猫間川
南東には真田山と稲荷。町の中央を通る大街道は奈良へと続く暗越奈良街道。大阪東の玄関口である平野口町は宿場町でもあった。
秋になれば川沿いで紅葉や銀杏を楽しむことができる。今では青々とした木々が灼熱の大阪に涼しさをもたらしている。
「平八郎様、三軒先の船宿でございます。先に集まった同心達を周りに配備させておいたので逃亡の恐れはございません」
「三郎よくやった。連れて来た同心や目明かし達を持ち場につかせろ」
猫間川の堤に一軒の船宿が佇んでいる。浪士達はそこに隠れているらしい。平八郎が指示を出すと連れられた同心達は足早に宿の周りへと急いだ。
「しかし三郎、よくここだと分かったな。目星でもあったのか?」
「いや、そのな、なんていうか……」
嬉しそうな声に三郎の歯切れは悪い。
平八郎はどうしたのかと顔を見つめている。すると三郎の背後から一人の女性がひょこりと顔を出した。
「さすがは平ちゃんだ。半七さんの一報があってからすぐに駆け付けたんだね」
文の言葉を聞くと平八郎の顔から笑みが消えた。
それから目を細めて文を見据えると抑揚のない声で言い放つ。
「……なぜおまえがここにいる」
「そりゃ事件のある所には文ちゃんありって訳よ。なんたって瓦版の記者だからね。記事になりそうなものにはどうやっても飛びついちゃうの。それにさぁ……」
平八郎の睨みなどどこ吹く風のまま、文は含み笑いのまま平八郎の目の前に歩み寄る。
「そんなことを気にしてる猶予なんて平ちゃんには無いでしょ。奴らは人質を抱えてるんだよ? つまらないことで時間を使うのはオススメできないな」
文は胸を張って口角を上げた。平八郎は小さく舌打ちすると何も言い返さないまま袴を翻して宿へ向かった。そんな文らの姿を見て義親は苦笑している。
「……文さん、平八郎様に本当のことを言わんでもええんですか」
「ん? なんのことかにゃ」
「決まっとるやないですか。ここを見つけたんのも文さんや。どえらい褒賞モンやで。それをなんでワシらの手柄したんですか」
義親と同じようにヒヤヒヤしながら二人を見ていた三郎は言う。周りにいた目明かしたちも同様に頷いている。
小菊を誘拐した浪士らを見つけたのは三郎では無くて屋山文だった。熱射の止まない中城東を探っていた三郎らの元に文が現れて居場所を教え、それから配下の目明かしに報告させに行った。
「だからどうでもいいんだってさっきもいったじゃん。サブちゃんがさ私の立場になって考えてみてよ」
「は、はぁ」
「殺したいぐらいに大嫌いな子がさ、とんでもない大成果を挙げたらどう思う?」
「そりゃ悔しいです。大人やから何も言わへんけど、内心じゃ言葉も交わしたくないかもしれんな」
「つまりはそういうことなのさ。そもそも私は功名欲しさに働いてる訳じゃないしね。そういうのはどうでもいいの!」
文は笑みを浮かべると懐から筆を紙を取り出す。腰に提げた墨壺に筆先を浸すと、さらさらと紙に文字を書き込み始めた。
「この一件が終わったら話聞かせてね。どんな様子だったとかさ」
「……まぁそれならええですわ。とりあえず教えてもろておおきに。それじゃわしも行ってきますんで」
「はいはーい。いってらっしゃーい」
平八郎は半七に向けて大きく手を振る。
時刻は申の刻。西の彼方が朱色に染まろうとしていた。
○
船宿の周りには平屋の建物が密集していた。
その中で船宿かわちだけが堤に乗り上げたような形に建っていて、連なる建物よりも一階分だけ高いのが特徴的だった。
「連中はここの上の階に潜んどります。話によれば二刻ほど前にこの宿へと入ったとか」
「ずいぶんと余裕綽々なのね。それで包囲したことは気付かれていないんでしょ?」
「それは問題ないです。店の対面から目明かしが張ってますが連中に動きは無いようです。特に叫び声や悲鳴は無かったと」
先に張らせていた同心達が揃って言う。半日ほど滞在しているらしい。誘拐犯にしては呑気すぎる話でもあった。
「となると早々に踏み込んで始末したほうがいいわね。連中に舐められてるとはいえ早く解放しないと」
「外堀はあらかた埋まっているとはいえ、小菊から話を聞かないことにはしょうがありません。事を急くと危ないんやないですか」
殺しに死んだ八重介の所属している株仲間が関わっていることはほぼ間違いない。後はそれについての言質が取れれば事件は即座に解決すると言っても差し支えない。
