《1》霧ヶ森 新の章
《1》霧ヶ森 新の章
僕が、生まれたとき母さんは死んだ。それは僕が狼だったからだ。
詳しいことはよくわからない。ただ、そういうふうに出来ているそうだ。
大昔、霧ヶ森の先祖は狼と契りを結んだ。それは、霧ヶ森に繁栄を約束し、狼の血を引かせた。事業に成功し富と権力と名声を手にした霧ヶ森は、狼として生まれてくる子供を繁栄の守り神として丁重に扱った。だが、良く思わない者もいた。霧ヶ森には本家と分家がある。本家は先祖の化け狼の血を濃く受け継いでいて、寄り添うように固まって暮らしている。妖怪の狼が生まれてくるのは主にこちらだ。一方分家は地方に点々と散っていて、狼の血を知らない者がほとんどだ。狼が生まれてくるとき、ほとんどの母親は出産時に即死する。理由はわかっていないが、昔から人間の生気を吸ってしまうせいだと言われている。そしてこれを本家は「祝福」と言い、分家は「呪い」だと言う。狼として生まれた者は必ずと言っていいほど特殊な能力を持っていて、身体能力や知力に長け体は頑丈に出来ている。そして何より、寿命が長い。狼に生まれた者の平均寿命は300年と言われている。その長い時間の中で、強く賢い狼たちは霧ヶ森家の指南者、あるいは研究者として裏から支えている。
そして僕もまた、今までと同じように本家の夫婦から狼として生まれ、母親は死に、物心つくまで狼として育った。物心がついた頃、人間に化けられるようになり、都合が良いので人間として振る舞い生活するようになった。しかし霧ヶ森家での生活は窮屈で僕には合わなかった。いつも抜け出したいと思っていた。いつしかそれは僕の癖になって、人目を盗んでよく屋敷を抜け出した。僕を知らない世界。僕の知らない世界。それは、自由だった。
――――――――そして、僕はあの花と出会った。
その日は朝から深い霧が立ち込めていた。まるでミルクを溶かしたような視界の悪さで、空からつま先まで何も見えないほどだった。僕はわくわくしながら、狼の姿で山を森を駆け抜けた。どれくらい走ったのかわからないくらい、遠くへ来ていた。そこは森の途中をくり抜いたような、小さな草原だった。
そこにその花は咲いていた。僕はそれを知っていた。月見草。夜にしか咲かない花が、そこで狂ったように一面に咲いていた。冷たい霧で、濡れた花びらたちが湿っている。わずかな光が射したとき、それが宝石のように煌めいた。美しかった。見とれているうちに足が溶けてしまいそうだった。風が吹くと揺れる草花の群れ。
その真ん中に、一人の少女が横たわっていた。
僕はうかつだった。狼の姿に戻っていたのにも関わらず、失念してそのまま近寄っていた。彼女からは人間特有の匂いがしなかった為、視界に入るまで気づかなかったのだ。目が合った瞬間、僕は逃げるか殺すか迷ったが彼女の反応は意外なものだった。
「私を迎えに来てくれたの?」
僕は驚いた。少女は僕を見上げて、驚きも怯えもせず話しかけてきた。内容の意図はよくわからなかったが、僕は黙って様子を見ることにした。
彼女の手足はまだ短く、まるで人形のようだ。肩のところで三つ編みにした髪に、たくさんの花飾りがついている。あどけない表情やぎこちない指の動きから、まだ6つか7つくらいだろう。
彼女は起き上がると、僕の瞳をまっすぐ見つめた。
「…わたし、ゆうか。あなたは、神様?」
僕は答えなかった。そして、この現状をどう打開するか考えていた。これくらいの子供ならば僕のことなどすぐに忘れてくれるだろう。そして大人たちも子供の戯言など相手にしないだろう。僕は、このまま黙って立ち去ることにした。僕が踵を返して、その場から走り去ろうとしたときだった。
「待って!」
彼女の手が僕を強く引き留めた。振り払おうとしたが、彼女は頑として手を放そうとしなかった。
「お願い、おいていかないで!ゆうかをつれてって!」
僕は困惑した。こんなことは初めてだった。彼女は大きな瞳に涙をためて、僕を見つめた。その目は懇願していた。僕は周りに彼女の家族や里人がいやしないかと心配だったが、その気配は感じられなかった。冷静になって、彼女を諭すことにした。僕は人間の姿に化けた。そうしなければ、言葉が話せないからだ。彼女の瞳が一瞬とても大きくなる。初めて驚いた顔をした。
