裂け目
事の次第はこうだ。
橘屋らの所属している株仲間が主催していた無尽は10年前から行われていて、胴元は東町奉行所諸色与力の弓削新左衛門。無尽で上がって来た収益を付け届け代わりに受け取って、幕府中枢へ商人らの口利きを行っていたらしい。
また、無尽に参加していたのは商人だけではなく、大阪に蔵屋敷を持つ諸大名も参加していた。
小菊誘拐は無尽発覚を恐れた一部の藩が共同して行ったという。奉行所に上がって来た名前は西条藩・府内藩の二つで、どれも財政面で困っている小藩である。
「間違いなく株仲間は解散でしょう。八尾屋の主が口を割りましたから」
吟味方与力の一人が言った。
逮捕当日から翌日の朝まで行われた尋問の末、いくつかの店主は無尽について自白した。
しかし、口を揃えて『侍の誰かが蔵屋敷にあった鉄砲で撃ち殺していた。私たちは八重介を殺してはいない』とも言っている。
「その時の会合場所は府内藩の蔵屋敷やったそうです。八重介はそこで殺されたんやろうな」
「鉄砲が使われていることから察するに殺したのは無尽に参加していた藩士か弓削や。まぁ、こればっかりは関わった藩士たちに聞きこまないと分からんけど」
「ということは幕府からの沙汰が無ければどうしようもありませんな」
「……これらの意見をまとめると、これから奉行所として通達するのは『橘屋が加わっていた願株の解散』だな。皆もこれでいいよな?」
頷きながら聞いていた衛栄が与力らが話す内容をまとめに入る。
無尽に似せた博打を行っていたことは事実なので商店には指導が入るし、願株は解散させられるだろう。
そもそもこれ以外に奉行所が行える仕事は無い。「分かった」と部屋に集まった与力らが頷こうとした時だ。
隅で腕を組んでいた一人が勢いよく立ちあがって衛栄の襟元に掴みかかった。
「……冗談は休み休み言うんだな髭。なぜ弓削を逮捕しないんだ。今すぐにでも東町奉行所に乗り込むべきだろう」
立ち上がったのは平八郎だった。
この一件に弓削の関与は間違いない。周りだけが逮捕されたところで事件が解決したとは言い難いし、平八郎の気が収まるはずもない。
「お前こそ馬鹿なことを言うな。武士である弓削を逮捕する権限など俺らには無い」
衛栄は怒るどころかため息をついた。呆れながら怒りで顔を紅潮させる平八郎の目を冷たく見据える。
奉行所には町人に対して処罰を与える権限はあっても武士に処罰を与える権限は無い。与力である弓削新左衛門に処罰を下すなんてことは不可能だった。
「前にも言ったはずだ。目の前に事の元凶が突っ立っているんだぞ。それをお前はみすみす逃すとでも言うのか愚か者」
「同じやり取りをするほど俺は愚かじゃない。それに弓削の野郎を誰が見逃すって言った?」
掴みかかる平八郎をにべもなく振り払うと襟元を正して言う。
「今回に関しては証拠だってあるんだ。幕府に届け出れば処分されるだろう。過去十数年に渡って私腹を肥やしていたんだ。なんかしらの沙汰はあるだろうよ」
弓削が処分されるのは間違いないだろう。商人を殺したうえに十年間で数万両の大金を巻き上げていたとなれば幕府だって見逃すはずが無い。
それでも平八郎は引き下がらない。声を荒げながら叫ぶように言った。
「甘い。そのような処分では甘過ぎる。切腹なんぞでは死んだ者が浮かばれないではないか。あのような輩は即刻死罪にでもするべきだ。そうするべきなんだ!」
会合場所を貸している藩士には抜けだそうとする商人を殺す利点が無いのを考えると、八重介を殺したのは九分九厘弓削新左衛門であろう。
八重介に足抜けされて最も困るのは胴元である弓削だろう。過去何回も行われた会合には必ず参加している上に、御禁制の銃まで用いている。これはほぼ間違いないと言ってもいい。
