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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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 本丸屋敷に生い茂る椛の赤が心地よく、大名小路に立ち並ぶ銀杏並木の黄色が心地よい江戸城の秋。

 贅を凝らした本丸御殿の最奥で将軍家斉に謁見している忠春は、将軍と一地方役人という身分の上下を忘れ去らせるほどの驚きに包まれていた。


「じょ、冗談でしょ?」

「わざわざここまで呼んで冗談もあるか。さっさと祝言をあげちまえって」


 上座から降りて忠春の横に付く家斉だったが、忠春のこわばった表情は一向に変わらない。


「いや、おかしいっての。なんでこの時期なのよ。それになんで私が祝言を挙げなきゃならないわけ?」

「おいおい、そんな反応は無いだろ。それともなんだ、好いた男でもいるのか」

「なんていうか、そう言う訳じゃ、む、むむぅ……」


 冗談混じりの家斉の言葉に威勢の良かった忠春が口ごもる。


「……周りにいる男か。ということはアレか、こいつか?」

「ええ、まさかの私ですか。二回り以上年下の忠春様に好かれるだなんて嬉しいのですが、私も所帯を持つ身なので」

「ち、ちがうわよっ! ていうか、なんで政憲が居るのよ! いや、そのさ……」


 家斉からの思いがけない言葉に驚きふと横を振り向くと、いつの間にか真横で微笑む政憲がいた。

 飛び跳ねた忠春はどぎまぎとしながら、つぎはぎのように言葉を紡いだ。


「……ま、まぁ、い、いないってことはないんだけど、参府してすぐに祝言だなんて急過ぎるでしょ」

「分からんでも無いがそんなに急か? 周りの同い年を見回せば祝言をあげていないほうが少ないだろ」

「んなことは私の知ったことじゃないの。 ……それに相手は誰なのよ。一応だけど大名家の娘なんだし、それなりに格がある相手じゃなきゃ納得出来ないわよ」


 焦る忠春の赤ら顔に、家斉はなるほどといいたそうに手を顎にやって頷いた。


「確かに道理だ。まあそうだよな。二十歳そこらではあるけど南町奉行所と大阪の町奉行を務める身だもんな。その辺の三下じゃ釣り合うはずもない」

「そういう話であれば水野一派に与していない大名を探しましょうか。なんなら私の倅でも構わない。いや、忠春様であれば私はありがたいほどだ。何一つ申すことなどございません」


 はぐらかそうとして出した自分の言葉が自分自身を苦しめていた。

 忠春はハッと一瞬だけ目を見開いて、すぐさましゅんとしてうつむいた。


「冗談だ。冗談だって。そんな顔するなよ。まぁ、この一件についてってのはな」


 という前口上の後、家斉は苦笑しながら喋り始めた。


「俺の知ったことではないのだが、老中主座を筆頭にした連中がお前の祝言について動いている。初耳だろ?」


 そのことは忠春にとってまさしく寝耳に水。突然冷水を浴びせかけられたかのように身を凍らせる話だった。


「そんなことになったって誰も得しないだろ。だから連中の一族とくっ付く前に俺たちでその話を潰してやろうってことだ」

「私も良く分からないままに冗談を述べていましたけど、上様にしては珍しく筋の通った話ですね。悪く無い提案だと思いますがどうでしょうか」


 突然の話で目を丸くしている忠春だったが、やろうとしていること自体については理解出来た。敵対する人物を自身らの派閥に取り込んでしまえば如何様にもなるということをしたいのだろうということは察せられる。

 強引ではあるものの、老中らがやろうとしている話は筋が通っている。


「要は私が適当な男と婚姻されると、反水野派が減っちゃうから祝言をあげろってことでしょ」

「さすがは当代一の御俊英だ。かいつまんで言えばそうだな。だからさっさと結ばれちまえ」

「だったらアンタがなんとかしなさいよ! なんで私がそんなつまらない政争の道具にされなきゃいけないの?」


 登城するたび、登城するたびに何度も、何度も家斉にからかわれた続けていた忠春に限界が来た。

 必死になって大阪のために働いている最中、分かるような分からないような理由で誰とも分からない男と祝言を上げなければならない。気にいらない相手だったとしても町人であれば三行半を下せばなんとでもなるものの、幕府の要職に就く忠春となれば話は別だ。

