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女奉行捕物帖  作者: 浅井
別れの旋風
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そして時は動きだす

 秋。

 茹だるような夏の日差しは九月の中ほどで収まり、心地よく紅葉を楽しめる季節がやって来た。天神筋で酒とツマミを買い占めて、西国街道を箕面の方までまかり出るのも一興かもしれない。


「はぁ? 何抜かしとんねん抜け作が! こんなしょうもない仕事なんかしとる暇があったら罪人の一人でもしょっぴいた方が町のためになるやろ!」

「誰が抜け作じゃボケナス。今までしょうもない小銭稼ぎやっとたんやろ? その調子で大名連中から搾り取って来いや!」


 と、本来であればそうなるはずだったが、現実はそうもいっていられない。

 奉行所らが以前から立てていた予想は的中し、穀物の取れ高は史上最低を記録。

 大阪は元より、日の本中で前例のない大飢饉が発生していた。

 目の前で繰り広げられている怒号の応酬は、月例となっている東西奉行所合同の詮議の場での一幕である。

 若い与力たちが罵声とさして変わらない口調で議論を戦わせ、その度に忠春らが仲裁に入るといったもので、東町奉行であった高井実徳が居なくなってからの詮議はその体をなさなくなりつつあった。


「……なんにせよなんとか諸大名から蔵米放出の約定を取り付けられましたが、これじゃ焼け石に水や。無理強いするだけ藩の体力は落ちますよ」


 血が上った与力をたしなめるようにそう言ったのは朝岡という東町奉行所の与力だった。

 そもそも大飢饉は日の本中で起きた事案であり大阪だけの問題では無い。

 収穫した穀物を大阪に供出させるということは、藩内での放出量が落ちると言うことなので、収穫が目減りしている諸大名の体力を削ぎ落とすというのも事実だった。

 それでも西町奉行所与力の大塩平八郎は挫けない。すぐさま朝岡に詰め寄って言葉をぶつけた。


「何を言うか。一俵でも多くの米俵を集めることで何人も救われるんだぞ。それの何が無駄だと言うんだ」

「無駄とは言っとらん。ただ、他の藩が賛同したのは西条と府内が別件で処分されたからやろ。脅しみたいな真似してしょうもない量もらうんやったら、それをそれぞれの藩で回したほうがマシやって話や」


 夏の盛りに忠春らが回った時は芳しく無い返事を送っていた西国の諸大名であったが、弓削の自殺と府内藩・西条藩の処分によって些少ではあるが蔵米放出に協力する藩が出て来た。

 と、いっても大した量では無い。

 西国の十数藩分を合わせたところで、助けられるのは飢饉で被害を受ける人間の1割にも満たないという奉行所内の試算もあった。


「そんなことは与力の私が知ったことではない。とにかく一人でも多くの町人を救うべきだ。それが大阪町奉行所のやるべき仕事であろう」

「お前さんはアレか、手前らの目に届く範囲で救われればええんか? それやったら他の所はどうでもええんか? 強請り獲られた諸藩の百姓は野垂れ死んでもええってことか?」

「それは詭弁だ。今は自分たちの出来ることを考えるべきであって、わざわざ他のことに手を出すべきではない。だからこそもらった蔵米を使った方が良いに決まっている」


 朝岡は「抜かせ、抜かせ」と小さく鼻を鳴らして呟くと、平八郎の両目をしっかりと見据えて言い放った。


「平八郎はん、その割にワシら東町奉行所の仕事振りにケチつけとったよなぁ。お前さんのほうこそ他の事に手を出すべきやないやろ!」


 東町奉行所の西町奉行所に対する感情は最悪と言ってもいい。

 ひと月ほど前に東町奉行所の第二席とも言える与力が平八郎の告発によってクビにされた。それだけに、西町奉行所の人間に対して根に持つこと自体は当然と言えば当然かもしれない。

