風穴
検死台に置かれた肌着一枚のみの死体は大変なものだった。
「……頭に銃創か。確かに大事件ね」
死体の眉間に一寸足らずの風穴があいている。間違いなく即死だっただろう。
「コイツが見つかったのは、富島に架かる安治川橋のふもと。この時期に生い茂った葦原に運よく引っかかっていたそうです」
富島は市街地のはずれで大阪湾に近い小島だ。蔵屋敷の倉庫街とでもいうべき土地で、普段から人通りは少ない。
このような日に奉行所が見廻りでもしなければ、この死体はそのまま朽ちていただろう。
「それで、何か持っていなかったの?」
「懐には巾着があって、中身は小判が十数枚。まとめて二十両ほどの価値があります」
平八郎が言う。肌着一つに二十両。意味が分からない。
「髷は町人髷ね。椿油を付けて綺麗に結われているのを見るとどこぞのお大尽にも見えるけど」
「それなら懐にあった小判の理由は説明がつきますね。いいとこの御坊ちゃんが金を持ち逃げして駆け落ちでもしようと女の元に走ったのかもしれません」
「順調にいくはずが、寸でのところで女関係のゴタゴタにでも巻き込まれたのか。まぁ、割とよくある話ではあるな」
若旦那や丁稚が商家の金庫から金を持ち逃げする、といった話は良く起きる事件だった。
それからは各々が言葉を交わしながら死体を眺めて思案していた。そんな中で忠春がその喧騒を打ち破る。
「確かに各々の言うことはどれも一理あると思う。でも、最大の問題この銃創痕よ。鉄砲なんて御禁制品を用いるなんて武家しか考えられないでしょ」
「せやけど忠春様、農家では鳥除けに年代物の火縄銃を使うと聞くし、狩猟にも銃は使われとる。喧嘩かなんかで殺された後、上流から流れついたってことは無いんか」
同席していた平八郎配下の同心、岡部又兵衛が言う。忠春が口を開こうとすると、衛栄らが答えた。
「又兵衛さんよ、面白い発想だがそれは無いな。鳥除けなら空砲で十分だろうし、わざわざ銃弾を使う必要は無い。仮に使っても粒の細かい銃弾だろうよ」
「それに今は天神祭。この厳戒態勢の中で市中に銃を持ちこむなんて真似が出来るはず無いし、上流から流れついたとしても天満橋なんて舟遊びで遊覧船がひしめく隙間を縫って安治川橋まで辿りつくとは思えない」
衛栄と平八郎は同時に言う。二人は一瞬だけ視線を合わせたが、即座にそっぽを向き合った。
「二人の言う通りよ。それに、この死体は綺麗過ぎる。流れついたんだから細かい傷がついてもおかしく無いのに、髪は崩れて無いし着流しも濡れているだけ。つまりは……」
髷はもちろんのこと、脇腹や内腿に痣は見当たらない。川には流木やゴミが散乱しているので細かい傷が付きがちなのに元あった通りの綺麗さを保っていた。
「……難波橋から安治川橋までにある諸藩の蔵屋敷でコイツは殺された。そういうことですか」
「その線が固そうね。ただ、この一件を調べるには大きな問題があるわ」
義親が答えると忠春はほのかに口角をあげる。目は笑っていない。どこか悔しげに微笑んだ。
「相手は大名家となると、この一件は目付の管轄になるわね。私たちは手を出せないけど」
武士の犯罪は目付が担当するのが慣例となっている。それに、忠春らが大阪に左遷されたのは武士を処罰したからでもあった。それだけに奉行所はこの一件に軽々しくは手を出せない。
苦虫を噛み潰した忠春の顔を見て、黙り込んでいた平八郎が目を光らせて怒気を強める。
「だったらなんですか。わざわざ死体を見つけたと言うのに、忠春様はこの一件を見逃すつもりですか?」
「ちょ、平八郎様っ、そのもの言いは失礼では……」
横にいた又兵衛も声を上げると、平八郎の言葉に見かねた衛栄は声を荒げた。