「だったらなんだ、お前は弓削が八重介を殺した場面でも見たのか? 商人たちですら見ていない場面をなぜおまえが知っている。処分すべき相手は別の誰かかもしれないぞ」
あくまでも九分九厘であって十割では無い。商人たちは口を揃えて武士としか言っていなかっただけに「弓削が殺した」と断定は出来ないはずだ。
当然、幕府もそういう論理で来るだろうから重くて切腹、現実的な処分に強制隠居になるかもしれない。下手すれば蟄居処分だけで済む可能性もある。
「これは幕府が決めたことなんだ。俺たちはそれに従うほか無いだろう。それともなんだ、お前は奉行所を辞めてまで弓削を処分しようって言うのか?」
衛栄の言葉に場が静まり返る。
勝手に与力同心を動かして逮捕に向かえば、平八郎にそれ相応の処分が下される。これ以上仕事を続けられる保証は無い。
「10年前にも同じような事件があった。上申したのに何の反応もなくのうのうと仕事に就いていた。そのような幕府の処分なぞ……」
「……平八郎殿、これ以上は止めましょう。とにかく落ち着いた方が良い」
殺気立った平八郎も義親に押さえられて我に返ったらしい。
潤ませた目を袖で拭い、振り返って義親に一礼すると即座に衛栄の方を向き直して言い放った。
「……とにかく私は反対だ。弓削を即刻処罰するだけだからな。私はこれで失礼する」
衛栄を睨みつけて平八郎は長い黒髪を揺らして部屋を出て行った。廊下を踏み抜くぐらいの音が遠ざかってゆく。
部屋に集まっている数人の与力はため息をいた。
「ったく好き勝手言いやがって。ここにいる誰だって今回の処分が不服に決まってるだろうが!」
衛栄は頭を掻きながら机を蹴飛ばした。夏の湿っぽい空気が一層重くのしかかる。
顔を強張らせた与力達はそそくさとその場を退散し、襖の側で頭を抱えていた義親が衛栄の肩に手を同情するようにのせた。
「我々が怒っても仕方がありません。とにかく書状の下書きをつくりましょう。忠春様はまだお帰りにならないのですか」
「忠春様は、俺たちがアイツの愚痴に付き合う以上に辛いだろう。なんたって高井様に弓削の話をしてるんだろうからな」
平八郎が株仲間らを逮捕しに向かった後、忠春は衛栄らを呼んで事の顛末を伝えて今後について詮議するように指示していた。
そして、忠春自身は高井実徳の元に行く予定になっており、今頃は事の次第を話している頃だろう。
「高井様は病気で退任だろうから私たちは大阪で孤立無援ですか。さらに奉行所は不和。こんなんで良いのでしょうか」
「……すまない。他の連中はうまいこと手なずけられたけど平八郎だけはどうにも上手くいかない」
義親がこぼすと衛栄も同じようにため息をついた。
「生真面目もあそこまで行けば病気だ。過去に何かあったか知らないが俺の手には負えないぞ」
肩を落とす衛栄にはいつものように冗談を飛ばす気力もないのかもしれない。
言い捨てると蹴りとばした机を黙々と直し、部屋を後にしようとする。
「愚痴を言った所でこうなってしまったものは仕方がありません。私は平八郎殿に会ってきます。衛栄殿は書状の方をお願いいたします」
「ああ。よろしく頼んだぞ」
衛栄は力無く義親を送り出す。当の義親も溌剌としていない。
茹だる夏の暑さと相まって奉行所の雰囲気は最低最悪なものとなっていた。
○
「……そうですか。そのような事態になったとはね」
忠春は病床の大阪東町奉行高井実徳の元に赴いた。
病床についた実徳の顔色は当初よりも青白くなり、夏の暑さにやられたのか恰幅の良い体もやつれていた。病状は悪くなる一方で町奉行職復帰はほぼ絶望的と言っていいかもしれない。
虚ろに笑う実徳は湯呑みをすすると言葉をゆっくり続けた。