 ただ、そんな感情が邪魔をして、ちょっと前であればすんなり受け入れられていたであろう事柄であっても東町奉行所が難癖を付けて反対する。

 これでは議論が進むことは無いし、与力同士の話し合いでは決着がつかなかった。


「……それでどうなんですか忠春様。連中はああ言っていますがどのようなお考えで?」


 しかめっ面の平八郎だけではない。合議に参加した西町奉行所与力の視線は当然のように上座に座る忠春へと向けられた。

 忠春自身もこの膠着状態には痛いほどに困っている上に、ここまで非協力的になるとは思っても見なかった。

 それだけ弓削という男が東町奉行所内で影響力が強かったということになるし、東町奉行所自体が腐敗しきっているという象徴でもあった。


「理由はどうあれ、諸大名が協力してくれるって言っているんだからその通りにしましょう。そうでしょ、良弼殿」

「まぁいいんじゃないか? 城代だって両町奉行に任せるって言ってたんだったらその通りにすべきだろ」


 そんな腐敗の主であった高井実徳の後任には、堺町奉行の跡部良弼が就任した。

 この秋口になって着任してから一月ほど。東町奉行所月番の九月が過ぎようとしていたが、傍から見ていても無難に職務をこなしていた。


「それに俺は東町奉行になって一月も経ってない。それより前から動いていた忠春殿が意志決定すべきだ。それが道理ってもんだろ」


 水野忠邦一派である良弼は忠春らの行動を妨害してくるものだと思っていただけに、忠春を筆頭にした西町奉行所の面々は拍子抜けしていた。

 そんな与力達をしり目に忠春は表情を変えずに答えた。


「とにかくそういうことだから。東西奉行所は諸大名との調整をするの。一粒でも多くの蔵米を供出してもらいましょう」

「そういうことだ。お前たち、場をし切ってる大岡様のお達しだ。しっかり従おうじゃないか」


 忠春と良弼の言葉に、不満顔だった朝岡ら東町奉行所与力はゆっくりと頷いた。ただ、そんな素振りを見せただけで目は全く同意していない。

 東西奉行所の不仲・意志の不一致でこの大飢饉を乗り切れるはずもない。事実、大波乱はすぐそこまで迫っていたが、狭い一室に集った東西奉行所の与力らにそのようなことを知る術など持ち合わせていなかった。





「ったく、良弼はいけ好かない野郎だな。忠春様に協力しているものの、何か含んだような言い方をしやがる」


 内与力の根岸衛栄と小峰義親は向かいあって話を続ける。

 奉行所内にある忠春の私室に集まると、毎度のようにこの話をしていた。

 町奉行の席に座られた時点で諦めなければならない話だが、事の成り行きが成り行きなので衛栄も愚痴をこぼしたくもなった。


「でもいいじゃないですか。とりあえずは我々主導で事を動かすことができます。大飢饉も乗り切れるのでは?」


 やさぐれている衛栄を宥めるように義親が言った。しかし、その言葉が逆に火を付けてしまった。


「飢饉なんてものはそんなに甘いものじゃない。まだ暖かくて、少ないながらも収穫があった9月10月は大したことは無いが、米櫃が空になりそうな1月2月は地獄だぞ。前の飢饉では北の方じゃ数十万て人が死んだそうだからな」

「……確かに地獄と言っても差し支えない。我々も安穏とはしていられませんね。しかし衛栄殿はお詳しいのですね」

「爺さんが勘定奉行だったからな。ガキの頃に色々と教わったんだよ。ったく、活かしたくないことばかり活かす羽目になるなんてな。ったく、与力っていうのは因果が仕事だよ!」