だからこそ、事件の真相を知っているであろう小菊を殺される訳にはいかなかった。場が静まり返る中、義親が言葉を発した。
「それでしたら私がいの一番に斬り込んで小菊殿を解放します」
「敵は10名近いんですよ。大丈夫なのですか」
平八郎は上目遣いに心配そうに義親を見つめた。義親は目を細めて答える。
「経験上ですが仲間が多いと身に緩みが生まれます。その上部屋に乗り込むのは私一人。そうなると持てる力は早々出せません。相手は食いっぱぐれの浪士でしょうから大丈夫でしょう」
澱みの無い自信溢れる答えに同心達からどよめきが起きた。平八郎はしっかりと頷く。
「やはり義親殿に頼んだ甲斐がありました。義親殿が小菊を確保した後に我々が部屋へ乗り込みます」
急襲で相手の出鼻を挫きながら人質を解放。非常に難しい作戦ではあるが、こうするよりほかにない。
平八郎の返事に同心達も決心がついたらしい。心配そうだった目に力が入る。
「後に続く部屋に乗り込むのは10もいればいいでしょう。それ以外は辺りの人払いと逃走者の確保をお願いします」
同心達は小さく応と答えた。それから各自の持ち場へと戻って行った。
○
「……んああ、なんなんだお前らは」
船宿に乗り込んで宿の廊下を進むと、階段下の踊り場でウトウトと頭をしゃくらせていた男が一行を呼びとめた。
平八郎が睨みを利かせて無言で振り向くと、面倒くさそうに話しかけて来た髭面の男も察したらしい。細めていた目を見開いて臨戦態勢を取ろうとする。
「くそっ、気が付か……」
この男は浪士仲間の一人だった。大声を挙げながら右手を左腰にやって刀を抜こうとする。だが、一直線に駆けだした平八郎がその数歩先を行っていた。
平八郎は腰に提げた鉄鞭を正眼に構えると、男が慌てながら刀の柄を掴む間も与えずに手を打った。
激痛に顔をゆがめながら男は平八郎を見た。目と目が合う瞬間。平八郎は即座に鉄鞭を逆手に持ち替えて顔めがけて鉄鞭を返した。
切っ先が男の顎先を掠める。うめき声を発することもなく一瞬にして男は崩れ落ちた。泡を吹く男とは対照的に平八郎は涼しい顔のままで、倒れた男の姿を見ることもない。
それから平八郎は背後にいる三郎に話しかけた。
「……三郎、連中はどこの座敷にいる」
「……二階の一番奥です。二部屋分借り受けていると聞いとります」
「……よし、乗り込むぞ」
一同は頷くとそれぞれ得物を引きぬいた。
足音を殺して階段を一段一段とのぼってゆく。襖の奥からは賑やかに談笑する声が聞こえる。仲間の一人が倒れたことに気がつかれた気配は何も無い。
「義親殿、お気を付けて」
「当然です。手早く片付けましょう」
義親は深く息を吐いた。
一呼吸おいて引き戸を蹴り破ると、義親の通る声が奥座敷いっぱいに響き渡る。
「西町奉行所だ! 観念しろ!」
浪士達は義親の声で襲撃に気が付いたらしい。胡坐をかいていた浪士らは畳の上に無造作に置かれた刀を急いで手にしようと、義親に視線を外さないまま両手を必死に動かしている。
人数は9人。小菊は両腕両足を縛られて座敷の一番奥に置かれていた。歩数にして5歩ほど。相手が慌てている事を含めると義親に分がある。まさに作戦通りだった。
「掛かれ! 掛かるんだ!」
声だけは戦っている。しかし、半分以上は刀を掴めないままでいるので何もすることが出来ない。
義親は腰を屈めて浪士達の間を掻い潜ると、1秒も経たないうちに小菊の所まで半分の位置に達した。
「くそっ、喰らいやがれ優男!」
人の中を走り抜けようとする義親に、上段に構えた浪士の一人が背後から鞘ごと斬りかかる。
義親もすぐさまそれを察知すると、浪士の眼前に銀の閃光が走った。刀を振り下ろす間もなく、飛び掛かった男は胸元を真一文字に斬られてその場にうずくまった。
ほんの刹那の間に見せられた華麗な剣技に浪士達は腰を引かした。討ち捨てられた一人を除く8人のうちの半分は刀を構えて義親を睨みつけているものの、目は泳ぎ闘志が籠もっていない。
「大丈夫ですか。お怪我はございませんか」
殺意のこもっていない睨みを背に受けて小菊の前に立った。
義親が背を向けても浪士達は尚も動かない。というよりも動けないのだろう。背にじっとりと汗をかきながら刀を構えたまま義親を見据えるのみだった。
「私たちの揉め事に付き合わせてしまい、も、申し訳ございません」
