想像以上
半年振りに忠春は江戸へ帰って来た。
心にまで染みついた屋敷の匂いに、いつ見ても変わり映えのしない軒先の桜の木。大阪でも風を吹かし続けると誓ったのが昨日のことのように思い出させられる。あの日に見た桜木の幹は腐ることなく黄色い葉を見せていた。
昨年の今頃は勘定奉行遠山景晋の依頼で放蕩息子、遠山景元の更生を手伝っていた。思えば時が経つのは早いと、久方ぶりに屋敷を見て忠春はしみじみと思っている。
「うん、よく帰って来たな。とりあえずゆっくりするといい」
最初に出迎えたのは父忠移であった。朗らかに微笑むと、愛娘忠春の肩に手をゆっくりと置いた。
「……と、言ってやりたいが忠春目的の客人が多くてな。政憲がお前を待ってるぞ」
「政憲というと、筒井の政憲ですか?」
「その政憲だ。積もる話もあるだろう。私も少ししたら合流させてもらうよ」
忠春が驚いたように目を見開かせると、忠移は再度微笑みながら屋敷の奥へと下がった。
それから久方ぶりの屋敷に心を躍らせつつ広間にやって来ると、懐かしい見知った顔がある。
「いやぁ、お久しぶりですね忠春様。江戸を発たれてから半年ほどになりますか」
筒井政憲はいつか見たように書物を広げながら優雅に座っている。
現職江戸南町奉行の胡散臭い柔和な笑みを見るのも久し振りの出来ごとであった。
「久しぶりね政憲。江戸で元気にやってるの?」
「なんとかやってますよ。年寄には真夏の暑さは堪えましたけどね」
忠春にとって痛い所を平然と突いてくるのも相変わらずだ。
眉をひそめる忠春を見つめると、政憲は優雅に微笑んでいた。
「ちなみに今のは嫌味でも何でもありません。私も歳なのでそろそろガタが来るころなんですよ。しかし、長年大阪で勤めていた高井殿が病気で倒れられるとは。忠春様もご災難でしたね」
「災難も災難よ。それで、向こうでの事情はある程度把握してるんでしょ?」
「まぁ、それなりにですけどね」
政憲は目を細めて口角を上げる。この男の準備の良さというのも、忠春は久しぶりに見たような気がした。
「奈良奉行所や新光門の一件については江戸でも話題になりました。幕閣の評判はかなり良かった」
忠春は政憲が使った「良かった」という過去形が気になったものの口を噤んで続く言葉を待っていた。
ただ、そんな釈然としない表情が忠春の顔に出ていたらしい。政憲は先んじて事の次第に触れる。
「確かに良かったんですよ。本当にね。しかし、弓削某の一件は幕府首脳の心胆を冷えさせたようですね」
「……弓削は裏で江戸と繋がっていたの」
「そう見るのが正しいでしょう。でなければ無尽程度のことで府内・西条の二藩を処分するはずが無い。いわば見せしめ。中央を守るために二藩を処分したのでしょう」
あれだけの大仕掛けを長年続けるには背後に何かがあったとしか考えられない。弓削が不当に得ていた多額の金は江戸へと流されていたということだろう。
今思えばだが、将軍家斉もそのことを知っていたからこそ、幕府中枢に何のしがらみもない忠春を大阪によこしたのかもしれない。
「それと忠春様、昔会った大久保忠真をお覚えですか?」
忠真とは、現職老中である小田原藩主の大久保忠真の事を言っている。忠春も即座に頭の切れそうな若旦那顔を思い出した。
「彼と何度か話して知ったんですが、一部の老中は忠春様を罷免せよ、なんて言っていたらしいですよ。仲間を売るヤツに幕府は任せられないとかなんとかでね」
「わ、私がクビに?」
「あくまでそんな話になったってだけです。忠真がなんとか押しとどめたとか言っていましたけど、とにかく今は評判がすこぶる悪い。それは変えられない事実でしょう」
忠春に知らされたのは予想以上の内容だった。
親藩大名二藩の処分に繋がる報告書を出したことで心象が下がるというのはある程度予想していたものの、自身の処分が関わるとまでは思っても見なかった。
それだけに忠春の顔は青ざめた。そんな顔を眺めてにこやかにしている政憲は言葉を続けた。
「それともう一つだけ。件の報告書についてです」
忠春は眉を顰めて渋面のまま言った。
「聞いてくると思ったわ。ほら、さっさとなんでも言ってみて」
「私も機会があって読まさせてもらったんですが、実にらしくありませんね。高井殿を見逃すようなことをされるだなんてどういう風の吹き回しですか?」
「高井実徳が弓削の一件を知っているいないなんてのは大筋に関係ないわ。余計な情報を与えて混乱をもたらしたく無かったの。それだけよ」
その答えに政憲は「なるほど。確かにそうかもしれませんね」と言葉を呟きながらゆっくりと頷いた。
「それでは弓削某についてです。私の見立てでは実行犯は弓削だと思うのですが、これを書かなかったというのも……」
「本人が口を割る前に死んだんだから事実は闇の中。事実関係を知らせなきゃいけないのに私の推論を送ったって意味なんて無いでしょ。だから書かなかったのよ」
「論理的な意見だ。それでしたら報告書について私が口を挟む理由はございません」
「そういうこと。真っ当な理由があってこうしたの。誰にも文句は言わせないわ」
忠春は堂々としていた。自分自身の判断に関しては揺るぎが無い。
それでも政憲は柔和に微笑みながら言葉を紡いだ。
「しかし忠春様らしくないのは変え難い事実であり、私の率直な感想です。きっと義親君や衛栄もそう思ったことでしょう」