「本当に残念だ、なんてことは思っていませんよ。何もかも自業自得。私も弓削もそうでしょう」
「……言いたくありませんが、元はと言えば実徳殿が弓削のような輩を見過ごしたからではありませんか」
二十数年間町奉行職に付いていた実徳が常に付き従っていた弓削の行動を知らないはずが無い。
となると、実徳は弓削の行動を黙認していたと言えた。だからこそ無尽の環は上方の諸大名にまで広がったのだろうし、こういった事件が起きてしまうまでになった。
事実、実徳は忠春の言葉に反論せず黙って聞いている。
「私は賄賂といった類の習慣が好きません。そのようなものをもらっていれば正しい判断が下せなくなります。しかし、高井殿はそれを見過ごしていた。その結果がこれなのです」
だからこそこれまで清廉潔白にやって来た。それだけは忠春の性根が許さない。
「高井殿は弓削の所業を知っていたのですか」
空になった湯呑みを盆に置くとゆっくりと語った。
「本人から直接聞いたことはありませんが知ってましたよ。過去にそういった話があったので一通り調べましたが、特別酷かった訳でも無いと判断しました」
「なぜですか。誰がどうみてもあれは無尽では無い。完全なる博打ではありませんか」
「胴元の利益が3割弱で違法というのなら幕閣は全員更迭です。はっきり言って今回の無尽はそれぐらいのもので、良くある話としか思えません。人が死んだことは残念に思いますけどね」
損益が出る上に平等に配分されないことから忠春は博打と踏んだ。
とはいえ、世間では無尽は罪では無いという風潮もあった。弓削の近辺のみならず諸大名も参加したのはこの為であろう。
「別に忠春殿が悪いとかそういう訳ではない。むしろ、この金が物を言うこの時代に厳しく取り締まろうとするなんていうのは天晴れな話だ。是非とも続けた方が良い」
「何が言いたいのですか」
「これはかつて平八郎にも言った言葉だ。キミは少しゆとりを持った方が良い。芽を摘むだけが政治では無いぞ」
病気で青白い顔が紅潮している。実徳も激しているのかもしれない。骨ばった瞼が正気を持っていた。
「……まったく、残念なのは私の方ですよ。高井殿の口からそのような言葉は聞きたくありませんでした。自身の愚行を正当化し、弓削を庇うとでもいうのですか?」
「生憎ですが弓削は職務に関しては真っ当な男です。少なくとも物価の動きに関して言えば弓削に非はありません。最低な状況の中で粘り強く対応していたと思っています」
今度黙らされたのは忠春の方だった。太ももの上に置いていた手の平は自然と固くなる。
実徳は大きく咳き込むと手を打って小姓を呼び、湯呑みに冷水を汲ませて一飲みする。
「とは言っても、まったくもって無責任かもしれませんね。数十年も好き勝手やった私は隠居になり、来て半年ほど陣頭に立って悪を排除した忠春殿が大きな責を負わされる。本当に申し訳ない」
「今さら何を……」
「……何が『私の町』だ。本当に町のことを思っていたのは来て1年も経っていない忠春殿ではないか。まったく、この数十年間、私は何をやっていたのか」
実徳は息を吐くと再び咳き込んだ。何かの発作なのかもしれない。実徳の苦悶交じりの咳を聞いて、医師と小姓たちがすぐさま駆け付ける。
忠春にこれ以上言うことなど何も無い。その場に立ちあがって一礼する。
「失礼します。私も仕事がございますので」
「ええ。大阪をよろしく頼みましたよ」
実徳の小姓に付き添われて屋敷を後にした。
大阪湾からの傾いた日差しを受けて夕暮れの大阪城は赤く染まっていた。いつもなら綺麗だとか涼しくなってきたとか感傷的になる忠春も何も思わない。
それどころか、漆喰が赤く染まった大阪城を見て酷く気分を悪くする。天守閣の無い城が燃えて朽ちる様にも見えてしまった。