「いいのです。もうご安心を」
猿轡を鋩で切ると申し訳なさそうに小菊が答えた。
安心させるように微笑むと刀を正眼に構えなおして浪士達と向かいあう
「平八郎殿、小菊殿は問題ありません。突入を!」
義親の言葉を受けて平八郎らが躍り出た。
刺又の林を見て浪士たちは戦う意思を完全に失ったらしい。必死になって抜いた刀を畳の上に落として両手を挙げるものや、窓から猫間川目がけて飛び降りて逃走を図ろうとするものなど様々だった。しかし、そういった連中はことごとく捕縛された。
「連中に舌を噛ませるないように布を噛ませろ。倒れている者には応急処置だ。奉行所で洗いざらい吐かせるからな」
平八郎が冷徹に言い放つと浪士達の目は潤み膝を落とす。正気を失ったらしい。浪士達を引き連れた同心達は黙々と縄を付け続ける。
「ったく、先の男といい骨の無いやつらだ。このようなクズはさっさと処分した方が世のためになろう」
「誰に頼まれたのかは知りませんが、真っ当に生きていられないからこそこのような悪事に手を染めるのでしょう。このような事態になったのは我々が不甲斐ないからかもしれません」
「何を言うんですか。義親殿はよくやってます。それにこのような輩は真っ当に生きた所でも似たような事件を起こします。助けるべき人間はいくらでもいますから義親殿が気にかける必要なんてありませんよ」
どの藩でも農村は荒廃、生きていくために仕事を求めて大都市に集中する。その大都市でも一部の豪商たちが利益を貪るだけで大部分の町人達は物価の高騰に苦しんでいる。武士だって生活に困窮して悪事に手を染めるものも少なく無い。真っ当に生きる方が苦しい世の中だ。
なぜ罪人が生まれるのか。少なくとも真人間である義親や平八郎にはそんなのものが分かるはずもなく、二人は言葉を発しているうちにキリが無いと察した。
「……とはいえ平八郎殿、階段前ではお見事でした。まさか鉄鞭を使われるとは思いもしませんでした」
「義親殿のように刀を抜きたいのですが、わたしはあいにく体が小さいもので。こちらの方が使い勝手が良いのです」
刀より長さが短いとはいえ、思い切り相手にぶつけても殺さずに捕縛することができる。確かに小柄な平八郎にとって使い勝手はいいだろう。
平八郎が小気味よく手首を返すと鉄鞭はヒュンヒュンと音を立てる。横目で見ていた二人の会話を眺めていた浪士の眼前に付きつけると、浪士のうち一人が気を失った。
「本当に申し訳ございません。このようなことになってしまい……」
小菊は頭を下げる。手は震えている。急に連れ去られれば恐れるのも無理も無いかも知れない。
「気にすることは無いですよ。ただ、この一件についてしっかりと話してもらいます」
義親が言うと小菊はゆっくりと頷いた。
その時だった。
「っへ、抜かせ抜かせ。何が奉行所はよくやってるだ。馬鹿も休み休みに言うんだな」
連れられる内の一人が吐き捨てるように言う。その主は義親が斬り込んでから唯一刀を向けた男だった。
上半身を包帯でぐるぐる巻きにされてはいても目は据わっている。平八郎は薄く微笑むと視線を向けた。
「ほう、ゴミの中にも骨のある奴がいたのか。いいだろう。どうせ今際の際だ。ほざきたいことがあればほざいてみろ」
包帯の男も同じように薄く微笑んだ。
「この一件だって俺たちが捕まった所でそれはそれでお終いさ。これより上に遡って裁くことなんて出来るはずもないからな」
「面白いことをいうな。その理由を言え」
平八郎が言う。包帯の男は大きく笑って嘯いた。
「それは今は教えられないね。ことの顛末はそこで震えてる女にしっかり教えてもらえ。どうせ金で雇われただけの身だ。俺がこうなったのだって他の連中が腑抜け揃いだったからさ。ほらヤツだ。ヤツに聞くんだな」
そういって示した顎の先には小菊がいた。目を丸くさせた平八郎と目線が合うと即座に視線を逸らして俯いた。
「他の連中は拷問に耐えられねえ。俺が口を割らんところで他の連中は口を割るだろう。だから言わねえよ。楽しみは後に取っておくんだな!」
「さっさと連れて行け! ……ったく、不愉快極まりない」
「抜かせ抜かせ! くそが、こんなクソみたいな町は近いうちに燃えて無くなるだろうよ」
平八郎が一喝して同心達は刀の柄で包帯の男の背中を殴打する。しかし男が怯むことは無かった。不気味に口角を上げてトボトボと歩きだした。