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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春風吹く
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計画的大脱走

 二本松義貞は、水野家屋敷の奥座敷で一人座っていた。部屋の入り口には奉行所の同心一名と、水野家家臣の二人が彼を監視している。そこに奉行所から戻った忠邦がやって来た。警固の者もそれに気が付き深々とお辞儀をし、挨拶をする。


「忠邦様。お疲れ様です」

「ええ、御苦労さまです。義貞はどうですか」

「特に目立った動きはしておりません。目を瞑って座っていますよ」


 中で何かをされない為に襖は常に開かれていた。入り口の脇に立つ警固役が指を指した先では、義貞は一人、部屋の中央で正座をし目を瞑り動かない。


「そうですか。それと、少し彼と二人きりにさせてはもらえませんか?」


 忠邦の言葉に、警固の侍は驚く。その言葉が聞こえたのか義貞の表情が変わる。


「いや、それは危険ですよ忠邦様。昼間のあいつの態度を見れば、何をされるかわかりません」

「いやいや、大丈夫です。あなたと向こうにいるもう一人は私が声を掛けるまで休んでいて結構ですよ。本日は徹夜でしょうしね」

「お言葉は大変恐縮なのですが、しかし……」


 忠邦の言葉を嬉しく思った警固役だったが、二人きりにするのは危険だと判断したのだろう。一向に食い下がらない。すると、忠邦は豹変をした。


「いいから、さっさと消えろって言ってんだろ! 適当に休んでろ!」

「も、申し訳ございませんでした。ありがたく休ませてもらいます」


 警固役は忠邦の態度に驚き、走って部屋に行こうとする。しかし、忠邦は声をかけた。


「いや、ちょっと、待ちなさい」

「なんでしょうか……」


 警固役の二人は忠邦の呼びかけに少し怯えているようだった。


「さっきは驚かせましたね。仕事、御苦労さまです。これでも飲んで行きなさい」


 そう言うと忠邦は微笑みながら、手に提げた水筒を警固役に渡した。


「ありがとうございます」


 水筒を渡された警固役らは、それを一気に飲み干した。そして、休憩部屋へと戻っていった。





「義貞、気分はいかがですか?」

「……何か御用ですか。忠邦様」


 忠邦の軽口に、義貞は憮然と返す。義貞は忠邦を睨み付けている。今にも掴みかかって殺してやろうという気迫があった。

 だが、忠邦は大声で笑いだした。

 

「ハハハ、冗談はよしましょう。義貞、昼間は名演技だったよ」


 忠邦がそう言うと、義貞も足を崩し笑いながら話しだした。


「当然だ。しかし、鳥居の野郎、奴があんな風に言うとは思いもしなかったな」

「耀蔵は事実を知らないからな。ああいう態度を取るのも当然だろう」


 忠邦も薄笑いをしながら淡々と言う。


「てっきり話したものかと思ってたよ。まあ、親父が犬死にってのは間違って無いけどな」


 義貞は笑いながら話す。


「鳥居も所詮は外様だ。そんな簡単に機密は話す訳無いだろ。どこの家も外様には重要な事は教えないさ。それに譜代の家臣の方が重要だからな」

「確かに、どこもそれは一緒だよな。所詮ガキだな鳥居も」


 忠邦と義貞は笑いながら言い合う。


「もう、あの時の真実を知っているのは忠邦と俺だけだな。その時に関わった女中はみんな殺しちまったしな。親父も腹を斬る間際に俺の表情を見て驚いていたよ、『義貞、お前もだったのか』ってよ。親父も黙って忠邦様に従っていればよかったものをね」

「ったく、公金横領に年貢の私曲。他にも殺人数件に不義密通が数えきれないほど。それらを親父に擦り付けて殺すってさあ、大した男だよお前は」


 忠邦は話しながら、懐から煙管を取り出し火を付け吸い始める。白い煙が行燈の淡い光に照らされる。忠邦のその言葉に、義貞は笑いながら答えた。


「ハハハ、忠邦様には及びませんよ。それに、あの時関わった女中なんか何も話せっこないのに、わざわざ浜松から江戸まで連れてこき使って、面倒になったから殺すなんて芸当は思いつきませんよ」

