絶つ
「さて町奉行らよ、この物価の高騰についてどう思う」
大阪両奉行と城代の定例の詮議。上座に座る大阪城代水野忠邦は口を開いた。
昨今の不作について町奉行所に情報が入ったと同時に、金の動きにあざとい大阪の商人らの元にも同じ情報が伝わっていた。
大きな需要を見込んで株仲間同士で価格の吊り上げ起き、米・油・薪といった必需品の価格は面白いように高騰した。
「月番は我々なんで言わせてもらいますと、必死になって説得を続けとる次第です。」
東町奉行高井実徳に変わって登城した弓削新左衛門は言う。その実徳の容体は悪く、奉行所にも出仕していない状況が続いているらしい。
「それでどうなんだ弓削。株仲間への説得は上手く言っているのか」
「生憎やけど芳しく無いですなぁ。なんせ、仕入れ値が一昔前の倍はある。なので今の価格でも商売になっとらんって話です」
忠春らの手元には必需品の諸品について価格が書かれた表がある。
油については鯨油・菜種油・胡麻油、穀物については白米・赤米・稗粟までもが年を経るごとに右肩上がりで上昇していた。
「そうは言ってもさ、市中じゃ商家同士が結託して価格を吊り上げてるってもっぱらの噂よ。なんたって大阪の商人は生き馬の目を抉るんだし」
「お言葉ですが大岡様、そりゃ間違っとりますよ。他の連中に阿漕と揶揄されたって商人も仏やない。いっぱしの利益を上げなきゃ生きられへんからしゃあないです」
物を売るのは悲田院のような慈善事業では無い。商人たちだって生活が懸かっているから多少の値上がりはしょうがない。
新左衛門の言いたいことをまとめるとこうだろう。それでも忠春の言葉は途切れない。
「それでも今の値段はおかしいでしょ。天神祭の余韻でそんな空気は吹っ飛んでたけど、秋になれば何が起こるか分からない。そうなったらどうするってのよ」
大阪は冗談でも景気が良いとは言えないし、天神祭で見せていた活気も本格的な夏の暑さを迎えるとどこかに消え失せていた。
収入の激減が見込まれる農村からやって来た農民たちが市中に溢れるのは時間の問題で、ここ一月ほどでも大阪の外縁部にはみすぼらしい恰好の男女の姿が目に付くようになった。
「んなこと言ったって誰かが割を食うのはしゃあないやろ。全員が満足する経世策なんてのはありえへん」
「だからといって今の状況を見過ごすなんてのはありえないでしょ。もしも物価の高騰っぷりが酷いってことになると、株仲間の解散も視野に入れなきゃいけないわ」
「な、何をゆうとるんですか! んなことになったら大阪の経世は崩壊ですよ。江戸にだって廻る物が廻らんようになります」
忠春の言葉に新左衛門は肝を冷やした。
大阪は日の本中の物資の集積地であり、それらを安定供給させるには商いごとに精通した一部の商家に丸投げした方が遥かに効率が良い。だからこそ幕府は株仲間を作らせた。
「そんなこと私だって分かってる。でもさ、今までそういう風に言って聞かせたことは無いんでしょ? だからやってみるってだけよ」
「ま、まぁ、そうかもしれへんけどなぁ……」
強気の忠春に新左衛門の語尾は弱弱しくなる。
「もしくは油や米を幕府が買い取るしかない。それで安値で市中に流すとかさ」
「悪う無いと思いますけど、ワシらにはんな金はあらへんで。それは大岡様の所も一緒やろ。それにんなことしたら商家は食いっぱぐれるわ」
幕府が文字通りの金欠なのは周知の事実で、そう言う忠春自身がもっとも良く分かっていることでもあった。
「そもそもあんさん、大阪っちゅう町をわかっとらんな。何しにこっちに来たんか?」
「は、はぁ?」
「日の本中の物資が集まってそれを江戸や京に送り届ける。それが大阪の町の使命なんや。それなのに株仲間の解散やて? アホ抜かせ。んなことしたら一発でお終いや。江戸の上様も満足に暮らせへんで」