 衛栄の言う通り、飢饉が酷くなるのはこれからで今は序の口でしかない。

 忠春は内与力二人の会話を流し聞いていると若い同心が書状を携えて駆け足でやって来た。


「忠春様、幕府より書状が届いております」

「ごくろうさま。下がっていいわよ」


 封は豪勢。分厚い西ノ内紙には金字の透かしが入っている。表面には葵紋。将軍徳川家斉からのものだった。


「上様からの書状よ。 ……豪奢趣味は相変わらずね」


 小刀で丁寧に封を切ると書状が出て来た。

 折りたたまれた書状を机一杯に広げて黙読した。


――十月中に参府しろ。相談事が数点ある。


 書かれた内容を簡潔に表すとこうだった。


「上様直々に江戸に戻れとの命令ですか。と、いうことは……」

「そりゃぁ、この時期にこんな指示が下されるんだからアレだろうよ」


 横にいた義親と衛栄は共に言う。

 この機会にこの内容ということは、忠春が参府して聞かれる内容については大方予想が付く。


「まず一つは大飢饉について。これは江戸も安穏としていられないしね。もう一つは……」

「新任の東町奉行跡部良弼についてでしょうか。忠春様は江戸にもどられるんですね」


 涼やかな表情の平八郎は静かに襖を開いてやって来ていたらしい。突然の声に忠春は腰を浮かした。


「うわっ、急にどうしたの」

「何を仰るんですか。ここに呼び出したのは忠春様でしょう」

「そういえばそうだったわね。それで平八郎、あなたに頼みたいことがあるの」


 忠春の言葉に平八郎は首を傾げる。


「出張で勉学を教えて回って欲しいのよ。主に近隣の村々をさ。簡単に言えば昌平坂みたいな感じかな」

「私が教師になるのですか」

「平八郎自身が教えて廻ってもいいし、目星のついてる学者を差配するのでもいいわ」

「しかし何を教えればいいのでしょうか。百姓に朱子学や天文などを教えても意味が無いと思うのですが」

「そんな高尚なものじゃなくて読み書きとか簡単な算法でいいからさ。分かるのと分からないのじゃ暮らし振りも変わってくるでしょ」


 純粋な飢饉になれば仕事や食料を求めて市街地に人がどっと集まるのは想像が付く。

 そうなった場合、全く学の無い者が集まるよりかは、多少の読み書きや算法が出来ていれば話が違ってくる。活用のし甲斐もあるだろう。という忠春の策であった。

 平八郎もなるほどと首を縦に動かすと言葉を放った。


「承知いたしました。別に構いませんが、私一人では手が足りないのですが」

「それならほら、アンタの同僚に瀬田って若い与力がいたでしょ。アレもそれなりに頭いい男だから使ってちょうだい。そのうち義親とか衛栄も使わせるからさ」

「忠春様、お呼びでございますか」


 忠春が名前を出したとほぼ同時に瀬田済之助がやって来た。

 齢は25。済之助は学者肌の頭が切れる色白な男で、主に土木関係を司る御普請役与力を務めているから上方各地に顔が効いた。だからこその人選だった。


「前にも伝えた通りなんだけど、上方各地の農村に勉学を教えてほしいの。それは……」

「……食いっぱぐれの農民にも真っ当な職についてもらうためにやるのですね。なかなか面白い案だと思います」


 忠春が説明する前に当たり前のことを平然と話すように済之助は諳んじて見せた。

 その利発さに義親と衛栄は目を丸くさせ、忠春は満足そうに微笑んだ。


「説明するまでも無かったわね。そういうことだからさ、二人で協力して事に当たってね」


 平八郎と済之助は深々と頭を下げた。


「こんな男が眠っていたなんて大阪も捨てたもんじゃないな。忠春様、我々は江戸へ帰る準備を致しますので」


 衛栄と義親はゆっくりと立ち上がると部屋を出て行った。


「それと平八郎、留守中の事をよろしくね。まぁ、居ないのは一月ほどだろうからそんなに難しいことなんてなさそうだけど」

「承りました。済之助らとともに奉行所を切り盛りいたします」


 再度、平八郎らは平伏する。忠春は満足そうに微笑むと廊下へと出て行った。

 開いた襖から見えた庭先には背の高いススキの群れで、風に吹かれると房と房が擦れ合ってサラサラと音がした。秋の静けさを取り戻した奉行所の一室で、済之助は首を左右に振って辺りを見回すと、声色を数段落として平八郎に近づいていった。


「……どうする平八郎、まさかこんな役を仰せつかるとはな。事がうまく運び過ぎて怖いぐらいだぞ」


 鼻先と鼻先が触れあうほどの至近距離。顔を紅潮させ、身を震わせながら冷や汗を流す済之助を目の前にしても平八郎は平然と答える。


「そんなことは知ったことか。とにかく大義名分は揃った。身内を村々に派遣しろ。私たちでしっかりと勉学というものを教えてやろうじゃないか」


 大飢饉が訪れかけている文政四年の秋。止まっていた時が動き出そうとしていた。

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