 これは家と家の問題であり、それなりの家格が相手の男となればどうしようもない。

 立身出世を望まない家風で育った忠春にとって耐えがたき事態であった。


「おいおい、将軍に向かってその口の効き方は無いだろ。これでも幕府で一番偉いんだぞ」

「だったらアンタが水野らをなんとかしなさいって。元はと言えばあんな連中をのさばらせた責任はアンタにあるんでしょ!」


 忠春は溜まりに溜まった不満を吹き出させる。

 この剣幕には家斉もたじろいで、顔を渋らせながら頬を指先で掻くしかなかった。


「……まぁ、ぐうの音も出ない正論だな。確かに忠成の専制を許してしまったのには俺に責任がある」


 過去にも老中に問題があれば将軍の一存で変えてきた事例はいくらでもある。

 それに、市中では「水の出て もとの田沼と なりにける そろそろと 柳に移る水の影」なんていう落首が流行ったりもしていた。

 要は水野忠成主導で田沼時代と変わらぬ金権政治がまかり通っている。


「だが悪い面ばかりじゃぁないだろ。ヤツが他の大名から巻き上げた金は全て町人に還元されている。だからこそ文化が発展したんだろ」

「ま、まぁそうだけど、他の大多数の武士は困ってるでしょ。能力のある人間が献金をしなかったからって就くべき職に就けないとかさ」


 旗本十万騎とも言われる徳川家臣団のうち、指先で摘む程度の人間しか要職に就けない。現状では賄賂が公然とまかり通っていて、何もかもが金銭で決まると言って差し支えない状況が数十年続いている。

 そんな魑魅魍魎を掻い潜って今の忠春がある。だからこそ忠春にはこの現状が許せなかったし、金で物事を解決しようとせずに白黒はっきり付けて来た。

 ただ、その言葉の奥底には、立身出世と縁遠かった自身の父の姿があった。


「確かにそうだ。そればかりは俺にはどうしようもない。ただな、本当に能力があれば金策なんて壁は易々と乗り越えるだろう。生憎だがそんな理由は努力を怠った人間の戯言だ。血筋でこの地位に立った人間が言うのもおこがましいがな」


 父が子に優しく問いかけるように家斉はゆっくりと答えた。

 言い返そうと家斉の目を見据える忠春だったが、その言葉にはしっかりとした理が立っている。忠春は眼を伏せて黙り込んだ。


「政は天秤だ。どちらか片一方に傾きすぎたらもう片一方に重心を傾けなければいけない。それが俺の仕事だと思っている」


 家斉はその場で立ち上がると元居た上座へのろのろと歩いて戻った。

 それからすぐに傍らに置かれていたいつぞやの大盃を一気に呷ってから喋り始める。


「俺も昔はお前みたいに先頭切って改革に乗り出そうとしたさ。だが、結果はお前も知っているだろう。厳格に取り締まれば取り締まるほど反発は強まっていったし改革が滞ってくる。それからすぐに定信は失脚だ。まぁ、俺と揉めたからなんだけどな」