「いや、でも、一部の人に任せるんじゃなくて多くの人に機会をね……」
「それやったらそうしてみましょか。どこぞの馬の骨とも分からん連中に商いを任せたって江戸に届くはずあらへん。いんや、大阪市中ですら危ういなぁ。過去にんなことがあったからこそ株仲間が生まれたんや。それくらいわかっとるやろ」
新左衛門は捲し立てる。その一つ一つは筋が通っている。それだけに黙り込んで顔を赤くする忠春は悔しかった。
「……とにかく、お前たちの所には何をするにも金が無いんだろ。だったら増やせばいい。簡単なことだ」
茹だる暑さの中、涼しい顔をしたまま上座でビロード張りの脇息にもたれ掛かる忠邦が口を開いた。
「どうするってのよ。大判を改鋳するにもそんな権限は私たちに無いわ」
「相変わらず察しの悪い奴め。金が無いのであれば公金を米相場や無尽にでも投機すればいいだろ。そうすれば幾分か余裕は出るぞ」
忠邦のしたり顔を見て忠春は呆然とする。
「冗談でしょ? 幕府から預かった金をそんなことに使えるはず無いじゃないの。気でも触れた?」
忠春は「話にならない」と言いたそうに忠邦を睨みつけた。しかし、横にいた新左衛門の表情は違った。
「なるほど。確かに妙案ですなぁ。いや、さすがは天下一の俊英水野様や。なんなら我々で無尽を企画してもええ。大岡様も参加なさるんなら私が差配しましょうがどうですか?」
新左衛門の口調はいつになく饒舌で、言葉に詰まっていた先ほどとは大違いだった。
米相場や銭相場に手を出せば損をする可能性はあるが、無尽であれば損をするということはほぼ無いだろう。それでも忠春は即答する。
「私は参加しないから。私個人や商家同士で行うならともかく、奉行所が幕府の金を使って無尽を行うなんてありえないでしょ」
忠邦の提案は体のいい横領とも言える。そういったやり方を嫌う忠春の信条からしてそんなことは到底受け入れられるはずは無い。
怒気を強めた忠春の言葉を聞くと、忠邦は見下すように表情を崩して言い放った。
「大岡忠春、お前こそ何を言ってるんだ。過去に公金を投機で増やした奉行はいくらでもいるぞ。それでいて『私のやり方じゃない』なんてのはお前の怠慢に過ぎない」
「いや、でもさ……」
「だったら対案を出したらどうだ。金を増やさないで物価の高騰を押さえられるのか? やれるものならやってみてくれ」
忠邦のしたり顔を再度突きつけられた忠春は閉口する。そして深いため息を吐いた。
「……分かったわよ。とにかく株仲間との折衝しか無いんでしょ。こっちの諸色掛に指示しておくから。でも公金に手を出すなんて真似はしないからね」
「ふん、好きにすればいいさ。弓削、お前も引き続き株仲間との交渉に当たれ」
「ははぁ。仰せの通りに致します」
仰々しく平伏する新左衛門を見ると、忠春の心は一気に重たくなる。
上司とも言える大阪城代の関心の無さと、盟友である実徳の代理を務める与力弓削との意見の合わなさ。それに忠春自身の大阪に対する認識の甘さも気落ちさせる原因だ。
ただ、気を重たくさせたのは飢饉問題や物価高騰問題が簡単に解決しそうにないこと以上に、この一件が尾を引いて新しい問題が生まれるんじゃないかという危機感にあった。
○
「平八郎様、橘屋が属しとった株仲間について掴んできました」
熱気のこもった奉行所。平八郎の元に主税と三郎の両名が汗を流しながらやって来た。
二人の顔つきは悪く無い。平八郎は二人の表情を見ると顔を緩ませる。
「御苦労さま。報告して」
「橘屋の所属していた株仲間は高麗橋の願株です。ここ二十年ほどで急速に力をつけとる店の寄り集まりやな」
「人数は20人。いずれも新興問屋が参加しとります。その中心に八重介がおった。殺された理由はますます分からんな」
三郎はそう言って株仲間の名簿を平八郎に手渡した。