「お前、いい加減にしろよ。何年奉行所に勤めてんだ? 慣例は慣例だ。どうすることも出来ないに決まってるだろ」
「現に死体が見つかって鉄砲が使用されたと言うのが分かった以上、我々が動かない訳にはいかない。髭男、お前は本当に奉行所の与力なのか? むざむざ見過ごして、つまらない慣習に引きずられていてどうするんだ」
「だいたい、奉行所の与力が率先して規則を破ってどうするんだってんだ。組織には組織の動き方ってもんがあるだろ。お前こそ奉行所で何年勤めてんだ」
「勤めた年数なぞ関係無い。心根の問題だ。少なくとも私はこの一件を見過ごすなんてことは考えられない。知行合一という言葉を知らないのか?」
売り言葉に買い言葉で、二人は眉をひそめて歩み寄る。義親や又兵衛が両者を止めようとするが、衛栄の馬鹿力をどうすることも出来ない。平八郎も同じだった。
「……二人とも勝手なこと言わないで。それに、誰が諦めるって言った?」
二人が勇み出ると忠春は静かに言った。放たれる威圧感に二人は口を閉ざして引き下がる。
「確かに越権で江戸町奉行をクビになった。でも、今回の一件は明らかに前とは違うでしょ」
忠春が大阪にいるのは越権行為を窘められた過去があったからで、それは義親や衛栄も重々承知だった。
しかし、その割には忠春の表情は柔らかい。どこか自身に溢れ、誰かを出し抜いたような不敵な笑みを浮かべている。
「何が違うってんですか。どう考えてもこの一件は我々の管轄じゃありませんよ。さっさと幕府に書状でも送って判断を仰ぐべきでは」
「貴様はまだ言うか。呑気に返事を待ってる間に証拠を消されたらどうするつもりだ。お前はそんなことも分からないのか」
衛栄が口を開くと平八郎が即座に噛みつく。忠春はため息をつくと言葉を続けた。
「だから二人とも落ち着いてって。だってさ、殺したのは武士って決まった訳じゃないでしょ?」
「いや、でもさっき言っていたじゃないですか。『蔵屋敷で殺された線が固い』って」
「そうです。だからこの髭男は諦めろとか抜かしていたんです。忠春様、あなたは何を聞いていたんですか」
二人の矛先は忠春に変わった。詰め寄られても忠春は至って冷静だった。
「なんだ、二人とも案外察しが悪いのね。それこそ本当に私に仕える与力なの?」
首を傾げる二人を見て忠春は笑って見せる。
「あくまで『殺された線が固い』ってだけであって、『殺したのはどこぞの藩士』って訳じゃないでしょ。だったら私たちが動くことができる」
「確かにそうですね。結果的に武士ってのが分かれば目付に引き渡せばいいだけですし。それまでは捜査しても問題ありません」
義親が言うと、その場にいた与力同心たちも理解したらしい。続けて忠春は言う。
「九分九厘決まってても一厘だけ不完全な点があればそれは不完全なのよ。だから思う存分操作できるってわけ」
一同は抜けるような声を上げて頷いた。衛栄と平八郎は鼻先を上げてそっぽを向いたままだ。
「それで平八郎、この一件はアンタに一任するから。あれだけデカい事言ったんだからそれなりの結果を残しなさいよ」
「当然です」と大きく返事をして平八郎は検死蔵を後にする。又兵衛も慌てながら一例すると平八郎の背中を追った。
鉄扉が大きな音を立てて閉じられると検死蔵の一同は胸をなでおろして安堵のため息をつく。
「……本当に平八郎に任せていいんですか?」
平八郎が居なくなるのを確認すると、即座に衛栄が口を開いた。
忠春が周りを見渡すと、与力・同心達は同様に暗い顔をしている。衛栄の言葉はこの場の総意といってもいい。
「衛栄にしては珍しく弱気なのね。一応、その理由を聞いてあげる」
「そりゃあの物言いを聞いたら誰だってそう思いますって。あんな風にデカイことを言わせっぱなしじゃ、ヤツが付け上がるだけですよ」
