰かこんな男を呼んだんじゃ。さっさと送り返さぬか」
「これはこれは遠山殿ではありませんか。いやはや、ショボくれてしまってどこにおられるのかわかりませんでしたよ」
「若造が抜かしおってぇ」
景晋は手にしていた盃を放り投げると、鷲鼻を尖らせて猛禽の鋭い睨みを効かせる。
が、忠成は全てを受け切ったうえで緩やかに微笑み返した。
「おお怖い怖い。歳老いても硬骨気取りは相変わらず。さっさと後進に身を譲っていただけませんかね。年寄にいつまでも居座られるのは迷惑なんですよ」
「ああ? どの口がほざいてるんだよ。んなこと抜かす前にてめぇがさっさと身を引くんだな。そこにいるだけでどれだけ害悪か分かってんのか?」
「威勢の良い若者だ。目元からして遠山の倅だろうか。その心意気だけは買ってやる。だが、残りは掃き溜めの腐ったゴミ以下だ。この場にふさわしい」
続いたのは景元だった。前の景元であれば手が出ていただろう。
しかし、この一年ほどで彼も彼なりに成長していたのかもしれない。怒りで震える腕をがっちりと抑えつけながら額に青筋を立てて睨みつけた。
それでも忠成は、優雅な微笑みを崩すことなく広間をゆっくりと歩きまわりながら忠春の元に向かって行った。
「……水野様、何をされにここに来られたのかは存じ上げませんがよく参られました。よろしかったらお寛ぎにでもなられてください」
忠春も冷徹に忠成へ視線を送った。
言葉こそ丁寧に取り繕っているが、半年前に城内で味わった屈辱は忘れられるはずもない。
あくまでも丁寧には取り繕っているが、言葉の端々にはれっきとした敵意が向けられている。
「大岡殿の好意に甘えたいところだが、こんな臭い飯なんて食えたものではない。負け犬が移ってしまうので遠慮させていただこう」
忠成は忠春の呆れにも似た冷ややかな視線を受けて朗らかに微笑むと、隣にいる義親に目線を移した。
「しかし、そこの男は初めて見る顔だな。そこの御仁がどこぞの馬の骨かは知らないが、このような男を選ぶとはまったく惜しいことをするものだ」
「老中の水野様直々にお褒めにあずかるなんて実に光栄ですよ」
隣にいる忠春は今にでも飛びかかろうと身を屈めて忠成の目を見据えるが、義親がゆっくりと頭を下げるとその動きを止めた。
「皮肉のつもりか? まぁ好きにすればいい。しょぼくれた家にはしょぼくれた婿殿がお似合いだ」
「てめぇ、み、水野ぉっ!」
「遠山の倅よ、婚礼の酒席とはいえ現職老中に刀を向けるなんてことが許されるはずが無いだろ。大好きな父御の前で家を潰す気か?」
忠成はこれ以上ないぐらいに嬉しそうである。唇をかみしめる景元に向かって微笑みかけると足元に転がっていた膳を蹴りとばして言った。
「まったく揃いも揃ってつまらない連中だ。そもそも興ざめというのはこっちの台詞だ。こんな風に空気が澱んでしまうだなんて面白く無い。長居が過ぎたようだから私は失礼しよう。お二人もお幸せに。長く続くとは思えんがね」
高笑いを上げると部屋の外に控えていた小姓を連れて去って行った。廊下を大きく踏み鳴らす音が遠ざかってゆく。
「……あの野郎、何しに来やがったんだ?」
「嫌味を言いに来たんだろうよ。これではせっかくの席が台無しじゃ。家斉からの酒がまだ残ってるはずじゃ。清酒は鮮度が命。駄目になる前に飲みほしてやるぞ」
景晋はしゃがれ声で一通り愚痴り飛ばすと、縁側に置かれている大樽を盃で救いあげて一気に呷った。
それに続いて景元と衛栄も盃を手にして大樽へと歩み寄る。
そんなペースで大宴会が一時ほど続くと、参列者は皆酔いつぶれた。
残るは忠春と義親の二人。
忠成が最後に掃き残した言葉を忘れてしまうぐらいに幸福な時間を生きる忠春であったが、祝言で最も重要な儀式が残っていた。
○
愉快な仲間達は泥のように酔い潰れ、世間を騒がす怪奇の類いも眠ったであろう丑三つ時。
大岡屋敷の隣の部屋では顔を赤らめた二人の男女。
布団の上に真向かいに正座し合った忠春と義親は一時以上もこうやって顔を見合わすことなく向かいあっている。
「……」
「……」
宴会の最中は酒の勢いもあったからか愉快に語り合った二人だったが、素面に戻り置かれている状況を再確認してしまってからはたがいに言葉を発することもない。
文字通りの初夜に俯いたまま動くことも出来なかった。
「なんていうかその、忠春様……」
顔を赤らめていた義親であったが、今度は渋い顔をしている。恐る恐る忠春も顔を上げて反応した。
「ど、どうしたっていうのよ」
「足が痺れてしまって。とりあえず足を崩しませんか」
「な、なによ、そんなの適当に崩せばいいじゃない」
「流石に一時もこうしていたら痺れますよ。それにこの急拵です。忠春様もお疲れでしょう」
「……まぁそうね。蝋燭だって切れかかってるし」
二人で部屋に入った時は背筋を伸ばしていた蝋燭の明かりも、二人の気力と同期するように切れかかっている。
思えば長旅の後に休む間もなく婚礼の儀に取り掛かっていた。義親のしょうもない言葉を皮切りに二人はだらりとため息を吐いた。