いずれの店もここ十数年の間に商売を始めており、株仲間といっても新興勢力が寄り集まっての願株。尚更殺す理由など見つからない。
「老舗というにはまだまだの店ばかりか。中堅どころっていうのが正しいかな」
「そんな連中が高麗橋でやってけたのは各商店が幕府の御用商人になったのが強いらしいで」
いずれの店にも軒先には『幕府御用達』『上様懇意』といった文言が金字で見せびらかすように書かれていた。
「なるほど。ツテを使って中枢に上手いこと潜り込んだってわけか。品物を定期的に買い上げてくれる先が見つかれば、それを元手に新たな商売を出来るしね」
幕府のとのつながりが生まれればこれ以上ないぐらいに商売は楽になったことだろう。
『御用商人』という肩書があれば諸藩にも潰しが効くし、なによりも店に箔が付く。どの店ものどから手が出るほど欲しいはずだ。
「主税に三郎、いきなりだけど二人に質問してもいい?」
「なんでもいってください」
「もしも二人が忠春様を殺すとしたらどういう理由でやる?」
「な、何を物騒なことを仰るんですか!」
平八郎の突拍子の無い言葉に二人は口を揃えて言った。
「あくまでも例えだから。まさか図星を付かれて驚いてるの?」
「いや、んなことある訳無いやないですか。それは分かってますけど……」
「とにかく、私たちは忠春様を殺すのにどんな理由を持たなければいけないのか。それが分からないと話にならないでしょ。とにかく考えてみてよ」
平八郎に諭されて、顔を見合わせた主税と三郎は思い思いに話しあった。
「そりゃ忠春様の存在が邪魔になったんでしょう。例えば知られとうないことを知ってしまったとか……」
「まぁ、知られとう無い秘密をばらすぞ、なんて言われたら殺したくはなるよなぁ。当然、実行に移そうとは思わんけど」
「せやけど仏になった八重介は生真面目な男なんやろ。仲間を売ることを言うとは思えへんし、しっかり生かして働かせた方がええと思うけどな」
仲間内でしっかり成績を残しているのであれば重宝するのが道理だろう。
「案外、生真面目すぎたから殺されたのかもしれないわね」
平八郎がポツリとこぼすと老同心二人が「どないしたんですか」と反応する。
「そもそも名もなきパッと出の商家が幕府の御用商人にだなんて成れるはず無いわ。それは分かるでしょ」
株仲間という制度上、元からあった繋がりを出し抜いて新しく幕府と繋がることは非常に難しい。
そうなると、パッと出の商家が切るべき札は一つしか無い。
「だとすれば商人は役人に多額の賄賂を渡さなければならない。今までの繋がりを差し置くんだからかなりの額になりそうね」
「いわゆる付け届やな。ワシももらいたいわ」
三郎が呟くと平八郎はキッと睨みつける。主税は肩をすくめた。
「八重介ってのは誰かにそれを話そうとしたんじゃないの」
「なるほどなぁ。八重介は生真面目が過ぎて仲間内の行跡を密告しようとしたんか。有り得ん話でもないな」
平八郎と三郎が晴れた顔で言い合うも、主税だけは寡黙な顔を崩さない。
「……ともかく探りましょう。連中を探ればもっと大きいネタがあるはずです」
「そうね。近いうちに八重介の奥さんを奉行所に呼び寄せましょう。それと又兵衛の姿が無いんだけどどうかしたの?」
株仲間の捜査には3名を付けていたはずだった。
しかし、顔を見せたのは松橋主税と新藤三郎の二人のみ。もう一人の岡部又兵衛の姿が無い。
「いや、その、デク、さっさと報告せい」
「それが、平八郎様……」
三郎は青い顔をすると主税はため息をついて言った。
「昨晩から八重介の妻が消息を絶ちました。又兵衛はその捜索に出ています」
与力として働いて2年目の夏。熱気のこもった奉行所の一室で。
この時に初めて、父親以来の譜代の同心を殺したいと思った平八郎だった。