「よく言うわね。アンタだって私に生意気な口を散々聞いてきたじゃない」
衛栄は頭を数度掻くとバツが悪そうに苦笑する。
「あれだけ能力があって、真面目に職務に取り組んでいる与力なんて早々いないわよ。まぁ、ちょっと一途過ぎるけどさ」
平八郎の持っている頭のキレは申し分ない。ただ、あり余るほどの生真面目さを除けば日の本随一の与力と言ってもいい。忠春自身も、その源泉を平八郎に逆に教えを請いたいぐらいだった。
「そうは言ってもあのもの言いはあり得ませんって。この一件で忠春様に何かあったら何のために大阪に来たってことになるじゃないですか」
「とにかく大丈夫でしょ。犯人を突き止めたら目付に差し出せばいいだけの話だからさ。要は勝手に裁かなきゃいい訳だし」
難癖を付けられた理由は、将軍直属の小姓を町奉行所が裁いたことと、それを報告しなかったことに原因があった。
そうであれば、目付に報告して犯人を引き渡せばいいだけの話で、犯人を特定する事自体になんら問題は無い。
「ただ、この一件はかなり微妙で繊細よ。誰かが薄皮一枚破ったら迷宮入りだから。指示系統は平八郎一本で行くわよ」
容疑者が居ると思われる大名家にこの一件がどこからか漏れ伝われば隠滅に動くのは間違いない。
敢えて情報を市中に流して相手方の動きを促す捜査もあるが、この一件はそれとは一線を画している。慎重を期さなければならない。
「……それを天井に隠れている大きなネズミも分かったかな?」
忠春が言うと、奉行所の者らの視線が天井に移り刀に手を掛けた。
上から「あちゃぁ、バレちゃったかぁ」と甘ったるい声が聞こえると、天井の板が外れてすたりと見覚えのある顔が埃っぽい蔵に降り立った。
「ねえ、はつちゃん、私が居るってなんで分かったのさ」
「そんな気がしただけよ。それで文ちゃん、あなたは平八郎の動向を逐次報告して。勝手なことをしたら江戸に帰ってもらうからね」
「江戸に帰ったらはつちゃんとお仕事できないから嫌だなぁ」
文は目を伏せたまま口を尖らせて文句を言う。そんなのが一通り続くと文が言った。
「でもなんでさ。さっきは平ちゃん一人に任せるって言ったのに」
「慎重を期さなきゃいけないけど、あの子、意外と大胆な所があるでしょ。そんな事態になりそうあったらすぐに報告しなさい。場合によっちゃこの一件から外すことも考えなきゃいけないからさ」
「でもそんなことしたら平ちゃんは怒るんじゃないの? この一件すべてを任されたと思ってるんだし」
要らぬ手出しをすれば怒るのは間違いない。痛いところをつかれたように見えたが、忠春の表情は崩れなかった。
「だから文ちゃんに頼んでるの。こんな感じの仕事は得意中の得意でしょ。それに、天井に隠れてコソコソしてるのも平八郎に何かしたら危ないって分かってるからだと思うし」
「うーん、痛いところをつかれたのは私だったね。ま、期待通りの仕事をしてくるよ。それじゃまたねっ!」
文はそう言うと跳ねるように蔵を後にした。
○
翌日。職務の合間を使って忠春は上本町の東町奉行高井実徳の屋敷に赴いた。
使用人に案内されて実徳の私室に通される。
「いやぁ、ここまで来ていただいて申し訳ございませんね。この暑さにやられてしまいましたよ」
恰幅の良い若旦那顔が台無しであった。目元は疲れ切っていて、ふっくらとしていた頬はこけている。
「先日実徳殿が倒れられたと聞きました。体の方は大丈夫なのでしょうか」
「医師が言うには安静にしていればなんともないそうで。来週には職務に励みますよ」
そんな実徳は顔つきに似つかわしく無い笑みを浮かべた。安心させようとしたのかもしれないが、浮かべたのは見ている方が辛い笑みだった。
「お奉行、裁可を願いたく参りました」
