別れの高麗橋
胸の空く青空に、天の彼方へと登る入道雲。空気は湿っぽくて茹だるような暑さ。
天満祭りを終えた大阪の町に本格的な夏が到来した。市中を走る堀川で水浴びをする子供らの姿が良く目立つ。
「あきません平八郎様、連中、なかなか口を割ろうとせえへん」
死体が見つかってから二週間が経った奉行所は困りに困っていた。それは洗濯物が乾かないとかいう下らない理由では無い。
「三郎の言う通りや。八重介の身の回りのことは分かっても、なぜ殺されたかみたいな踏み込んだ情報は全く得られません」
平八郎配下の同心松橋主税と新藤三郎が皺の深い額に汗をダラダラと流しながら語った。
報告を受けた平八郎の表情は硬い。しかめっ面に腕を組んだまま動かない。
反応の無い平八郎に主税と三郎は顔を見合わせる。二人して肩をすくめると言葉をつづける。
「とにかくデク、橘屋っちゅうんは真っ当な商家や。まぁ老舗ほどやない中堅どころの反物屋やろうな」
「それで身寄りは妻が一人。子供はおらんかったよな。店は手代が切り盛りしとったし」
「死んだ八重介っちゅうんは生真面目らしいで。帳簿の類いをマメに付けとったらしいわ」
「中身を無理言って見せてもろたけど齟齬なんて無かったなぁ。店んモンも『奥様を大事にしとったわぁ』とかいっとったしな。ありゃクソ真面目な男やろ」
『生真面目が髪を整えて袴を穿いたような男』。これが橘屋八重介の高麗橋界隈でのもっぱらの評判で、問題に巻き込まれて銃殺された揚句に川に放り投げられるような男では無かった。
主税らのこの報告で衛栄が言っていた「金を持ち逃げして女と駆け落ちした」という線も消えた。
「……主税に三郎、この暑い中にごくろうさま。後のことは追って沙汰するから」
やっと動き出した平八郎もすぐに眉間にしわを寄せて黙り込んだ。とにかく表情は険しい。
死体の身元が割れたとはいえ、藩に関する情報は何一つない。これ以上の情報が得られないとなればこの一件は詰みかねない。
というよりも、既に半分ほど詰んでいた。
「三郎あれや、もう一つ言っとらんヤツがあるやろ」
「そうやなデク、すっかり忘れとったわ。 ……ちょっと待って下さい。最後にもう一つだけあります」
そんな危機的状況が、再度肩をすくめた老同心二人に英知を与えた。
「今までのは下男下女の話なんですが、深い付き合いがあったであろう株仲間の連中が一向に口を割ろうとせえへんでした」
「株仲間?」
真夏の日差しの中聞きまわった情報に一つだけ興味深いことがあったのを思い出した。
すぐさま平八郎が聞き返すと三郎は深くうなずく。
「そうです。株仲間っちゅうんは同業者やないですか。そいつらが八重介について何も喋らんのです。こりゃ何かありますって」
幕府は一部の商人に株仲間と呼ばれる組織に市場を独占させることによって、市中への物資の安定供給を実現さた。
高麗橋はそいういった商人たちが店を出していた場所であり、高麗橋で商売をやっているだけで町人達からの評判が高くなるほどの場所でもある。
「それは確かに妙な話ね。橘屋の存在が邪魔にでもなったの」
「んなアホな。素行の悪い奴をハブにするんは分かるけど、真面目にやっとる奴をわざわざ追い出そうとしますか。普通はせんやろうな」
株仲間には二種類あり、幕府からの免許を請けて株仲間を名乗る組織と独自に共同関係を結んだ株仲間がある。
橘屋の所属している株仲間がどちらにせよ、約束事を守らない、仲間を出し抜いて商売をする、というのは株仲間から除外されるにしても、生真面目に約束事を守ってる男を追い出そうとはしないだろう。
「とにかく橘屋の所属している株仲間を徹底的に調べ上げて。何か掴めるかもしれない」
「なんなら八重介のカミさんを呼びましょか。一緒になって店を切り盛りしとるんやから色んな事を知っとるやろ」
「いや、それはまだいいわ。外堀を固めてから詰問したほうが効果は高いと思う」
八重介の妻が口を噤んでいる連中と繋がっていれば、奉行所が動いているということが直接伝わってしまう。
そうなったら掴みかけた頼みの綱は簡単に千切れて闇へと消えて行くだけだ。
「なるほどな。とにかく粉掛けてきますわ。三郎、行くで」
「よろしく頼むわ。私も色々と動いてみるから」
評判のいい若旦那が殺され、同業者の株仲間らは一向に口を割らない。
このことだけでも暗闇がかった事件に光が見えた。平八郎の顔は自然と冴えわたる。
○
あくる日のこと。平八郎が事件調査のために高麗橋近辺を探っていた時だった。