「お前と同じだよ義貞。あの女達はそこそこ使える奴らだったからな。おかげでほとんどどの大名・旗本の弱みは握っている。俺は使える奴は使えるだけ使いつぶす主義でね」


 忠邦は微笑みながら語る。


「おいおい、あいつらと同じだったら俺も殺されるみたいじゃねえか。俺はあの女達とは違うだろ?」

「フフフ、それもそうだな」


 忠邦も同じく笑いながら廊下の縁側に出て煙管の灰を捨てた。

 義貞は真面目な顔をして忠邦に話しかける。


「しかし、最後の最後に、あの財布を掏った女や、あの大岡とかいう娘のせいで計画が狂っちまったけどよ。本当に大丈夫なのかよ」


 義貞の言葉には少し焦りがあった。しかし、忠邦は動じていない。


「まあまあ落ち着きなさい。財布は確かに予想外でしたが、奉行所は今夜は動きません。しっかりと手を打っておきました」


 忠邦はそう言い、部屋の畳を裏返した。そこには旅装の入った袋、義貞の刀や脇差がある。それに偽造の身分証まであった。義貞は驚いている。


「ほう、準備がいいな」

「当然のことです。隠したといえ、いずれはこうなる事は予測できていました。常に一手・二手先を読んで行動してますからね」

「さすが忠邦様だね、まったく!」


 義貞は笑いながら荷物を確認し、旅装に着替える。忠邦は表情を変えずに話を続けた。


「義貞、まずは中山道の板橋宿の旅籠『十条屋』に行きなさい。あそこの者は皆、私たちの息のかかったものです。昼過ぎに遣いの者を出して金を届けさせます。そのまま中山道の下諏訪宿まで行き、秋葉街道を辿る道順なら、浜松まで私たちの手の者が無事に届けさせます」

「まずは板橋の『十条屋』だな? それで昼に金を届けるのか。了解した」

「そうです。それでは良い旅を」


 義貞が立ち上がると、床下からガサゴソと物音がした。


「だ、誰か居るのか!」


 すぐさま縁側に駆け下りて床下を覗こうとする。


「おおかた大きな猫が迷いこんで来たんでしょう。気にすることはありませんよ」

「だ、だがな……」


 狼狽する義貞を見て忠邦はため息をつく。


「早く行け。警固の者に飲ませた水は効きが甘い。起き上がってくれば逃げられなくなるぞ」

「そ、そうだな。楽しんでくるぜ」


 そう言うと義貞は、荷袋を掴み屋敷の塀を軽々とよじ登る。塀から地面に着地する音がし、走り去る音がどんどん遠ざかってゆく。

 それを確認した忠邦は、微笑みながら畳に戻して襖を閉じる。そして、警固役がいる部屋を訪れた。


「こんな遅くまで大変ですよね」


 ニッコリと微笑む忠邦を見て、警固役の二人は慌てて姿勢を正す。


「も、申し訳ございません!」

「いいんですよ。私の方の用事も済みました。ヤツは呑気に寝てますよ」

「は、ははっ!」


 笑顔を崩さないまま忠邦は自分の書斎に戻った。


「さて、義貞はいつ見つかるのかな」


 ニヤリと笑いながら一言呟くと、机に付き墨と筆を出し書状を書いた。書き終わると、忠邦は床に付いた。





 明朝、江戸は心地の良い日本晴れであった。市中の至る所で咲く桜の花に限って言えば、連日の風雨でだいぶ花弁が落ちて緑が目立つ。花見をするならこの日が最後だろう。それを市民も分かってか、朝から桜の名所には人の波があった。しかし、奉行所ではそんな花見にうつつを抜かす余裕はなかった。

 忠春と義親は卯の刻には大岡屋敷を出て奉行所に向かう。何せ今日中に一連の事件の犯人が来るのだ。色々とやるべき事もあるだろう。屋敷を出て半刻も経たずに奉行所の前に着いた。そこには意外な先客がいた。


「おお、やっと来たね! はつちゃん。おはよっ!」

「おはよう。文ちゃんは今日は早いね」


 そこには文がいた。脇に控えていた義親も驚いた顔をしている。忠春は文の顔をみて屋にやら思い出したように話し始めた。


「そうだ、今思い出したんだけど、一応私の方が上役な訳だからさ、さすがに『はつちゃん』はどうなのって思ったのよ」


 忠春の言葉に、文は視線を逸らして五秒ほど考える仕草を取る。そして忠春の方へ向き直して言う。


「確かにそうね。……失礼をいたしました忠春様。此度は良き采配でございました。忠邦らがやって来ても手を出さずによく我慢なさいました。その応対は、間違いなくこの一件の解決に大きく……」