 忠春自身はその大半は伝聞で知っていても、生まれる以前の話のため実情がどうという話は知らない。それを当事者である家斉自身が胸襟を大っ広げにして語っている。

 それに、家斉という男はこの期に及んで適当な嘘をつく人間でも無いと忠春は信じている。だからこそ忠春は家斉の言葉を素直に聞いていた。

 赤い盃の中身を一滴残らず飲み干すと、家斉はため息交じりに呟いた。


「今の状況は片方に傾きすぎたってことさ。だからこそ早いうちに手を打たなければならない。忠春よ、俺に手を貸してくれないか」


 家斉の屈託無い笑みと共に威厳ある征夷大将軍姿を見せられてしまった忠春は頷くしかなかった。


「……分かったわよ。祝言をあげればいいんでしょ。それで誰よ」


 頭を縦に振ったのは”諦め”や”仕方無い”とかそういう理由では無い。ましてや”幕府のため”や”家のため”という訳でも無い。

 ただ純粋に家斉という将軍の人柄に惚れていたからで、忠春自身が素直に納得したからであった。


「上様、その男を私に推薦させてもらえませんか。一人だけ良い人材がおりますので」

「お前の倅か。なんて言ったっけな。どっかに養子に出すとか言って無かったか?」

「いえ、違いますよ。上様はご存知じゃないかもしれませんが、水野一派の陰謀を潰すのに加えて忠春様の幸せを最大限追求できる男がおります」


 政憲のいじらしい視線を受けた忠春は何かを察せられた。


「そ、それってもしかして……」

「そうです。義親殿でよろしいでしょう。彼のみがこの一件を万事解決へと導く唯一の男と言っても過言ではありません」

「……誰だそれ」


 下座に座る政憲と忠春の視線の飛ばしあいに家斉が呆れたように目線を送って呟いた。


「大岡家筆頭家老の嫡子です。昔から忠春様の傅役として側に付き従っておりました。忠春様が好いている男というのも彼です」


 政憲の朗らかな言葉に、忠春の顔は見ごろの紅葉よりも顔を赤くさせて俯いたまま動かない。

 それが答えと言ってもよかったかもしれない。ここで家斉も事の次第を理解した。


「なるほど。そりゃ悪く無いな。いや、何より面白い。なかなかいいじゃないか。どうだ忠春、家柄に不満だったら適当な旗本の養子にしてからでもいいぞ。なんなら俺が養子に迎えたっていい」

「いや、そんなことはありません、むしろ望んでもないような……」

「だったら決まりだな。忠移に伝えろ。明日祝言をあげるってな」

「明日は早すぎでしょうせめて来週ぐらいにしましょう。急な話なので忠移も卒倒するのでは」

「いいじゃないか。善は急げって言うだろ。コイツの気が変わらないうちにとっとと済ましちまえばいいんだよ」

「それなら私が差配を……」


 今度は家斉と政憲との間で数多くの言葉が交わされるようになった。祝言の内容・段取りなどなど。

 明日以降に訪れるであろう様々な緊張と高鳴る心臓の鼓動で、顔を赤らめるばかりの忠春はそのやり取りを無言で見つめていた。




 結局、忠春の祝言は登城の日から二週後に決まった。


「……まさか、本当にこうなっちゃうなんてね」


 普段の武家装束とま逆の花嫁姿の忠春は言葉を詰まらせる日々を送っていた。

 手にしているのは大阪で用意していた献策ではなく、礼状の束と祝いの言葉。頭の中に詰め込まれていたものが、文字通りに何もかもが消し飛んだ。


「はつ、なかなか似合ってるわよ。やっと一端の女になるのね」


 白地に鶴と梅の花があしらわれた白無垢姿で縁側に立ちすくむ忠春に、母みつが寄り添っていた。


「こ、こういう際、私はどのようにふるまえば良いのでしょうか」

「しかし、嫁ぐ時にそんな風に私もしてたのかな。残念だけどなんにも覚えてないのよ」


 素っ気なく笑うみつの姿に忠春の顔が曇った。


「こんな事になるんだったら武芸だけじゃなくて花嫁修業でもさせるべきだったかしらね。今となっては何もかもが手遅れだけれど」

「は、母上ぇ……」

「普通にしていればいいわよ。なんかあったら仲人の筒井殿がなんとかしてくれるでしょ」


 仲人には筒井政憲。後に聞いた話では家斉が立候補したらしいが、「色々と面倒なので勘弁して下さい」という政憲の強い反対によって話が立ち消えとなったという。


「確かに心強い限りではありますが、私自身、初めて体験するものですから」

「そりゃぁそうでしょうよ。毅然と振舞っていればなんとかなるものよ。ほら、日も暮れて来たし後はがんばってね」


 みつの指差した先にはさっぱりとした秋晴れの夕空に赤富士が映えている。

 祝言は夕暮れに上げるのが相場なので、これから一時も経たないうちに式が始まるだろう。

 この日に至るまでに結納・引き出物、その他諸々のしきたりは政憲らの手によってこなされていた。

 残すは婚礼式のみ。普段から慣れ親しんでいる忠春と義親の両名が正式な夫婦となる一歩目の作業のみである。

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