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女奉行捕物帖  作者: 浅井
後の祭り
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後の祭り


「祭りの後はこうなるけどやっぱ寂しいなぁ。なんちゅうか、あの熱狂ぶりが夢のように思えてくるな」


 黒い影が長くなる夕焼け時、天満橋の中ほどで足早く歩く又兵衛がポツリと呟いた。

 祭りを楽しむ人で溢れかえっていた天満橋も人通りは絶え、品物を山のように抱える行商の焦り声が響き渡るだけだった。

 耳聡い町人は今度やってくる飢饉を知っているのかもしれない。


「又兵衛、要らんこと言わんでさっさと進め」

「わかっとるって。少しは浸ってもええやろ。なんたって祭りの後なんやし」


 平八郎を筆頭とする西町奉行所10名ほどは淀川を渡って北天満へと足を進めていた。

 いつもであれば平八郎が又兵衛らに小言をぶつける所だが、先頭をひた走る平八郎の顔はいつになく固く、真剣であり、重たくもあった。


「……しかしデクさんよ、本当にええんか。相手は東町の与力やで。ワシらが動いてどうにかなるんか」

「……分からん。せやけど、ワシは一度救ってもらっとる身や。とにかく付いていくほかに無い」


 与力達の詮議が行われていた際、同心達は即座に対応できるようにの詰所で待機していた。

 そして、平八郎がやって来て連れ出されてここにいる。

 他の与力の組下にいた同心達も突然の命令に驚いた様子で、奉行所内ですれ違った与力らはどこか憐れむような目線を主税らに送っていた。


「ただの世迷い言や。とにかく分かっとる。デクさんの言う通り行くしかないなんてことは分かっとるって」


 弓削の屋敷は北天満の淀川沿いにあった。

 いつもであれば対岸には緑いっぱいの稲が穂を実のらせ始める頃合いだが、今年の稲原は直立不動。祭りの賑わいはそんな現実から目を背けるためだったのかもしれない。


「平八郎様、ほんまにええんですか」


 主税は顔を強張らせながら言った。

 鉢金や帷子を着込んだ全員がそんな顔をしている。


「……問題は無い。行くぞ」


 平八郎の言葉と共に足を踏み入れるも反応は無い。

 弓削の家人が突然の襲来に驚いて出迎えて来たということもなく、平八郎らは淡々と部屋の捜索を続けた。


「へ、平八郎様! アレをご覧ください!」


 連れ出した同心の一人が奥の一室で大きく叫んだ。


「……くそっ、一足遅かったか」


 部屋に一歩入った平八郎は手にした鉄鞭を畳にたたきつける。

 事件の当事者である弓削新左衛門は首を括って死んでいた。

 弓削の遺体はまだ冷めきっていない上、ぶよぶよとまだ柔らかかったのを見ると本当に少しの差だったのだろう。

 捕らえた後、洗いざらい吐かせようと思っていただけに平八郎は余計に悔しかった。


「文書の類いを見つけろ。捨て書きでも覚書でもなんでもいい、とにかく見つけ出すんだ!」


 叩きつけた鉄鞭を拾うと、屋敷に散らばった同心達にそう言い触れまわっていた時だった。


「へ、平ちゃん……」


 庭先で声がした。

 急いでその元に駆け寄ると、呆然と庭の一角を見つめる同心がいた。


「……全て燃やされたか」


 残っていたのは燃えカスだった。切れ端から察するに文書の類いらしい。平八郎はその場に屈んで消し炭となった黒い塊に手を当ててみると、まだ温かく熱を持っていた。平八郎らの到着は本当に寸での差だったのだろう。