 文は丁寧に腰を折って忠春の前に平伏する。所作は優雅で丁寧で、こうして見ると良家のお嬢様という感じだった。


「……いつもの口調でいいわ。なんか気味が悪いわ」

「何よ、言う通りやったのに。文ちゃんの意地悪!」


 文はわざとらしく頬を膨らませると、忠春は申し訳なさそうに笑う。


「ごめんなさいね。それよりも今日は早いわね。どうかしたの?」

「そうよ、そうよっ! すっかり忘れてたね。はつちゃん。今日から私も現場に行こうと思うの! ねえ、大丈夫でしょ?」


 文の言葉に忠春は少し驚いた。しかし、言っている事は別段おかしく無い。同心なので町を見廻るなんてことは日常茶飯事。むしろ、それが同心の仕事のようなものだ。


「確かにそれもそうね。私は構わないわよ。それなら、後で十手を渡すね」

「ほんとに? やったあ、うれしいなあ! はつちゃん大好きだよ!」


 そう言うと文は、忠春に抱きついき、ぴょんぴょんと跳ねている。いきなりの抱擁に驚き身動きが取れない。義親も苦笑いをしながらそれを見ているしかない。そんな事をやっている時、衛栄が奉行所にやって来た。忠春の顔が見えたので、手を振って挨拶を交わす。


「おはようございます。忠春様。お、おい、文、何やってんだ。ほら離れろ!」


 話している途中で状況を把握した衛栄は、すぐさま文に駆け寄り、げんこつで文の頭を叩いた。


「うう……。栄ちゃん! 痛いじゃないの!」


 文は、叩かれた頭を両手で押さえ衛栄の方に上目遣いをする。


「そんな目をしても駄目だぞ。かつて、何回それに騙されたか……。ほらさっさと謝れって」


 衛栄の態度に仕方なさそうに文も頭を下げる。文の顔はふくれっ面である。


「……ごめんなさい」

「いや、別にいいわよ。とりあえず二人とも中に入りましょう」


 そう言うと忠春らは奉行所内へと入っていった。

 忠春らが奉行所に入ると既に何人かは職務に付いていた。詰問の為の資料を作る者もいれば、水野屋敷からの道順を確認する者、奉行所内で剣の稽古をする者などがいる。いずれにせよ奉行所内は水野家から来るという客によって色めき立っている。


「そうそう、文ちゃん。公式に奉行所の一員として活動するんだから『十手』を持たすわ。ちょっと待っててね。義親、どこにあるんだっけ」

「忠春様、こっちです」

「分かったわ。それじゃ、ちょっと待っててね」


 そう言うと忠春と義親は十手を取りに行った。二人が出ていくと、部屋には文と衛栄だけが残された。





 衛栄は文の方を向き話し始めた。


「おい文。お前捜査に行くのか」

「そうよ。当然じゃない! あたしだって奉行所の一員なんだからね」


 胸を張って文は答える。豊かな胸もその勢いで大きく揺れる。しかし、衛栄はそれも意にせず、釈然としない表情でいる。そして、一つため息をついて大声で話す。


「絶対に駄目だ。文に十手を持たせるのは絶対に反対だ。何度も剣術の稽古をつけてやったってお前の剣はまだまだじゃないか。それに十手術だって全然だろ? それなのに隠密廻りみたいな危険な仕事は任せられない」


 衛栄の口調に文は驚く。確かに文の剣術はまだまだ未熟で、仮に斬り合いとなった場合に文はただでは済まされないだろう。しかし、文も引き下がらない。


「練習するもん、栄ちゃんがドン引くくらい上手になるんだから!」

「ふざけるな! そんな一晩二晩で上達するはず無いだろ! この事件は速さがものを言うんだ。悠長に剣を練習していたら連中に簡単に殺されちまうぞ!」

「もう! 栄ちゃんには関係ないでしょ? なんでそんなに私の面倒をみるのよ!」


 文もいつになく大声で答えた。目には涙が浮かんでいる。屋敷中に響き渡った文の声で、出仕してきた他の者たちが「何事か」とぞろぞろと集まってくる。


「……確かにそうだな。お前も、もう、子どもじゃないんだからな。俺はずっと、お前に色々と口を出し過ぎたかも知れない。俺が悪かった。文の好きにすればいい」


 衛栄も頭を掻きそう言う。いつになく真剣な衛栄の姿に誰もが息をのむ。


「そそ、そうね。それでいいのよ衛栄殿。私の好きなようにさせてもらうわ……」


 文も、ああ意地を張ってしまった手前、謝ろうにも謝れない。そこに忠春と義親が蔵から戻って来た。部屋の中央には睨みあう衛栄と文。それを囲むようにどうしようか戸惑う奉行所の面々。そのうちの一人が忠春に状況を説明した。