「別にいいでしょ。他の連中が何と言おうが私自身がが下した決断に後悔は無いの。これだけは絶対に変わらないんだから」
忠春の言葉の調子が荒くなった。政憲は仕方なさそうに肩をすくませると言葉を続けた。
「……仰る通りです。下された決断に外からとやかく言うのはよろしくないかもしれませんね」
「それで何の用なのよ。私は早く家でゆっくりとくつろぎたいんだけどさ」
忠春は露骨に視線を強めた。笑みを崩さずに政憲は言う。
「これで用事の半分は済みました。もう一つは参府についてです」
何が来るのかと構えていた忠春だったが、拍子抜けしたように肩をすくめると柔らかな口調で答えた。
「分かってるわよ。未曾有の大飢饉についてでしょ。とにかく蔵屋敷で眠ってる蔵米を放出してもらうべく動いてるわ」
「それなら安心です。しかし、本当に大丈夫なのでしょうか」
しかし、忠春の自信に満ちた言葉に政憲は水を差した。忠春の顔が陰る。
「簡単な話です。私も驚いたのですが、高井殿の後任に忠邦の実弟である跡部良弼が就任しました。どう考えたって幕政が滞りなく進むとは思えない」
忠春と忠邦が敵対している以上、水野一派であり忠邦の実弟である男が空席となった東町奉行に理由もなく就任するはずもない。
城代が真っ当な理由を並べたところでその裏には別の理由があるに決まっている。
それは政敵である忠春への妨害工作だ。
「んなことぐらい百も承知よ。この一件に関してだけは私が主導権を握ってるから大丈夫だと思うわ」
「それならよいのですがね。しかし、今回の参府というのもはっきりいって不可思議な話ですよ」
鼻で笑っていた忠春も首を傾げた。政憲が言葉を続ける。
「飢饉について聞きたいのであれば書状でも寄こさせればいい。飢饉なんぞは我々も過去に何度も経験しているのだからそんなに重大に考える必要は無いと思うのですが」
政憲の言う通り幕府は大飢饉を幾度も経験してきて、その度に何とか乗り越えてきている。
そういう経緯もあって、飢饉の際にするべきことはほとんど分かり切っているので特別何かが必要という訳でも無い。
「でも今回のは過去の事例とは比べ物にならないと思う。だから大阪江戸が一体となって……」
「そうだといいんですけどね。実を言うと、私は上様からこの件について相談されたことが無い」
「この件って、飢饉についてってこと? アンタって意外と信頼されていないのね」
「いいえ、忠春様の参府についてです」
「いやいやいや、政憲は上様とご学友で昵懇の間柄なんでしょ。単にアンタが年だから忘れてるだけなんじゃないの?」
忠春は話にならないと言いたそうに肩をすくめた。政憲は柔和に微笑むも、その奥底には激しさをチラつかせている。
「冗談を言っている場合ではありません。こうやって忠春様と会うなんてことはまさしく寝耳に水の事態ですから。知っていればこうやって親子水入らずの所に入ろうだなんて思いませんし」
確かに書状には『江戸へ来い』としか書かれていなかった。置かれている状況からしてどのような要件かは察しがついたが、それが本当に合っているという確証もない。
「……そう言われると不思議な話ね。書状は本物に違いないと思うけど、内容は話したいことがあるぐらいとしか聞いていないし」
「やはりそうでしたか。そうなるとやはり、この参府には何か陰謀が絡んでいるかもしれません。色々とを気を付けた方が良いでしょう」
ここに来て政憲がやって来た真意を察した。忠春は素直に深々と頭を下げた。
「ありがとう。私も久しぶりの自宅で感を鈍らせてたみたい。気を付けてみるわ」
「私の思い過ぎというだけなのかもしれません。しかし、用心に越したことは無いですよ」
政憲も同じように頭を下げると屋敷を出て行った。
休む間もないのかとドッと疲れがのしかかって来た忠春ではあったが、懐かしい顔ぶれを見たこともあってその顔は自然に緩んでいた。
○
翌日、城中に出仕した忠春は見慣れない顔の取次役に広間前に通されて数分後、将軍徳川家斉に謁見した。
「久しぶりだな忠春。向こうで色々とあったろうが元気そうで何よりだ」
珍しく家斉は真っ当な格好でいた。大阪行きを申しつけられたあの時のように、威厳のある将軍姿である。
「大阪行きを告げてからもう半年になるのか。久方ぶりの江戸はどうだ」
「率直に懐かしい。それだけでございます」
ここ最近の忠春にとって江戸は話に聞いていたものでしかなかったが、こうやって実際に見廻った江戸の風景は変わり映えしていない。
懐かしいと言っても半年ほどではあるが、気風の全く違う町大阪に住んでいた忠春にとってその半年間というのは自身の半生で最も長い半年間と言っても差し支えない。
それに、大阪に行くまでは江戸こそが日の本で最も華やかな町だと思っていた。しかし、現実は違った。
生き馬の目を抜く商人たちの気忙しさ、それを超えるほどの市井に住まう人々にまとわりつく活力。それらは江戸で味わえないものである。
「しかしまぁ、戻ってきてすぐに呼びだして申し訳ないな。とにかくすぐに通さなければならない話があってな」
「……飢饉のことでございますか」
「ああ。飢饉に関してもそうなんだが、もう一つだけ重要なことがある」
飢饉が最重要事項では無いということは、昨日政憲が言っていた通りであった。
ついに本題が来たかと忠春は身構えた。家斉が口を開く。
「忠春よ、そろそろ祝言をあげないか」
「……はぁ?」
思いがけない家斉の言葉に忠春は絶句した。