 烈火のごとく怒るのかと同心達は身をよじらせた。しかし、平八郎は荒れずに焼け跡をまじまじと見つめながら呟いていた。


「そもそもなぜだ。なぜ弓削は我々が捜査している事を知ったと言うのだ」


 振り返る平八郎の鋭い視線を当てられた三郎は首を傾げながら答えた。


「そ、そりゃ、橘屋が入っていた株仲間に接触したからやろ」

「他にも八重介のカミさんも拉致されたしな。無尽に参加しとった藩の指示って話やけどその裏に弓削がいてもおかしく無いわ」

「最後の最後には株仲間の連中が連れてかれたからな。月番やない西町奉行所が大きく動いたんやからなんとなく察したんやろうな」


 弓削の遺体から遺書のようなものも残されておらず、命を絶った理由を知ろうにも平八郎らが想像するしか術は無い。

 とはいえ、この時期に自ら命を絶ったということは無尽絡みと考えるのが筋だろう。中庭に集う同心達は思い思いに語っていたが、こんな論調が場の大半を占めていた。

 そんな中でだ。膝を屈めて小さくつぶやいていた平八郎が言い放つ。


「私は違うと思う。誰かが情報を東町奉行所に流したんじゃないのか?」


 平八郎の言葉に同心達は戦慄した。

 顔を青くして見つめ合うのも関係無しに、なんてことない顔の平八郎は大まじめに語り出す。


「まず、この一件が明るみになって困る人間、それは一人しかいないだろう」

「東町奉行の高井様ですか」

「……違う。西町奉行の大岡忠春、アイツしかいない」


 同心達は再度肝を冷やさせられた。

 三郎が肩をすくめると又兵衛が続いた。


「いやいや、平ちゃん、んなはずないやないですか。わざわざ捕らえる相手の情報を漏らしますか? んなことして何になるんですか」

「こんなのは少し考えれば分かることだったんだ。町奉行の大岡は政治的な配慮でここにやって来たと見るのが正しいだろう。きっと水野忠邦のお目付けだ。だからこそ長く疎遠だった東西奉行所が交流をし出し、共同で捜査に当たることになったのだろう。町奉行同士で組んでいる間は城代も好き勝手は出来なくなるからな。しかし、今回の弓削の一件は東西合作における極めて重大な懸案事項となったはずだ」

「忠春様が来た訳は確かにそうかもしれへん。せやけど、んなことする必要はあらへんって」

「そうなると、着任早々から奈良奉行所に手を付けたのは彼の奉行所を自身の勢力下に置きたかったからか。そして、協力関係にある東町奉行の更迭を最も恐れているのは一人しかいない」


 平八郎の言葉を笑い飛ばそうとするにも的外れという訳でもない上、かといって内容が内容なので肯定のしようが無い。

 それだけに同心達もどう反応すればいいのか判断に困ってしまい、黙って聞いているしかなかった。


「こんな簡単なこと、なぜ気が付かなかったのだろう。だとすればあの髭男が頑なに弓削逮捕を拒んだ理由も簡単に分かるではないか。私はなんて抜けているんだろう」


 刺すような日差しの中で立ちすくむしか無かった同心達だったが、唯一、主税のみが平八郎に対して口を開いた。


「んなアホなことがありますか。他の連中は知らんけどワシは信じられません。忠春様が大阪に来たん訳は確かにそうかもしれへんけど、だからといって東町の行跡を見過ごすとは思えへん」

「主税が信じたくないのであれば好きにすればいい。これは私の考えで合ってお前たちに強制するつもりなどさらさらない。とにかく、この一件についてを幕府に送る文書は町奉行がしたためるというからな。その内容を見れば簡単に分かるだろう。奉行所に戻るぞ。忠春様に事の真相を問いたださなければならない」


 動揺する同心を残して平八郎は颯爽と去った。その小さな背中には嫌味一つない。純粋に自身の意見を信じ切っている様子で、肩で風を切る様は大海に漕ぎだそうとする帆船のように雄大だ。