「いいかい、僕とここで会ったことは内緒だよ。いいね」
少女はおどおどと頷いた。僕はほっと胸をなで下ろした。
「迷子なの?」
少女は首を振る。
「おうちはわかる?」
少女は頷く。
「じゃあおうちへ帰らなきゃ。遅くなると心配するよ」
少女は困った顔をした。
「おうちへはかえれないの」
「どうして?」
見たところ、少女は怪我などしていない。動けない様子ではない。
「もうゆうかはかえれないの」
僕はますます困惑した。
「どういうこと?」
僕は背筋に何か冷たいものが走るのを感じた。
「ゆうかは…人買いに売られたの」
彼女の足元にはたくさんの花が咲いている。それは、夜にしか咲かないはずの月見草。深い霧の中で、それは一面の花園。そして、僕らを取り囲むように狂ったように咲いている。
「きのう、知らないおじさんがおうちにきたの。ゆうかは嫌だって言ったのに、お母さんが行きなさいって…またすぐ会えるからって。でも、おじさんがゆうかはお金で売られたんだって。もうおうちには帰れないんだって。だから今日、逃げ出しておうちへかえってみたの。そしたらお母さんが…なんで帰ってきたのって…」
「それで、逃げてきたのか…」
ゆうかの瞳から大粒の涙がこぼれる。よく見ると、靴をはいていない。つま先は赤く腫れていた。
なきじゃくるその顔を見て、僕は思い出していた。大きな屋敷の片隅の、日陰のような部屋で、世話役だけが顔を見せる日々。母さんは死んでいない、父さんは忙しくて来ない。生まれてから、一度も。それが、僕の世界の常だった。だけどある日、仲の良い親子が歩く姿に胸が焦がれた。一度でいいから父さんに会いたかった。どんな人か。僕に似ているのか。知りたくて、屋敷を抜け出した。世話役のこぼれ話を頼りに、父さんの居所を突き止めて会いに行った。父さんに会えた瞬間の喜びは、今でも忘れない。そして、次の瞬間の絶望も。
「何しに来たんだ…。俺を、殺しに来たのか!!」
「え…?」
初めて見た父さんの顔は、まるで赤鬼のようだった。
飛び交う食器やグラスを、僕は避けなかった。頬が裂けて血が滲んでも、父さんは僕に物を投げつけるのをやめなかった。
「お前なんか生まれなければよかったのに!!彼女が死んだのはお前のせいだぞ!!金なんかもらったって、妻は戻ってこないんだ…!!!!」
父さんが会いに来ないのは、会いに来れないんじゃない。会いに来たくなかったんだ。
僕は思い知った。僕は、彼の子供ではない。僕は、彼の妻を奪った妖怪だ。
そして僕は選んだ。霧ヶ森の守り神として、存在すること。もう二度と、親を求めないこと。
彼女もまた、それを選ぼうとしている。その姿は、僕の胸を切り裂くような切なさだった。
彼女の涙が、あとからあとから溢れてくる。すべての生き物が存在や息遣いでさえ止めたような、深い霧の中で彼女の声はよく響いていた。僕は考えていた。今まで試みたことがないことを、しようとしていた。だから自信はなかった。先のこともよくわからない、不安もあった。だけど言わずにはいられなかった。
「ゆうか」
少女は、僕の瞳をまっすぐ見つめた。
「僕と一緒に帰ろう」
霧が晴れて彼女の頬が日差しに照らされると、涙の跡が白い肌の上できらきらと輝いていた。まるで濡れた月見草のように。微笑む彼女が頷く。
「やっぱりあなた、ゆうかを迎えにきた神様なの?」
好奇心旺盛な表情で僕に尋ねる。本気なのか、からかっているのか、無邪気すぎてわからない。
「アラタ。新しいって書いて、アラタ。狼の妖怪なんだ」
「わたしは、癒す、花。で、ゆうか。新…ようかいってなあに?」
それが癒花と僕の出会いだった。
それから僕らの共同生活が始まった。彼女と住まうようになってから、僕の放浪癖はみるみる減っていった。世話役が「得体の知れない娘を」とぶつぶつ言っていたが、僕が家にいるのを見て、まんざらでもない顔をしていた。彼女が「おかえり」と笑顔で言ってくれた日、僕は生まれて初めて、家族を手に入れた気がした。