襖を開けた声の主に忠春が視線を注ぐと、見知らぬ男は即座に着物を整えて頭を垂れた。
「これは申し訳ございません。私は東町奉行所与力の弓削新左衛門と申します。今後ともよろしゅうお願いします」
元気な頃の実徳によく似た男で、とにかく愛想と恰幅がいい。山なりの眉と小さな目が人の良さを表している。
実徳が商家の若旦那ならば、新左衛門は気のいい富農かもしれない。
「あなたを東町奉行所で何度か見たことあるかもしれないけど、面と向かって挨拶したのは初めてかもね。大岡忠春よ。よろしく」
忠春が畏まって挨拶をすると、新左衛門は即座に頭を下げた。
「西町奉行所は我々が羨む限りのご活躍で。実徳様、私らもしっかりやらなければなりませんな」
「褒められて嬉しいんだけど、こうやって手柄を挙げられているのは東西奉行所が力を合わせているからだからね。今後ともよろしく頼むわ」
新左衛門の言葉に実徳は青い顔を力なく緩ませた。さっきはああ言っていたが、実徳の容体は相当悪いらしい。
「それに忠春殿、昨日は申し訳ございません。連絡が遅れてしまったようで。要らぬ気苦労をおかけした。城代につまらない小言をもらったことでしょう」
「い、いや、そんなことは……」
「先ほど新左衛門が言った通り、我々西町奉行所の市中での評判は芳しくありません。それは変え難い事実です」
病床にいる実徳には忠邦との会話も読まれていた。
体は弱っていても頭の方はキレているのはすぐに理解出来る。やはり、東町奉行は高井実徳しかいない。
「前にもお話したとおりですが、大阪は我々の町なんです。余所モンに好き勝手はやらせませんよ」
「力強い言葉をありがとう。それで弓削よ、アンタもずっと大阪で与力を?」
「さいです。初代大阪町奉行の頃から代々続く与力の家でございます」
新左衛門は古参中の古参だろう。ということは40年近く市中を見て来た計算になる。その分も生きていない忠春も大したものだと素直に感心した。
「周りはしっかりと固まってるんだから東町奉行所も安泰ね」
「時の人であられる大岡様にお褒めの言葉をいただくとは光栄の至りですわ」
恭しく頭を下げると新左衛門は言葉を続けた。
「それで話は変わるのですが、同じように時を駆ける女武士である大塩平八郎は息災にしておりますか?」
意外な言葉にたじろぎながら忠春は答える。
「平八郎のこと? まぁ、よくやってくれているとは思うけど」
「それならええんです。平八郎の父上は中々優れたお方やけどもヤツは文字通りのじゃじゃ馬ですから。手綱捌きは色々と大変かと思いますが、よろしく言っておいて下さい」
新左衛門は意味ありげに微笑むと一礼して屋敷を後にした。
「……平八郎というと、大塩平八郎ですか。私も久しぶりに名前を聞いたような気がしますね」
「実徳殿も平八郎をご存知ですか」
数度咳をした後、実徳は黙って頷いた。
「彼女は今でこそ西町の与力ですが、元は東町にいたんです。もっとも、その頃は元服する前ですがね」
忠春も初めて聞いた話だった。自然と身を乗り出して耳を傾ける。
「実に熱心な少女でしたよ。私たちの仕事ぶりをキラキラとした目を光らせて見ておりました。江戸では知りませんが、こっちじゃ女武士はあまりいなかったので、よくよく可愛がったものです」
「……知らなかった。そんなことがあったのですか」
「ええ。昔の平八郎からしたら今の役職は願ったり叶ったりでしょうな。とはいえ、元服後は東町に勤めてたので久しく会っておりませんから、あの子に会ったら私からもよろしく伝えておいて下さい」
実徳は眼を細める。先ほどの咳を見る限り、頭はキレていても体の方は分からない。
これ以上の長居して気を使わせるのは体に毒かもしれない、そう感じた忠春は一礼して奉行所に戻って行った。