 同心達は肩をすくめて顔を見合わせると、ため息交じりに落とした弓削の遺体を拾い上げて平八郎の背中を追って行った。





 衛栄がまとめた幕府への報告書を簡潔にまとめるとこうだ。


 一つ、東町奉行所の与力弓削新左衛門が胴元となって無尽を企画して暴利を貪っていた。

 一つ、その無尽には数多の上方大名が参加しており、更には幕府の官僚も関わっている可能性が高い。

 一つ、無尽から足抜けしようとした商家の主人を東町奉行与力の弓削が殺害した恐れがある。直ちに捕らえて尋問したい。

 一つ、無尽発覚を恐れた藩が浪人を雇ってとある商家の主人を誘拐した。それについて捜査をさせてほしい。

 一つ、東町奉行の高井実徳は上記の事柄を知りながらも十数年来黙認していた。


「とりあえずはこんなもんでしょう。後は清書するだけですが、内容に問題はありませんよね?」


 疲れ切った忠春が奉行所に戻ってきたのは暮れ六つを廻った頃合いだった。

 事実関係はほぼ問題ない。弓削が無尽を企図したのは事実だし、上方の大名が関わっていたのも事実だった。それに足抜けを図った八重介を殺したのも事実と言っていいだろう。

 普段であれば二つ返事で了承していたが、忠春は首を縦に振らなかった。


「……ちょっとだけ待って。衛栄、アンタはこれでいいと思ってるの?」


 不安げな答えに衛栄は眼を丸くさせた。


「何を言ってるんですか。これでいいと思うから私らで考えたんですよ。何かおかしな点でもありましたか」

「いやさ、そう言う訳じゃないんだけど……」


 忠春は言葉を濁して目を伏せると、間髪いれずに義親が言った


「東町奉行所で何かあったのでしょうか」


 隠してもしょうがない。忠春はそう思い、今際の際にいる実徳との会話を洗いざらい話した。


「……なるほど。高井様はいずれにせよ長くは無いと」

「あの老体にはこの暑さは厳しいだろうな。しかし、それと文書に何が関係あると言うのですか」


 衛栄は言う。町奉行の裁可を仰がなければ文書を送ることは出来ないし、早急に文書を送らなければ弓削や大名家に処分を下すことも出来ないから当然だろう。

 しかし、忠春の口から出たのは意外な言葉だった。


「その、さ、最後の部分なんだけど、削ってもらっていいかな」


 衛栄は身を乗り出して忠春に向かっていく。


「いやいやいや、何をおっしゃるんですか。腹心であるはずの弓削の行動を全く知らなかったなんてことはあり得ませんって。まぁ、高井様本人から聞いた訳じゃありませんけど、これも間違いなく事実でしょう」

「私だって分かってる。でも、こんな一文を添えなくたって報告書そのものの役割は果たすでしょ。少なくとも弓削と上方大名への処分は下るんだろうから問題ないわ」


 衛栄も食い下がる。言葉の調子を強めて言い返した。


「まったくもってらしくありません。盟友だと言ったって、弓削の悪事を見過ごして来たんですよ? 私の見知っている忠春様であれば必ず書くはずだ。本当にそれでいいんですか?」