「これはこれは。大塩様ではありませんか。久しゅうございますなぁ」
「……弓削殿ですか。お久しぶりでございます」
話しかけて来たのは東町奉行所与力の弓削新左衛門だった。はれぼったい頬を緩ませて平八郎を見据えた。
その隣には若い与力が一人控えている。
「彦次郎も挨拶せい。この御方が大阪を騒がしとる張本人や」
「これがお噂の大塩様ですか。お初にお目にかかります。内山彦次郎と申します。以後お見知りおきを」
彦次郎は腰を曲げて恭しく頭を下げた。平八郎も言う。
「噂はかねがね聞いている。こちらこそよろしく頼む。それで、お二方はどうしてここに?」
「私らは与力といっても算盤与力。市中の物価を押さえるためにこうやって足を棒にしとるんですよ」
与力といっても様々な職種がいた。
町を見廻って犯罪の芽を摘む与力もいれば、奉行所の総務一式を取り仕切る年番方与力もいる。町奉行の側について身辺の警固等を行う内与力もいて、町奉行所が担当する仕事の数だけ与力の名称がある。
その中で弓削新左衛門と内山彦次郎の両名は、市中の物価や経済を治める東町奉行所の諸色調掛与力であった。
「しかし大塩殿、市中見廻りをしているとしても、月番はわれわれ東町が担当しとります。何か大きな事件でもあったんですか」
「私たちの月番中に起きた諍い事の処理のために赴いたまでだ。なんてことはない」
感情をこめずにぶっきらぼうに言った。新左衛門は怯むどころか薄く微笑んで言葉を続けた。
「大塩殿は昔から強情でしたなぁ。そんなに突っ張っとってもいいことなんてあらへんで。西町じゃ孤立しとるんやないのか?」
平八郎は目線を交わそうとせずに新左衛門の言葉を突っぱねる。熱を帯びる二人に彦次郎の顔は熱射もいとわずに蒼くなり始める。
「余計なお世話だ。私には私のやり方がある。いちいちお前に指図される筋合いなんて無い」
「そんなツンケンせえへんで老人の言うことは聞いた方がええで。なんたって色々と経験がありますからなぁ。 ……今は亡き御父上もそう思っとるわ」
「……なんだと?」
新左衛門と彦次郎の間を割って通り過ぎようとした平八郎だったが、新左衛門のひと言で血相を変える。
「貴様に父上の何が分かる。貴様に何が分かるっているんだ!」
「そんなの自分の胸に手え当てて考えてみい。せやかて、当てる胸なんてオノレにはあらへんけどなぁ」
平八郎に胸ぐらを掴まれるも新左衛門は顔色一つ変えない。その態度が平八郎を更に怒らせた。
「無礼だぞ。これ以上何か抜かすなら叩っ斬る!」
「やれるもんならやってみなはれ。算盤侍かて一通りの武芸は嗜んでおるけどな」
「お、大塩殿に弓削様、ここは天下の往来、お二人とも落ち着いて下され!」
彦次郎は顔を青くして薄ら笑いの新左衛門と顔を赤くする平八郎の間に彦次郎が割って入った。
道行く町人たちも何事かと集まって来た。
「……くそっ、失礼する」
「おおきに平ちゃん。また会おうな」
乱れた襟元を正すと平八郎は去る。新左衛門は薄ら笑いを崩さない。
額に冷や汗を流す彦次郎は満足そうに平八郎の後ろ姿を眺める上役に聞いた。
「弓削様、いきなりどうなさったのですか。確かに西町の連中に大きく水を空けられとりますけど、あそこまでせえへんでええんかったでしょ」
「ちょっとからかってやっただけや。お前、大塩を知らんのか?」
聞き返すと彦次郎は頷いた。
「かいつまんで言えばヤツは東町に居って色々とあったんや。奉行所を色々とひっかきまわされたな」
「……ちゅうことは私が入る前ですか」
「知らんっちゅうことならそうなんやろ。なかなか面倒な話やったわ」
新左衛門は苦笑する。彦次郎もそれを察してそれ以上は聞こうとしななかった。
「ま、なんちゅうてもヤツは大阪初の女武士やからな。張り切り過ぎたんやろ。とにかく仕事や。株仲間の会合に顔出さなあかん」
平八郎との邂逅と長話のせいもあって二人の影は少々長くなりつつあった。
彦次郎は肩をすくめ、新左衛門は含み笑いをしつつ高麗橋を後にした。
与力についてちょっとだけ解説
一口に与力といっても、本文中に書いてある通り様々な職種がありました。
幕末に外人向けの庶務を請け負っていた外国掛与力・外国人掛与力、慶応年代の軍制改革で誕生した町兵を取りまとめる(小隊長)町兵掛与力などなど、幕府の仕事が増えるにつれて役職が増えて行きました。
外交官から小隊長までを30名ほどの人間で回していたんだから気が狂いそうですよね。幕府の混迷具合と町奉行組織の古さが垣間見られます。