「ずっとこんな話ばっかりしてると思うんだけどさ、まさかこんなことになるなんてね。全く思いもしなかったわ」
「本当にそう思います。私だってこうなるなんて思ってもみませんでした」
「上様に献策に来たと思いきや、あ、アンタと祝言だなんてさ」
忠春にはその一念が心持ちの大きな部分を占めていた。
来るであろう未曾有の大飢饉とその対策に、知らない所で動いていた有象無象の政治劇。それよりも昔馴染みとの祝言の方がよっぽど大きな問題に思えてしまっていた。
ただ、先ほどのしょうもない義親の言葉によって、忠春の心根はだいぶほだされていた。
「それにしてもこんな風にしてると昔を思い出すわ。こんな夜更けに西大平の神社に幽霊を退治するんだとか言って出掛けて行ったっけ」
「そんなこともありましたね。結局陣屋の塀を越そうとした時、親父に見つかってこっ酷く叱られましたっけ」
それから少しの間、忠春と義親は子供の頃の思い出話に花を咲かせた。
西大平で過ごしていた時は里山を駆け回り、川に行けば石打。今となっては大したことの無い広さの自領ではあるが、当時の忠春らにとっては世界の全てだっただろう。
江戸の屋敷に来てからは祖先の名奉行大岡越前に思いを馳せ、自身もそれだけ偉大な人になろうと躍起になっていた。それは今でも変わらない。
「……それがほんの10数年前になるんだ。恐ろしいぐらい時って経つのが早いのね」
「光陰矢のごとし。文字通りの意味ですね」
ほんの10年前の話。元服出来ないかと悩み苦しんだのが2年前。今では気が狂いそうなほどに忙しく、こうやって幼馴染みと布団の上で向かいあう。
人間五十年のうち一瞬に多くの事柄が凝縮している。そういうものなのかもしれないし、運が悪かったのかもしれないし、たまたま運がいいのかもしれない。忠春にその答えは出なかった。
「少し前に武士になりたくて思い煩ってたのが嘘みたい。今じゃ武士になんなきゃよかったなんて思えてくるし」
忠春はふと外を眺めた。中秋の名月でも拝めると思いきや、秋天の夜空は曇りがかって星空一つ見えない。
そんな真っ暗な秋空はどこか忠春自身の心持ちと似ていたらしい。空を眺めると深いため息をついた。
「先ほどから今日はやけに感傷的ですね。どうかなさったんですか」
「祝言ってさ、女の節目じゃない。なんかさ、不思議と回りが客観的に見られるというか、不思議と気分が落ち着いてるのよ」
「何言ってるんですか。さっきまで顔を赤くして俯いていたくせに」
苦笑する義親を見て忠春は再び顔を赤くした。
「う、うるさいわねっ、そりゃ緊張もしてたけどさ、なんていうか、気分は落ち着いてたのよ」
冷めた目で義親が見ている。忠春はそっぽを向いて声色を高くした。
「いや、ほんとだし、ほんとなんだから」
「別に疑っちゃいませんよ。忠春様がそう仰るならそうなんでしょうよ」
「それで話に戻るんだけどさ、なんていうか、人って死ぬ前に今まで生きた人生の走馬灯が見えるっていうじゃない? 今まさにそんな感じ。パァって見てたのよ」
「……祝言前にするたとえ話ですか」
「あくまでも例えよ例え。そんな中でさ、ふと思ったことがあるの」
忠春の言葉から冗談めいた声色は消える。
「なんでしょうか」
「ずっとアンタが私の側にいたのよ。西大平で遊びまわった時もそうだったし、父上に元服を断られた時もそうだったし、紆余曲折を経て南町奉行になった時もそうだった。初めての事件を解決した時もいたし、大阪に行った時もそうだった。それでこうやって二人でいるわけでしょ。ほんとに不思議な縁ね」
急に風が出て来た。夜空に掛かっていた薄雲ははるか東方に飛んでゆき、黄色い中秋の名月が顔を出した。
そんな名月の一筋の光が忠春に当たる。寒いはずの部屋がどこか温かくなった。
「まぁ、忠春様の傅役というか、そんなような役回りですからね」
「なんだ、私は感慨深く思ってたっていうのにアンタは結構冷めてるのね」
「いや、そう言う訳じゃないですよ。私だってそんなような走馬灯を見た際に真っ先に思い浮かぶのは忠春様でしょうし」
視線を逸らしながら義親が言うと、忠春は急にこっ恥ずかしくなったのか当てていた目線をすぐさま逸らした。
それから数分の間、両者の間に沈黙がやって来た。
再び聞こえる秋虫の合奏に、屋敷の奥から聞こえる衛栄のであろういびき声。
そんな爽やかかつ風情のまるでない下世話なこだまを引き裂いたのは義親だった。
「……とにかく私がすることは変わりませんよ。忠春様を支え、付き従い、お守りするだけですから」
途切れ途切れになりながら目線を合わせる義親。
同じように忠春も、途切れ途切れになりながら指と指をからませるように義親の手を強く握ると、言った。
「……だったら一生そうしなさい。私の許から勝手に離れることなんて許されないんだから。それこそ死罪よ。覚悟しなさい!」
何の重荷を背負わずに西大平の里山を駆け回った子供の頃のように微笑みあうと、
二人は唇を重ね合った。