 衛栄は唾を飛ばしながら口早く言う。だが、忠春の腹は決まっていた。


「必要ないわ。報告書そのものに必要ない文言は書かなくていい」


 冷たく言い放った忠春の言葉に、背中を丸めた衛栄だったが、仕方なさそうにため息交じりに言う。


「……分かりました。分かりましたよ。忠春様がそう仰るのであればそうします」


 口を曲げながらしぶしぶ衛栄が答えた時、襖がするすると開けられて文が現れた。


「はつちゃん、ちょっといいかな」

「ああ? 今は重要な話をしてんだ。お前は……」


 気が立っていた衛栄は文を突き放すように言った。

 しかし、文は表情一つ変えることなく忠春の顔を見据えている。


「いいのよ衛栄、それで文ちゃん、どうかしたの?」

「えっとね、東町の弓削が自殺したよ。今からほんの半刻も経っていないうちに平ちゃんがそれを見つけたみたい」


 一同は一瞬言葉を失った。

 事件の渦中にいる弓削が死んだのも重大な事件だが、平八郎が弓削の屋敷に踏み込んだというのもそれと同じぐらい重大な事件だった。

 文以外の誰もが頭を二重に抱えざるを得ない衝撃の中、いの一番に言葉を紡いだのは衛栄の怒気だった。


「は、はぁ? なんで弓削の野郎が死んでるんだよ。それに弓削の屋敷になぜ平八郎が居る!」


 与力らの詮議の後に文書の下書きに入った衛栄と義親は、平八郎の行動を知らなかった。

 そもそも奉行所を離れていた忠春もそんな行動を知る由もなく、口を半開きにしてただただ呆然としている。


「そんなの私に聞かれても困るよ。それに、荒っぽくするのは布団の上だけにして……」


 両肩をガッチリと掴んで前後左右に揺らす衛栄に対して冗談めいて文は答えようとした。しかし、咳払いするとすぐさま表情を戻して言葉を続けた。


「……とにかく弓削が死んだ。それは事実だからね。特に遺書とかそういったものは残してないみたいだね。報告は以上」

「ありがとう。最後に衛栄、いいかな」


 言葉の主の忠春へと衛栄は黙って視線を向けた。


「弓削の所のさ、八重介を殺したって部分をね、消してちょうだい」


 力無く呟いた忠春に向けて衛栄は深いため息をついた。それから大きく深呼吸をして口を大きく開こうとした時。


「どうしたのですか忠春様、なぜ弓削の肩を持つのでしょうか」


 先に言葉を発したのは義親だった。衛栄と文は驚いたように目を丸くして義親の顔を見つめている。


「別に肩を持ったつもりなんて無いわ。弓削が死んでしまった以上、本当に殺したのかどうかなんて定かじゃない。八重介の頭を貫いた筒だってどこぞの藩の物なんだろうし、弓削が殺した証拠にはならないわ。前にも言ったでしょ。あくまで”ほぼ”であって”確実”じゃないって」


 凶器である鉄砲を持ち出せ、なお且つ扱う腕がある人間は数が限られるし、八重介を殺すための動機は十分すぎるほどあると言えた。

 それでも弓削が殺した証拠は無い。株仲間の証言は八重介が死んだ事は知っていても、八重介が殺された瞬間は見てないと口を揃えて言っている。

 衛栄は口をモゴモゴと動かして何かいいたそうにしている。しかし、義親はそれを目線で制して言葉を続けた。


「私も衛栄殿と同じように忠春様がそうしろというのであればそうします。しかし、これだけは教えてください」


 義親は瞼を閉じて息を吸うと言った。


「今後の事は分かりません。突然、天変地異が起きて我々一同死んでしまう可能性だってある。そんな最期の最期でさえ忠春様は後悔なさいませんか。それだけお教え下さい」


 その言葉に忠春は黙り込むと、被せるように衛栄も続いた。


「俺が言いたかったのもそういうことだ。忠春様、本当にそれでいいんですか。その決断に胸を誇れますか?」


 本当に後悔しないだろうか。そもそも自身が下した決断に後悔したことは一度もない。

 しかし、今回の事はどうだろうか。弓削に関しても、本人が自殺したからといって報告書に書かないというのにだれもが納得するはずは無い。

 それは高井実徳についても言えた。忠春自身は事実を知っていても、他の人がその胸中を知る由もない。この一件を機に辞任が決まっている実徳の口からそれが語られることも無いだろう。

 それらが衛栄の言う通りそれが本当に胸を張れる決断だと言えるのだろうか。

 忠春は思いを逡巡させ、俯いたまま目を瞑り、周りが息を呑む中、溜めに溜めて言った言葉はこうだった。


「……当たり前でしょ。私自身が下した決断で後悔するなんて思う? だから削っていいのよ。その文言は必要ないわ」


 与力の大半はおおよその内容を考えつくかもしれないが、詳細を知るものは忠春と義親と衛栄と文の4名しか無い。

 そして弓削と高井に関する部分について。

 削った二十数字が後に大きな争いを起こすことになることを、面と向かい合う忠春らは当然のことながら露とも知らなかった。



後の祭り(完)

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