「た、忠春様、そ、その……」

「なるほどね。二人が喧嘩をね……」


 何か考えようとするも何も浮かばない。とりあえず二人をなだめようと、辺りを見回して何か言おうとするが、たまたま目があってしまった衛栄に先制攻撃を食らった。


「……忠春様。私は失礼します。文について色々と申していましたが全て忘れてください。今から見廻りに行ってくるので」


 衛栄も静かに席を立つ。


「ちょっと衛栄、それでいいの?」


 忠春もさすがに気を使う。文も衛栄の方を見ている。しかし、衛栄は冷たく答え去っていった。


「別にいいんじゃないですか? 本人もああ言っている事だし」

「衛栄……」

「……」


 文は俯いて鼻をすすった。誰もが痛いほどに文の気持ちも、衛栄の気持ちも理解しているようで、誰もが俯いていて部屋は静まり返った。


「文さん、いいんですか?」


 義親は文にポツリと聞いた。


「いいのよ義くん。私は任務を立派に成し遂げるんだから」


 涙をぬぐって文は力強く言う。それを聞いた忠春は、深呼吸をして持って来た十手を文に渡した。


「……その言葉、私は忘れないわよ。文ちゃん、行ってきなさい」

「かしこまりました。忠春様」


 文は恭しく十手を受け取ると、忠春に微笑みかけて足早に奉行所を出ていった。忠春も微笑み返すが、小さな背中を見送ると、即座に横にいる義親に話しかける。


「文ちゃんは、ああは言ったけどねえ……」

「……ええ、大丈夫ですかね」


 二人の言葉に周りにいた同心達の誰もがうなずく。それを見た忠春もため息をして言った。


「やっぱり不安ね。好慶と忠景を呼んで」


 忠春がそう言うと二人が目の前にやって来た。


「二人とも今のやり取りを見てるから分かってると思うけど、文ちゃんに何かあったら即刻知らせなさい。それと、文ちゃんを見つけたら随時こっちに連絡をちょうだい」

「ははっ! 承知いたしました」


 二人が声を合わせて言い、奉行所を後にした。


「ふう。文ちゃんはいいとして、衛栄はどうする?」


 忠春がまたしてもため息をつきながら言う。すると、廊下の方から声が聞こえる。


「衛栄殿は大丈夫ですよ」

「何よ政憲、あんたも来てたの」


 政憲が同心達をかき分け部屋へと入ってきた。


「ええ、衛栄殿は芯の強い方です。大丈夫ですよ」

「……そうね。あいつは、しっかりとわかってるわよね。さあ、みんな仕事に戻るのよ!」


 微笑みながら語る政憲を見て忠春は言った。忠春の言葉に全員持ち場に戻っていった。衛栄は、文が絡むとああなるが、基本的には真っ当な男だ。何せ叩き上げで年番方にまでなった男である。その辺の分別はつくだろう。そう忠春は考えていた。

 今度は玄関の方が騒がしくなる。


「た、た、忠春様! 大変でございます!」

「ったく、今度は何よ、騒々しいわね」


 水野家に送った同心が、血相を変えて奉行所に飛び込んでくる。


「水野様が捕らえていたという男が、昨晩中に脱走しました!」

「な、な、なんですって?」


 奉行所の全員の悲鳴にも似た驚き声が奉行所中に響き渡った。

用語解説


『外様』 新しく家中に入って来た家臣のこと。大名で言うと伊達とか毛利など。


『譜代』 昔から家中で仕えて来た家臣のこと。大名で言うと本多とか酒井など。


『十手』 同心や与力の武器。刃が無く、犯人を殺さずに召し取れる利点がある。ちなみに宮本武蔵の父親、新免無二斎はこれの達人だった。


『板橋宿』 中山道で江戸から数えて最初の宿場町。今の板橋区板橋駅付近に栄えていた。旅籠の名は適当。



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